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いい人生のための黄金の法則

2009年06月25日 | メンタル・ヘルス

 しばらく記事を更新する時間の余裕がありませんでしたが、読者や教え子のみなさんがときどきのぞいてくださっているようなので、少し書かねばと思っていました。

 ちょうど昨日、O大学のチャペル・アワーでの講話のために原稿を書きましたので、転載します。


 求めなさい。そうすれば、与えられる。

 探しなさい。そうすれば、見つかる。

 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

 まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

 これこそ律法と預言者である。
                   (マタイによる福音書7・7―12)


 いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典です。

 そのためにキリスト教徒でない人のなかにはしばしば、「聖書はキリスト教徒にとっては意味があるかもしれないが、キリスト教徒でない自分には意味がない」と思っている人が見受けられます。

 しかしちゃんと読んでいただくと、キリスト教徒であるないに関わらず意味のある、人生の道しるべになる言葉がたくさん含まれている、と私は考えています。

 今日の聖書の箇所にも、誰にでも意味のあることが語られていると思います。

 今日の出席者のみなさんのほとんどはクリスチャンではないと思いますので、クリスチャンでない人、誰にでも当てはまる「人生の法則」について紹介をしたいと思います。

 この人生の法則は、ただ法則であるだけではなく、「いい人生のための法則」であり、「黄金の法則」だと思うので、そういうタイトルをつけました。

 生きているといろいろ欲しいもの・得たいものがあります。

 いろいろある中には、できれば欲しいものから、できるだけ欲しいもの、なにがなんでも欲しいものまで、いろいろな願望の強さのグレードが違うものがあります。

 そして、そういうあらゆるグレードの願望が何もしなくても自動的に満たされるといいのですが、なぜか人生というかこの世というか、そういうふうにできていないようです。

 現代の都市に住んでいる人は、お店のドアなどが自動であるのに慣れているので、ドアは立っただけで開くような錯覚に陥りがちです。

 しかしいうまでもなく、よその家のドアはその前に立っただけでは開かれません。

 ちゃんとチャイムなどを鳴らして、インターフォンで用件を言わなければ開けてはもらえません。

 しかも、こちらの用件が相手にとっても用件つまり用のあることでなければ、門前払いをくわされることだってあります。

 探さなくても「いい人生」という表札がかかった家が向こうから私の目の前にやってきてくれ、その門の前に黙って立っているだけで、門が自動的に開いて、何が欲しいのか言わなくても察してくれて、欲しいものがぜんぶ与えられる、という具合にできているととても都合がいいのですが、とても残念なことに私たちの生きている世界はそういうふうにはできていないのです。

 いい人生を送りたいと思うのなら、まずいい人生を意識的に・能動的に・自分のほうから求めていかなければなりません。

 ただ受動的に待っていたり、さらには引いたり、引きこもっていたりしても、いい人生はやってはこないでしょう。

 求めなければ、得られない。求めて、はじめて得られる、というか得られる可能性がでてくるのです。

 いい人生の出前はありません。いい人生には自動ドアもなければ、入ったとたん「何がお入用ですか」と聞いてくれる親切な店員さんもいないのです。

 しかも、いい人生というのは、どこにあるのか、どういうものなのか、予めわかっているものではないようです。

 探さなければ、見つからない。探して、はじめて見つかるもののようです。

 もしいろいろある願望がぜんぶ満たされるのならば、求めなくても探さなくても自動的にいい人生がやってきてくれるかもしれませんが、ぜんぶは満たされそうもないとしたら、少なくともどの願望が満たされたらいい人生と言えるのか、自分の願望のいわばランキングをする必要があります。

 有限な人生で、これだけは実現したいという願望を自分で見つけ出すまで、自己探求をする必要があるのではないでしょうか。

 そして自分が与えられた有限な人生のなかでこれだけは実現したいといういちばん強い、ほんものの願望を見つけたら、それが得られるところに積極的に行って、その真正面の門のところにいって、門をたたくことです。

 しかも、遠慮がちに小さな音でたたくのではなく、大きな音で、門のなかにいる人にはっきり聞こえるようにたたくことです。はっきり聞こえたら開けてもらえる可能性が出てきます。

 たたかなければ、たたいても音が小さくて相手に聞こえなければ、開けてはもらえないでしょう。

 聖書は、門のなかにいるのは、「あなたがたの天の父」であるといっています。

 「天」というのは古代の神話的な表現で、現代的に言い換えると「宇宙」ということになるでしょう。

 「父」というのも父権主義的なイスラエルの文化の表現で、「いのちを生み出したもの」、私を含め「すべての生命を生み出したなにか大いなるもの」「サムシング・グレイト」と言い換えると、ユダヤ教やキリスト教文化のなかにいない日本人にも理解しやすくなるのではないでしょうか。

 いい人生という家のなかにいるのは、私たちのいのちの根源である何か大きなもの・大きな力であり、そしてその大きなものは、私たちの人生にとってもっとも必要なもの、ほんとうに人生のためになるもの、よいもの、ほんとうに欲しいものは何かを知っていて、求めれば、かならず与えてくれるのだ、と聖書は言っています。

 これは、宇宙は人生というものを受動的に待っていても私たちの願望すべてをかなえてくれるというふうに作ってはいないが、能動的に熱心に求めたらいちばん大切な願望をかなえることのできるチャンスは与えてくれている、というふうに読むと、だれにでも当てはまる、理解できる言葉になるのではないでしょうか。

