豪快な筆遣いの隷書で書かれた「一心寺」の石碑。
ここは、大阪・四天王寺さんのすぐ西側にあるのだ。
大阪夏の陣での、徳川家康公の本陣となり、世に言う「茶臼山の本陣」となったお寺でもあるのです。
莫山さんは、「この太く彫られた字の中に握りコブシを入れたらコブシは泳いでいた」と、書かれていた石碑だ。
この碑のまわりを回って、寛永2年(1849年)の建立も確認されている。
私も、この碑を見たくて探したが見当たらず、常駐の警備員の方、お寺の事務員さん、更にお坊さんに確認したが、首をかしげられる。ついには、若いお坊さんが走って確認に向かわれる始末。
「見つけましたよ。正面入り口の塀の上です。」(当たり前だ! と思ったが・・・言えなかった。)
3mほどの石垣の上に、石塀に囲まれ木陰に隠れるように、建っていた。道路から見上げるので分かりづらいのだ。
新しく建てられた仁王門の迫力に圧倒されているようだ。
でも、もう少し目立つところに置いても・・・と思ったが・・・。
莫山さんは、石垣をよじ登ったと言われていたが、今では垂直の壁に近い石垣となっていて、まず登ることは不可能だ。
またカメラのフレームに「一心寺」の文字を入れるのも、一苦労だ。
真下からでは、撮れない。信号を渡った道路の向こう側から撮ったのがこの写真だ。
江戸も終わりに近い頃、この碑が彫られたのだ。鏨(タガネ)をたたいてコツコツと彫られたのだ。
車の排気ガスにも耐えながら、綺麗な文字が木陰から睨んでいるようである。
法然上人が約800年前に創建され、無名戦士のお堂があり、幕末の名優 八代目市川団十郎、昭和の名優 坂東寿三郎などの墓もある。
右の奥に「通天閣」が見えている。
また、面白いのは、本多出雲守の墓であり、戦に向かう前に酒を飲み、深傷のうえ戦死したこのひとの墓に参ると「断酒」できるという。
「自分の墓に参れば、お酒を飲めないようにしてやる。」と遺言したからとか。この墓に参るひとがいると言うことだが・・・・。アル中さんはどうぞ!
昭和20年の大阪空襲で、堂塔伽藍のすべてが焼失。その後再建され大本堂、信徒会館、念仏堂、更に平成9年には鉄骨造り山門と青銅製の仁王像が睨んでいます。
ここは、大阪・四天王寺さんのすぐ西側にあるのだ。
大阪夏の陣での、徳川家康公の本陣となり、世に言う「茶臼山の本陣」となったお寺でもあるのです。
莫山さんは、「この太く彫られた字の中に握りコブシを入れたらコブシは泳いでいた」と、書かれていた石碑だ。
この碑のまわりを回って、寛永2年(1849年)の建立も確認されている。
私も、この碑を見たくて探したが見当たらず、常駐の警備員の方、お寺の事務員さん、更にお坊さんに確認したが、首をかしげられる。ついには、若いお坊さんが走って確認に向かわれる始末。
「見つけましたよ。正面入り口の塀の上です。」(当たり前だ! と思ったが・・・言えなかった。)
3mほどの石垣の上に、石塀に囲まれ木陰に隠れるように、建っていた。道路から見上げるので分かりづらいのだ。
新しく建てられた仁王門の迫力に圧倒されているようだ。
でも、もう少し目立つところに置いても・・・と思ったが・・・。
莫山さんは、石垣をよじ登ったと言われていたが、今では垂直の壁に近い石垣となっていて、まず登ることは不可能だ。
またカメラのフレームに「一心寺」の文字を入れるのも、一苦労だ。
真下からでは、撮れない。信号を渡った道路の向こう側から撮ったのがこの写真だ。
江戸も終わりに近い頃、この碑が彫られたのだ。鏨(タガネ)をたたいてコツコツと彫られたのだ。
車の排気ガスにも耐えながら、綺麗な文字が木陰から睨んでいるようである。
法然上人が約800年前に創建され、無名戦士のお堂があり、幕末の名優 八代目市川団十郎、昭和の名優 坂東寿三郎などの墓もある。
右の奥に「通天閣」が見えている。
また、面白いのは、本多出雲守の墓であり、戦に向かう前に酒を飲み、深傷のうえ戦死したこのひとの墓に参ると「断酒」できるという。
「自分の墓に参れば、お酒を飲めないようにしてやる。」と遺言したからとか。この墓に参るひとがいると言うことだが・・・・。アル中さんはどうぞ!
昭和20年の大阪空襲で、堂塔伽藍のすべてが焼失。その後再建され大本堂、信徒会館、念仏堂、更に平成9年には鉄骨造り山門と青銅製の仁王像が睨んでいます。
この字体は私の好きな字体です、隷書体はいいですネ。左右の払い、波打つような横長の字がいいです。こんな字が書けるといいんですが、難しいでしょうね。中国に行くと街中で路上の石の上に、水を使って、大きな筆で漢詩を書いている人たちに良く出会います。書いている字はこの隷書体です。大昔からある字のようですね。いい物を見せてもらい、ありがとうございます
「のんべい」の話も面白いですネ、私は無関係です
莫山さんが好きだったのも頷けます。ただし莫山さんは本多様のお墓には行かなかったでしょうね。