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手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

時給10万円のアルバイト!?

2013-02-20 16:06:47 | 社会
今月(2月)はじめ頃、家内の母が亡くなり、葬儀は、家内のお姉さん夫婦がとり仕切って行われました。
今の寒い時期、亡くなる方が多かった、とみえて、お葬式の日取りがかなり後までずれ込んで、実際に告別式が行われたのは、14日でした。その上、なんと、当日は、お坊さんのスケジュールまでもが、混み合っていて、檀家となっているお寺のお坊さんは、来てくれず、仕方なく、同じ宗派のお坊さんに頼んで、お経をあげてもらいました。つまり、お通夜と告別式の2日間、お経をあげてもらったお坊さんは、同じ宗派のお坊さんに、アルバイトみたいに来てもらったわけです。この両日、お坊さんは、約1時間ほどお経をあげるために来場して、お経が済むとそそくさと、帰っていきました。
ここで、このお坊さんから、お経をあげる値段として、請求された金額は、いくらだったと思いますか?
なんと、20万円だったんです。実にお経をあげるだけで、1時間あたりにすると、10万円の値段になるわけです。
世の中では、時給が800円とか1000円ぐらいがアルバイトの相場なのに、お坊さんの世界では、なんと、その100倍なんですね。実に驚きです。さらに、戒名に「院」の文字を含ませて、と、お願いしたところ、その値段たるや、これまたビックリ、120万円を請求されたそうです。
世の中のすべてのお坊さんが、お経や戒名の費用に、このような膨大な値段をつけているとは思いませんが、それにしてもビックリです。
お寺さんとか、お坊さんは、税金の支払い義務はないそうですから、世間でささやかれている「坊主丸儲け!」っていうのは、まさにその通りなんですね。

直ちに原発廃止を!。マグロの街、大間町に原発はいらない!!

2012-10-07 12:59:39 | 社会
最近、電源開発(株)が、青森県の大間町での原発工事を再開する、と発表、政府の枝野経済産業大臣がそれをサポートする発言をしている。
同原発は、昨年起きた東日本大震災を受けて工事が中断していたものだ。大間町の地元では、原発に関わる電力会社などから交付される莫大な援助金で町が潤い、活性化する、ということもあって、工事再開を大歓迎しているようだ。
この大間町に限らず、原発を抱える自治体に住民は、原発設置の見返りに町に電力会社から支給される莫大な交付金などで、原発設置に賛成しているのが現状のようだ。ここで、もし電力会社が交付金を支払わないとしたら自治体は原発設置に反対することは目に見えている。従って、自治体の人々は原発設置を心から望んでいるわけではないハズなのだ、と私は思う。私が思うに、極端な言い方をすれば、自治体の住民は原発の恐ろしさを知っていながらも、交付金欲しさのために、原発の安全性を心配しつつも、生活しているように見えてならない。
地震がいつ起きてもおかしくない、地震大国の日本は、このような現状のままで、毎日を過ごしていて、果たして、ほんとに良いのだろうか?昨年の東日本大震災発生は、そんな現状に大きな警鐘を鳴らす教訓をもたらすものだった、と思っている。原発を抱える自治体は、電力会社からの交付金に惑わされて、原発設置に賛成しないでほしい、と切に願うものである。
「原発には完全に安全なんてありえない!」「想定を超えた!!なんて言い訳は、これからは絶対に通用しないのだ」ということをすべての人々は心に銘記すべきであろう。
政府は2030年代に「原発ゼロ」の目標を打ち出す一方、原発再稼働を方針を示す、など、うやむやな馬鹿げた見解を出しているが、いづれ政府は原発完全ゼロを打ち出さざるを得ない時期が来るはずである。でなければ、日本の将来は無くなるからだ。国会議員や政府のお役人たちは、一刻も早く原発が国を滅ぼすことに気づくべきである。
折りしも、10月6日の朝日新聞に、同社文化くらし報道部の斉藤さんが書かれた、記者有論「5アンペア生活 原発ゼロへの小さな手応え」という記事に出くわした。
斉藤さんは、一度に流せる電流の上限をこれまでの40アンペアから5アンペアの下げたそうで、記事の中で、「最終目標は自宅で使うエネルギーを自分でつくること。」と、紹介、記事の最後で、「遠い目標を、近くにたぐり寄せるのは、政府ではない。我々一人ひとりの暮らしのあり方だと思う。」と結んでいる。
私は、こんな斉藤さんの思いに大賛成である。私が斉藤さんのマネをするには、一緒に住んでいる家内や母親の理解が必要だが、少しでも斉藤さんに近づくような生活をしていきたい、と思っている。



地震国の日本に原発はいらない!

