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人間は宇宙の一部である――アインシュタインの言葉

2010年06月01日 | 生きる意味

 H大とM大では、先週で近代科学とニヒリズムの話が終わり、今週から現代科学のコスモロジーの話です。

 今日、H大で、イントロダクションの話をしました。

 そこで、アインシュタインの相対性理論の、シンプルで美しい数式が、コスモロジーとしてどんな意味を持っているかという話をしました。

 E=mc2(上付き数字がありませんので代用、2乗です)

 これはEつまりエネルギーとmつまり質量×cつまり光速の2乗が等しいということを意味しており、それはさらに物質と運動の速度はエネルギーと互換的であるということを意味しています。

 それはさらにいうと、世界にあるものをつきつめると「すべてはモノ」という結論になったのが近代科学であったの対して、アインシュタイン以後の現代科学ではもっと極限までつきつめると「すべてはエネルギー」しかも「すべては同じ1つの宇宙エネルギー」という結論になるということです。

 エネルギー・レベルで見れば、宇宙のすべては一体なのです。

 ですから、もちろん宇宙と私も一体です。

 あなたと私も一体です。

 近代人の心に染み付いた考え方からすると驚くべきことですが、現代科学のコスモロジーではそうなるのです。

 アインシュタイン自身、次のように言っています。すでに一度引用しましたが、とても重要な言葉なので、ここで改めて紹介したいと思います。


 人間は、私たちが「宇宙」と呼ぶ完全体の一部、すなわち時間と空間を限定された一部である。

 人間は自分自身を、そして自分の思考や感情を、他と切り離されたものとして体験する。

 それは意識のうえで、いわば視覚的錯覚が起こっているからである。

 私たちはこの錯覚という監獄に閉じ込められているせいで、個人的な判断しかできなくなり、周りの少数の人間しか愛せなくなっている。

 この監獄を抜け出し、思いやりの輪を広げ、あらゆる生物と美しいままの自然を包み込んでいくこと、それが私たちに課せられた仕事である。

                              ――アルバート・アインシュタイン



*アインシュタイン・相対性理論の入門書はずいぶんたくさんあるようで、筆者はそのごく一部しか読んでいませんが、以下の2冊は数式の苦手な私にもポイントがつかめるような気がしたいい本です。
 特に上の本は、アインシュタイン自身がはしがきを書いていますから、本人の保証付の入門書だと考えていいでしょう。


相対論はいかにしてつくられたか―アインシュタインの世界 (1968年) (ブルーバックス)
リンカーン・バーネット
講談社

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相対性理論の世界 (ブルーバックス)
ジェ-ムス.アンドリュー・コ-ルマン
講談社

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コスモス・セラピー用音楽1:コスモス

2010年05月17日 | 生きる意味
今日、苦労して、ブログにYoutube の動画を貼る方法をやっと覚えました。

わかってみると、どうってことはないんですけどね……

早速、コスモス・セラピーにまさにぴったりの曲、ミマスの「君も星だよ」という言葉のある「コスモス」を貼ってみることにしました。


こちらは合唱




こちらはオリジナル




今年は、授業時にネットに接続して、これを聴かせたいな、と思っています。

うまく行くかな? なにしろ、こういうツールをやっとなんとか遅れ遅れで覚えているという状態なので……まあ、挑戦してみよう。

「できると信じたら、できる!」というのが、自分のモットーの1つですからね。

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参考図書1:K・ウィルバー『万物の歴史』

2010年04月25日 | 生きる意味

 人間はコスモロジー――現代思想の用語でいえば「大きな物語」――なしには安心して生き死にすることが困難な生き物です。

 しかし、現代ではあまりにも多様な学問の分野があり、様々な思想があって、統一的なコスモロジーを描くこともまた非常に困難になっています。

 そうしたなかで、自然科学、人文科学、社会科学の驚くほど広範な知識を総合して、現代人が共有できる大きな物語を描きだすことを試みたのが、ケン・ウィルバーの『進化の構造』(松永太郎訳、春秋社、全2巻、品切れ中)です。

 筆者は、盲信的なウィルバー主義者ではありませんし、若干の批判はありますが、『意識のスペクトル』(吉福伸逸物他訳、春秋社、全2巻)以来ずっと、ウィルバーの仕事から大きな恩恵を受けてきましたし、『進化の構造』で語られていることの基本線については合意しています。

 したがって、授業で学生のみなさんに伝えることの思想的バックグラウンドのかなりの部分でもあります。

 もう1つのテキストである拙著『コスモス・セラピー――生きる自信の心理学』(サングラハ教育・心理研究所)には、『進化の構造』の入門編という面もあるくらいです。

 授業が進むにつれて、あるいはすでにブログ授業で学んでいて、この方向性でさらに深く探究したいと思ったみなさんには、ぜひ読んでほしいのですが、あまりにも分厚いことと、はなはだ残念なことに現在品切れ中であることの2つの理由で、ダイジェスト版であり、より読みやすい会話体で書かれた『万物の歴史』(大野純一訳、春秋社)から取りかかることをお薦めします。

