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今日のことば 7: 宇宙は一つの生きもの

2008年07月17日 | メンタル・ヘルス

 宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。

 またいかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮かべよ。

                  (マルクス・アウレーリウス『自省録』第四章40)


 これは古代ローマの哲人皇帝のことばですが、まるで現代の「生命宇宙論」のようであり、もっと古代のインド、ゴータマ・ブッダの語った「縁起の理法」1) 2) 3) のようでもあります。

 ここでもアウレーリウスは、「絶えず思いをひそめよ」、「つねに心に思い浮かべよ」と自らに言い聞かせています。

 禅の師である秋月龍先生が、しばしば「正念相続(しょうねんそうぞく、正しい気づきを持続すること)」ということをいわれていたことを思い出しました。

 確かにそうしないと、私たちはすべて分別知で営まれている日常生活の膨大な情報の流れに埋没・沈没してしまいます 4) 5) 6)




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今日のことば 6: 喪失は自然なこと

2008年07月15日 | メンタル・ヘルス

 喪失は変化にほかならない。

 これが宇宙の自然の喜びとするところなのだ。

 その自然に従って万物は(うまい具合に)生起し、永遠の昔から同じ形の下に生起し、永遠に至るまで他の同様な形の下に生起していくであろう。

 しかるに君はなぜいうのか、すべては具合悪くできており、これからもつねに具合悪くあろうし、神々がどんなに大勢存在しようとも、これを正す力は彼らの中には結局見出されなかった。世界は絶えざる悪に悩まされるべく定められているのだ、と。

                      (マルクス・アウレーリウス『自省録』第九章35)


 マルクス・アウレーリウスは、ストア派、しかも折衷主義的だと評されます。

 確かにことばの表面だけを読むと、そうかもしれません。

 しかし、その覚悟の徹底性からくることばは、そういうパターンで理解しきれない、というか処理しきれない響きをもっているように思われます。

 この箇所でも、この宇宙には自分にとって具合の悪いことは起こっても、自然にとって不条理なことは起こらないことを、しっかりと再確認、覚悟しようという自省の深い思いが込められている、と感じます。




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今日のことば 5: つねにおぼえておくべきこと

2008年07月14日 | メンタル・ヘルス

 つぎのことをつねにおぼえておくべし。

 宇宙の自然とはなんであるか。

 私の(内なる)自然とはなんであるか。

 後者は前者といかなる関係にあるか。

 それはいかなる全体のいかなる部分であるか。

 また君がつねに自然――君はその一部分である――にかなうことをおこなったりいったりするのを妨げる者は一人もいないということを。

               (マルクス・アウレーリウス『自省録』岩波文庫、第二章9)



 コスモロジーの授業をすると出てくる典型的な反応に、「聞いたときは、そうだなと思って感動して、元気になるんですけど、一週間経つといつの間にか落ち込んでいるんです。どうしたらいいでしょう?」という質問があります。

 私が繰り返し答えるのは、「聞いた、感動した、忘れた、では、コスモロジーはあまりきみの実生活の役に立たない。聞いた、感動した、繰り返し思い出して、自分のものになった、というところまでいく必要があるんだよね」ということです。

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスでさえ、「つぎのことをつねにおぼえておくべし」と「自省録」に書き付けて、自分自身に繰り返し言い聞かせる必要があったぐらいですからね。




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今日のことば 2

2008年07月11日 | メンタル・ヘルス

  生死一如


 それぞれのいのちが宇宙のいのちの一部であることを覚ると、生と死も宇宙のプロセスであって分離した別のことではないことがわかる、という意味の禅語です。

 「生死」は仏教読みでは、「しょうじ」です。

 昨夜の般若心経の講義の中で、ふと思い出し、改めていいことばだなと思いましたので、ご紹介します。




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今日のことば 1

2008年07月10日 | メンタル・ヘルス





心の目の開け方、向け方、近づけ方を学んだら、きみときみの生きている世界は、輝いて見える。 1) 2) 3) 4)




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自殺大国日本:日本人の精神的荒廃のもう一つの側面

2008年07月07日 | メンタル・ヘルス

 19世紀イギリスの首相ディズレーリの有名な言葉に、「世の中には3つの嘘がある。一つは嘘、次に大嘘。そして統計である。(There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics.)というのがあります。