2012-05-31 22:35:08 | 社会
昨年の東日本大震災の発生に伴って、福島の原発が大事故を起こしたのに、政府は、関西電力の大飯原子力発電所の再稼働を決定するようだ。
政府は当面、原発なくしては、夏の電力消費量を賄いきれない、との判断で、原発の稼働を推進しているようだが、そういう判断は間違っている、と言わざるを得ない。
何時起こるかもしれない大地震というものを抱えている日本では、もともと原発を作ってはいけないものだったのだ。福島の原発事故では、その後、原発の安全性について、想定外だった、なんていう理屈がマスコミをにぎわしたのだが、またもし、大飯原子力発電所が、地震など自然災害で事故を起こしたら、またもや、想定外だった、なんていう理屈がマスコミをにぎわすことは目に見えている。大飯原子力発電所の近隣の自治体が再稼働に反対なのに、唯一、地元の自治体だけが賛成なのは、これまで同原発の存在のお陰で、政府からなどの莫大な支援により、同自治体が潤ってきたから、ということで当然、理解できる。
今まで、原発の存在により政府などから恩恵を与えられてきた自治体は、苦境に立たされることになろうが、政府は、そういう自治体には、十分補償をしてでも、原発の廃止を打ち出すべきである。
夏の電力消費量を賄いきれないのであれば、国民が知恵を出し合って、省エネの撤退などで、しのいでいくのが筋であろう。
その一方、一刻も早く、産官学が原発に代わるエネルギー源確保に向け、研究・開発に精出すべきである。



技術革新って、ゴミを生む!

2012-03-26 12:44:12 | 社会
私は、過去に使ってきたいろんな道具や機械、装置を、その後、何年経っても、捨てないでいる。もちろん、それらの中には、雑誌やその他、書籍類もある。そのうちに、いづれ、また使う時があるかも知れない、とか、古くなると、いづれ値打ちがでてくるものがあるかも知れない、それに、長年使ってきただけに愛着がある、など、という思いからである。
従って、本棚や机などの私の身の回りには、いろんなモノがあふれて、ときには足の踏み場もないほどになることもしばしばである。
そんなわけで、家族からは、「早く整理して捨てるなど、処分したら?」なんて、しょっちゅう言われている。
たまに、意を決して、処分しないといけない、と思うことがあって、今回、かなり以前にパソコンに使ってきた、外部記憶媒体としての、5インチ・フロッピーや3.5インチ・フロッピーを捨てることにした。これらフロッピーは、いろいろな場所に散在していて、一か所にまとめていくうちに、なんと1000枚ぐらいは軽く超えそうなほど、買いこんでいたことが分かった。
パソコンが登場してまもなくの頃、当時はNEC製のPC-8801とかPC-9801といったパソコンが一世を風靡していて、その頃のソフトは、すべてフロッピー・ディスクに納められていた。当時はフロッピー・ディスク1枚あたり、秋葉原でも100円くらいしたので、今にして思えば、私は、フロッピー・ディスクだけでも10万円位、お金をかけていたことになる。
フロッピー・ディスク1枚に入る容量は、1メガバイトとか多くても1.5メガバイトぐらいのものなので、OSなど容量を多く必要とするソフトウエアは、OS一個だけで、20枚以上のフロッピー・ディスクがセットになった状態で販売されていたのだ。なので、当時は、OSをパソコンにインストールするだけでも、フロッピーを1枚づつ、挿したり抜いたりするので、1時間以上もかけてやっていたものだった。
さて、現在は、技術の目覚ましい進歩、技術革新によって、micro SDカードとか、SDHCメモリーカードとか、あるいはUSBメモリーといった、大容量のメモリー製品が登場して、今ではフロッピー・ディスクなど、まったく不要になってしまった。先だって、秋葉原に行ったとき、お店で16ギガバイト容量のUSBメモリーを買ったら、その値段が、なんと1700円位だった。これには、ほんとにビックリだ。16ギガバイトといえば、フロッピー・ディスクに換算すると約16000枚に相当するのだ。
こんなわけで、今では無用の長物と化したフロッピー・ディスク、私には、いろんな思い出が詰まったフロッピーだが、今回泣く泣く、仕方なく、捨てざるを得なくなってしまったのである。
今回、ゴミとして捨てることになった、大量のフロッピー・ディスクだが、このようなゴミを生んだのは、実は、技術革新のなせるわざなのである。
なお、現在、私の住む街では、フロッピー・ディスクなどプラスチック製のゴミは、分別回収の対象になっている。それらが単に焼却されてしまうのか、あるいは、特殊技術によって再生されることになるのか、私には分からない。もちろん、フロッピー・ディスクなどプラスチック製品が、技術革新によって、新たな製品に生まれ変わることを期待していることはいうまでもない。