 きっと目の前が開けるような、進化の歴史に対する展望が見えてくるでしょう。


万物の歴史
ケン ウィルバー
春秋社

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環境問題と心の成長16

2009年08月15日 | 生きる意味

 自然な欲求の階層構造

 アメリカの心理学の第3の勢力といわれる人間性心理学の創始者エイブラハム・マズローは、1960年代に「欲求の階層構造仮説」という仮説を提出しました。

 これは、人間およびその行動の動因である「欲求」「欲望」について、またそれと関わって環境問題について考える上で、きわめて画期的な仮説だと思われるのですが、残念なことに日本ではまだ一般的にも広く知られるに到っていませんし、仏教界ではほとんど知られていないようです。

 簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしていて、低次のものが適度に適時に満たされると次々に高次のものが現われ、最終的には自己実現欲求、自己超越欲求といった高次な欲求に到る」と言っていますが、重要なポイントは、自然な欲求の追求は悪ではないというところにあります。

 いちばん基本的で低次のレベルには「生理的な欲求」があるといいます。

 それは、いちばん基礎的なものですから非常に切実ですが、限度があります。

 例えば、喉が渇いた時には水を飲みたいという欲求は切実ですが、ある程度飲むとそれで満たされてそれ以上は飲みたくなくなるようなものです。

 言葉を区別して使えば、「欲望・貪り」には限度がないが、「自然な欲求」には限度があるということです。

 しかし、人間は生理的欲求が満たされればそれだけで満足かというとそうではありません。

 いったん満たされると心理的にはそれは大した問題ではないように感じ、より高次の欲求である「安全と安定の欲求」が感じられるようになります。

 つまり、お腹がいっぱいでも、いつ攻撃されるかわからず、どこにいればいいのかわからない状況では、人間は満足できないということです。

 そして、安全と安定の欲求が満たされると、次には「愛と所属の欲求」、つまり親や家族に愛されていて自分の居場所があるといったことへの欲求が現われてきます。

 この2つの欲求のどちらが優先度が高いかというと、安定欲求です。

 例えば、虐待されている子どもを福祉関係者が保護しようとすると、暴力な親であるにもかかわらず小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、知らない所に連れて行かれるよりも、愛されていなくてもよく知った安定した環境にいたいという欲求のほうが強いからだと考えると理解できます。

 では、生理的欲求から愛と所属の欲求までが満たされれば人間は満足できるかというと、そうではありません。

 人間はある年齢になると、自意識が育ってきて、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。

 そして、見ている私が見られている私つまり自己イメージをいいと思えること、自分で自分を認められること、それから、それを保証するように外からの承認もなされることを求めるようになります。

 それを「承認欲求」といいます。

 さらに承認欲求が満たされてもそれで終わりではなく、より高次な欲求が現われるといいます。

 この世に生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたいという「自己実現欲求」です。

 しかし、マズローの言う「自己実現」とは、しばしば言葉の印象で誤解されてきたのとは根本的にちがっており、周りの人とのつながりを無視した身勝手な自分の願望や夢の追求ということではありません。

 この世に生まれてきたことは、他の人々とのつながりの中で他の人々とともにこの世界に生きているということですから、ほんとうの「自己実現欲求」とは、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したかたちでよく生きたいという欲求なのです。

 これは「自利利他円満」という大乗菩薩の理想にきわめて近いものといっていいでしょう。

 ところが、自己実現できても、あるいはできたからこそ、その実現した自己には死という限界があることが自覚にのぼってきます。

 すると、やがて死ぬこの有限の自己を超えて永遠なるものにつながりたいという「自己超越欲求」が現われるのです。

 このように、自然な欲求を満たしていくと、やがて自己実現欲求と自己超越欲求まで現われてくるというのが人間の本質である、とマズローは言うのです。

 繰り返すと、人間の自然なそれぞれの「欲求」には限度があり、適当な時に、適当な程度満たされると欲求のレベルが上がっていき、ついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質である、とマズローは言っています。

 特に自己超越的欲求は、従来の用語でいえば「宗教的欲求」です。

 こうして見てくると、レベルが上がっていく「自然な欲求」と、限度を知らない快楽、富、地位、権力、名誉などへの「欲望」とが、一見似ていて実はまったくちがうものであることはおわかりいただけるでしょう。

 これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、根拠のない願望的な理論ではありません。

 十分なセラピーのケーススタディや統計調査によって相当程度裏づけられてきているようです。

 もし、この仮説が妥当だとすると、これまでの多くの宗教に見られた「欲望は際限がないもので悪であり、欲望はなくすか、少なくとも抑え少なくすることが正しい」という考え方は修正する必要が出てくるでしょう。