 おもしろいのは、聖書はここで終わっていないということです。

 ここまで「自分が求めることと得ること」の話をしていたのに、突然のように「人にする」話になっています。

 実はここに常識とはちょっと違った聖書の英知があると思います。

 私たちは、自分が求めるだけで得られると思いがちですが、人間は社会的な動物であり、人といっしょに生きています。

 自分が一方的に求めるだけだと、しばしば他の人が求めることと矛盾・対立します。その人だって、自分の願望を求めているのですから。

 そうではなくて、人が求めているものを与えてあげると、願望が満たされた人は感謝して、返礼をしてくれます。

 いつもかならずではないにしても、よほどひどい社会でないかぎり、かなりの割合で、あげるとお礼がもらえるのです。

 ギブ・アンド・テイクという言葉がありますが、まず与える、そうするともらえる、という意味です。

 こういうたとえ話があります。

 人生は、すばらしいご馳走が用意されているパーティのようなものなのですが、手には長い長いナイフとフォークがしばりつけられていて、せっかくご馳走を切って刺して取っても、長すぎて自分の口には入らないというのです。

 そして、自分が食べられないでいる間に、他の人がご馳走を取ろうとしているのを見て、ご馳走を取られてしまうと思って、ナイフとフォークを振り回して邪魔をしようとして、ケンカになってしまうのです。パーティは台無しです。

 さて、パーティを台無しにしないためには、どうしたらいいのでしょう?

 そうですね、自分のナイフとフォークでご馳走を切って刺して、まず人に食べさせてあげるのです。

 そうしたら、相手も私にご馳走を食べさせてくれるでしょう。

 そうすると、お互いにおいしいご馳走を十分食べることができ、お互いに楽しんで、いいパーティの時間を過ごすことができるでしょう。

 ここから得られる英知の教訓は、まず、いい人生を過ごすには引っ込んだりしり込みしたり、ただ待っていたりしないで、積極的に・能動的に求め、探し、門をたたくことが必要だということです。

 それから、次のこれが「いい人生のための黄金の法則」だと私は思うのですが、人の求めているものを与えてあげることで、そのお礼として私の求めているものが得られるということです。

 この2つのポイントをしっかり実行すれば、法則的にいい人生になる、と聖書は言っている、と私は解釈しています。

 あなたは、どう思いますか、考えてみてください。


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疲労しきる前に休もう

2009年04月01日 | メンタル・ヘルス





 しばらく休養と次の仕事の準備のためにブログを休んでいました。

 次の仕事に関して読んだ、下園壮太『うつからの脱出――プチ認知療法で「自信回復作戦」』(日本評論社、2004年)にいわれてみれば当たり前だけれども、意外に気づいていない大切なことが書かれていました(p.6-7)。

 これだけではなく、この本はとても参考になりました。うつの予防にも治療にもとてもいい本だと思います。


 「軍隊に行軍というものがある。重い荷物を背負って、長距離を歩くのだ。当然、その間には休憩を取るのだが、どのような割合で休息をとればいいのかを米軍が研究した。
 一時間ごとに一〇分の休憩を入れる方法、三時間ごとに三〇分、五時間ごとに五〇分。どれも割合は同じである。
 しかし結局、一時間に一〇分のこまめな休憩を取るほうが、兵士の疲れの蓄積が少なく、結果的に長距離を歩けることがわかった。五時間歩いたあとで五〇分休憩をとっても、ほとんどの兵士が疲労を回復できなかったのである。
 つまり人間は、疲労が少ないときは少しの休憩で回復するが、いったん疲労しきると、少々の休憩では回復しないのである。」


 つまりそれに似て、いったん疲労しきって、少々の休憩では回復しなくなった精神疲労が「うつ」だというのです。

 2008年度の後半は忙しくて、ついそれに気持ちが追われて、疲れていてもずっと仕事を続けてしまい、心身ともにかなり疲れがたまってしまったようです。

 疲れきって「うつ」、というところまではいきませんでしたが、やや危なかったかもしれません。

 新年度は、少し意識してこまめに休憩を取りながら働こうと思っています。

 不況のさ中、つい「それどころではない」という気になりがちですが、休憩しないで疲れきってしまうと戦になりませんから、お互いに必要な休憩をこまめにとりながら、不況脱出までの長期戦をへたばらないように戦いましょう。

 関東地方もそろそろ桜が満開、ちょっと仕事を休んで花見というのもいいですね(画像は、福岡城址・大手門の桜です)。



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人生を投げ出さないためのコスモロジー

2009年02月04日 | メンタル・ヘルス

 1年に2度の大仕事、採点がようやく終わり、ほっとしています。

 特にこの後期(秋学期ともいう)は、受講者数がこれまでで一番多い1000人以上で、助手もつかない非常勤の仕事としてはもう限界です。

 4月からの新学期、これ以上増えないことを祈るばかりですが、増えたらどうしましょう?(ま、こればかりは予防志向というわけにいかないので、その時はその時の治療志向で対処することにします。)

 しかし、こんなに毎年増えるというのは、それだけ求めている若者が多いという証拠だと思うのですが、文部科学省以下各教育機関・関係者のみなさん、なんとかしませんか?


