善の心10:行捨(ぎょうしゃ)――静かな心

2006年03月21日 | メンタル・ヘルス

 過剰に興奮するのでもなく、ひどく落ち込んでしまうのでもない、平静な心は善です。

 心の静けさには独特の快さがあります。

 過剰な興奮のように刺激的で中毒性のある快感ではありませんが。

 唯識仏教では、心の病を癒すためには、ダルマ・世界のありのままの真理を覚ることが必須だと考えていますから、ありのままが見えなくなるような心の状態は煩悩に分類され、ありのままが見えやすくなる心が善であるとされるのは当然です。

 私たちは興奮状態や落ち込み状態にあると、物事を自分のその時の気分で曲げて見てしまいがちです。

 どうしても、主観的になってしまうのです。

 世界をありのままにではなく、自分の主観、その時の気分で見てしまうと、事実に合わないすばらしいところに思えたり(躁状態)、同じく事実に合わないひどいところに思えたりします(鬱状態)。

 現代では、どちらかというとひどいところに思えることが多いようですが。

 それに対して、自分の都合や気分をいったん脇に置いて平静な心で見ると、世界のありのままの姿が見えやすくなります。

 ありのままの世界はつながり(縁起)、一体(一如)の世界です。

 つながって一つである世界は、ふつうの意味での善悪、幸不幸、損得、創造‐破壊といった2項対立を超えていて、けれどもやはり素晴らしい美しい世界です。

 そういう美しい世界が見えてきた時、私たちの心には静かで深い喜びと感動が湧いてきます。

 過剰な興奮に慣らされた現代人が誤解するのとちがって、平静な心・行捨(ぎょうしゃ)は退屈なものではなく、静かな喜びに満ちた心なのです。


 補足として論理療法的なコメントをしておくと、過度で不健全な興奮がいけないのであって、適度で健全な興奮は人生に必要なものだ、と私は考えています。

 鬱状態や躁状態、あるいは躁鬱の波というのはどれも不健全であり、基本は平静な心、時々適度な興奮、というのがいちばん好ましい心の状態であることは、実感すれば誰にでも納得できることなのではないでしょうか。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

↑ぜひ、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 善の心9:不放逸(ふほうい... | トップ | 善の心11:不害(ふがい)―... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (うりぼう)
2006-03-21 23:54:55
いま、どうもふつうにやっていると、人との関係や仕事の中で、年中明るくハイでなければ、いわば躁状態でなければ、みたいな雰囲気があります。それはどうも「適度」ではないような気がします。

>静かで喜びに満ちた心

とてもいいと思うのですが、なんだか生活実感とはかけ離れていて…

でもぜひそうなりたいと思います。そのほうがさわやかそうです。

返信する
初めまして♪ (★爆発的に勉強をやる気させる!家庭教師(カテキョ)は時給が高いただのアルバイトじゃない!)
2006-03-22 11:07:48
初めまして♪

家庭教師をやっていますMと言います!

ブログランキングから遊びに来ました!

最近、自分の教え子を見る目にかなり主観が入っています。

もう少し、冷静に客観的に子供と向き合いたいなと思っています(^^;

また、来させていただきます!
返信する
Unknown (XAITO)
2006-03-23 00:23:27
たしかに、人生に興奮を求めすぎていたような気がします。



静かな幸せ。



静かな心の独特の快さ。



なるほど、実生活を豊かにする一つのコンセプトですね。
返信する
Unknown (非思・量)
2006-03-23 21:13:24
基本は、静かで平穏な心。



そして、時折適度な興奮。



これまさに理想です。



あ、なんだか先生のイメージです(笑)
返信する

コメントを投稿

メンタル・ヘルス」カテゴリの最新記事