 つまり、これまで「欲」という言葉で同一視されがちだった自然な欲求と欲望をはっきりと区別して、自然な欲求は肯定し満たすことによって自己実現や自己超越への欲求へと高めていく、欲望は否定するというより癒していくという捉え方をし、また指導の仕方もそういう方向で考える必要があるということです。


 自然な欲求と神経症的欲求=欲望

 さて、もし人間の自然な欲求がマズローの言うようなものだとしたら、なぜ人に迷惑をかけ自分も不幸になってしまうような際限のない欲望というものが存在するのでしょうか。

 それについてもマズローの説明は非常に画期的であり説得力があります。

 子どもが不幸にして成長のプロセスで適当な時に適当な程度に自然な欲求を満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こるというのです。

 例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。

 子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうすることもできないので、「私はどうせ愛されない存在なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、愛されることへの欲求を心の中で抑圧することによってなんとか耐えて生きるようになります。

 そうすると、心の奥ではほんとうには愛されたいのに、意識的には「愛されっこない」とか「愛されなくてもいい」と思い込んでいるために、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれません。

 すると、当然愛されません。

 すると、欲求は満たされません。

 何を求めているか自分でもわかっていないために、適切な求め方ができず、不満が残り、愛の代替物を求め続けることになってしまうのです。

 とても悲しい悪循環です。

 例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行動がとれなくなります。

 例えば非行の無意識の動機は、主に人から認めてほしい、注目してほしい、目をかけてほしいということだと思われます。

 しかし、それがはっきり意識化されていないため、つっぱって、無理やり人の目を引く、つまりたとえ否定的にでも注目されるような目立つ悪さをするのです。

 しかし、それではほんとうには目をかけてもらえない、肯定的な注目をされない、まわりの人の承認は得られませんから、いつまでたってもほんとうには満足できないし、うまくいかない、だからますます目立つ行為をしたくなるということのようです。

 これもまたとてもつらく困った悪循環です。

 つまり、従来「欲望」と呼ばれ悪と見なされてきたものは、マズローの用語で言い換えると抑圧され病的にゆがんでしまった「神経症的な欲求」なのです。

 ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性で考えればわかりきったことであり、そういう適切な行動をすれば承認を受けられます。

 そして、ある程度の承認を受ければ人間は満足できるのです。

 承認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。

 繰り返すと、自然な欲求が適時に適度に満たされないと、抑圧され無意識的な固着が起こります。

 その結果、意識的な欲求のあり方がゆがんでしまって、ほんとうには何がほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの限度を知らない「神経症的な欲求構造」ができてしまう、というのです。

 しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすることによって神経症的な欲求構造は癒すことができる、とマズローは言っています。

 次回、この「欲求と欲望」の問題についてさらに考えていきたいと思います。




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一刻も早く現代人になることが必要だ

2009年02月09日 | 生きる意味

 半年かけて、「現代科学の成果から描き出される宇宙像・コスモロジーを学ぶと、もうニヒリズムに陥っている暇はなくなる。ニヒリズムはもう100年古いんだよ」という話をすると、しっかり理解して、よくこなれた自分の言葉で次のような感想文を書いてくれる学生が出てきます。


 自分は自分、だから周りとは何も関係がなく、何をしてもいいという思想は古い。
 近代の合理主義はすべてを分析し、神は居ない、人間もしょせん物質のかたまりとしてしまった。
 その思想を強制的に取り入れさせられた日本は、現代では全ては繋がっているということが証明され始めているにも関わらず、今もまだ全てはバラバラだという思想からぬけれずにいる。
 ニヒリズムとエゴイズムそしてヘドニズムの組み合わせは、すごく悲しいし悪循環だと思った。
 結局は、人間もただの原子でしかなく、だったらなぜ生きているの?と意味を求めた時にも何もない。だったら、自分だけがよければそれでいいじゃん、となる。これじゃ救われないなと思う。
 そして唯一見えた希望で理想を追うとなっても、権力でおさえられたら、もうどうでもよくなってしまう。
 君も私も、元は同じ、宇宙の一部。だから君も幸せなら私も幸せ。困ってたら助ける。だって同じなんだから、のほうがよっぽどピースフルだ。
 100年も前の思想に縛られて、わざわざ孤独になる必要なんてまったくない。この授業を受けてからそう思うようになりました。
 毎日ニュースで流れる事件は、本当に自分のことしか考えてないことばかり。何でこんなふうになったんだろう?というのも、歴史的にというか学ぶとなるほどなとなりました。それはそうなるわ、みたいに。
 みんな、なんでそういう風になったのかさえ知らないで過ごしている、それはいけないよなって思いました。
 昔のつながりコスモロジーなら、人のため国のために生きる理由も死ぬ理由もあったのに、バラバラコスモロジーじゃ生きる理由も死ぬ理由もなくなっちゃって、生きる意味がなくなってしまってる。それって、すごく悲しい。
 一刻も早く現代人になることが必要だと思いました。
 ちゃんと生きれない人はちゃんと死ねない、これから心がけていきたいなって思った言葉です。
                                         (O大1年女子)