 さて、授業の感想をいくつか紹介します(事前の了承を得ています。改行は筆者)。


  高校生くらいから「生きる意味」「私の価値」などについてよく考えていました。しかし、いくら考えても答えが出る日はなく、「無」を感じたことも、「ただ生きているから」とあいまいな答えを出したこともありました。
 そんな時、先生の授業を受けて正直最初はキレイゴトを並べた授業ではないかと思ったこともありました。
 しかし、宗教を否定したり、今の学習のあり方に疑問をなげかけたり、先生の言っていることに上辺だけの言葉は一つもありませんでした。
 そして、宇宙と私は一体だと感じることができた時、今まで私が考えても考えても導き出せなかった答えに少し触れることができた気がしました。
 私は今でも自分が生きている意味を考えます。それは価値を上げたいからでも無情だからでもなく、宇宙に生かされている私は、宇宙が生んでくれた私には、何か少なからず使命があるのではないかと思えるからです。
 先生が初めにおっしゃった「この授業を受けていくと考えが変わる」という言葉通り、まんまとその通りになってしまい少し悔しいですが、また違った方向を見つけられてとてもよかったと思います。ありがとうございました。
                                        (O大1年女子)

 私はこの授業を受けてみて、最初、私は何やっても意味がない。楽しくない。どうでもいいという精神状態になっていました。しかし、先生の授業を毎回聞いていくうちに、世界には意味があり、今自分が考えていたことがバカバカしく感じました。
 変にツッパってみたりすることも遅れていて、ダサイと気づきましたし、この授業を受けていると、少し目の前が明るくなった気がしました。どうもありがとうございました。
                                        (O大2年、男子)

 この講義を初めてとった時、私もどちらかといえば、「何で人って生きているんだろう」と考えている側の人間でした。先生の「この講義の終わりにはきっと生きるのが楽しくなる」と言っていたのを半信半疑で聞いていた。 
 しかし、講義が終わると先生の言う通り、少しずつ自分の人生観が変わっていくのを感じた。先生の講義やブログを読んでいくうちに、先生は口先だけでなく本気で若者を中心とする私達に「生きる意味」を伝えたいということが心から伝わってきた。
 学生のうちにこの講義を聞けてよかったと思う。ありがとうございました。
                                        (O大1年、女子)

 半年間、先生の授業を受けていて驚きの連続でした。先生が宇宙の話をだした時に、どのように話が進むのだろうと考えていたら、「宇宙と私は一体です」とおっしゃって、とても驚きました。
 しかし、よく先生が教えてくださった現代科学のことを考えてみると、確かにその通りであると思いました。それと同時に不思議な気持ちになりました。
 今までは、宇宙と一体だなんて考えたこともなかったですが、宇宙と一体な自分は幸せだなと感じ、暖かい心が持てたような気がします。宇宙137億年の中の20年前から生きているということは、「自分が今、ここにいることには大いなる意味がある」と思って、毎日一生懸命に生きていこうと思いました。
                                        (O大2年女子)

 宇宙ができた時から、今の私までずっとつながっているという考え方は、すごくおもしろいと思った。130億年以上前にできた原子が今の私を作っていると思うと、私も宇宙の一部なのだなあ、と感動した。そして、私の生きる意味も、見つけられたように思う。
 今までの宇宙が選択した結果が私で、要するに、過去が今をつくってきたということだ。過去の宇宙が私の土台を作り、宇宙をもっと高いところに進化させる土台をつくったのだ。
 私の生きる意味は今までの宇宙がつくってくれた土台の上に、未来の宇宙の土台をつくることだと思った。過去が現在の土台であるとともに、現在は、未来の土台なのだ。私の土台をつくってくれた「何か」をうらぎらないためにも、しっかりと生きていきたいと思う。
                                        (O大1年男子)

 どんなに苦しいことがあっても、自分の人生を投げ出さないために、この新たなコスモロジーを指針として生きていくことが望ましい。
                                        (O大1年、女子)



 こんな感想文をもらってしまうと、また来年度も頑張るしかないな、と思います。

まだまだいい文章がたくさんありますので、徐々に紹介させていただきたいと思っています。

 年上の読者のみなさん、ぜひ、「〔自分と分離した他人である〕若者が何か言ってるけど、私には関係‐関心ない」というふうにでなく、「〔広く深いレベルでは自分とつながって一体である宇宙の現われとしてのいのちの〕次の世代が、元気になってきているようだ。よかった」というふうに関心と共感をもって読んでいただけると幸いです。



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コスモロジーはきれいごと?

