TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

collaboration of Ikku and Hiroshige

2013-04-12 | bookshelf
十返舎一九作、歌川広重画『宝船桂帆柱』上・下
1827年文政十年刊行 岩戸屋板


 私にとって、夢のコラボ作。一九先輩の作に広重が画を描いた合巻。一九63歳、広重30歳の時に出版されたものです。広重は浮世絵版画はよく見ますが、版本の挿絵はあまりみかけません。有名な『東海道五拾三次』の製作にとりかかる7年前のもので、広重がまだ日の目を見ない頃の画です。
岩戸屋板の複製本。十丁×2 \6800
複製でもなかなか出回ってないので、この値段は仕方ないかと。

 一方、一九先輩は死ぬ4年前。戯作界の大御所といっても過言でないでしょう。
 売れない時代の広重は、友人の戯作者東里山人(とうりさんじん:本名細川浪次郎。山東京伝門下。広重より6歳年上)の挿絵を描いたりしていたそうですから、一九の挿絵を描いたということは、だいぶ認められてきた時期だったんだろうと思います。この1年前に『御膳浅草法』という合巻でもコラボしています。
 この2作は共に岩戸屋という地本問屋が出版しています。栄林堂岩戸屋喜三郎は、若い頃の東里山人と広重の草紙を出版しているので、彼が一九に依頼して(広重の出世のために?)作ったのかもしれません。
 内容は、当時の職人の仕事や道具の説明が、絵付きで解り易く書いてある読み物です。私がこれを買おうと決めたのは、お話でなく絵が多いのも理由の1つでした。江戸変体文字は、読むの大変ですから。これなら絵を見てるだけでも楽しいですし、当時の仕事がどんなものか勉強にもなります。何んといっても、黄表紙なので表紙(タイトルも)が正月らしくおめでたく、色彩がきれいです。作は一九でなくてもいいようなものですが、ネームバリューだったんでしょうね。
 職人は、番匠(←と書いて「だいく」と読ませています)から始まって、本屋(岩戸屋)の「めでたしめでたし」で終ります。板元の岩戸屋は薬種も営んでいて、上巻の最後に「運利香」という「守り薬」なる怪しげな薬の広告文を載せてます。一包233文と値段も明記してあります。3500円くらい?たか~い。でも、「細川起規(←夫が矢になっているので正しい表記ができない)精製」となっていて、販売所が「岩戸屋喜三郎」と書いてあるので、ひょっとして精製人の細川という人物が東里山人で、滑稽小噺なのではないか?という疑いも消えません。もし本当に売られていたら、あくどい商法ですよ。
 『宝船桂帆柱』下巻の最終頁の新刊本の告知には、東里山人作・渓斎英泉画『三日月太郎物語』全六冊というのも載ってます。
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going to Iwase Bunko Library

2013-03-21 | bookshelf
古書ミュージアム岩瀬文庫で実施中の蔵書調査
年1回の報告会『こんな本があった!』

 昨年、初めて『今年度の調査でわかったこと』特別講座に参加して、とても面白かったので今年も行ってきました。前回は何もわからなくて、蔵書本(勿論本物)が気軽に見せて貰える事を知っても、時間が無くて見られない悔しい思いをしたので、前もって蔵書のデータベースをプリントアウトして携えて行きました。
愛知県三河地方の三河湾に面する西尾市は、市町村合併で『忠臣蔵』の悪役で有名な吉良上野介の藩だった吉良町、うなぎで有名な一色町をも有する広い市です。西尾は抹茶の生産で有名ですが、西尾がどこにあるのか正確な位置は知りませんでした。自動車で行くと、国道23号から市街へ入りますが、西尾は江戸時代の街並みを偲ばせる城下町、道路も入り組んでちょっと混雑したりもします。でも!だからといって車優先の道路工事で、歴史ある街並みを破壊して欲しくはないです。
奥:西尾城本丸丑寅櫓。手前:西尾市資料館。
その町の歴史を知るには、まず歴史(民俗)資料館を訪問することにしています。西尾公園にある無料駐車場からすぐの資料館とお城(櫓が残され、中に入れます)を見学し、係員さんに教えてもらった徒歩3分くらいの場所にある尚古荘(昭和初期に作られた京風庭園:無料)を見た後、岩瀬文庫へ。岩瀬文庫は西尾図書館の敷地内にあり、無料駐車場はありますが土日昼間はほぼ満車です。
 まず、閲覧室へ行って、選んでおいた蔦重や一九などの戯作本の複写を申し込みました。実際に手にとって閲覧もできました。か・感動です。
 本題の『岩瀬文庫平成悉皆調査中間報告10』。悉皆調査プロジェクトリーダー、名古屋大学大学院教授の塩村先生のお話によると、現在は本ではなく、地図や系図のような一枚もの(専門用語は忘れました)の棚に入り、江戸の吉原細見(遊廓ガイド)も多く見つかったそうです。非売品の刷り物や趣味にはしった書物など、今となっては稀少なものばかりなようです。紹介されたもので個人的に興味をひかれたのが、渓斎英泉が描いた江戸の一角(どこだったか場所を忘れました)の地図『楓鎧古跡考』。青と薄墨と薄黄色の3色刷りの切絵図みたいな緻密なもので、婀娜な美人画あるいは中山道六十九宿などの浮世絵しか知らなかった私は、英泉の几帳面な一面に驚かされました。大田南畝や山東京伝が考証学などやっていた頃でしょうか?文化文政期以降は、狂歌だけでなく古美術や考証なども自分が想像していた以上に盛り上がっていたんではなかろうかと思いました。
 しかし、私をもっと驚かせたのは、図書館の前の道路にあった枡形が道路拡張工事のために壊されてしまった、と講義の途中で先生がおっしゃった言葉でした。昨年のblogで西尾市を褒めたのは撤回です。
 今回も古い街並み散策はできませんでしたが、見事に真っ直ぐになった道路をわざわざ通って帰路に着きました。
 
