昨日の高貴寺から車で10分ほどの大阪府南河内郡弘川、西行上人の墓がある「弘川寺」へ。
西行上人の歌碑
このお寺の境内にある西行上人の歌
年たけて 又越ゆべしと おもひきや
いのちなりけり さやの中山
これは日本芸術院会員・川田順さんが昭和38年に書かれた歌碑なのだ。
『西行上人の歌碑というためか、いかにも緊張が書を蔽うて、碑は少しかたくなである。』
『歌碑に書かれた説明的口上は裏にまわして、碑面は西行の歌だけにして欲しかった。』と莫山さんは述べておられる。
現物の歌碑を見ると、なるほど莫山さんの言われる通り、西行さんの歌が霞んでしまっている。左右の説明書きが鬱陶しい。「西行上人東国行脚の詠」とか「日本芸術院会員」とか「謹書」の字が目障りなのだ。
佐沢波弦の歌碑
鎮守堂の前にある佐沢波弦の歌碑は、綺麗な境内に、座りのよい石に据えられていた。
時じくに 松風のおと すみひゞく 西行人のおきつきどころ
弘川寺の境内
このお寺は、天智天皇4年(665年)役行者の草創により、天武天皇白鳳5年(677年)勅願寺となる。
西行法師といえば奈良・吉野を連想するが、晩年はこちらの境内に庵を結び、彼の終焉の地になっている。
西行は文治6年(1190年)2月にこの寺で亡くなっていると、境内の史跡案内に掲示されていた。
西行堂。この左側に歌碑がある。
本堂から綺麗な石段を進むと、ひっそり佇む「西行堂」だ。その西側に西行上人のこの歌碑が建っていた。
さらに進むと「西行さんの墓」があり、山の頂上からは、泉州や浪速平野を一望に見渡すことが出来、澄み切った日には遠く淡路島まで展望することができるという。
「西行さんの墓」までは、かなり山奥に進む気配のため、途中から引き返した。
なかなか手入れの行き届いた境内で、木立の中のお堂も綺麗な佇まいであった。
また近くに枯山水の庭園があったが立ち寄らず、ここでも蚊や虻に追われながらの退却となった。
西行上人の歌碑
このお寺の境内にある西行上人の歌
年たけて 又越ゆべしと おもひきや
いのちなりけり さやの中山
これは日本芸術院会員・川田順さんが昭和38年に書かれた歌碑なのだ。
『西行上人の歌碑というためか、いかにも緊張が書を蔽うて、碑は少しかたくなである。』
『歌碑に書かれた説明的口上は裏にまわして、碑面は西行の歌だけにして欲しかった。』と莫山さんは述べておられる。
現物の歌碑を見ると、なるほど莫山さんの言われる通り、西行さんの歌が霞んでしまっている。左右の説明書きが鬱陶しい。「西行上人東国行脚の詠」とか「日本芸術院会員」とか「謹書」の字が目障りなのだ。
佐沢波弦の歌碑
鎮守堂の前にある佐沢波弦の歌碑は、綺麗な境内に、座りのよい石に据えられていた。
時じくに 松風のおと すみひゞく 西行人のおきつきどころ
弘川寺の境内
このお寺は、天智天皇4年(665年)役行者の草創により、天武天皇白鳳5年(677年)勅願寺となる。
西行法師といえば奈良・吉野を連想するが、晩年はこちらの境内に庵を結び、彼の終焉の地になっている。
西行は文治6年(1190年)2月にこの寺で亡くなっていると、境内の史跡案内に掲示されていた。
西行堂。この左側に歌碑がある。
本堂から綺麗な石段を進むと、ひっそり佇む「西行堂」だ。その西側に西行上人のこの歌碑が建っていた。
さらに進むと「西行さんの墓」があり、山の頂上からは、泉州や浪速平野を一望に見渡すことが出来、澄み切った日には遠く淡路島まで展望することができるという。
「西行さんの墓」までは、かなり山奥に進む気配のため、途中から引き返した。
なかなか手入れの行き届いた境内で、木立の中のお堂も綺麗な佇まいであった。
また近くに枯山水の庭園があったが立ち寄らず、ここでも蚊や虻に追われながらの退却となった。
説明とか日本芸術院とかは裏にすべきという意見まったく同じです。川田さんは権威とか肩書きとかに拘った人だったんでしょうか。
このアタリの佇まいは絶品です。
歌などはチンプンカンプンの私、この石碑は有名な西行の歌を芸術院会員(川田順)が書いた字ということことで譲れなかったんでしょうか?
「命なりけり」がなんとなく実感できるようになっってしまいました。
命あればこそ、とまでは考えませんが、元気な時に見たり聞いたり行ったりしたいと思います。
私も西行の歌だけを彫って欲しかったと思います。
いろいろな思惑、事情があったのでしょうが。