 もう一つ、「政治家と統計は嘘をつく」というのもあるそうです。

 しかし、なるべく事実に基づいた論を立てるには、公的な統計はまず参照しておいたほうがいいと思いますし、ネットで容易に検索できますので、ここのところいろいろ見るようにしています。

 日本人の精神的荒廃に関わる、もう一つの大きなテーマは「自殺」でしょう。

 厚生労働省の「自殺総合対策会議(第2回)」(平成19年4月)の「参考資料
の中に「我が国の自殺の概要」という項目がありました。

 それによると、平成10年に3万人を超えてから、13、4年に2万9千人台になってはいますが、以後ずっと3万人を超えるという状態が続いています。

 驚きとやはりという気がしたのは、世界の諸国との比較です。

 WHOの資料によれば、自殺率(人口10万人あたり)は23.8で世界第10位(1位からあげると、リトアニア、ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、スロベニア、ハンガリー、エストニア、ウクライナ、ラトビア、そして日本)です(自殺数では、中国、インド、ロシア、米国についで第5位になっています)。

 1位から9位までの国は、政治・経済の混乱が大きな原因になっていると推測-了解ができます。

 しかし、経済大国(だった?)はずの日本で、なぜこんなにも自殺率が高いのでしょう。

 厚生労働省平成14年の報告では、G8諸国の自殺による死亡率(2000年時)では、ロシアについで第2位(以下、フランス、ドイツ、カナダ、アメリカ、イギリス、イタリア)です。

 これは、単なる経済的原因(不況等)だけでは説明できないように思います。

 もう一つ、「社会実情データ図録」というサイトがあって、時々利用しています(信用度についてはよくわかりませんが)。

 そこに「景気、失業者数、自殺者数の変動幅の推移」という記事がありました。

 その記事にこうあります。

 「自殺者数については、70年代までは景気や失業との相関は余り見られなかった。ところが、1980年代前半の不況の際には、失業の増加から更に1年遅れで自殺者が増加した。それ以降、自殺者と景気はおおまかには相関している様子がうがかえる。(もっとも90年代前半のバブル後不況については、失業者の動きとは異なって反応度が高いかたちで追従することはなかった。98年の自殺者急増はこのことの反動のようにも見える。)」

 私が注目したいのは、「自殺者数については、70年代までは景気や失業との相関は余り見られなかった。」というところです。

 つまりそれは、当たり前といえば当たり前なのですが、経済的理由だけでは――つまり景気が悪くても失業しても――生きる理由・希望・意味がわかっていれば、人間は簡単には死なない、ということです。

 もう一度、「我が国の自殺の概要」で確かめてみると、戦後のもっとも厳しい時代、昭和22年から28年まで自殺者は1万人台だったのです。

 現代日本では、生活が苦しくても生き抜く理由がわからなくなっっている、つまりニヒリズムが浸透してきた、精神性の荒廃が進んでいる、という私の解釈は、改めてこうした統計に照らしても妥当なのではないかと考えているところです。

 あと、自殺率が上がっているのは圧倒的に中高年男性(戦後一貫して女性の率はあまり上がっていない)だというところに、男性の一員としてなんともいえない悲しさを感じます(ほんとうに「男はつらいよ」ですね)。


*この他、「いじめ」、「高齢者虐待」、「孤独死」などについても、統計資料を参照しながら考えてみたいと思っています(すぐにはできないかもしれませんが)。



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『宇宙はこうして誕生した』

2008年07月05日 | メンタル・ヘルス


 大阪での講演に向かう途中、新幹線の駅の売店にこの本がありました(佐藤勝彦編著『宇宙はこうして誕生した』株式会社ウェッジ、1470円、2004年1刷、現在8刷)。

 コスモス・セラピーは現代科学の標準仮説を基礎にしていますから、改訂の必要がないかどうか、時々心がけてこうしたものに目を通しておくことにしているので、出た時から気になっていたのですが、読む時間がなさそうなので、そのうちにと思いながらそのままになっていたものです。