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about the Katsuragawas 2

2013-02-13 | bookshelf
『名ごりの夢』今泉みね著 初版1963年 東洋文庫9

 代々、徳川将軍の奥医師(外科医)だった桂川家の7代め甫周の娘みねさんは、洋学者たちのサロンと化していた屋敷の中で、一風変わった青年たちに可愛がられた(あるいは、少女みねがちょっかい出した)楽しい想い出から語り始めます。
 彼女が6,7歳くらいの頃、鉄砲洲にある福沢諭吉邸に諭吉におんぶされ連れて行ってもらった事があったそうです。桂川家は現金はないけれども地位は高いので、本来ならみねさんは「おひい様」で外出は普通駕籠でなければいけなかったのを、諭吉がそっと連れ出してくれたんだそうです。世帯をもっていましたが当時はまだ著作など出版する前で、奥さんが子供を背負って台所に立っていた、ということです。
 みねさんは福沢諭吉について、他の書生と違って一番質素で真面目で面倒見がよかったと言っています。貧乏で、夜鷹そばを食べてお金がないことに気づいて、仕方なく襦袢を担保に置いて行くくらいなのに、懐はいつも本で膨らんでいたのが福沢らしい、と他の書生が感心していたそうです。
 幼い少女の印象ですから、福沢諭吉の人格はこの通りだったのだと思います。さすが偉人は若い頃から精進してらっしゃる…と思っていたら、当時の西洋学者、特に理系の学者さんたちは、様子が違っていたようです。桂川家に出入りしていた洋学者は、柳河春三(天才。日本人による新聞雑誌の祖。その他福沢諭吉に先立って西洋文化を日本に紹介。)、宇都宮三郎(化学技術者。日本の化学発展に貢献。)、神田孝平(西洋数学の先駆者)、石井謙道(緒方洪庵の門人、福沢諭吉と親交し丸善大阪支店出店を勧誘など。)、その他もろもろ…。
 その中でも、宇都宮三郎氏は抜きん出て可笑しな人だったようです。
 宇都宮三郎 1834年天保5年尾張藩士の三男として誕生。
 砲術の研究を通して学んだ、舎密(せいみ)学と言われていた学問に、初めて公式に「化学」という言葉を採用したり、明治政府に雇われて日本の化学技術の近代化を牽引したり、生命保険加入者第1号になったり、と多方面に活躍した宇都宮さん。そんな立派な人も、みねさんの父甫周の後を「なあ、とのさん。あのなあ、とのさん。」とついて回っていたそうです。
 ある時、町人の一揆が桂川邸に押し寄せてきたとき、宇都宮さんの発案で、竿の先にタワシのようなものを付けて、それを肥に浸して相手に向かって振り回しました。「桂川の武器は糞だ」と言って、勇み肌の連中も半ば笑いながら引き上げて行ったということです。
 また、何かで御白州へ呼ばれて、おならを我慢しながら尋問を受けていたので、尋問が終って役人に「下れ」と言われてくるりと後ろを向いた途端、「ぶー」とおならが出て、役人にウケた、という有名な話もあるそうです。そんな可笑しな事があると、甫周の処へ飛んできて「なあ、とのさん・・・」と面白そうに話すような子供っぽい人だったようです。
 柳河春三さんも神童・天才と言われながらも、自作の小唄で滑稽に踊ったりして人を笑わせる達人でした。「わたしは かさいのげんべぼり かっぱの倅でございます わたしにご馳走なさるなら お酒に きうりに 尻ご玉」と言って、カトちゃんペみたいな仕草をして皆の爆笑を買っていた姿が、みねさんの記憶に強く残ったそうです。
 この2人の共通点は、尾州(名古屋)出身ということ。神田孝平は美濃(岐阜県)出身ですし、適塾門下生もいたので、西洋学を志す優秀な人物は江戸へ流出していたことがわかりました。彼らの中には脱藩した者もいましたし、維新後もそのまま江戸に留まり故郷に帰りませんでした。それでもちょっと調べましたら、地元にはその貢献を記した案内板が設置してあり、知ってる人は知ってるんだなと感心しました。

 『名ごりの夢』はみねさんから見た幕末の雄志を懐いた男達の、近親者しか知りえない貴重なエピソード満載でとても面白かったです。後半からは、幕府が倒れ、幕臣だった桂川家のカルチャーショックや、みねさんの嫁ぎ先での出来事など、動乱の時期に旧幕臣の家族がどう変わったのか、変わらなければならなかったのか、という事が解るお話で、まさに「名ごりの夢」と感じました。
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about the Katsuragawas 1

2013-02-12 | bookshelf
平凡社 東洋文庫9 初版1963年
『名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて―今泉みね』

 何を調べてたのか忘れましたが、何かの関連で見つけたこの本に興味を抱いた理由は、江戸時代の奥医師・桂川甫周の娘が当時の様子を語った口述書だったからです。
 蘭医桂川甫周といえば、21歳の時杉田玄白に頼んで『解体新書』翻訳プロジェクトに参加した人で、彼の口利きのおかげで『解体新書』が世に出でることができた(甫周の父は将軍の侍医で法眼の地位だった為、父親→将軍に新書を見せて承諾を得た、ということです。詳細は吉村昭著『冬の鷹』)と言ってもいいくらい重要な人物でした。『解体新書』刊行から18年後、伊勢白子の漂流民・大黒屋光太夫と磯吉がロシアから送還されると、既に家督を継いで法眼になっていた甫周は、将軍より彼らの調査(尋問)を任されて『北槎聞略』を著したことでも知られています。井上靖著『おろしや国酔夢譚』にも彼が登場します。
 そして何より私の桂川家への関心は、この人の弟・桂川甫斎(甫粲ほさん)=森島中良(ちゅうりょう)=森羅万象・竹杖為軽(たけつえのすがる)という戯作者・狂歌師として蔦重らとつるんでいた人物から発していました。2年程前彼の著した『従夫以来記(それからいらいき)』という江戸時代のSF物を読んだことも起因しているでしょう。
 31歳頃の竹杖為軽(森島中良):北尾政演(山東京伝)画
 特に時代を動かした偉人ではありませんが、代々将軍の脈をとってきた最高位の外科医の家・桂川家を内側から知ることができる、と思ってページをめくりました。
 この本の著者・今泉みねは甫周の一人娘(姉は早死)で、80歳を過ぎてから息子に乞われて、雑誌に載せるため昔話を口述しました。1935年(昭和10年)のことです。ん?どう考えても時代が合いません。本の最後の方に載っている簡略ファミリーツリーを先に見ておくべきでした。桂川は屋号みたいなもので、みねさんの父は7代め甫周。森島中良の兄甫周は4代めで、7代めの曽祖父でした。
 みねさんは幕末1855年、江戸大地震があって藤田東湖が圧死した年に生れました。山東京伝の弟京山が存命(87歳)、歌川国芳(59歳)が亡くなる6年前。そんな時代に、彼女は19歳で今泉利春と結婚するまで桂川家の人々と生活していました。幕府方の蘭学医師ではありましたが、桂川家は代々開かれた家風だったそうで、青年時代の幕末の偉人たちが出入りする中で、みねさんは少女時代を過ごしたのでした。
 明治維新までの彼女の記憶には、そういった男達の子供にだけ見せる無防備な素顔が鮮明に残り、また、伝え聞いた桂川家に纏わる、泰平な江戸のエピソードもありました。
 四代め甫周は、顔かたちがきれいで性格もおとなしく、上下から好かれた人だそうで、みねさんの父甫周は四代めに生き写しだったそうです。その父にも弟がいて、甫策といい、耳が遠かったらしいのですが、化学に精通していて兄のズーフハルマ編纂事業を手伝っていたそうです。浄瑠璃や芝居など大衆芸能が好きなちょっと変わった人だったそうです。そこからみねさんは古くから桂川家に奉公している女に聞いた話を思い出します。
 桂川家には代々、主人の弟に学者肌の人がいるということで、その中に、一生兄の元で暮らした変人がいました。汚れた着物を着て、虱が背中を這っていないと落ち着かない人で、ある時風呂に入っている間に着物を綺麗なものと取り替えられ、風呂から上がって着ると、虱を一匹だけでも残しておいてくれと頼んだというのです。そしてその人のところに、十返舎一九が色々相談しに来ていたそうです。身分があるので名前を出すことはせず、一九に教えて書かせたそうです。一九の本の中に「築地の桂川さまへ行って診ておもらい」という一節がある、と書いてありました。
 どこまで真実かどうか知れませんが、その人物は明らかに森島中良です。森島中良は松平定信の出版取締り以降、定信の家臣に取り立てられ、著作活動から身を引かざるを得なくなったことは事実です。『江戸の本屋さん』という本に、中良は結婚もせず兄を手伝ったと記述してありますが、実際は、奥さんも子供もいて、晩年はまた戯作者として活躍していたそうです。一九は膝栗毛にしても他の本にしても、誰か助けてくれる人がいたことを序や跋で匂わせていますから、中良に相談していたのも頷けます。
 
 
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2012-10-26 | bookshelf
名古屋城内のきしめん屋で食べた名物きしめん。
幅広麺が一見“ほうとう”に見えますが食感は全く違います。
きしめんは鰹だしの効いた醤油つゆが決め手です。
駅のホームの立食い屋のも美味。