2009年02月01日 | メンタル・ヘルス





 年度末、3校5クラスの答案・レポート合計1000通以上を読むことに忙殺されています。

 しかし、伝えたことをしっかりと受け止めてくれた文章を読むと、「かなりの労力だったけど、でもやはり教えてよかったなあ」という感慨を感じます。


 ところで、コスモロジーの話をしていると、初めの頃、よく「きれいごとに思える」という感想が出てきます。

 そういう時、ちゃんとコミュニケーションができるような心の絆ができている、あるいはできかかっている場合には、次のような対話をします。

 「『きれいごと』というのは、あまりきれいじゃない現実に合っていない、という感じかな?」

 「なるほど……。でも、これまで話してきた宇宙の137億年の歴史のおおまかなシナリオはおとぎ話・つくりごとだろうか? それとも科学的に推測されたほぼ『事実』だろうか?」

 「ほぼ事実だと思っていいとして、なかなか『きれいな=美しい』話だとは思わないかい?」

 「『きれいごと』と感じることは、よく考えると『美しい事実』に関する話だけど、スケールが大きすぎて、自分の生きている日常的な現実にはしっくりこない、というふうなことかな?」

 「自分の生きている日常的な社会の現実は、あまりきれいではない、美しくない、醜い、歪んでいる……というわけだよね」

 「で、ここからが考えどころなんだけど、大きくて、まっすぐで、美しい事実を見ているのと、狭い範囲の、歪んだ、醜い現実を見ているのと、どちらが気持ちがよくなりそうかな?」

 「気持ちがいいのと悪いのと、どちらが元気が出そうかな? あ、おなじようなことをいってるかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが好きかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが現実に耐えたり、現実を少しはましなものにする気になりやすいかな?」

 「もし元気があるのが好きで、そのほうが現実に取り組みやすい、と思うんだったら、まず大きくて、まっすぐで、美しい事実をしっかりと見つめるのが役に立ちそうだと思わないかい?」

 「おおきなきれいごとをしっかりと見つめて元気になってから、ちいさな醜い現実に立ち向かう、というのが人生を戦う戦略としてより有効だ、と思うんだけど、どうだろうね?」

 よかったら、時々、しばしば、ちいさなつらい現実ばかり見ているのを休んで、とてもおおきな、すばらしい、きれいごと=綺麗事=美しい事実を見る、見直すことをお勧めします。



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奇跡的大成功の連続の成果としての私

2009年01月19日 | メンタル・ヘルス

 久しぶりに、コスモス・セラピーの記事を書きます。


 宇宙137億年の歴史の中で私が誕生できる確率は、1億円の宝くじに100万回連続で当たったのとおなじくらいすごいことなのだそうです(遺伝学者木村資生氏のことば、村上和男『生命の暗号』サンマーク文庫による)。

 よく考えてみると、137億年間宇宙で起こったことが、ほんの一つでもほんの一瞬でも違ったふうに起こっていたら、今日ここに私はいないわけです。

 しかし、事実何年か前に誕生して、いまここで生きているわけですから、そう考えてみると、私が生きているのは奇跡的な幸運ということになります。

 それを「成功」と「失敗」という言葉で表現しなおしてみると、いっそう感じるものがあります。

 つまり私が生まれ生きているという件に関して、宇宙は137億年間1回の失敗もしなかった、すべて成功、成功、成功……の積み重ねで私が誕生した、ということになります。

 すべてがずっとうまくいったから、私は生きているのです。

 私という存在は、うまくいったことばかりの結果、大成功の連続の結晶です。

 なのに、ずっと成功が続き過ぎてそれが当たり前になっているためかもしれませんが、私たちは今日ちょっとうまくいかなかったから、今年ちょっと失敗したからといって、すぐに落ち込んでしまいがちです。

 しかし、137億年間成功し続けてきたのが私のいのちなのですから、1回や2回の失敗などなんだというのでしょう。

 そんなことは、もう毛の先よりもちっぽけなこと、限りなくゼロに近いことなのではないでしょうか?

 1回の出来事(失敗)/137億年間に起こってきたこと(成功)≒0

 そして、成功し続けてきた私のいのちには、これから何度でもうまくやれる、成功する潜在的力は山ほど秘められている、と信じてまちがいないのではないでしょうか?

 ……というふうに、うまくいったこととうまくいかないこと、成功と失敗を、宇宙137億年のスケールで見ることができれば、けっこう気が楽になる、元気になることができるのではないかと思いますが、いかがでしょう?

 ものごとの明るい面を見るのと、暗い面を見るのと、どちらがお好きですか?

 かつてご紹介した十円玉のワークのように、いいことを目に近づけて視界いっぱいにし、悪いことを遠ざけて小さく見えるようにしてしまう、というのは心のテクニックとしてとても有効です。

 ぜひ、自分が生きているということを宇宙137億年というスケールの中において眺めてみて、「私は信じられないほどの、奇跡的な確率で、大成功が重なった結果として、いまここに生きているんだ。すごい!」と思ってみて下さい。

 これはけっして現実性のない綺麗事の話ではなく、大きなスケールの現実・事実だと思うのですが、どう思われますか?

 ……といった感じで、1つの大学の心理学の授業で学生たちに生きる勇気づけのメッセージを贈りました。ブログ受講生のみなさんにも、お贈りしたいと思います。




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講話:けっしてくじけない心

2008年11月13日 | メンタル・ヘルス

 先日、大学の授業が終わって教室から出たら、廊下で前に授業を取っていた学生に会い、「二日に一度くらいはブログを見ています」と言ってもらいました。

 「今年の後期はとても忙しくてなかなか更新できなくて、失礼」と言い訳しながら、できれば忙しさに負けずがんばって更新したほうがいいな、と若干の反省をしました。

 そこで、少し前に書いた記事と重なるのですが、それをネタに先日O大学のチャペル・アワーで話した時の原稿を掲載することにしました。

 参考になればうれしいのですが。

            *       *

 今、日本も世界もなかなか厳しい時代になってきています。そこで、ぜひ必要なのは「けっしてくじけない心」だと思います。

 私は、集中講義も合わせると4つの大学で教えています。つまり、みなさんと同世代の若者とたくさんつきあっているのですが、個人的に話していてよく聞くのは、「落ち込む」「へこむ」「折れる」といった言葉です。

