等彌(とみ)神社の散策が続いています。
境内には万葉歌碑・文学碑がアチコチに佇んでいます。
神社から頂いた境内文学碑一覧によると14の歌碑が建っているとのことだ。
しかしながら今回、写真に収めたのは12箇所。 撮っていない1箇所は鳥見山山頂にある万葉歌碑。途中で引き返したため、行かず・・・。
この万葉歌は、 「見わたせば大和国原ひとめにて鳥見のゆ庭のあとぞしるけき」 (読人不詳)というものです。
もう一つは、桜井市の俳人・植田青風子の歌碑だが・・・境内を探したのだが・・・見つけられなかった。
では、入り口の社務所前に並んでいる歌碑から・・・。
右から佐藤春夫の歌碑、左には堀口大學の歌碑。友情の歌碑とも言われ、真ん中にその証として大學の書いた詩(手紙)が・・・。
「大和にはみささき多し艸もみち」 (佐藤春夫) (昭和47年11月4日除幕)
「さきに来て等弥のおん神をろがみし友につヾきてわれもをろがむ」 (堀口大學) (平成6年11月24日除幕)
真ん中の石碑には・・・「等弥神社々頭のかの春夫兄の句碑の脇に、老生の歌碑をお建て下さるとのこと、これは願ってもない幸せ、よろこんでお受けいたします。お互いが二十才にもまだならぬ頃から、長い一生のあいだ老生をいたわり、導き続けてくれたこの友の、世にたぐいない友情と、これに慕いよる老生の心の後の世の姿として何ものがこれにまさりましょうぞ。」(昭和48年7月21日 大學老詩生)
同じ社務所前にあるのが、
「草もみぢ友の声かと虫をきく」 (堀口大學) (昭和49年5月5日除幕)
下津尾社・拝殿隣りの末社である恵比寿神社前にあるのが、桜井市出身の文人・評論家 保田與重郎の歌であり、棟方志功の画で彫られている。桜井市内には二人がペアになった歌碑が他にもあり、二人の交友が伺える。
「鳥見山のかの面この面をまたかくし時雨は夜の雨となりけり」 (保田與重郎歌 棟方志功画) (平成11年5月5日除幕)
万葉歌碑は桜井市内に60箇所と多い。
そしてこの等彌神社近辺には、冒頭の歌と道路を挟んで隣接する図書館敷地のものと合わせて4箇所がある。
「妹が目を跡見の崎の秋はぎは比月ごろは散りこすなゆめ」 (大伴坂上郎女 萬葉集巻8-1560)(服部慶太郎 筆) (昭和57年5月13日除幕)
上津尾社の階段手前広場の片隅にあり、なかなかのロケーションに佇んでいる。
「うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも」 (作者未詳 萬葉集巻10-2346)(伊勢神宮大宮司 徳川宗敬 筆)
「霊畤拝所」石碑の隣に建つています。
「射目立てて跡見の岳邊のなでしこの花総手折りわれは行きなむ奈良人のため」 (紀朝巨鹿人 萬葉集巻8-1549)(伊勢神宮大宮司 二條弼基 筆) (昭和52年11月25日 神宮祭主 鷹司和子様 ご参拝除幕)
「こゝをしも鳥見のゆ庭ときくからに伏しこそをがめ天津み神を」 (靖国神社宮司 賀茂百樹)
すぐ上の碑の近くにあり、霊畤拝所への登り口に建っている。
「鳥見山の等弥のおん神うけ給へ浪漫の子が奉るぬさ」 (堀口大學) (平成6年11月24日除幕)
上津尾社の拝殿横にありました。
この歌は、神社の手ぬぐいに染められていて・・・白ユリのデザインでした。
「栄木に笹の枝添えて朝日子の道開きませ猿田大神」 (前 宮司□人) (昭和55年 猿田彦大神鎮座祭記念)
猿田彦大神の前にありました。
「とみの里流れの今も蓼の花」 (郷土の俳人 植田青風子) (昭和50年7月26日 奉納除幕)
境内の小川のほとりに建っていました。
(了)