 『「膝栗毛」文芸と尾張藩社会』で紹介されている『膝栗毛』亜流本は、1815,6年(文化12,3)に名古屋の書肆松屋善兵衛から出版された『四編綴足』(弥次北が名古屋城下を観光する物語。尾張の戯作者・東花or冬瓜元成著。)の存在を踏まえて書かれた本(稿本)だということです。
 まず、『熱田参り 股摺毛』(詳細不明。自惚主人著。)は、弥次さん喜多さんもどきの弥二郎と下駄八が『四編綴足』と逆ルートで名古屋城下町をめぐる、という話。
 1827年(文政10)に書かれた『金乃わらじ追加 栗毛尻馬』(近松玉晴堂著:旅館近江屋主人・近江屋清八。)は、『四編綴足』が名古屋城下町の玉屋町三丁目の「駒庄」を旅宿に設定してあったのに対して、同じ町の旅宿「近江屋」を基点に、弥次喜多が名古屋の名所・神社仏閣・歓楽街を観光するというお話になっていて、一九の『方言修行 金草鞋』(1813~31年)からもタイトル拝借しています。
 また、知多半島の伊勢湾側に位置する大野(お江が最初に嫁いだ大野城がある)の町を、弥次さん喜多さんが観光するという趣向の『郷中知多栗毛』(1843年稿本。南瓜末成著:本名・清水常念、知多郡大野の書肆文泉堂主人)。これは、『四編綴足』が名古屋城下町の広小路で終っているのを受けて、広小路を起点として弥次北が塩湯治しに大野へ行くという設定になっていて、ペンネームも冬瓜元成にひっかけてあります。
 これらの稿本は、作者が本屋の主や旅館の主人で、本文には地域の紹介に交じって自分の店の宣伝なども巧みにしているので、同好の戯作連中で回し読みするだけでなく、店先に置いて旅人に読んでもらう目的で書かれたのではないか、と推測されています。尾張地方の商人達は『膝栗毛』の人気に乗じて、ちゃっかり地域ガイド本を作り、自分の店や商品の宣伝にも利用していたのです。
 『膝栗毛』という「滑稽道中記」の形態をとりつつも、その内容から郷土史の研究資料になる情報満載で、そういう点で貴重な本だと思いました。
 そして、時代が幕末に近づいてくると、『膝栗毛』物も恋川春町の時代に逆戻りしたような「社会諷刺」をベースにした内容のものが登場したりします。
 最後に紹介されている『当世 奇遊伝』(1849年嘉永2年 稿本。紅葉軒眸山/黄花亭楽水作)は、膝栗毛物のスタイルを踏襲して“美濃地方に勢力を張っていた尾張藩万石年寄・石河氏への風刺”を目的に書かれています。話自体は一地方の問題を扱った、余り巧いとは思えない出来ですが、歴史背景と照合するととても興味深いです。

 嘉永2年、それまで幕府からの押し付け藩主に甘んじていた尾張藩に、漸く尾張支藩の高須藩主(松平秀之助、後の14代藩主徳川慶勝)が尾張藩主相続に決定した年でした。当時の尾張藩は、勤王派の成瀬家と佐幕派の竹腰家の2大勢力が対立していて、慶勝は尊皇攘夷派だったので、名古屋城下に緊張がはしりました。その後、この対立は「青松葉事件」に発展し、尾張藩は不本意な幕末を迎えることになるのですが、詳しい顛末は↑城山三郎著『冬の派閥』に描かれています。
 そんな時期に、藩士を風刺した本が書かれていたとは驚きでした。ちなみに作者2人の詳細は不明です。
 
 『冬の派閥』のその後、現在北海道八雲に移住した尾張人と名古屋との交流はあるのだろうか、とちょっと調べてみました。八雲町のHPには、愛知県小牧市と姉妹都市であること(成瀬家は犬山城の城主だったのに)、名古屋市の北に隣接する春日井市の市民のイベントなどに参加したり、と結構交流が盛んだということがわかりました。
 八雲町は、木彫り熊の発祥の地でバター飴の元祖だそうです。「八雲」は慶勝が自ら命名したそうで、明治20年に建立された熱田神宮唯一の分社・八雲神社があるそうです。
八雲町サイト
 
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anon. “shank's mare”s 1

2012-10-24 | bookshelf
「膝栗毛」文芸と尾張藩社会 岸野俊彦編 
清文堂出版1999年発行 376P \7700

 以前、江戸後期の尾張文芸人と江戸文人との交流について書かれた書籍を読んで、このblogにも書きましたが、もっとディープな書籍を見つけました。
 一九先輩の『膝栗毛』のヒットに伴って、全国各地で『膝栗毛』物と云われる、滑稽道中記が地方戯作者や素人によって編まれたそうで、この本にも『膝栗毛』に触発された亜流本の4作品翻刻されたものが、この地方在住もしくは所縁のある大学教授などによる詳しい解説と一緒に載せられています。
 正確には「江戸文人との交流」ではありませんが、一九先輩、北斎、馬琴などが活躍していた時代の尾張(と三河)地方の文人墨客のみならず、書肆や旅宿など商人たちへの影響がどのようなものであったのかが、この地方都市の内側から描かれた戯作稿本(出版物ではない手書き本)を通して、明らかにされています。また、歴史書には書かれていない庶民の実態も垣間見ることができ、非常に興味を惹かれました。
名古屋城内に再現されてある永楽屋東四郎の店先

 尾張で『膝栗毛』物が出現した大きなきっかけは、1805年(文化2)に発売された一九の『東海道中膝栗毛四編下』で、弥次郎と喜多八が東海道の正規の道筋通り、尾張宮宿から舟で桑名宿へ行ってしまった事でした。当時倹約令がでていても栄えていた名古屋城下町を、この有名2人組が素通りしてしまった事に、尾張地方の人々はさぞ不満だったのでしょう。翌年一九は、桑名から伊勢巡りの調査旅行に行った途中この地方の文芸人に歓待され、五編に彼らの狂歌を載せました。この頃から、弥次喜多になぞらえたなまくら者2人の主人公が尾張地方を観光する、という筋書きの戯作稿本が書かれるようになったそうです。
 1814年(文化11)満を持して松屋善兵衛(永楽屋と並ぶ大書肆)から『津島土産』という膝栗毛本が発売されました。作者・石橋庵真酔は椒芽田楽と並ぶ尾張の代表的戯作者で、挿絵は北斎門下の墨仙、玉僊など。名古屋に住むなまくら者2人が観光しながら津島神社へ行く、という物語。
 1815年には、ついに弥次郎兵衛・喜多八が名古屋の城下町を観光する『名古屋見物四編綴足 前編』が美濃屋伊六、永楽屋東四郎、松屋善兵衛、江戸麹町角丸屋甚助ら板元から出版されます。折りしも同年秋、松屋善兵衛の招きに応じて一九が尾張にやって来ました。
 一九は松屋善兵衛宅に逗留。その間求めに応じて『秋葉山鳳来寺 一九之記行』を執筆。更に『津島土産』の後編にあたる『滑稽祇園守』に「名護屋旅泊中 東都十返舎一九題」として序文を書き、『一九之記行』でも宣伝を書き入れました。
 そして翌年1816年、『四編綴足』の後編に、“弥次喜多が本町通で本屋と一緒に飲みに出かける一九と出会う”シーンが描かれるのです。これで尾張の人々の不満は、めでたく解消されました。自作を真似され、勝手に登場させられた一九本人は、腹を立てるどころか相乗効果で自作が売れることを喜んでいたそうです。
 『四編綴足』の作者・東花(冬瓜)元成の詳細は不明ですが、この本を下敷きに、観光ガイド的性格を持った稿本が天保年間前後に多く書かれていたそうです。
 以下が『「膝栗毛」文芸と尾張藩社会』に掲載されている稿本です。
●郷中知多栗毛 ごうちゅうちたくりげ 南瓜末成著 1843年(天保14)
●金乃わらじ追加 栗毛尻馬 近松玉晴堂著 1827年(文政10)
●熱田参り 股摺毛 ももすりげ 自惚主人著 1815,6年(文化12,3)以降
●当世奇遊伝 紅葉軒眸山/黄花亭楽水著 1849年(嘉永2)
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after reading 『Ikku's travels』