 待ち時間があったのでちょっと手に取って数頁読んでみるとおもしろそうなので、つい買ってしまい、レポート採点に使う予定だった行き帰りの車中の時間をつぶして読み終えました。

 「はじめに」に次のようにありました。


 宇宙創生の神話は、キリスト教の創世記に代表されるように、世界各地にそれぞれの民族の香りを漂わせながら数多く存在します。
 今日、私たちは二十世紀の爆発的な物理学の進歩と宇宙の観測技術の進歩によって、これらの問いかけに対して、科学的に答えることができる時代になりました。
 「私たちの住む宇宙は”無”から生まれた。無から生まれたミクロの宇宙は、インフレーションと呼ばれる急激な膨張によって、私たちが住むことのできるようなマクロ宇宙になった。インフレーション中に仕込まれた物質の凹凸が成長し、銀河や星が生まれ、私たち人類の存在をも含む、多様で美しい現在の宇宙が創られた」


 現代日本の科学的宇宙論の権威ともいうべき著者が、「宇宙は無から生まれた」と言い切っていて、「という説もある」という言い方をしていないのが、「ふーん、とうとうそこまで来たのか」という感じでした。

 もし「宇宙は無から生まれた」のだとすると、必然的に「宇宙の一部である私も無から生まれた」ということになり、「無は私も含む万物の母」ということにもなり、したがって私たちは「母なる無」を怖れる必要はないということにもなります。

 ニヒリズムは完全に終わりですね。

 読んでみると、その他いろいろ新しい、おもしろいテーマが出てきているようですが、基本的にコスモス・セラピーのストーリーの流れを変更する必要はないことが確認できました。

 しかしともかくおもしろかったので、お薦めです。



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だれでもできる坐禅入門

2008年02月02日 | メンタル・ヘルス

*残念ながら雪のため延期としました。改めて日程が決まり次第お知らせします。


 予告申し上げていました坐禅入門の講座、決定しました。

 痛い思いや恐い思いをしないで、気軽に坐禅の仕方を覚えていただけるようにサングラハ式のソフトトレーニングでご指導申し上げます。どうぞ、お出かけ下さい。


 日時:2月3日(日)13時~17時

 場所:サングラハ教育・心理研究所 藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢駅北口から徒歩3分)





 参加費:学生1000円、一般2000円……当日でけっこうです

 定員:10名   

 *坐禅のできるような緩やかな服装をご用意下さい(着替えスペースあり)。

 お申し込みは、メールでokano@smgrh.gr.jp か、ファックスで0466-86-1824 サングラハ教育・心理研究所宛で。



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つながりコスモロジーとしての仏教2:空と唯識」目次 5 四智、六波羅蜜、涅槃

2007年12月15日 | メンタル・ヘルス

煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい

 四智

覚りとは何か:4つの智慧
大円鏡智(だいえんきょうち):宇宙的無意識(コズミック・アンコンシャス)平等性智(びょうどうしょうち):一体性に目覚めている無意識
妙観察智(みょうかんざっち):すばらしい洞察の心
成所作智(じょうしょさち):最高に開いた感性

 五位

覚りへの段階:時間をかけてステップを踏んで
究極の覚りまでの5段階1:五位説(ごいせつ)について
究極の覚りまでの5段階2:入口から最終目的地まで
入口に立った菩薩:資糧位(しりょうい)の意味

 六波羅蜜

心を超健康にする6つの方法:六波羅蜜(ろくはらみつ)1
コスモスがコスモスにコスモスをあげる:「布施」の話1
言葉と物と心を伝える:「布施」の話2
できることから始める:無財の七施+1
ボランティアと布施
目標のためのセルフ・コントロール:持戒(じかい)の話1
基本的な5つの戒:持戒の話2
八戒、十戒、二百五十戒:持戒の話3
難易度のもっとも高いトレーニング・メニュー:忍辱(にんにく)の話1
苦しみに能動的に立ち向かう:忍辱の話2
有限な人生を生きる心構え:精進(しょうじん)の話
ばらばらの見方・分別知を超える方法:禅定(ぜんじょう)の話1
足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話2
呼吸を調え数える:禅定の話3
言葉を超えるための言葉:智慧(ちえ)の話

 涅槃

唯識仏教の目指すところ:無住処涅槃(むじゅうしょねはん)の話1
無限の世界に入る:無住処涅槃の話2

心磨きをしてますか?


