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傲慢は自信ではない

2005年09月22日 | メンタル・ヘルス
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 「本当の自信」は、他人と比較して上か下かという相対的な「自分」ではなく、比較することのできない絶対的な「自分そのもの」を認めた時に確立する、と私は考えています。

 授業でそういう話をしていたら、「それは、ナンバー・ワンじゃなくてもいい、オンリー・ワンになろう、ということですね」といった学生がいましたが、そう、そういうことです。

 ある学生はこういう感想文を書いてくれました、「僕は僕であることについては誰にも負けない」と。

 「負けない」と表現するところに、まだ比較癖が残っているけれども、かなりいいところまで来たなと喜んだことです。

 しかし、世の中にはそういうのではない自信を持っている人がたくさんいるようです。

 「自信たっぷり」、「自信満々」、「自信過剰」、「傲慢」……。

 しかし、「傲慢」は「本当の自信」ではありません。

 「傲慢」とは、自分がある特定のことについて一定の優越性を持っていることだけに心が集中し、さらに固着・硬直して、優れているのは特定のことについてだけであることや、一定程度にすぎないことを無視して、ひたすら自分の優越感を感じ、優越性を人に誇示するような態度のことですね。
 
 そういう硬直しひずみのある優越感が性格として固定してしまっているのを「傲慢な人」といいます。

 しかし私の見てきたかぎり、そういう傲慢な人も、心のどこか――意識と無意識の境のあたり――で、自分の優越性が本当は相対的なものにすぎないことを知っています。

 そして、だから、それが時と場合では劣等感に転落してしまいかねないことも知っているようです。

 そのために、傲慢な人は心の奥のほうで不安を抱えていると思われます。

 しかし、不安を意識化すると、それこそゆらいでしまいますから、意識しないように、心の中で抑圧しているのです。

 感情は必ずエネルギーを伴っているので、抑圧するには力が必要です。

 そしてまた、不安な自分を人に知られるのは、自分の弱みを見せることで、劣等性に陥ると思っています。

 だから、傲慢な人は、自分の中でも、人に対しても、力まなければならなくなります。

 事実ありのままに・自然にゆるぐことのない自信があるのではなく、必死に力みながら自信があるつもり、自信がある風を装っているのです。

 しかも、自信というのは、事実として自分に与えられているものを自覚するのがポイントですが、やはり他から認めてもらえたほうが確立しやすいことも確かです。

 ところが、傲慢な人は、ほとんど法則的に人に嫌われます。……「傲慢な人が好き」という方はいませんよね?

 もちろん、その人にお金や地位や権力があるために、ゴマをする人はいるでしょう。

 しかし、それが本当にその人を尊敬したり愛したりしているのではなく、お世辞や追従にすぎないことは、本人も心のどこかで知っています。

 本当は嫌われている(のかもしれない)と思いながら、「オレに力があるかぎり、人はおれにお愛想をふりまいて、ついてくる。嫌でも認めざるをえないんだ」と一所懸命力んでいるというパーソナリティの状態は、哀れでもあり、また人迷惑でもある、と思いませんか?

 そういう心の奥に不安を抱えて力んでいる、哀れで人迷惑な状態・傲慢さを、私は「本当の自信」とは定義しないのです。

 私たちが、「自信過剰」だなと感じるのは、自信がほんものでなく、そういう「傲慢さ」に陥りつつある途中の状態のことなのではないでしょうか。

  「本当の自信」は、事実にぴったり合った心の状態ですから、「不足」にも「過剰」にもなることなく、いつも「適切」なのだと思うのです。