2012-09-15 | bookshelf
 十返舎一九が、1815年文化12年に名古屋の書肆・松屋善兵衛宅を訪問し、そこで執筆・出版された『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』を読み終えて、読む前は「記行」というタイトルから「紀行文」、つまり一九先輩が秋葉山と鳳来寺へ行った道中を綴った作品だと思っていたのが、全く思い違いだったと判りました。
 『一九之記行』は自序と跋に因れば、この年の7月(旧暦なので現代では秋に相当)江戸を出発、東海道を歩いて掛川宿から秋葉街道へ入り、秋葉神社へ詣で、その後鳳来寺へ参詣し、鳳来寺街道を下って御油の追分から再び東海道に入って、名古屋の松屋善兵衛の屋敷に10日程逗留しました。松屋から、秋葉山鳳来寺の記行を書いてくれと所望され、江戸から行く道順と逆の名古屋からの帰路に立ち寄るという筋書きにして欲しい、更に、『膝栗毛』の弥次郎・喜多八の俳語滑稽風な作品に、と注文を付けられます。尾張滞留中の急迫の仕事だった、そうです。
 ですから、本編は作者の一九が主人公ですが、全てはフィクションだったのです。
 弥次郎兵衛にあたるのが一九本人。喜多八にあたるのは、多分途中から道連れになった同国出身者・権八。そしてもう1人喜多八的存在として、一九の荷物持ち・清治がいます。
 一九は前年の1814年に『膝栗毛』の発端(弥次郎と喜多八が何者であるのか、旅に出るまでのいきさつを描く。もちろんこの頃は『膝栗毛』は完結し、『続膝栗毛』も五編めを出版しています。)を出版して、自ら江戸っ子じゃなく駿河者だと暴露しているので、『一九之記行』でも駿河出身だとしています。ですから、全てがウソではありませんが、途中途中で起こす騒ぎやしくじりは、一九の創作だと考えて間違いないと思います。
 一九が実際旅した道程を逆から書いていった話は、『続膝栗毛』がそうでした。また、『東海道中膝栗毛』や『続膝栗毛』の各宿場で起こった事は、必ずしもその宿場で起こった事ではなく、別の場所で起こった事や人から聞いた可笑しな話にヒントを得て、そこでのエピソードにしていました。『一九之記行』もこれと同じ手法が使われていると思います。そしてそのエピソードも、既作品の焼き直しばかりで、その件は一九も跋で弁明しています。
 それ故、『一九之記行』は紀行文ではなくフィクションの滑稽譚なのですが、『膝栗毛』の作者というイメージから、いかにも有り得そう…という気がしてしまいます。

 文庫本には解説が載っていますが、そこで解説者(編者)が「本作の場合は、その執筆依頼が急であること、しかも依頼された現地で短期間のうちに仕上げるという忙しい作品であったために、本作執筆のために、わざわざ実地踏査をした結果、成立したものではないようである。なんとなれば、本作に次のようなやりとりがある。」として、本作「嘉兵:ソレ見さつせへ。わてぃ六十七でや。わしよりかふたつうへだがなァ。そんじやァいこ、わかい人でや。一九:若くなくてどふするもので。ほんとうの所は、ことし四十八になりやす」をいう会話を挙げて、「この箇所が一九の実年齢をそのまま述べてるのであれば、48歳の時の作品であることになり、さもなければ、本坂越え(掛川~秋葉山ルート)を経験した時の年齢と考えられる。というのは、本作執筆時である文化十二年には、一九は五十一歳であるからである。」(本文部分省略)と推察していました。
 私はこれには「??」でした。なぜなら、一九は『続膝栗毛』で実地踏査なしで『金毘羅参詣』『宮嶋参詣』編を執筆しています。金毘羅も宮嶋も一九がまだ武士として大坂で勤務していた時期に(多分)仕事で行ったに過ぎず、記憶も曖昧ながらも書いたものでした。しかし、『一九之記行』では跋文に「予茲年(ことし)当山に参詣し。それより三州鳳来寺にいたるに。是亦無双の名刹にして。宝閣金塔眼をおどろかすの壮観たり。」と明記しています。当山とは秋葉山のことで、それから三河鳳来寺へ参ったと記しているのです。
 いくら文中での年齢(執筆時、本当は51歳でした。)が違っていても、一九が物語中で年齢のサバを読んだというのも有り得そうです。むしろ私は、文中の年齢の方が出鱈目だと思います。なぜなら、一九はフィクションを書いてるからで、そこでプロフィールを全て明かす必要はなく、ひょっとしたら若くみられたいと思って書いたかも知れませんし、読者からの反応を期待した悪戯心かも知れないからです。
 それに、この年、何故一九は名古屋へ行ったのかを考えると、ただ松屋善兵衛に招待されたから…という理由も首をひねります。東海道は何度も往復している一九のことです、歩いたことの無い街道、しかも当時頻繁に旅人が行き来していた古刹参詣の道を歩いてみたいと一九は考えたに違いありません。あるいは、秋葉神社と鳳来寺参詣が目的で、尾張へ旅した可能性も考えられます。
 推察としては、序と跋の他の記述を正しいとして、「今年当山に参詣し、それより三州鳳来寺にいたる」の部分だけを偽とするのも、おかしな事だと思います。

 素人の分際で偉そうな反論かもしれませんが、解説のその部分だけが凄く引っかかりました。

 『一九之記行』中、鳳来寺から秋葉山へ向かう宿場に、さい川を斎川と当ててますが、現在の地名表記は西川。また、石打は石内の間違いだと思います。秋葉街道は代表的なもので3ルートほどもあるらしく、信濃方面からのルートに石打という同じ音の宿場があります。一九先輩は、地名を地元民に聞いても、漢字があやふやだったのだと思います。それで執筆する時、当て字で綴ったのでしょう。
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Ikku's Travels 6