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初心者のためのやさしい坐禅入門

2007年10月01日 | メンタル・ヘルス

 木曜日藤沢の講座の受講生から、坐禅の仕方をおぼえたいという希望がありましたので、急ですが10月4日(木)は、臨時に坐禅の入門講座としました。

 これまでの講座に参加していない方も、単発受講可能です(2,3名のみ)。

 「やってはみたいが、ちょっとこわい」「足が痛いんじゃないか」「棒でたたかれたりするんじゃないか」とこわがっておられる方のために、サングラハ式はスパルタ式と反対で、とてもソフトにご指導します。

 警策(肩をたたく棒)を使ったり、怒鳴りつけたりということは一切しません。

 また、なるべく足の痛い思いをしないように、ていねいな準備の柔軟体操もご指導します。

 「黙って坐れ」ではなく、「わかって坐ろう」がモットーで、必要な説明は十分に行ないます。

 体をととのえ、呼吸をととのえ、心をととのえる――この一見シンプルな方法は、実はとても深いもので、いったん身に付けると一生の精神的財産になるでしょう。

 といっても、あまり構えないで、まず最初は気楽に心の洗濯-リラクセーションのつもりでお出かけ下さい。

 入門者だけでなく、再入門の方も、坐禅を教えられるようになりたい方もぜひどうぞ。

●日時:10月4日(木)午後6時45分~8時45頃

●会場:藤沢ミーティング・ルーム(JR藤沢駅、小田急藤沢駅から徒歩4分、お申込みの方には地図をお送りします。)

●指導者:サングラハ心理学研究所主幹・岡野守也

●参加費:一般3500円、会員3000円、準学生2000円、学生1000円

●テキスト:『サングラハ実践の手引き』)。お持ちでない方には当日お頒けします。

●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装

●申込みは 
 サングラハ心理学研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp 
 または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。




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講演会 「人はなぜ生きるのか」

2007年09月21日 | メンタル・ヘルス




*外部団体での講演。どなたでも参加できます。ご希望の方は、どうぞ上記へお問い合わせ下さい。




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いのちの自己実現

2007年09月08日 | メンタル・ヘルス

 他のものとのつながりのおかげで自分は自分であれるというのが、「自己」の本質だから、そういう自己を実現するというのは、他のものと自分のつながりを創造していく、より豊かにしていくことなんだよね。……と話は続きました。

 学ぶ気のある学生が相手だと、どんどん話が広がり深まって続いていきます。

 時々、「うっかり聞くと話が長い」と辟易されることもありますが、今回は大丈夫だったようです。

 他者とのつながりを無視した「自己実現」なんて、繰り返すけど、見せかけのいいエゴイズムだ、とぼくは思ってる。

 「私は、結婚したり、まして子どもを生んだりしたら、自分のしたいことができなくなるので、結婚も出産もする気がありませんでした」と感想文に書いてくる女子学生がよくいるけど、それは結局、「自分のしたいことをすることが自己実現だ」と思っていたということだよね。

 それどころかもっとはっきり、「結婚しても出産しても何のメリット(得)もないから、結婚も出産もしないつもりでした」と書いてくることもあるよ。

 (この件についても、授業を受けて考えが変わる学生、女子学生がたくさんいてくれます。)

 しかし、結婚や出産ってメリット・デメリット、つまり損得でしたりしなかったりするものなのかい?

 だとして、きみたちのお父さんやお母さんはきみたちを生んですごいメリットがあったのかねえ。

 そうとうデメリットが大きいから、内心「生んで、育てて、損した」と思ってるんじゃないか?……半分、冗談だけど。

 そうじゃなくって、自分のいのちをつなげようと思って、きみを生んで、苦労して育ててきてくれたんじゃないのかなあ。

 いのちをつなげていくというのは、メリットやデメリットということでは量れないことなんだ、とぼくは思うんだけどねえ。どう思う?