 彼女のいうとおり、私たちは一刻も早くほんとうの意味で現代人になることが必要だ、と思います。



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講話:8つの幸福

2008年12月04日 | 生きる意味

 昨日、O大のチャペル・アワーでの講話を掲載させていただきます。

 もうすぐクリスマスという季節に寄せて、若者たちにメッセージを送りました。これまでキリスト教には縁のなかった学生がほとんどのようですが、静かに真剣に聞いてくれたようです。

                
  心の貧しい人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

  悲しむ人々は、幸いである。
   その人たちは慰められる。

  柔和な人々は、幸いである。
   その人たちは地を受け継ぐ。

  義に飢え渇く人々は、幸いである。
   その人たちは満たされる。

  憐れみ深い人々は、幸いである。
   その人たちは憐れみを受ける。

  心の清い人々は、幸いである。
   その人たちは神を見る。

  平和を実現する人々は、幸いである。
   その人たちは神の子と呼ばれる。

  義のために迫害される人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

                  (マタイによる福音書第五章三~一〇節)



 もうすぐクリスマスという季節になりました。「待降節・アドベント」といいます。チャペルの祭壇には四本の大きな赤いキャンドルのうち二本に火が燈されています。

クリスマスは、なんとなく心が温かになる季節で、愛や幸福という言葉にリアリティを感じることができる季節ですね。

 クリスマスにちなんで、今日は幸福ということについて、聖書、特にイエスという人がどういうことを言っているか、学んでみたいと思います。

 聖書の個所からおそらく感じるのは、イエスの幸福論は今の日本の常識的な幸福論とはまったくといっていいくらい違うということだと思います。

 みなさんは、もしかするとこんな考え方はわからないとか、意味がわからないとか、さらには間違っているという感じさえもつかもしれません。私は、そういう感じは大切にしたほうがいいと思っていて、聖書の言うことだからといって鵜呑み・丸呑みにはしないほうがいいと思っています。

 しかし、みなさん自身が成長の過程で体験してきていると思いますが、小学生の時にはこうだと信じていたことが、中学生になると幼稚で馬鹿げた考えに思えてきたり、中学生の時に考えていたことが高校生になるとなんて子どもっぽかったんだろうと思えてきたことがあるでしょう。

 それとおなじように、心が成長すると、今考えていることがまったく未成熟な考え方だったと思うことになるかもしれません。

 そういう意味で、今考えていることを絶対で今後変わることはありえないとは思わないほうがいいのではないでしょうか。

 新約聖書でいえば約二千年、たくさんの人の心を動かし育み支えてきた考え方を一度は学んで、自分の今の考えと対比してみるのもいいのではないかと思います。

 学んで、比べて、よく考えて、それでも今のままでいいという場合は、もちろんそれでいいと思います。しかし、みなさんの先輩の多くの方がそうであったように、学んでみると、それまでの自分の考え方よりも、聖書の教えのほうがより自分の人生のためになると思えることもあるのです。

 せっかく縁があってキリスト教主義大学に来たのですから、聖書が何を教えようとしているか、すぐに信じる必要はまったくありませんが、一度、学んでみるのも悪くないと思います。

 聖書のこの個所で、イエスはふつうにはちっとも幸福だと思えないことを幸福だと言っているようです。ここで語られているような人々は全然楽でもなければ、楽しくもなく、快楽や快感とはほど遠い状態にあります。それなのにイエスは、「幸いだ」と言うのです。それは、なぜなのでしょうか。

 よく読んでみると、そこにはなぜかがちゃんと語られています。

 「心が貧しい人々」が「幸い」なのは、「天の国がその人たちのものなる」からです。

 では、まず「心が貧しい」とはどういうことでしょう。それは、心の中が社会一般の価値やそれに基づいたいろいろな気持ちでいっぱいになっていない、という意味だと私は解釈しています。

 社会一般の価値観では勝つか負けるか、儲かるか損するか、安定したいい地位につけるかつけないか、自分の夢や希望が実現できるかできないか、などなどが問題です。そういう心でいると、勝ったり儲かったり実現した時はいいのですが、負けたり損したり実現しなかったりすると、失望したり、絶望したり、死にたくなったり、実際に死んだりしてしまいます。決して安定した穏やかな気持ちでいることはできません。いつも揺れ動いてしまうのです。

 それに対して心の中が空っぽで、社会一般の価値観から自由だと、そういうものに振り回されることがありません。徹底的に空っぽだと、まずまるで天国にいるかのような常識的な世界をまったく超えた安らかな気持ちで生きられるというのです。これは体験した人にはみんなわかることです。
 「天の国」と訳された言葉の原語は人間の領土・領域を超えたという意味の「天の領域」と訳すこともできます。死んだ後に、どこか空の上のほうにあるおとぎばなしのような国に行くということではない、生きたまま天国にいるような気持ちになれるということだ、と私は解釈しています。