2012-09-13 | bookshelf
一九(右)と褌を洗う権八
挿絵には描かれてないが、下手で清治が顔を洗っている

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』下編

 鳳来寺から秋葉神社へ向かう山道の途中、神沢(かんざわ)宿を過ぎた一九ら一行は、しゃべりながら歩いていく地元民の話を耳にします。40年掛けの無尽の話を聞いた一九は驚いて、思わず声を掛けます。すると、田舎は江戸より長生きをするといって、長寿自慢をされました。お前は幾つだと聞かれたので、一九はからかって「69」と言いましたが、実年齢は48歳だと明かしました。(この話執筆時は51歳。)
 おしゃべりしている内に石打へ着き、地元民は脇道に去っていきました。一九らは、さい川宿まで行き、そこで泊まることにしました。入った宿屋はとっ散らかって、絵も逆さに表具してあるようなむさくるしい部屋でしたが、崖に建ってる家なので、下にはさい川の枝川が流れ素晴らしい景色でした。聞けばこの川では鮎が捕れるといいます。夕食と風呂も済みくつろんでいると、宿の亭主が縁側に掛けてある鮎を捕る網を外していくのを見て、3人も夜網を見ようと亭主の後に付いて行きました。
 崖の下まで降りた清治は、綺麗な水を見て、顔を洗い口をすすぎますが、上流で褌を洗っている権八を見つけて、「イヤおまへわしをとんだ目に合わせた。どおりで、水があぶら臭くておかしな匂いがすると思った。アア汚ねへ汚ねへ。」権「ハハハハハ。わし金玉の油が頭(づ)ないで、その水を飲んだらさぞ旨からずいやァ(旨いだろうなぁ)。」清「ヱヽペッペ。私も褌を洗おうと思って、外して柳ごりの後ろに置いて、忘れて来やした。」
 それを見て笑っていた一九ですが、亭主を見失い、寒くもなってきたので帰ることにしました。帰り道に柿畑を通り、月夜に柿の実がたわわに実っているのを見て、こっそり取って懐に入れた所で、番人に見つかり3人は慌てて逃げ出します。木に登って取っていた一九は、木から落っこちながらも逃げ隠れました。逃げ遅れた権八は、畑にあった新しい肥桶の中に飛び込んで、難を逃れました。
 しばらくすると辺りが静かになったので、権八は桶から出ようとしますが、声がするのでまた肥桶の中へ隠れました。その声は一九と清治でしたが、権八は気付きません。清治が柿はどうしたかと聞くと、一九は木から落ちた時に全部落としてしまった、と言いつつ肥桶の前に立って小便をしました。権八は追っ手だと思っているので、背中に小便がかかっても息を殺して小さくなっていました。
 「コウ清治、アノ権八はどうしたの」と一九と清治の話し声を聞いた権八は、むっくと起きて一九の着物の裾に跳びつきました。驚いた一九と清治は、きゃっと言って一目散に逃げて行きました。

 権八は桶から這い出て、近くの川で着物の背中を洗って、裸のままぶるぶる震えて宿の部屋へ戻りました。その様を見た一九と清治が、どうしたと問うと、権八が事の次第を説明して二人は大笑い。それもこれも、褌を洗った水でうがいをさせたお前が報いだ、と清治が言うと、権八は、褌が洗えたことだけが幸いだった、と言います。
 ところが、実はその褌は、洗おうとして外しておいた清治の褌を権八が間違えて持って行ったものでした。一九と清治は大笑いですが、権八は可哀相に、南無秋葉大権現どうぞわし国元まで恙なく帰れるようにお守りください、と拝んでいる姿も滑稽でした。
 それから3人とも寝ますが、山寺の鐘に驚いて起きると、既に夜明けなので支度をして宿を出ました。
 小便をしかけられたる顔つきはしぶしぶ恥を柿の盗人
斎川の渡しを越えて(現代の地図に斎川はないが、遠江西川という地名がある。斎川は天竜川のことだろう。)
 朝夕にところの人は落鮎をつくりてくふらん飯のさい川
そこから山坂道をたどって戸倉宿(現代も秋葉山の麓の地区名)を打ち過ぎ、秋葉山へ登って行きました。
 ○次編には、秋葉山で「通夜とまりの滑稽」「国々の同者交えての話の間違いからでた災難」「犬居宿の喧嘩」「四十八瀬の急難」「森町(静岡県)で落馬したおかしみ」など草稿が出来ていて、来年春出版する予定なので宜しくお頼み申し上げます。
『一九之記行』終

※文末に予告した「秋葉山編」は、どうやらボツになったようです。
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Ikku's Travels 5

2012-09-10 | bookshelf
『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』下編
 
 秋の日は短いので急ぎ足で歩き、多喜川(不明)の渡しを越えて門谷に着いた頃は、暗くなっていました。一九ら3人は、相応の宿を探し入ると、そこはお客も少なくて思いの外よい宿でした。お風呂も入り夕食もすんだ所で、宿の主の婆が挨拶にやってきました。
 その婆は、自分の娘を見合いさせようと思っていたら、念頃(ねんごろ)にしていた男と駈落ちしてしまったので、困っていました。一九が若くて美しい器量の娘かと尋ねると、歳は57で、目がかんち(片目)で三ツ口の疵があるという。それでも娘は自分から見れば若いし、駈落ちした男に女郎にでも売られたらと心配で堪らない、と婆が言うので、一九達は「そんな心配はいらない」と言って笑います。
 そこへ、男に顔を斬られた娘が近所の人に運ばれて来ました。医者が呼ばれましたが、婆は気が動転して泣くばかり。命に係わるほどでなく、医者が疵を縫って膏薬を貼って処置しました。それを覗き見ていた権八が、「わしハイ、尻にねぶと(おでき)ができて、やぶせったい(駿河弁?)から、医者どんに膏薬はってもらはずいやァ(もらいたいなぁ)」と宿の人に頼んでもらい、医者に診てもらいました。
 医者は膏薬が24文で張替え用が50文になる、と言って権八に尻を捲らせて診察します。
医「コリャでかい膿じゃ。針で突いて吸い出さにゃならん。商売だから吸いもするが、いこ汚いケツでや。先ず根太を針で突こう。」権「アイタアイタ」。
 それから、吸いやすいように肩の方へ尻を突き出させ、吸出しにかかります。
医「エエ見りゃ見るほど、むさい尻でや。そしてゑらい毛むくじゃらでなァ。(尻毛が鼻に入り)ハアくっしゃみくっしゃみ。」
 と、権八可笑しくて噴出した拍子に、尻からブウゥゥゥと屁をひります。
医「エエコリャひどいめにあわせる。わしの鼻先へまともにやったな。アアくさいくさい。」
と顔をしかめるのを見て、一九可笑しくて皆大笑い。
 お療治のお手際見えて根太なるうみもろともに屁をもすひ出す
一九のこの狂歌に腹が痛むほど大笑いして、医者も笑いながら帰って行きました。その後皆寝て、翌日、煙厳山(えんかんざん)鳳来寺へ詣でました。
 荘厳な御宮諸堂を見て、3人は行者越(ぎょうじゃごえ)と云われる道を50丁下って、板敷川(現・宇蓮川)を渡り大野宿(JR飯田線に三河大野駅がある)に出ました。隙そうな髪結い床を見つけて、一九は月代を剃ってもらう事にしました。
       田舎の床屋さんはこんな風
 ところが、この髪結い、剃刀と間違えて煙草包丁で剃ろうとしたり、刃が減るのをケチって研いでない剃刀を使い、一九は痛い思いをします。
 月代もそらぬ旅寝の枕もと髪のはへたる虫やなくらむ
 辟易していると、「髪がねばってるから、とろろはどうでや」と髪結いが聞いてきたので、一九が「ナニとろゝ汁かね。ソリャァ大の好物さ」と言うと、「お好きなら、髪につけましょうか」と言います。一九は「とろろは飯にかけて食うものだ」と笑うと、髪結いに「飯にかけたらねばついて食えたもんでない」と笑われます。一九が「とろろ」を見ると、それは鬢かづらと云うもので、この地方ではそれを「とろろ」と云い、食べ物の「とろろ」は「芋汁」と云うのでした。鬢かづらの事を江戸では美男かづらと言いました。
 鳶とんだまちがひなれや鬢かづらつふりにつけるあふら揚とは
 髪結い床から出て、宿はずれの茶屋で待ち合わせしていた権八・清治と落ち合って、保曽川(細川)を過ぎて三河と遠江の境、巣山宿へ到着しました。
 3人は茶屋で鮎と飯を食います。すると地元人が、突然やって来たお役人に出す料理を作ってくれと頼みに来ました。店の者はドジョウがあると言います。居合わせた分別面した親仁が、細江(静岡県)のお爺がドジョウの頭と尾を切って調理して出したら、お役人が喜んだ、と話すと、店の者はドジョウの頭と尾を切りそろえようとしますが、ドジョウはぬるぬるして大騒ぎ。それを見ていた一九が「イヤはや御丁寧なことだ。感心しやした。」と言うと、店主から「前に江戸から来たお客に、猪を泥亀(すっぽん)煮にしてくれと言われて、庄屋殿や党と相談したが判らなくて、お寺に浜松から来ていた彫り物師に頼んで、猪の腿肉をスッポンのように彫刻してもらって煮て出したら、いい細工だとお客は上機嫌だった。」という可笑しな逸話聞かされました。
 それから3人は此処を出て、大平を過ぎてかんざわ(神沢?)宿にやって来ました。