 ふだんきみたちには宇宙的な意味と価値があると言っておきながら、あえて言うけどさ、きみたちごときもののために、20年も面倒見て、大学卒業させてくれたとしたら4年間数百万円……実は小学校から大学そして自立まで育てると、平均的に2千万円以上3千万円とかかかったりするんだって……そんな金をかけてくれる人が他に誰がいるんだ?

 それは、「生んだ以上は親の責任、親の義務」とか、「自分の遺伝子を残すための必要経費」とかいうようなことなのかい?

 そういう面もないことはないけど、それがポイントじゃないんじゃないかな。それは、想いなんだよ、愛情なんだよ。

 想いがあるから育てる、愛情があるから苦労してくれた、そして育てても苦労しても損したとか思わない。

 きみたちがちゃんと育ってくれさえすれば、親はうれしいんだよ。まして自分たちよりも幸せになってくれたら、もっとうれしい。

つまり、いのちがつながっていくこと、より豊かになってつながっていくことは、もっとも深い意味で「いのちがやりたいこと」という意味で「自分がやりたいこと」なんだね。

 あえていえばそれは、個人的な損得を超越したいのちの得なんだよ。いわば「いのちの自己実現」だね。

 そういう親の想いにきみたちが思い至らないとしたら、それは本質的な想像力の欠如だよなあ、思いやりが足りないんじゃないかな。

 あ、言っておくけど、これは責めてるんじゃないよ。

 思い至らない、つまり事実への認識が不足していたり、思いやりが足らない、つまり事実だと思われることへの想像力が欠如していたら、きみたち自身の人生の質(Quality of Life)が低くなって、いい人生が送れない、つまり結局は損をすると思うから、忠告をしてるんだってことは、これまでのつきあいでもうわかってくれるよね。

 「ひとりよがりの勝手な思い込み」をしているのではなくて、「思い至る」「思いやる」――それにしても日本語はよくできているね――それがクォリティ・オヴ・ライフを高めるには必須なんだよね。




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自己実現という名の自分勝手

2007年09月06日 | メンタル・ヘルス

 「ふつう『自己実現』っていうと、自分のやりたいことをやって、社会的に認められる、できたらお金ももうかる、そういう意味で成功するってことだと思ってるよね?」ときくと、答えは「そうです」ということでした。

 その「自分のやりたいこと」という場合の「自分」が問題なんだよね。

 きみたち――僕も戦後生まれなので「ぼくたち」と言ったほうがいいかもしれないけど、みんな学校で戦後のアメリカ的な個人主義・民主主義がまるでぜんぶ正しいかのように教わってきたよね。

 「自分は自分、何よりもまず自分が大事、自分に権利がある。自分の人生は自分のもの、自分のためにある」と。

 それは、国や家という共同体にあまりにも一人一人の人生が犠牲にされるということがあったのに対する批判、改善という意味では、確かに一定の正しさがあると思うよ。

 しかし、それは話の半分、あるいは半分以下だったんじゃないかな、ぼくもだんだんに気づいてきたことなんだけど。

 これまで伝えて学んでくれたように、個人だけで存在している個人というのは実は幻想なんだったよね。

 つまり、自分というのは自分だけで生きてはいけない、つまり自分であることはできない。

 自分は自分でないものとのつながりで自分であることができる。

 つながってこそいのち、他のもの(者と物)とつながってこそ自分なんだよね。

 もちろん、自分と自分でないものはつながっているといっても、ちゃんと区分・区別はある。

 くっきりと区分はあるけれども、分離はしていなくて、切っても切れないつながりがある。

 自分・自己というのは、ほんとうはそういうものだったよね。

 だから、「自己実現」といっても、個人としての自己を実現しようとするのと、他とつながった、他のおかげで存在している自己を実現しようとするのでは、似て非なることになるんだよ。

 それは、他のために犠牲になること・自己犠牲とも違ってる。

もちろん、自分のため(だけ)に自分の好きなことをするとか、自分が他者に勝って押しのけて成功するというのとは根本的に違っている。

 「自己実現」というと聞こえはいいけど、結局自分のためしか考えていないとすると、それは実は自分勝手、見せかけのいいエゴイズムにすぎないんじゃないかな。

 ところで、結局は自分のことしか考えていないエゴイストが好きな人いる? いないよね。

 つまり、カモフラージュされたエゴイズムにすぎない自己実現・自分勝手を追求していると、結局他人から嫌われる。つまり認められないわけだ。

 他人から・社会で認められたいと思って始めた自己実現が、いつの間にか認められないという結果になるんだね。

 なぜそんなことになるかというと、最初の時点で「自分・自己」というものについて思い違いをしているからなんじゃないか、とぼくは思うんだけど、きみはどう思いますか?


