ニヒリズムによる殺人と自殺――川崎登戸の死傷事件にふれて

2019年06月09日 | 生きる意味

 以下の記事を書くについては、かなりのためらいがあったのですが、やはり書いておいたほうがいいという気がしてきたので、あえて書くことにしました。

 5月28日、川崎市登戸駅近くでカリタス学園のお子さんや保護者の方19名が刺され、女児1名、男性1名が亡くなられるという痛ましい事件がありました。

 亡くなられたお二人のご冥福を心からお祈りするとともに、傷を受けた方々、ご家族・関係者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 犯人は、犯行直後自殺していて、責任を取らせることができません。報道によれば、犯行動機もあまりはっきりしないようで(毎日新聞デジタル版6月1日など)、さまざまな推測がなされています。

 ネット上では、「死にたいのなら一人で死ぬべきだ」といった発言をきっかけにいろいろな議論がなされているようです。

 筆者は、被害者や家族の方々の心情を考えると、そうした下手をすると無責任になりかねない推測や議論に深入りすることには強いためらいを感じていましたし、責任と意味のある推測や議論をするには正確で膨大な資料を見る必要があるが、それをするには力や時間が足りないと思っていますが、一つだけはっきりしている重要なことがあると考えていて、研究所の関係者や本ブログの継続的な読者にはお伝えしておきたいと思いました。

 それは、犯人の具体的な事情はいろいろあったにしても、もっとも基本にあった問題はニヒリズムだと判断してまちがいないと思われる、ということです。

 事情は誘因であり、根本的な原因は本人が陥っていたニヒリズム的な考えにあると言っていいのではないでしょうか。

 自分で自分の存在を認めることができず、さらに他者の存在も認めることができず、他者を否定・殺傷し、自分も否定・自殺したということは、「自分にも他者にも生きる意味がない」と考えていたということです。

 戦後日本の科学合理主義的・無神論的ヒューマニズムが常識になっている状況のなかでは盲点になっていると思われますが、彼の心のなかにはキリスト教的な「私も神の子、他人も神の子であり、絶対的な尊厳があるのだから、自殺も殺人もけっしてしてはならない」という考えはまったくなかったでしょうし、神仏儒習合的な「私も神・仏・天地自然・祖先からいのちをいただいているし、他人もそうだから、自分も他人も大切にしなければならない」という考えもなかったことが、重大なポイントだ、と筆者は捉えています。

 さらに言えば、もし「自殺したり殺人を犯したりすると、死後、神によって裁かれる」か、「自殺したり殺人を犯したりすると、死後、地獄に落ちる」と信じていれば、たとえ社会的・心理的にかなり追い込まれていたとしても、簡単に自他を殺すことはできなかったはずです。

 「それはそうかもしれないが、いまさらそんなことを言ったって、今は昔じゃないんだから」という声が聞こえてきそうです。

 継続的な読者にはおわかりいただいているとおり、筆者は、昔のようなほとんどの人が宗教を信じていた時代に戻るべきだとか戻れると言いたいのではありません。

 そうではなく、近代的な科学合理主義だけでは、人間の生きて死ぬ究極の意味は見いだせない、それどころかニヒリズムに到るのであり、ニヒリズムが克服できないかぎり、倫理の崩壊はとどめることができず、きわめてニヒリズム的―非倫理的な犯罪はけっしてなくならないだろう、と指摘したいのです。

 筆者は過去の記事「近代化の徹底とニヒリズム」で、次のように書きました。

 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってきたわけです。

 そして、日本では開国-明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。

 神の死とニヒリズムについて述べたニーチェの言葉を改めて引用しておきます。


 ニヒリズムは戸口に立っている。あらゆる訪問客のなかでもっとも不気味なこの客はどこからくるのか?――出発点。ニヒリズムの原因として、「社会的な困窮状態」、あるいは、「生理学的な変質」、それどころか、腐敗に言及するのは、見当違いである。現代はこのうえなく品のよい、また、このうえなく思いやりの深い時代なのだ。困窮は、それが心的な困窮であれ、身体的な困窮であれ、知的な困窮であれ、それ自体としては、ニヒリズム(つまり、価値、意味、願わしいものの徹底的な拒否)を生むことは断じてできない。これらの困窮は、いぜんとして、まったく種々さまざまな解釈を許すのである。……(遺稿集『力への意志』1906年、1)

 結局、なにが起こったのか? 生存の全体的性格は「目的」という概念によっても、「統一」という概念によっても、「真理」という概念によっても解釈されてはならない、ということが理解されたとき、無価値性の感情が得られたのである。そういうものによって、なにかが目ざされたり、達成されたりすることはないのである。出来事の多様性のなかには包越的な統一性はないのである。生存の性格は「真」ではなくて、偽である……真なる世界があると納得する根拠は、もはや絶対にない……要するに、われわれが世界に価値をおき入れたさいに用いた「目的」「統一」「存在」などの範疇は、われわれによってふたたび抜きさられ、――いまや、世界は無価値なものにみえる……(12)


 しかし、これまで述べてきたことをここで改めて繰り返したいのですが、近代科学で見れば、「出来事の多様性のなかには包越的な統一性はない」ように見えたのですが、現代科学はもはや疑う余地もないほど明らかに宇宙の多様性・複雑性には自己組織化という方向性があることを示しています。

 そういう意味からすると、「近代科学はもう古い」、そしてだから「ニヒリズムももう古い」と言わざるをえない、と私には見えます。

 そして、社会がそうしたもう古い近代の科学合理主義とヒューマニズムを建前として営まれ続け、現代科学に基づく新しいコスモロジーへの飛躍・転換を無視―拒否し続けるかぎり、これからもニヒリズムに基づく犯罪―悲劇は起こり続けるだろう、と警告せざるをえません。

 そしてさらに、「宇宙138億年の歴史が生み出したものとしての人間・個々人は、宇宙的に尊い。だから、死んではいけないし、殺してはいけないのだ」と筆者は考えており、読者から始まって社会の大多数の人に、そうしたコスモロジーをまず検討していただき、納得できたら共有していただき、それによって社会倫理を再建し、犯罪―悲劇をなくしてしまいたい、と強く願っています。


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