 あまり一般化しすぎないほうがいいのですが、傾向としていえば世代が若くなるほど、心理学用語でいうと「ストレス耐性」が低いように感じられます。

 しかし、これから残念ながら状況はますます厳しくなっていくかもしれませんから、ぜひストレスに耐えることのできる心の力を今からつけておいてほしいと思い、今日は、そのヒントになりそうな聖書の言葉を選びました。


 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

 途方にくれても行き詰まらない。

 迫害に会っても見捨てられない。

 倒されても滅びない。

 いつもイエスの死をこの身に負うている。

 それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 これは、キリスト教の大使徒パウロがコリントの信徒たちに送った手紙の中にある言葉ですが、読んでみると、彼がどんなことがあってもくじけない強い心をもっていたことがわかるのではないでしょうか。

 では、彼が実際にどのくらい厳しい・きつい体験をしてきているのか、同じ「コリント人への第二の手紙」の23節以下でより具体的に語っています。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……

 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 これを読むと並たいていの苦労ではないことがわかりますね。

 しかしパウロは、それでもけっしてくじけなかったのです。「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。 倒されても滅びない」というのは、単なる強がりではありません。これは、ほんとうにすごいことですね。

 なぜ彼はこんなに強い心をもつことができたのでしょう。それをくわしく知るためには新約聖書の中のパウロが書いたとされる手紙をすべてしっかりと学ぶ必要があるということになりますが、今日は短い時間ですから、大切なポイントだけ学んでおきましょう。

 それは、この言葉の次にある「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」という言葉が示していると思われます。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志・使命のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 現代日本人の多くが、「人生は自分のため、自分が楽しむため、自分が幸福になるためにある」と強く思い込んでいるようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 もしそうだとしたら、自分が楽しくなくなったり、幸福でなくなったりしたら、もう人生には意味がないということになります。そうなると、生きていてもしかたない、死にたいということになるでしょう。実際、少しつまらなかったり、きつい、つらいことがあったりすると、すぐ死にたくなる人、自殺願望を持つ人、実際に自殺をしてしまう人が多いようです。

 「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」という人生観は、一般的にいうととても当然のように思えますが、実はとてもストレス耐性の低い人生観なのです。

 もちろん、今楽しむことができ、幸福なのに、わざわざ苦しんだり、不幸になったりしなければならないなどとは、私も思っていません。できるのなら、悪いことをするのでなければ楽しむことはいいことですし、幸福を素直に喜べばいいと思います。

 しかし残念ながら、世界は私のためにあるわけでも私を中心に回っているわけでもありませんから、人生にはなぜか、どうしても苦しいことがやってきたり、不幸になったりすることがあるのです。

 そういう時にもくじけないためには、予めどんな人生観を持っておくといいでしょうか。「楽しくなくても幸福でなくても、それでも人生には生きる理由がある」という人生観を持っていると、当然ながら、苦しくても不幸でもしっかりと生き抜くことができます。そういう人生観はとてもストレス耐性が高いのです。

 「命」という漢字を考えてみましょう。これは「命令」の「命」です。それが示しているように、「命」には、原点・出発点からして、自分が生まれたくて生まれたのではなく、生まれさせられた、いわば「生きるように命令された」という面があるのではないでしょうか。

 また、それに関連して「使命」という言葉があります。「使わされた命令」とも読めますが、もうひとつ「命を使う」と読むこともできます。つまり、この言葉には、生きるということは「命を使うこと」であり、命を使うことは「使命を果すこと」でもある、という深い意味が秘められているのではないかと思います。

 それから、「使命」に似た「天命」という言葉もあります。命はまさに天から生きるようにと命じられて与えられたものです。そしてその命をどう使うか、天から命令が与えられている、というのが命の本質なのではないか、と私は思うのです。

 つまり、誰でも生まれてきた以上、天というか、大自然というか、宇宙というか、神というか、サムシング・グレイトというか、言葉はともかく、自分を超えた大きな何かから与えられた、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・私にできる仕事があるはずだ、と思います。

 そして大学とは、条件がいいとか。自分が好きとか、自分に向いているとかではなく、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・ほんとうの意味で私にできる仕事が何かを発見するための準備期間なのではないでしょうか。

 そしてもちろん、イエスは自分の使命のために生きて死んだ代表的な存在の一人です。私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 新約聖書の最初のほうにある4つの福音書を読むと、それは、原理主義的なキリスト教のようにイエスを唯一絶対のキリストと信じても信じなくても、まちがいなく言えることだと思います。

 使命を自分が心から受け止めると、それは「志」ということになります。私たちが、自分がこの世に生まれてきた理由・使命を発見・自覚して、それを自分の志にしたら、人生でどんなことがあっても簡単にくじけたりすることはなくなります。人生は楽しみや幸福のためにあるのではなく、重大で困難な使命・志を果すためにあるのですから、困難・苦しみがあって当然ということになります。

 志に生きて、そして死んだ人を自分のモデル・理想にして、特にその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 自分の人生・生きることだけではなく、生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、大いなるなにものかの意思は貫徹されるから、あるいは宇宙は進化し続けるからと言ってもいいでしょう。