 時々、光る海や明るい砂浜やそこで楽しそうに走りまわっている子どもたちに目をやりながら、話を続けていきました。




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ほんとうの自信に根拠はいらない!

2007年09月05日 | メンタル・ヘルス

 話は、「自分のやりたいことと今やっている仕事がずれていて、悩んでいます。どうしたらいいんでしょう?……」という質問から始まった、と記憶しています。

 まず、「自分のやりたいことをやれるようになるかどうか、自信がないんですが……」という点について、

 「やれるかどうかを考える前に、ほんとうにどうしてもやりたいのかどうか、自分の心の深いところを確かめる必要があると思うよ。どうしてもやりたいくらいじゃなきゃ、ほんとうにやりたいとは言わない。ほんとうにやりたいんじゃなかったら、できなくてもいいじゃない」

 「自分の心の深いところを確かめてみて、ほんとうにやりたいのなら、できるかどうかなんて考えないこと。できる、と根拠なしに信じることだよね」

 「何かをやる場合、できないんじゃないかなと思いながらやるのと、きっとできると信じてやるのと、どっちが成功率が高いだろう?」「信じてやる方です」「そう、そういうことだよね。だったら、信じることです!」

 「ところで、信じるには何か根拠がなければならないというルールや法律や宇宙法則があるのかな?」「ありません」「そうだよね、信じるには根拠はいらない。ほんとうの自信とは、なんの根拠もなしに自分の潜在可能性を信じることなんだよ。潜在可能性は、まさに潜在している・隠れているので、信じてやると出てくる・開発される、ことが多いんだよね」

 「だから、話はとてもシンプルで、ほんとうにやりたいんだったら、できると信じて、やる。それだけのことだと思うよ。絶対に成功するという保証はないけど、成功率が高まることは確実だからね」

というふうに答えました。

 これは私が考えたことではなく、古い古い聖書の智慧です(例えば「彼(イスラエル民族の父・アブラハム)は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたは多くの国民の父となるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」新約聖書・ローマ人への手紙4・18)。

 「ただ、もう一つの問題は、『自分のやりたいことをやる』のがほんとうにいいことなのか、ということなんだけどね。現代の日本人、特に若い世代は、自分のやりたいことができることを『自己実現』だと思っていて、人生は自己実現のためにあるというふうに思っている人が多いようだけど、そもそも『ほんとうの自己』とは何かということについて、根本的に誤解がある、と僕は思うんだよね」と、話が「自己実現」の話に移っていったのでした。

 別に連続ドラマのように気をもたせるわけではありませんが、長くなりすぎないほうがいいし、ちょっと片づけなければならないこともあるので、今日はここまでにします。




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落ち込みの3つの原因

2007年09月04日 | メンタル・ヘルス

 「ほんとうの自己実現」の話の前に、感受性豊かで、やさしすぎて、いろいろなことがあるたびに落ち込んでしまいがちで、現代社会では生きづらい人のために、ちょっとだけアドヴァイスをしておきたくなりました。