雪の日の今日、税務署で確定申告

2012-02-29 15:50:30 | 社会
今日は天気予報のとおり、朝から雪が降っていた。最近の天気予報は、少し以前と比べると、かなり正確に当たるようになったように思う。
さて、年に一度の確定申告のこの時期、私にとっては、申告書の作成といった作業が面倒なのだが、どうしても避けて通れないので、日頃、期限前のできるだけ早いうちに処理を済ませておきたい、と思っていて、今年も同じ思いである。
そこで、雪が降りしきる中、歩いて税務署に行くことにした。
今年も、毎年やってもらっているように、税務署の係官に、持参した必要書類を手渡しして、係官によるパソコン操作での申告処理をやってもらった。今日、私がお世話になった係官は、若い女性で、彼女はパソコンにデータを打ち込みながら、途中、私の家内の生年月日をたずねたので、昭和28年3月1日と答えたら、それを打ち込んだ彼女が、私に向かって、「アレッ、明日がお誕生日なんですね!」と、言ったので、私は一瞬ビックリ。
"アッ、そうだった!!、"と、我ながらまったく忘れていたことに気づかされたのだった。係官には「いつも、忘れていて、怒られてしまうんですよネ」って、言ったが、内心、明日こそは、「今年は、家内に忘れなかったヨ」、と言うことにしようと思った。
で、その後、その係官は、「私の母も明日が誕生日なんですよ」って言ったので、これまたビックリでした。
税務署での申告を済ませてから、時々、自転車で買い物に出かけるスーパーマーケットの前を通りかかったので、なんか特別にめぼしい掘り出し物ものがあれば、と思って、そこに立ち寄った。
雪の日の今日は、いつもレジに沢山の買い物客が列をつくるほど混雑する店も、今日ばかりはガラガラだった。ところどころに”雨の日サービス品”と銘うった商品もあった。
店内を一周し、特に買いたいものが無かったので、日頃、毎朝の食後に飲んでいるワインを買って家路についた。
雪道を歩いたので、水分が靴の中まで入り込み、靴下までビッショリで足は冷え切っていた。



2011年(平成23年)を振り返る

2011-12-31 22:32:52 | 社会

近年にない、ものすごい自然災害に襲われた、2011年がまもなく暮れようとしています。
この年末、例年のように私は、ここ数日、忙しく、昨晩などは、手打ち蕎麦を4回も打ちました。
それに、今朝もその続きで蕎麦やうどんも打ちました。これらは、友人・知人の皆さんに届けるためのものです。

さて、年末にあたり、今年を振り返ってみようと思う。

この2011年ほど、日本にとって、最近になく激動の年でした。なんといっても、東日本大震災は、実に痛ましい、悲しい出来事でした。その上、それに伴う原発事故は、これまた、絶対に忘れえない、衝撃的な出来事でした。
あの、地震のときは、私は、市内のアリーナという名前の公共の、多目的体育館で、運動不足を解消するために始めた、社交ダンスのレッスンを受けていました。突然の激しい揺れに、私はその非常口のドアを開けて、仲間とともに屋外に飛び出して、すぐ近くの空き地の地面に腰を下ろして揺れのおさまるのを待っていました。ものすごい揺れで、地面がグラグラと揺れる中、巨大なアリーナの建物が、ガシャンガシャンと音をたてながら、左右に大きく揺さぶられるのを見ていて、まもなく倒壊するのかな、と思ったほどでした。(でも、倒壊せずに済んだのは幸いでした。)