 それは後の「心の清い」という言葉と重ねて理解することができます。心がどうでもいいこと、つまらないこと、いけないことなどなどでいっぱいになっていて濁っていると、自分がどこから来たか、いのちの原点を忘れてしまいます。

 しかし、心を空っぽにし澄ませると、自分が自分を生んだのではなく、自分が生まれたものであり、親も先祖もみんな生まれたものであることと、そのすべてのいのちを生んだ主体として何か大きなものに思い至るのです。もちろん聖書ではそれを「神」と呼んでいます。

 しかし、いつも言うのですが、その何か大きなもの、英語でいえば Something Great を神と呼ぶか、仏と呼ぶか、道と呼ぶか、あるいは大自然、宇宙と呼ぶかはそれぞれが自分にぴったりと来る言い方でいいと思います。しかし、ともかく私たちが、そういう大きな何ものかによっていのちを与えられたものだということは事実ではないでしょうか。だれか、自分で自分を生んだ人がいますか。

 心の中のつまらないものが空っぽになり、澄んでくると、私たちは自分のいのちの原点に出会えるのです。

 「悲しんでいる人々」が「幸い」なのは、「その人たちは」やがて必ず「慰められる」からです。

 この場合の「悲しみ」は、後の部分との関連で考えると、自分の希望がかなわなかったり、自分の大事な人や物を失った時の悲しみというのとは、ちょっと違っているようです。私たちの社会、世界に正義や平和が実現しておらず、たくさんの人が苦しんでいるということへの深い悲しみ・憐れみ・同情・共感のことだと思われます。

 そういう悲しみを感じながら、しかし「飢え乾いたように」正義を追求する人々はやがてきっと「慰められる」、必ずいつか願いが「満たされる」から「幸い」なのです。

 人々の苦しみに深い悲しみを感じる優しい心・柔和な心のある人こそ、この地球の後継者になるにふさわしいのです。人々だけではなくすべての生きものへの優しさに満ちた人こそ、世界をほんとうに持続可能な世界にすることができるでしょう。
 逆に言えば、そういう人がいなければ、この世界はやがて大変な危機に到り、崩壊してしまうかもしれません。

 しかし、イエスという人は、神、サムシング・グレイトの力によって、世界にはいつか必ず正義と平和が実現されると確信していたのです。そして、そういう世界を創り出すという神の計画・大プロジェクトに、いわばチーム・メンバーとして、あるいはチーム・リーダーとして全力で参加していくことが自分の生きて死ぬ意味だと深く目覚めていたのだと思われます。

 そういう「平和を実現する」ことに自分のいのち・人生のすべてを賭けている人間は、人間として最高の人間ということができるでしょう。そして、単に人間として最高という以上に、サムシング・グレイトによって与えられた――やがては必ず死ぬ、つまりいのちを返さなければなりませんから貸し与えられたといったほうがいいかもしれませんが――いのちを完全燃焼して生きることができる、人間以上の人間、サムシング・グレイトの子=天の子=神の子と言うことができるのです。

 イエスは、そういう人の代表的存在だから救世主・メシア・キリストと呼ばれたのです。そういうイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマス(キリストのミサ)であることは言うまでもないかもしれません。

 そうした人々は、言うまでもありませんが、「自分は何のために生きているのだろう」と悩んだり、「死んだらすべては終わりだから、人生は結局や空しい」と落ち込んだりすることはありえません。「生きていることはいいことだ」と心の底から思えるのです。

 たとえ、正義を追求するあまりそれに反対する人から「迫害されても」、それでも自分の生き方に満足できるし、生きていることはいいことだと思えるし、そして死ぬことをさえ恐れないでいられるのです。なにしろ、生きているあいだにすでに「天の国」にいるかのように感じているのですから、死んだらもちろんどんなかたちのものかはわからないにしても、ある種「天の国」に帰るのだと信じられるのです。

 人々の幸せと世界の平和のために徹底的に自分のいのちを完全燃焼させることができるという幸せは、常識的な幸福ではありませんが、ふつうの幸福以上の幸福である、とイエスは言っているのだと思います。そして、福音書全体を読んでいくと、イエスという人は、自らそういう生き方・死に方をした人です。

 自分のちっぽけな幸福やまして快楽や儲けにこだわりながら、結局は悩んだり空しかったりしているのと、自分のいのちを燃やし尽くしながら、自分の人生を完全に肯定できるのと、どちらを取るか、決めるのはもちろんみなさん自身です。

 祭壇のキャンドルを見て下さい。キャンドルは自らを燃やすことによって輝いています。自分を燃やさなかったら、輝かない、光らないのです。
 私たちの人生も、自分を守ろう、自己防衛をしようとしていては、輝かないのではないでしょうか。私はイエスの幸福論に大賛成で、燃えてこそ、輝き、その光でまわりを明るくすることができるのではないか、と思っていますし、そうありたいと思っていますが、最後もう一度、自分の人生をどうするか、決めるのはみなさん自身です。
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好きな詩・詩人6 堀口大学:夕ぐれの時はよい時