 詳しくは、そのために訳したホーク『きっと「うつ」は治る』(PHP研究所)を読んでいただくことにして、ごく一部を改訳・引用しておきます。


 落ち込みの三つの原因

 1.自分を責めること
 もしあなたが、いつも自分をやっつけ、憎み、自分は世界中で最悪の人間だと思い、だからいつもひどい目に遭うのは当然だ、などと考えていたら、100パーセントの確率でまちがいなく落ち込むでしょう。自分をかなりきつく叱っているとしたら、その理由が何であれ、実質的にちがいはありません。昇進できなくても、年に一度の「ブタの叫び声コンテスト」で勝てなくても、誰かがあなたに挨拶してくれなくても、自分を責めれば自分で落ち込みを引き込むだけのことです。もし強烈に自分を責めていたら、気持ちがものすごく混乱して、泣きたくなって、黙り込んで不機嫌になって、橋から飛び降りたくなったりするでしょう。
 ちょっと責めるだけなら、嫌な気分になりまちがいなく不機嫌になるというだけのことかもしれません。その程度なら事態は深刻ではないかもしれませんが、でもデートをすっぽかしたり、パーティーや旅行を台なしにしたり、まわりの人にあいつとは一緒にいたくないと思われたりするのです。

 2.自分をあわれむこと
 うつになる第二の道は、自分をあわれむことです。自分が公平に扱われなかったといって悲しみにうちひしがれていると、ただちに落ち込みます。人の同情を買おうとして悲しそうな顔をしていると、やがて落ち込んできます。世界にはあなたの面倒を見る責任があると考え、それなのにこの世界はなんて不公平なんだろうと思えば、落ち込むのです。
 意外に思う人が多いかもしれませんが、「他の人は自分を公平に扱うべきだ」、「自分がやさしくしたらやさしさが返ってくるべきだ」、「世界は生きるに価する場所であるべきだ」などと言い張るのは神経症的なことだと学んだほうがいいのです。もしそういうありえないことを信じていると、自分が当然だと思い込んでいるようにものごとがならないと、必ず落ち込み、傷つけられたと感じ、腹を立てることになります。
 これからあなたに――落ち込みたいくないのなら――学んでいただきたいのは、この世に生きている間、恩を仇で返す人がいるというのは例外というよりむしろよくあることで、ものごとはいつもなるようにしかならないのだと納得するればするほどより心理的に健康な人間になれる、ということです。

 3.人をあわれむこと
 自分が足を折っても他の人が折っても、気持ちが暗くなることがあります。世界には苦しみが限りなくあるので、自分の直接の家族でなくても、何百万のもかわいそうな人たちのひどい状態に思い入れをする機会も果てしなくあるわけです。私は、そうしたひどい状態や心痛むようなことが現実にあり、時には悲劇的でさえあるという事実を否定するわけではありません。しかし、松葉杖の子どもをあわれんだり、家が火事になった人のことをあわれんだり、戦争で息子を亡くした母親をあわれんだりしていると、自分自身を責めたりあわれんだりした時とまるでおなじで、あなたは落ち込みます。どの方法であれ落ち込むのはおなじで、一つの方法は他の方法とおなじくらいひどくあなたを落ち込ませることができます。唯一確実なのは、あなたが最悪の苦痛に陥るということです。……

 教養ある文明人なら誰もが、仲間の人間の苦しみを感じるものです。人々が体験していることに共感や感受性のない人間は、明らかに神経症的で愚かか、さもなければ無神経なのです。仲間である他の人間の逆境に対する思いやりは、教養ある文明人の徴です。しかし思い入れのしすぎは、そうではないのです。これは、あなたが心理的に健康でいたいと思うなら、引いておかなければならない一線です。

 「ただ思いやりをしているのでなく、思いやりをしすぎているというのは、どうやってわかるのだろう?」という疑問が出てくるかもしれません。単純です。それはあなたが傷ついたときです。落ち込み、暗い気分、怒りを感じはじめたら、それは人のために思いやりをしすぎていて、かつ神経症的に行動している証拠です。そう、それは神経症的なのです。あなたの傷ついた気持ちはその人の悲惨の上にもう一つ悲惨を加えるだけなのですから。友達があなたに求めているのは、あなたが苦しんで落ち込むことではないのです。期待しているのは、あなたの元気さのレベルまで彼を引っ張り上げてくれることであって、彼が自分の落ち込みのレベルまであなたを引き下ろすことではありません。


 では、どうすればいいのか? と思った方は、ぜひ前掲書と拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)を読んでみてください。残念ながら、長くなりすぎてブログ引用は無理なので。

 きっと、気持ちがすっきりしてきて、有効な行動をしようという元気が出てくると思います。




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