 大いなる何かによって命を預けられた、そしてその命を使って使命を果すことにこそ命の意味・人生の意味がある、という人生観を獲得すると、どんなことがあってもけっしてくじけない強い心を持つことができる、きわめてストレス耐性の高いパーソナリティを形成することができると思います。

 これから厳しくなるかもしれない時代にあって、そういう人生観を持ったほうがいいか、それともやっぱり「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」と思っているほうがいいか、どちらが、ほんとうに自分の人生のためになるか、せっかくキリスト教主義大学に来たのですから、いちどちゃんと考えてみる価値はあるのではないでしょうか。


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今日のことば 22: パウロの体験した苦難の数々

2008年09月10日 | メンタル・ヘルス

 原稿に追われ、その他いろいろな予期していなかった出来事が起こってきていて、なかなかブログの更新ができませんので、前回に関連した聖書の記事をご紹介しておくことにしました。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……
 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。

 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 使徒パウロは、あえて自分がどのくらいの苦労をしてきたのか、コリントの信者たちに神に誓って事実こうなのだと伝えています。

 このくらいの苦労をしてきた上で、前回のような言葉を語っていることを知ると、いっそうその重さがわかっていただけるのではないでしょうか。

 並みたいていの苦労ではありません。患難とか苦難という言葉で表現するほかないでしょう。

 しかしここでパウロは、自分はそれに耐えてきたと、単なる強がりをいっているのではありません。

 むしろ、自分は弱い、けれどもその自分の弱さの中にこそ神の強さが現われるのだ、といっているのです。

 手紙の最後のほうで、パウロはこうもいっています。


 私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。


 自力の強さの限界・弱さを知って、大いなるものの力に従い頼った時、人はほんとうに強くなれるというのです。



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今日のことば 21: 途方にくれても行き詰らない

2008年09月02日 | メンタル・ヘルス


  わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

  途方にくれても行き詰まらない。

  迫害に会っても見捨てられない。

  倒されても滅びない。

  いつもイエスの死をこの身に負うている。

  それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 キリスト教の大使徒パウロの言葉です。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 もちろん、イエスはその代表的な存在の一人ではあります。

 私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 志に生きて、そして死んだその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 私の生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。

 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、コスモスは進化する、大いなるなにものかの意思は貫徹されるからです。

 人生の苦境にあるみなさん、そのことを思い出して、元気を出しましょう。




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今日のことば 20: 子どもたちが病気にならないように予防すること

2008年08月25日 | メンタル・ヘルス

 数日前から、ようやく本格的に『仏教とアドラー心理学』(仮題、佼成出版社より今秋刊行予定)の仕事(ワーク)にかかっています。

 構想はすっかり出来ていますし、ベースとして『サングラハ』に掲載した講義録もあり、夏休みの初め頃から、ぼつぼつ、断続的にやってはいるのですが、身の周りで優先しなければならないことがいろいろ起こり、なかなか集中できなかったのです。

 ホフマン『アドラーの生涯』(岸見一郎訳、金子書房、2005年、7400円)という分厚い伝記を参照して講義原稿の伝記的な部分に手を入れる作業をしながら、以下のアドラーの言葉を読んで、アドラーのアイデアがいかに先駆的であったか、改めて感心しています。


 「病気の子どもたちを治療することではなく、健康な子どもたちが病気にならないように予防することが、医学の論理的で高貴な挑戦である。」(アドラー「教育者としての医師」、1904年)


 これは、1904年、100年以上前の論文です。

 子どもたちの心の病・荒廃に対して、日本は100年以上遅れているのではないか、と思ってしまいました。

 相も変わらぬ、断片的な知識の詰め込み、受験競争、「意図しない、しかし必然的な結果」としての劣等感、自信喪失、落ち込み、社会への怒りと敵意等々を抱いた若者の大量生産……掛け声だけは「教育改革」……、あーあ。

 これは、翌1905年のアインシュタイン・一般相対性理論の持つ意味――エネルギー・レベルで見ると宇宙のすべては一体であるということ――が、日本の子どもたちに標準的な「普通教育」として伝えられていないことと対応しているように感じます。

 もっとも2500年前のゴータマ・ブッダの「縁起の理法」の教えが人類の標準的常識になっていないのですから、100年くらいの遅れなど、驚いたり、嘆いたりするには当らないのかもしれません。

 今度の本では、縁起の理法とアドラーの「共同体感覚」そして「勇気づけ」を統合的に理解し、現代人のための方便として使うといいのではないか、という提案をしたいと思っています。

 提案が日本の仏教界、心理学界、教育界などに本格的に受け容れられるには、まだまだ時間がかかりそうですが――前著『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』への反応を見ていてもそう思われます――宇宙にはたっぷり時間があるので、焦らないことにしています。




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花とエレガント化するコスモス

2008年08月18日 | メンタル・ヘルス

 講座の参加者のみなさんと大船フラワーセンターに行きました。

 やや花の少ない時季でしたが、それでも実に多様な花があって、改めて生命の多様性・豊かさを感じました。










 花を見ながら、参加者の一人が「エレガント化するコスモスですね」と言いました。

 様々な花を見ながら、花がなかった地球から花が咲き始めた地球への進化は、まさに「エレガント化するコスモス」だと思ったことです。



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今日のことば 14: からだまで元気にしてくれることば

2008年08月04日 | メンタル・ヘルス

 ここちよい言葉は蜂蜜のように、

 魂に甘く、からだを健やかにする。

                        (旧約聖書『箴言(しんげん)』第26章24節、聖書協会訳)