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Ikku's Travels 4

2012-09-09 | bookshelf
『一九之記行』 十返舎一九著 51歳 1815年文化12年刊 松屋善兵衛板
立場で一服する一九(中央)と荷物持ちの清治

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』上編

 藤川宿を出立し、一九ら3人は早くも赤坂宿、御油宿まで来て、追分から鳳来寺道に入り、大木という所で茶屋を見つけたので休憩することにしました。(大木:現・県道21号豊川新城線を北上、陸上自衛隊日吉原演習場がある一帯)
 中へ入ってみると、狭い家なのに玄関口から人が大勢集まっていて、百万遍(という祈祷念仏。木曾海道膝栗毛にも登場する)を始めていました。一九達が煙草盆やお茶の催促をしても全くお構いなしで、挙句に一緒に百万遍を唱えなさいと言われます。すると連れの権八が「これも不思議な巡り合わせだ」と言って、百万遍の輪の中に入って「なもあァみだァぶつ」。「ハハハハ、こいつも洒落だな」とお供の清治が側へ立ってしばらく見てましたが、やがて座って念仏を唱え始めました。呆れた一九が「もう行こう」と2人を促していると、坊主が気付いて話しかけます。
 この坊主は宗旨が違うのに、頼まれれば百万遍も唱えるし、宮寺の普請の手伝いもすると言います。念仏を唱えていた1人が、久しぶりに坊主の木遣り(材木を運んだりする時に唄う歌)が聴きたいと言い出し、木遣りの合唱が始まる始末。
 唄い終わって念仏も終了したので、一九は親仁に蕎麦かうどんを所望します。すると、親仁はそんなものはない、と答えます。ないものをどうして障子に書いているのかと問うと、その障子は隣りのだと判明。ちょうど境目に建ててあったから茶屋と間違えて入ってしまったのでした。とんだ番狂わせでした。しかし、この先茶屋もなさそうなので、隣りの茶屋に入ってうどんで腹を膨らまして出発しました。やがて清井田という所へ来ました。(清井田:新城市国道151号に清井田交差点というのがある。)
 「かどや」で宿泊しようと計画していましたが、夕方になったので一九はここで泊まろうかと提案します。しかし、権八はまだ明るいから行こうと言います。地元民から「かどやに着く前には暗くなってしまう。この辺は山犬がでるから止めた方がいい。」と助言されますが、権八が「自分の田舎でも山犬はでるが、山犬に出会ったら土下座して、訳を言って助けて下さいと頼めば、聞き分けてくれるという言い伝えがある。嘘みたいだが不思議な獣なんだ。」と言うので、かどやまで行くことにしました。
 ここから道は山道になり、早足で歩いていると、ちょっと小高いところに大きな赤犬がいるのが見えました。一九は恐々犬に向かって両手をついて、「コレハあなた山犬さまでござりますか。はじめておめにかかりました。わたくしこのたび国元の親父の法事に参るものでござります。どうやらあなたは、お心よさそうなお犬さまだ。お聞きわけなされて、早くどっちかへお出なされてくださりませ。」と長口上を言っていると、木陰から草刈の小僧が出てきて、「あかよコイコイ」と呼びました。犬は尻尾を振って駆けて行きます。
 それを見ていた権八と清治は、一九を馬鹿にして笑いますが、一九は山犬でなくてよかったとほっとため息をつきました。
 山いぬとおもひつめつゝよつばひに這ふて詫たることのくやしさ

『十返舎自身記行』上冊終

※「かどや」は鳳来寺参道手前の「門谷」という集落。現在も旅館や、自然科学博物館などがある。
 清井田の近くには徳川家康本陣跡があり、北上するとすぐ長篠城があります。しかし、一九はひとことも触れていません。
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Ikku's Travels 3

2012-09-07 | bookshelf
鳳来寺と秋葉神社の位置
当時はこの2つの古刹を詣でる為、間にある険しい道を往来したそうな。
また、通行手形を持たぬ者が東海道を避けて通る道でもあった。
鳳来寺から左斜めに下ると、長篠古戦場がある。

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』上編

 東海道藤川宿で一泊することにした一九ら3人は、ある宿屋へ入りました。お供の清治がすかさず宿に美しい飯盛(女郎)を見つけます。途中から道連れの権八も嫌いな口じゃなさそうです。ところが後から伊勢参詣の団体さん30人がやって来て、一九たちは奥の座敷に追いやられ、うるさくてゆっくりできなくなりました。夕食時は、隣りの座敷から宴会の騒音が聞こえてきます。「(口三味線)トッチリトントン。信州の川中島に御鎮座まします、善光寺の如来様は、難波の池よりありがたがって、善光(よしみつ)善光とお呼びなさるも知らずに、うかうかと本田善光振り返って、河童が出たかとびっくりして目を回す。フレフレまだまだチッテトッチンシャン」(善光寺縁起 元善光寺)と出放題の浄瑠璃や潮来の声に聞き覚えがあると、清治がふすまを開けて覗くと、一九の知り合いが数人いました。
 知り合い達が一九らを招くので、一九も「これは忝(かたじけ)ありま山」(当時の流行言葉:おやぢギャグ)と機嫌よく応じます。生酔いのおやぢの一人が、講のようにお金を出し合って女郎を買い、お酌をさせて楽しんだ後、くじを引いて当たった者が女郎と夜を共にするのはどうだ、と妙案をだします。おやぢ達は大賛成。早速くじを始めます。
 残念ながら一九らは外してしまいました。ところが当たった一人が淋病で、当たりくじを売ってやると言い出しました。百文で買うという声が上がりましたが、それでは安すぎると売らなかったので、一九が二百文で譲り受けました。さて、女の手をとって自分の部屋へ行って布団を敷いて寝ようとしましたが、そこには既に大勢が寝ていて一九達を寝かせてくれません。弱った一九は、寝巻きの裾をからけ、箱枕を2つ手拭で括り右手に持ち、左手で女郎を引っ張りあっちこっちウロウロキョロキョロ。
     挿絵は本文と逆になっている
 たのしみはとかく呑くひなれはとて上戸酒もり下戸はめしもり
 このままでは二百文棒に振ることになるので、知恵を絞って宿の女に相談を持ちかけます。そして宿の者が寝る場所に寝かせてもらうことにしました。そこは、2階にある納戸に急造された寝床でしたが、この期に及んで何処でも構わぬと、布団を敷きます。
 他の女も寝るらしく、下男の瘡かき男が夜這いに来た時の用心に薪ざっぱを枕元へ置いていました。少し話しをしているうちに女達はいびきをかき始め、一九も旅の疲れもあって寝入ってしまいました。ある女の足が横腹に乗っかったのに驚いて、一九が目を覚ますと女郎の姿はなし。女郎にかつがれたと思った一九は、憂さ晴らしに他の女に手をかけます。女は跳ね起きて、瘡かき男が夜這いに来たと勘違いして、薪ざっぱで一九を叩きます。一九は抵抗するも、女に馬鹿力で突き飛ばされ、腐りかけた床を踏み抜いて下に落ちてしまいました。しかし下には鶏の鳥舎があって、一九はその中へ尻餅をつき、鳥舎のむしろが切れてそのままかまどの前に落ちて、腰骨をひどく打ちつけ「イタイイタイ」鶏「ケエコゝゝゝ」「イタイイタイ」「ケエコゝゝゝ」。
 この騒ぎに宿の主人らがやって来る気配がしたので、一九は早く逃げようとしますが、腰が痛くて這って行こうとすると、何故か鳥舎を吊っていた縄が一九の首に纏わりつき、外そうとしてまごついている内に主人に見つかってしまいました。亭主は首吊りと勘違いして肝を潰しわめき散らします。仕方なし、一九は「手水へ行こうとして間違って鳥舎の中へ落ちた」と出任せの弁明をしました。主人が建物を壊されてぶつぶつ文句を言うので、しょげ返っていると、女が事の次第を説明してくれたので、果ては大笑いとなり、みんな寝ました。
 翌朝、一九ら3人も伊勢参詣の団体と一緒に大一座となって朝食をとりました。膳も半ば、下男が古ふんどしをつまんで持ってきて、「鳥舎の中にこの褌が落ちていたので、おおかた貴方のでござりましょう」と言って一九の前に置きました。みんな食べていたご飯を残らず一時にブッと噴出し、そこらじゅう飯だらけとなって、大騒ぎになりました。一九は独り、さすがに顔を赤らめてましたが、なんだか可笑しくてたまりませんでした。やがて食事も済み、一九はみんなと別れて権八らと宿を出ました。
 くらやみの恥をあかるみ所(どこ)でなし天井ぬけしことのうたてさ
 