2008年09月14日 | 生きる意味

 ここのところ連続して、やや深刻なテーマの「今日のことば」を取り上げましたので、久しぶりに少しやわらかに「好きな詩・詩人」を引用、紹介しようと思いました。

 堀口大学(ほりぐちだいがく、1892-1981)は、訳詩集『月下の一群』などで知られるフランス文学者、詩人です。

 『月下の一群』は、詩の選択も訳文もとても洒落れていて、若い頃、愛読したものです。

 自作の詩にもいいものがあり、次の詩はもっとも好きなものの一つです。

 四季折々、夕ぐれになると、しばしば思い出します。

 今日も夕ぐれ、少しだけツクツクボウシが鳴いた後、すぐに虫の声に変わり、蒸し暑さが少し残ってはいますが、初秋の風情です。

 連休で来る予定だった娘一家が孫娘の熱で来られなくなり、孫たちに会えなくてちょっと気抜けしているじーじとばーばの静かな夕ぐれですが、それでもやはり「夕ぐれの時はよい時」と感じます。



       夕ぐれの時はよい時

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    それは季節にかかはらぬ、
    冬なれば暖炉のかたはら、
    夏なれば大樹の木かげ、
    それはいつも神秘に満ち、
    それはいつも人の心を誘ふ、
    それは人の心が、
    ときに、しばしば、
    静寂を愛することを、
    しつてゐるもののやうに、
    小声にささやき、小声にかたる……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    若さににほふ人々の為めには、
    それは愛撫に満ちたひと時、
    それはやさしさに溢れたひと時、
    それは希望でいつぱいなひと時、
    また青春の夢遠く
    失ひはてた人々の為めには、
    それはやさしい思ひ出のひと時、
    それは過ぎ去つた夢の酩酊、
    それは今日の心には痛いけれど
    しかも全く忘れかねた
    その上(かみ)の日のなつかしい移り香

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    夕ぐれのこの憂鬱は何所(どこ)から来るのだらうか?
    だれもそれを知らぬ?
    (おお! だれが何を知つてゐるものか?)
    それは夜とともに密度を増し、
    人をより強い夢幻へみちびく……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    夕ぐれ時、
    自然は人に安息をすすめるやうだ。
    風は落ち、
    ものの響は絶え、
    人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
    今まで風にゆられてゐた草の葉も
    たちまちに静まりかへり、
    小鳥は翼の間に頭(こうべ)をうづめる……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。



 ワークショップなら、この詩を紹介した後で、「夕ぐれはなぜ来るか?」というコスモロジーの話をするのですが、今日はやめて、次の機会にしておきます。



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今日のことば 19: 死―熟したオリーヴの実が大地に帰るように

2008年08月22日 | 生きる意味

 死とは誕生と同様に自然の神秘である。

 同じ元素の結合、その元素への〔分解〕であって、恥ずべきものでは全然ない。

 なぜならそれは知的動物にふさわぬことではなく、また彼の構成要素の理法にもふさわぬことではないからである。

                            (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章5)


 君は全体の一部として存続して来た。

 君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。

 というよりはむしろ変化によってその創造的理性の中に再び取りもどされるのであろう。

                            (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章14)


 要するに人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるかを絶えず注目することだ。

 昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。

 だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。

 あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。


                           (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章48後半)



 私たちが死者を送る時、しばしば自分を「まだ死んでいない(当分は死なない……あたかもいつまでも死なないかのような)者」と感じていますが、しかしそれだけでなくほんとうには「やがて必ず死ぬ者」です。

 死・いのちの有限性を想うことはおそろしいことでもありますが、それゆえにこそいのちの大切さを感じることにもなります。

 さらに深く観想をするならば、死は元に帰ること、コスモスへの帰還であると考えることができるようになります。

(曹洞宗などでは最近なくなった方のことを「新帰元」と表現するようです)。

 そして、そのコスモスこそ大いなる真実の自己なのです。

 コスモスへ帰ることを熟したオリーヴの実が落ちることに譬えた自省録の文章は、とても美しいですね。

 ただ私はアウレーリウスと違って、幸い大乗仏教やフランクルの実存分析や現代科学のコスモロジーを学ぶことができているので、「人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるか」とは考えません。

 有限の人生において、このコスモスに他のだれでもなく自分にしか生み出せないものを新たに生み出すこと、自分固有の深い感動体験をすること、そして自分にしかできない高貴な生き方・態度を表わすこと、コスモスの自己認識器官としてコスモスを認識し、自己感動器官として感動し、なによりも自己覚醒器官として覚醒してから、このかたちとしての身心から解脱してコスモスとふたたび同一化すること・涅槃が、生と死の意味だと考えているからです。