 菩薩の行なう修行の6項目・六波羅蜜に布施というのがあり、そのもっとも初歩的でどんなに財産がなくてもその気になればだれでもできそうな――実際にはなかなかできないのですが――「無財の七施」というのがあります。

 その第二に「言辞施(ごんじせ)」つまりやさしい言葉をかけるというのがあり、なるべく実行したいと心がけています。

 ついきつすぎる親父の説教をしたり、それどころか思わずマナ識から意地悪な言葉が出てきたりしがちなので。

 確かに、やさしい言葉は、まるで蜂蜜のように甘くここちよく、心の奥底にまで沁み、魂はもちろんですが、からだまで元気にしてくれます。

 身心に生きるエネルギーをもらえます。

 自分がそう感じているのなら、人にもそうしてあげられるといい、と思うのですが、まだまだ、なかなかです。

 (しかし、「まだまだは、ダメだということではなく、これから成長できるということだ」と若者を励ましているように、自分をも励ますことにします)。

 心はもちろん、からだまで元気にしてあげられるような言葉を語れる人間になりたい!




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今日のことば 13: 夏に涼風有り

2008年08月03日 | メンタル・ヘルス

 午後、暑い日盛りに出かけて採点表を宅急便で送りました。

 夏休みになってもちっと休めない期末の大課題が、やっと終わったー!という感じです。

 といっても、この夏は『仏教とアドラー心理学』というタイトルで一冊書下ろしをしなければならないので、暇にはならないのですが、それでも一区切りがつくとほっとします。

 明日は、雑誌のインタビューを受け、それから秋から3コマも増えてしまう授業のシラバスを書き、何よりもサングラハ第100号記念の原稿をまとめなければなりません(←あ、これは「条件付must」です、念のため)。

 暑さにまいっている暇がなさそうです。

 
 そこで、今日はゆったりとした心を取り戻すヒントになることばを、自分のために引用することにしました。

 あまりにも有名な禅の古典『無門関』の第17則は、唐代の禅僧南泉(なんぜん)和尚の「平常心是道(びょうじょうしん これ どう)」という言葉の出てくる箇所ですが、そのエピソードに編者無門慧開(むもんえかい)の付けた頌(じゅ、詩句)です。


 春に花有り秋に月有り 夏に涼風有り冬に雪有り

 若し閑事(かんじ)の心頭(しんとう)に挂(か)かる無くんば 便ち是れ人間(じんかん)の好時節(こうじせつ)


 前半は解説の必要はないでしょう。

 このことばは、気づけば、四季折々に爽やかなもの、美しいものあることを思い出させてくれます。

 それに眼を向けて、閑事つまりつまらないことを、心頭つまり意識の表面にひっかけさえしなければ、その時、その時が人間として生きることのできるすばらしい時だ、というのです。

 そういう毎日毎日を生きることのすばらしさに気づいている心のことを「平常心」といいます。

 一般に理解されている、「平常心(へいじょうしん)」、何かある時に平静さを保てる心というのとは、ちょっとニュアンスがちがいます。

 そういう平常心(びょうじょうしん)で生きることが、道そのもの、真理そのものだ、と『無門関』は語っています。

 エックハルトの言葉と響き合っている、と思われませんか。



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今日のことば 10: 悩まないで、考えよう

2008年07月26日 | メンタル・ヘルス

 一昨日の講座の後に話したことが、参考になったようなので、皆さんにもシェァさせていただきます。

 私たちは、むずかしい問題にぶつかると悩みがちです。

 しかし悩むというのは、しばしば問題を感情的に捉え、ああでもないこうでもない、どうしようと、どうどう巡りしているだけのことがあります。

 そういうふうになっている人、特に教え子には、「悩むな、考えろ」と忠告することにしています。

 「気持ちはよくわかる、本人ほどではないけどね。…でも、悩むと問題は解決するようにできてるのかな? ならば、どんなに悩んでもいいんだけど。

 悩むといい気持ちなのかな?

……だとしたら、悩むことは、役に立たない。いいことは何もない。だったら、悩まないで、考えよう。」

 「考えるには、深呼吸でもして、リラックスして、冷静さを取り戻して、この問題はどういうものか、なぜ起こったのか、どうすれば解決できるか…と順を追って、見ていけばいいんだよね。」

 「でも…」という人もいるでしょうが、出先の電車のなかなので、続きはまた後で。

 参考になりそうな人、参考にして下さい(「メンタル・ヘルスに万能薬なし」ですから)。



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今日のことば 9: 幸福な日と不幸な日

2008年07月25日 | メンタル・ヘルス

 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。

 神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。

                   (旧約聖書『伝道の書』第七章一四節、日本聖書協会訳)