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Ikku's Travels 2

2012-09-05 | bookshelf
一九先輩が実際参詣した鳳来寺の場所

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行(いっくがみちのき』上編
 一九は本編に入る前「附書」にて、この物語を執筆するに至った理由を述べています。それに因ると、秋葉山(神社)へは江戸からだと、東海道を掛川(静岡県)から行くのが順当だけれど、名古屋から江戸への帰路のついでに行くようにしてくれと書肆に頼まれたそうです。(板元は名古屋の書肆だから、尾張三河を描いて欲しかったのでしょう。)
 しかし一九は、宮宿(名古屋市熱田神宮)から御油宿(愛知県豊川市)の追分までは端折って、東海道を外れて鳳来寺道を歩く道すがらの様子を詳しく書く、と記しています。

 1815年文化12年の東海道は、高貴安富の通行人が行き交い宿場は繁昌。特に宮宿は七里の渡しがあるので旅人が足を止める場所なだけに、繁華街でした。名古屋から歩いてきた一九とお供(兼荷物持ち)の清治は、宮宿の柳屋という店で名物饂飩(うんどん)を食べます。(名古屋城下町から熱田神宮のある宮宿までは徒歩2,30分くらいある)
饂飩の辛子はきゝて旅人の今も目をふく柳屋の見世
(柳屋は実在していたのでしょうか。うどんに薬味の辛子を入れすぎたんでしょうか。)
 それから戸部村笠寺(観音がある)、宮の湯あみ地蔵辺りから、駿河府中に住んでいる権八という男と道連れになりました。(湯あみ地蔵は、戸部村の手前あたりに今もあり、願いが叶うとお礼に湯をかけるお地蔵様だそうです。)
 一九は自分も同じ生国なので、意気投合して鳴海宿の茶屋で一服します。(つまりここでも一九は自分の出身地は駿河藩府中だと明言しています。)この茶屋で3人は酒と肴に黒鯛を注文して、勘定は割りカンに決めます。すると権八は手酌で酒をどんどん飲むので、一九は「このおやぢは人よりよけいに飲もうとする、しわん坊(ケチな奴)だ。それならオレは魚を食わせないようにしてやろう。」と算段し、権八と清治に、「この黒鯛というのは美味い魚だが、船頭が糞をたれる辺りにかたまっていて糞を喰ってるから美味いはずだ。」(当時の有機肥料・人糞で育った農作物は美味しいとされました。)と言います。すると2人は本気にして気持ち悪がります。みんなが食べないので一人で鯛を食い散らかす一九。すると鯛の腹から黒いタワシのような塊がでてきました。「そりゃ船頭が尻を拭いた藁を、糞と一緒に鯛が喰ったんでしょう」と権八と清治が言うと、さすがに一九も胸が悪くなりゲェゲェ。それを見て大笑いする2人。「何もおかしくねへの」と真面目顔する一九も笑いがこみあげてきて一首。
黒鯛をひとりくはんと船頭の糞のやうなるめにあひにけり
 それから茶屋を後にし、池鯉鮒(ちりふ:ちりゅう)を過ぎ岡崎で馬に乗って藤川宿に到着。ここで宿をとって宿泊します。


最初の小噺は、一九先輩お得意の下ネタ。弥次喜多と同レベルの卑小な狂歌も好調好調。
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Ikku's Travels 1

2012-09-03 | bookshelf
『江の嶋土産 付、一九之記行』中山尚夫編<十返舎一九集3> 古典文庫451
『秋葉山 鳳来寺 一九之記行(いっくがみちのき)』十返舎一九著 自画
1815年文化12年秋刊行 板元:大坂 河内屋太助、尾州 松屋善兵衛、江戸 鶴屋金助

 題名ズバリ『一九之記行』なので、一九先輩が語る紀行文かと思い翻刻版を探して読んでみたら「紀行文」ではなくて『膝栗毛』亜流の滑稽道中記でした。その前に影印版(原書コピー版)を見ていてよかったです。翻刻版の漢字が誤字だと確定できました。
      ←「私」の字が誤字
 影印版の十返舎一九膝栗毛文芸集成は、高価な上、簡単に読めないので研究者用なのでしょう。↑古典文庫シリーズは、そんな江戸変体仮名や漢文で書かれた書物を現代語に直した、手ごろな厚さの文庫本です。『一九之記行』がオマケみたいに収録された『江の嶋土産』は1982年発行。非売品と印刷されていて価格はありません。やはり学校とか図書館用に発行されたものなのでしょうか。私は古書店で入手しました。
 本文の後に、編者の解説が載っているのが嬉しいです。膝栗毛文芸集成と編者が異なるので、解説文も若干違いがありその辺りも興味深いです。        旅装束の一九先輩
 『一九之記行』は以前このblogにも書いた、一九と尾張名護屋の書肆や文人たちとの交流から生まれた滑稽本で、1815年文化12年の7月に江戸を発ち、名古屋の書肆・松屋善兵衛宅に10日間逗留した際、松屋の求めに応じて執筆し同年秋に出版されたそうです。黄表紙は正月に出版されるのが常ですが、イレギュラーな出版もありました。中山氏の解説に因れば、この話は一九が名古屋滞在中に執筆したものだそうで、だとしたら数日で仕上げた作品になります。
 といっても、完成本は前編の「鳳来寺編」のみでした。後編にあたる「秋葉山編」(静岡県の天竜川上流ある秋葉神社)は出版された形跡がないそうです。
 鳳来寺編がさしあたって急ぎで出版されたのは、この年の正月『木曾海道続膝栗毛六編』(大井宿<恵那>、中津川、馬籠、妻籠…と尾張&三河に近い地域編)が出版され、尾張・三河地方で一九人気が盛り上がっていたのに便乗しようとした意図もあったでしょうし、一九側からは、松屋での宿泊やおもてなしを受けた謝礼の意味もあったのだと思います。『膝栗毛』ブームに乗っかったタイムリーな発売だったので、これは売れたに違いありません。名古屋の板元以外に、江戸と大坂からも出版されてはいますが、果たして名古屋ほど売れなかったと思います。なぜなら、内容が膝栗毛で使い古されたネタで、新鮮さがなく目新しさも見受けられないからです。
 後編の秋葉山編は、一九としては予定していたにも係わらず執筆されなかったのは、書肆に求められなかったからでしょう。流行作家といえども、当時は板元の要求がなければ出版は不可能だった(鈴木牧之の例)ようです。―もっとも一九先輩は他の執筆も多数抱えていたから、ポシャっても何とも思わなかったでしょうが。
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untold stories