 かりそめでありつつ、きわめてすばらしい開花と豊かな結実の後で大地に帰る草木に譬えることができるかもしれません。



自省録 (岩波文庫)
マルクスアウレーリウス
岩波書店

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今日のことば 18: 消滅と新生

2008年08月20日 | 生きる意味

 あらゆる体は宇宙全体の物質によってあたかも奔流に流さるるがごとく運び去られ、「全体」に結びつき、我々の四肢が互いに協力するようにこれと協力する。

 何人のクリュシッポス、何人のソークラテース、何人のエピクテートスを時がすでに呑みつくしてしまったことであろう。

いかなる人間についても、いかなる事柄についても、このことを思い起こせ。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章18)


 宇宙を支配する自然はすべて君が見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界がつねに新たであるようにするのである。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章25)


 遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。

 また君の現在見る人びとも、現在生きている人びとも同様である。

 すべては生来変化し、変形し、消滅すべくできている。

 それは他のものがつぎつぎに生まれ来るためである。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第12章21)



 消滅・死は自然なことであり、それは新しい他のものがつぎつぎに生まれてきて、世界が常に新たであるためである、とアウレーリウスは自分自身に言い聞かせています。

 死をそういうものとして捉えることができれば、私たちは生だけでなく死をも含むほんとうの生というか、生死を根源的に肯定することができるでしょう。

 死を恐れないだけでなく肯定することさえできるとは、なんと深い境地でしょうか。

 まさに不動心(アパティア)です。

 (↑ストア派哲学ではふつう「アパティア」なのですが、アウレーリウスは「アタラクシア」という言葉のほうを使っているようです。補足・訂正します。)




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今日のことば 15: 捕らえようとして追い求めている

2008年08月05日 | 生きる意味

 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。

 そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。

                          (新約聖書「ピリピ人への手紙第3章12節、聖書協会訳」


 キリスト教の大伝道者・使徒パウロのことばです。

 「キリスト・イエスによって捕らえられている」を、「仏性の内在」と読み換えると仏教の方には理解しやすくなり、コスモロジーを学んだ方には「内なるコスモス」あるいは「コスモスから与えられた潜在的成長可能性」と言い換えるとすんなりわかっていただけるでしょう。

 私も、いうまでもなく捕らえようとして追い求めているのであって、「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっている」という錯覚には幸い陥っていません。

 しかし、行を続けていると、「キリスト・イエスによって捕らえられている」という事実(恩師の一人滝沢克己先生は「インマヌエルの原事実」と表現しておられました)への確信が確実に深まっていくことを感じています。

 捕らえようとしなくても最初から最後まで捕らえられている、抱かれているという事実に心の奥底まで気づいた時が、「大安心(だいあんじん、と読みます)」、絶対他力の境地なのでしょう。

 「そこまで行くには、やはり捕らえようという自力我慢の努力が必要なのだ」と、もう一人の恩師秋月龍(りょうみん、みんは王へんに民)老師に教わったことを思い出しました。

 何人ものよき師に出会えたことを、しみじみ有難いと思える年齢になってきたようです。



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今日のことば 12: なぜという問なしに生きる

2008年08月02日 | 生きる意味

 午後、大阪の講義から帰ってきました。

 少しだけ昼寝してから、がんばって採点の出席簿への転記を終わりました。これで、明日成績表に転記して送れば、大きな一仕事の完了です。

 ブログには何を書こうと思っていて、マイスター・エックハルト(13~4世紀のキリスト教神秘主義の代表的な思想家)のことばを思い出しました



 だれかが命に向かって千年もの間、「あなたはなぜ生きるのか」と問いつづけるとしても、もし命が答えることができるならば、「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないであろう。

 それは、命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出でているからである。

 それゆえに、命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きるのである。

 もし、だれかが、自分自身の根底から働く、真理を得た人に、「なぜあなたは、このわざをなすのか」と問うならば、これに正しく答えようとすればこの人はこういう他はないであろう。

 「わたしは、働くがゆえに働く」と。

                           (田島照久訳『エックハルト説教集』岩波文庫、40頁)




 いのちの根底から生きるという生き方、いのちの根底から働くという働き方をすると、そこにはもう「なぜ私は生きなければならないんだ? どうして私がこんな面倒なことをしなければならないんだ?」等々といったつまらない問いはまったく消えてしまうのだ、とエックハルトはいっています。

 そういう生き方、そういう働き方をしたいものです。




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人生の質に関する損得勘定をしてみよう

2008年07月31日 | 生きる意味

 7月26日の記事にいただいた2人の方のコメントに対してお出しした宿題への、私の回答です。読者のみなさんと共有するために、コメント欄ではなく、記事にしました。

 私たちは、「わかっちゃいるけど、やめられない」(ずっと昔の植木等の歌の一節……知らない人は知らないでしょうねえ)ことがしばしばあります。

 それは、なぜなのでしょう。私は、唯識を学ぶことによって、なぜなのか、すっぱりわかりました 1)