 人間の一生には、ほとんど例外なくいろいろ浮き沈みがあり、幸福な日もあれば、不幸な日もある。

 実際に浮き沈みがあるのだから、気持ちのほうも浮き沈みするのはしかたがないといえばしかたがない。

 しかし、しばしば実際よりも気持ちのほうが大げさに浮き沈みすることがあるようで、それは、どうもあまりいいとはいえないように思う。

 いい悪い以前に、あまりいい気持ちではない。
 
 もちろん、ものに感じないのはつまらない。

 だが、ふりまわされて動揺しすぎるのは、やはり苦痛である。

 それで、何かあるたびに、先に引用した言葉を思い出すことにしている。

 幸せな時にはすなおに幸せを楽しみ、苦しい時、悲しい時には、それを通して人生の深い意味を問う。

 そういう対処ができれば、いい日も悪い日もそれなりによく生きられる、と思うのだ。

 残念ながら、特別に例外的な人以外は、幸福だけでは生きられないらしい。

どうも世界は、自分の思いどおり・つごうどおりになるようにできていないらしいのだ。

 世界がそうなっていないとすると、あとはそれに対するこちらの対処のし方しかない。

 「神」という言葉がぴんと来なければ、「天」とか「自然」とか「宇宙」という言葉に置き換えてもことは同じだ。

 ともかく人生の順境・逆境のめぐりは、自分を超えていてコントロールできない。

 いくらかでもコントロールできるのは、それに対する自分の心だけだ。 

 それにしても、心のあり方しだいで、同じ事態がそうとう違って見えることも確かだ。



*これもかつて書いた小文ですが、参考にしていただけるかなと思って掲載しました。



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パウロ式ストレス・コントロール

2008年07月23日 | メンタル・ヘルス

 以下は、私が厄年の頃に書いた小文です。過去の原稿データ保存用のCDを開いていて、ふと思い出し、このままでも、みなさんの参考になるのではないかと思い、掲載することにしました。



 若い頃にはあまりピンとこなかった言葉が、ある年齢になって、いろいろな体験をすると、とても心に響くようになることがある。

 「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」(新約聖書『ローマ人への手紙』5・3-5、日本聖書協会訳による)

といった言葉がわかるようになろうとは思ってもみなかったが、この頃、繰り返し暗唱する。つまり、早い話が、いつのまにか、ストレスの多い年代にさしかかってきたということなのだ。

 「患難」という言葉はやや大げさにしても、生きているといろいろストレスの溜るようなことがある。ぐだぐだとグチを言いたくなったり、叫びたくなったり、泣きたくなったり、さらには、「蒸発」したくなったり、「出社拒否」や「帰宅拒否」にさえなりそうになる。若い頃は鼻の先でせせら笑っていた「厄年」が実感される年齢になった。

 そんな時に、この聖書の一句を思い出すのである。

 なぜパウロという人は、「患難をも喜んでいる」と言えたのだったか。そうとうな痩せ我慢をしているのか。もちろん、そうではないと、神学生時代にそれなりの神学的説明は学んだはずである。
 しかし今、自分が「患難」を「ストレス」と読み換えるような状況に置かれて、なんとかまいらないでがんばろうとしていると、そういう説明と少し違った、自分の体験を重ねた読み方をしたくなる。

 考えてみると、この患難→忍耐→練達→希望というつながり方は、じつによくできていると思う。

 患難は、ふつう患難→失望・絶望というふうにつながるものだ。それはふつうの人間の心のほとんど「自然」とか「必然」とかいってもいいほどのつながり方である。(現時点でのコメント:これは論理療法的にいえば全然自然でも必然でもなく非論理的なのですが)

 ところが、パウロは、患難→希望とつなげる。これは、「逆転の発想」といってもいい。あるいは、「積極的思考(ポジティヴ・シンキング)」ということもできる。常識とはいささか違った考え方である。

 しかし、よく見ると、決して安うけあいの気安めを言っているのではない。患難と希望のつながりの間に、きちんと忍耐と練達が入っているのだ。

 ストレスは、それに対する姿勢しだいで、人間的成長のきっかけに転換しうる。

 ただ、「忍耐」という言葉にはやはりやや無理のある痩せ我慢ふうのニュアンスが感じられるが、「逃げないで、リラックスしてポジティヴに対処する」とでも読み換えれば、もっと納得がいく。

 ストレスを、ただただ嫌なピンチと捉えず、逃げないでリラックスしながらポジティヴに直面し、人間成長のチャンスに変えてしまおう、「厄年は成熟の年齢への第一歩」と考えることにしよう、と自分を励ますヒント 1) 2) を「知っている」のは、やはり有難いことだ。

 「希望は失望に終ることはない」とパウロ先生も保証しているから、がんばってみよう。(現時点でのコメント:今振り返ると確かにこの頃の苦労が私を精神的に成熟させてくれたなあ、と感じています。)



 *こういうストレス・コントロールの方法をさらに体系化したものとして「論理療法」というのがあることを、後で知りました。英知というものは、時代にかかわらずほぼおなじことになるのは、当然といえば当然ですね。

 ところで、私の『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』(NHK生活人新書)がおかげさまで発売1ヶ月で重版になりました。有難うございました。
 まだ読んでいない方、よかったら読んでみて下さい。きっとストレス・コントロールのヒントになると思います。

 ストレスがなければ、論理療法を学ぶこともなく、したがってこの本を書くこともなく、ストレスを抱えている人のお役に立てることもなく、さらに印税をもらえることもなく……終わりよければ、すべてよし……まだ私の人生は終わっていませんが。



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