2012-08-28 | bookshelf
吉村 昭著『空白の戦記』 新潮文庫 昭和56年刊行


 太平洋戦争の沖縄戦に興味を持ったきっかけは、沖縄戦で負傷して生還した人が隣り町に暮らしていたという事実を知ったからでした。数年前に高齢で亡くなられたその方の手記を読んで、最前線の実態にショックを受けました。
 幸運にも生き残った方々は、生き残ったことが悪いことでもあったかのような精神状態に追い込まれ、心に深い傷を負いながら過去の事実に口を閉ざしてきました。
 最前線へ兵士として送り込まれた一般の国民たちや、即席兵士にさせられた住民たち。敵に殺されただけでなく、東京の安全な大本営で能のない作戦を強行させた参謀たちによって犠牲になった人々の数は、どれだけにおよんだのでしょうか。想像のできないくらい多くの命が戦かわずして散っていた、という事実。
 伊江島戦について書かれた小説を見つけて読んでみました。↑吉村昭氏の『太陽が見たい』という短編です。この話は著者が実際に現地へ取材に訪れ証言をまとめたものなのですが、小説という形態をとっているので解りやすかったです。ただ、生々しい胸に迫るものは体験者の手記に勝るものはありません。
 『空白の戦記』には他に、歴史では習わない「太平洋戦争とその準備期間(軍国主義)の隠蔽された実録」と云える短編が5編掲載されています。その中で、フィクションではあるけれど、たぶん実際起こっていただろうと思われるようなケースを描いた『敵前逃亡』という作品は、生々しい最後がショッキングでした。
 私の読んだ手記に、戦争から帰還後、訪ねた戦友の遺族などから「どうやって助かったのか」と言われたのが辛かった、と書いてありました。戦場にいた人々は「どうやって」も助からなかったのです。帰還できたのは、本人の意思とは関係ない「偶然」でした。サバイバルゲームみたいな事は有り得なかったのです。
 更に腹立たしかったのは、本土決戦に備えて東京から大本営(と皇居)を信州松代の山中へ移転させるという計画を秘密裏に進めていて、沖縄戦はそれまでの時間稼ぎだったという事です。松代大本営の事実は、当時トップシークレットだったので国民も噂は聞いていたものの、戦後になってもその問題は歴史に浮上しませんでした。私は松代を旅行した折、たまたまその存在を知った次第です。
 沖縄戦から帰還した人は手記の中で、「戦争になったら兎に角逃げろ」と書いていました。その通りだと思いました。大義名分がなんであれ、戦争するなら大昔のやり方で、大将が先陣きって名乗り合って戦うようにすればいいんです。
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invitation to the books of the edo period 2

2012-07-09 | bookshelf

 『日本古典文学全集』より気軽に読めるのが、2011年に刊行された『「むだ」と「うがち」の江戸絵本』。全集にも載っている『金々先生~』と『江戸生艶気樺焼』の他、春町の『辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)』、出版規制にひっかかって絶版となった『天下一面鏡梅鉢』唐来参和(とうらいさんな)著、そして当時の本の製作工程が一九の見事な画と面白可笑しいストーリーで学べる『的中地本問屋(あたりやしたぢほんどんや)』などが、注釈とわかりやすい説明付きで掲載されています。
 井上ひさし著『戯作者銘々伝』を読んだ後なら、恋川春町がどれだけ突飛なネタを思いつくセンスを持っていたのか、納得できるでしょう。特に『辞闘戦新根』は、当時の流行語を擬人化したもので、流行語たちが反乱を企てるのですが、これは現れては消えしていく流行語の特徴を巧く突いています。「言葉が闘う、というのは新しいことなのね」。最後の「ね」を加えたところもにくい。しかし、ここに出てくる江戸の流行語は、現代でいうおやじギャグそのものです。例えば「当てが外れた」という意味で使われる「とんだ茶釜」。語源は、鈴木春信の浮世絵に描かれた茶屋の看板娘・お仙を一目観ようと茶屋を訪れたが、すでにお仙はいなくて替わりに禿げ頭のオヤジが居たので、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」と言ったところから来ているんだとか。この手のギャグは弥次喜多もよく使っていて、「承知した」を人名風に「しょうちのすけ」と言ってたりします。黄表紙はおやじギャグの宝庫。
 唐来参和の『天下一面鏡梅鉢』は、朋誠堂喜三二作『文武二道萬石通(ぶんぶにどうまんごくどうし」や春町作『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』同様、松平定信の寛政の改革を穿ったもので、絶版になりましたが、実は唐来参和の署名が無くて、作者については疑問の余地があるのだそうです。
 馬琴の『八犬伝』や為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』など長編小説を読んでみようかな、と思ったら、2010年刊行の『人情本事典』で予習できます。
 人情本のストーリーは、現代のお昼のメロドラマといった感じで、女性に人気があったそうです。本書は『春色梅児誉美』以前の人情本を扱っていて、興味深かったです。人情本は天保年間(1830~1844年)が最盛期の明治初期まで描かれていた風俗小説。家族構成や人間関係が入り組んでいるところに、義理や人情が絡み合い、泣きや不条理などあって最後は丸く収まるという構成になってます。驚いたのは、人情本の先駆者が十返舎一九だったという指摘でした。どんなジャンルも手を出した一九先輩、さすが…と感心したら、当人に人情本を書いているという自覚は無かったそうです。
 この本には、作者・画工・板元・出版年が明記してあり梗概(要約)が書いてあるので、81種の話が収録されています。全巻揃わないものもあったり、個人の蔵書を提供してもらったりしているので、どんな物語なのか内容がわかるだけでも有難いです。
 『戯作者銘々伝』にも登場する、鼻山人(東里山人)や「松亭金水」に出てくる為永春水が春水と号する前の南仙笑楚満人の作も載ってます。また、墨川亭雪麿の作もありました。この人は、勝手に一九先輩の小伝を書いて、一九の逆鱗に触れた人物です。
 「木曾海道六拾九次内」を請け負った(途中から広重が描く)渓斎英泉が、人情本の挿絵の多くを担当していたという事実も知り得ました。戯作者が東里山人(鼻山人)で挿絵担当が渓斎英泉という『珠散袖(たまちるそで)』(1821年文政4年刊行)という本があり、広重24歳、東里山人より7歳下ですが、売れない画工時代から親交があったとかいうのを記憶してますが(確かではありません)、1833年の東海道五十三次が売れてからの人気の移り変わりが想像できて、感慨深かったです。
 藤沢周平氏が、売れっ子になった広重が木曾海道を引き受けるまでの物語を書いていましたが、そこには何故版元の保永堂が広重でなく英泉に依頼したのかということが書いてありませんでした。その謎もこれで解けました。人情本の挿絵として英泉の浮世絵は当時絶大な人気を誇っていたのです。保永堂が人気絵師に依頼したのも道理でした。ただし英泉は婀娜な女の絵を得意としていて、風景画は上手くなかったので、保永堂は人選ミスをしたのでした。

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