後になって、この地震で、東北地方に巨大な津波が襲い、それで多くの人たちが犠牲になっていることを知り、津波の恐ろしさをまざまざと感じたものでした。あの津波で亡くなった人たち、ほんとに気の毒だな、と、つくづく思います。人為的でない、自然がひき起こした災害だが、どうして、家族を引き裂くような、むごい結果をもたらしたのだろう、と、今なお、亡くなった人たち、肉親や尊い友人たちなどを失った人たちを思うと、実に悲しい気持ちになります。

原発事故では、政府や東電の間違った事故処理のため、あのロシアのチェルノイリ事故と同じかそれ以上の惨状になってしまったことは、実に情けないものでした。私は、特に日本のような地震が多い国では、原発の設置は不適当だと思っています。

さて、一方、国内政治に目を向けると、かつては国民から圧倒的支持を得ていた民主党が、政権を取って、一時は、長年続いてきた自民党政権には無かった、新鮮でみんなに納得できる政治をやってくれるかな、と期待されていました。ところが、現実は、自民党政権時と同じような官僚主導の政治が行われていて、国民の期待を裏切っているようにしか見えないのは、実に困ったものです。このままでは、次期選挙では、民主党もかつての自民党と同じような惨敗になるのは、目に見えています。今の政界には、明治維新の時のような、決断力ある、真に国民を思う、立派な政治家が見当たらないように思えてなりません。

まもなく、あと1時間とちょっとで、2011年が過ぎ去ろう、としています。
来年は、そして、それ以降も、自然災害が起こらない年であってほしい、と切に願わずにはいられません。

新年も、そして、それ以降もが良い年でありますように。

今日はハローウイーンですね

2011-10-31 17:24:03 | 社会
10月の最終日はハロウイーンですね。そういえば、ハロウイーンにつきものの、パンプキン(かぼちゃ)って、私の住んでいる地域が、カボチャ生産量では全国的にトップ・クラスということを最近知りました。
で、今年は、地元の商工会では、町興しの一環として、今後、かぼちゃのキャンペーン・イベント活動などに役立てようというので、カボチャを題材としたイラストなどを募集していました。応募作品で一位に選ばれると、賞金数万円が贈呈される、とのこと。
イラストといえば、もしかして、息子の奥さんに頼めば書いてくれるかも、と思って頼んでみました。というのは、息子の奥さんは学生時代、美術・絵画系の専門を勉強していた、ということで、私は、かつて彼女が描いた息子の似顔絵を見てビックリした(よく特徴を捉えていて、あまりにもそっくり!)ことを覚えているからです。
先日、彼女にイラストのお願いをしたところ、描いてくれました。そして、応募しました。
一位に選ばれると、いいのだけれど・・・・・
なお、選考・発表は11月6日とのことです。

原発事故と科学者の怠慢--原発の実用化は時期尚早!

2011-05-26 17:42:58 | 社会
東日本大震災によって発生した津波が引き金となって、福島県の原発が事故を起こしてしまった。その後、時間の経過とともに、事故の詳細が把握されるにつれ、この事故が、かつて世界中を震撼させたチェルノブイリの原発事故と同等あるいはそれを上回るような規模の大事故だったことが明らかになっている、という。実に恐ろしいことだ。炉心溶融と言う、とんでもない事態になっているそうだ。原発事故では、原発から撒き散らされる放射能が、生物をはじめ、あらゆる物に悪影響を及ぼすので、特に事故を起こした原発の近くに住む人たちの不安は、十二分に理解できる。
この福島県の原発は、津波などあらゆる事態を想定して、十分余裕を持って設計・設置されていたそうだが、今回の津波では想定を越えたものだったので事故になった、という。日本中に、いまや50を超える原発があるそうだが、地震国のわが国では、たとえどんな大げさな想定をして設計・設置された、としても、今回のように、想定外の事態に見舞われて、大事故を起こす危険性・可能性は十分ある。原発では放射能の影響があるため、その大事故の収拾には、数十年をはるかに凌ぐ年月を要するので、実に厄介だ。
数十年前のこと、世界各国は、石炭、石油といった過去の資源に頼る火力発電では、将来の資源枯渇が目に見えているとして、原発の本格導入が行われたのだが、この導入・実用化こそ、あまりにも安易な考え方だった、と言わざるを得ない。私には、科学者が、これまで、電気エネルギー生成には、原発以外に無い、として、原発以外の電気エネルギー生成についての本格的研究をやってこなかったのではないか、と思われてならない。原発に関わっていた科学者は、ひとたび事故を起こすと、人類の生存をも脅かす原発の恐ろしさを当初から認識していたはずである。それにも拘わらず、最悪の事態を想定して設計・設置したから、大事故は起こり得ない、として実用化してしまったのが誤りだったのだ。本来は、いかなる大事故になった場合にも、安全でしかも短期間での収拾策が十分に検討・把握されてから実用化すべきだったのだ。
折りしも、先日の東京都知事選で再選された石原都知事は、今後も原発を積極導入すべき、と発言しているが、私には、東京には、原発が無いから、そのような発言が出来るのだ、というふうに思えてならない。もし、東京に原発が設置されたなら、都民はどう反応するだろうか?

科学立国の日本で重大な原発事故

2011-03-15 12:48:14 | 社会
チュルノブイリの原発事故から、長い年月が経った今日、同じような事故が
今また日本で起こった、ということは、実に情けないことで、関係当局には強い
不信感、腹立ちを覚えざるを得ません。
付近に住んでいる人たちは、どんなに憤っているか、計り知れないほどだと、思います。
あの事故から年月も経ち、いろんな教訓を学んで、それに、あらゆる事態を想定して、
福島の原発が運転されていたのか、疑問になります。もし、このような、あらゆる手立てが
実施されている上で、今回の事故が起こってしまっている、としたら、今や、
原発はやめにせざるを得ないと思います。
大地震が事故の引き金になったのかも知れませんが、地震国の日本では、前もって、
地震に備えた、原発対策が打ってあったはずです。
押しボタン一個を押すだけで、稼働中の原発が、スムーズに安全停止するような、
そんなシステムが実現しないのかな、なんて、素人眼には映るのですが・・。
科学立国を建前とする日本が、原発事故で世界に恥をさらしてしまったのは、
実に恥ずかしいことです。

木のお札と紙のお札との違い-ご利益はどっち?!

2011-02-09 10:28:57 | 社会
一年のうち、何回か、我が家が檀家の一員となっている、お寺さんから、家内安全など、いろんな種類の名目で、ご祈祷のためのお札を購入するための募集用紙が、郵送されてくる。お盆の時期もそうだし、春や秋のお彼岸の時期などにも、そのご祈祷に合わせた、類似のお札購入のための案内状が郵送されてくる。
最近届いた、その案内状に書かれた、お札には、3000円の紙製のお札のほか、木製のお札として、5000円のものと10000円の2種類のものを選べるようになっている。
ずーっと以前から、自らが強い信仰心を持つ、と自負する我が家の母は、いつも、必ず、木製のお札を注文している。最近も、私は、自分自身名義のお札を注文する母に合わせて、お札を注文することにしたのだが、ここで、いつも母と意見が食い違う。値段の安い紙製のお札でも、木製のお札でも、ご利益は同じハズと考える私に対して、何故かいつも母は反対している。
今回のお札注文に際して、私は、紙製のお札を注文しようとしたが、木製のお札を注文した母が、一家を相続する私が紙製にするのは、オカシイ、と反対意見を言いだして、結局、私は、母と同じく、木製のお札を注文せざるを得なくなった。
ちょっと考えても、木のお札と紙のお札とは、そのご利益は同じはずである。違いは、木製のお札のほうが見栄えがよく、格好いいだけである。そして、資源の無駄遣いの観点を考慮すると、本来は、紙製のもので十分なのだ。
初詣とか、など神社・仏閣に出向いたときにも、木のお札と紙のお札、どちらかを選択する場面にあったときは、どちらでもご利益は同じという視点から考えるべきであろう。あとは、格好を気にするかどうかだけである。