 「自分のことは自分がいちばんコントロールできるはずなのに」、できないのは、意識的自分よりも無意識的自分、つまり唯識でいう「マナ識」 2) のほうがはるかに深くて強いからだ、と思われます。

 人間の自己/心の中には、「わかっている(つもり)の自己」・意識の領域と「実感できない自己」・個人的無意識の領域というある種の分裂があるようです。

 変わったほうがいいとわかっていても、変わるのがむずかしい、変われない、変わりたくない、と感じてしまうのもおなじ理由で、自分でこれが自分だと思い込んでいること、なかば (以上?) 無意識的で自明化されたアイデンティティがあるから、つまり「マナ識」のせいだといっていいでしょう。

 それをコントロールする、あるいは変えるためには、ある意味でマナ識の「裏をかく」必要があります。

 まず、意識がマナ識を受け容れてあげることです。「そうか、そういう気持ちなんだね。気持ちはわかるよ」といった具合に。

 続いて、「でも、それで気持ちはいいのかなあ。私(意識)はとても気持ちが悪いんだけど。気持ちが悪くても、私の気持ちである以上は、変われない、変わりたくないのかなあ? どうしても変わりたくなかったら、もちろん変わらなくてもいいんだけど……」

 「でも、変わったほうがいいんじゃないかなあ? 私たち(意識とマナ識)がいい気持ちに変わるという私たち自身の未来の利益のために……」というふうに説得していきます。

 「変わらなければならない」と強制されると、固まったアイデンティティ、マナ識は抵抗しますが、「変わらなくてもいいけど、変わったほうがいいんじゃないかな?」と自由な選択だといわれると、気が楽になり、意識に従って合理的な行動を採る気になったりします(なかなかならない場合もありますが、まさに「変わらなくてもいい」んです)。

 さらに、マナ識に「人生は有限である」 3) という事実を示すといいでしょう。

 私たちのマナ識は、自己という実体があると思い込んでいますから、自己は永遠に生きることができる……できないにしても、当分は死なないと思っていて 4) 5) 6) 7)、考えないで悩んでいる時間も有限な人生の貴重な一部であって、いやな気分で過ごすことは大きな損失だという自覚を持ちにくいのです。

 「有限な人生を、楽だけどいやな気分のまま過ごすのと、少し努力が必要だけど変わることによって充実した楽しさを味わいながら過ごせるようになるのと、どっちが得かな?」と、マナ識に問うてみましょう。

 マナ識は、自己の損得にはきわめて敏感ですから、損得計算がちゃんとできたら、本気で変わりはじめます(絶対にではないが、多くの場合)。

 マナ識は、倫理的義務で強制されるより、損得勘定を考えて自分で納得するほうが、はるかに効率的に変わること・コントロールができやすくなるようです。

 有限の人生の持ち時間をムダに浪費したくない方、まず人生の質に関する損得勘定をしっかりやってみて下さい。

 「損得勘定なんて、面倒くさい。出たとこ勝負だ」という方は、それで人生の勝負をやってみて下さい。

 出たとこ勝負で大失敗・大損失というケースがきわめて多いように、私には見えるので、せっかくコスモスから委託されたこの人生の有限の時間、とてももったいない気がしますが、余計なお世話かもしれません。





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今日のことば 11: この世と妥協してはならない

2008年07月28日 | 生きる意味

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことあるかを、わきまえ知るべきである。

                               (新約聖書『ローマ人への手紙』第12章2節、聖書協会訳)



 現代の日本は、ばらばらコスモロジーをベースにした競争社会です。

 そして、建前としてのヒューマニズムと民主主義がきわめて空洞化し、本音としてのニヒリズム-エゴイズム-快楽主義が社会のあらゆる部分を腐食させている社会だといっていいでしょう。

 最近多発している無差別殺人は、自他のいのちの意味を無視し、倫理をまったく無視しているという意味で、まさに「ニヒリズム犯罪」だと思われます。

 そういう社会の中に私たちの日常はあります。

 ですから、そこで日常に流される・日常に埋没するということは、そうした社会のあり方を容認する、さらには無意識で加担するという結果になります。

 それは「茹で蛙」風な社会のゆるやかだが恐るべき崩壊のプロセスを止めるどころか、促進することにさえなるでしょう。

 もしそれを望まないのならば、私たちは日常性に埋没してはいけません。

 絶えず、繰り返し、新鮮に、何が Something Great の意思か、コスモスの進化の方向か、気づきなおす必要があります。

 そして、持続的な自己成長-自己変革を遂げながら、「みんなやっている」かどうかではなく、コスモスの理に照らして善かどうか、十分・十全なことかどうかをはっきり認識し、それに沿って日々を営む努力をしていく必要があります。

 流れに抗する生き方というのは、流れに流され埋没するのに比べて、大きな苦労のある生き方です。

 しかし同時に、心の奥底(ラディックス)で Something Great と一体であるという根源的(ラディカル)な生きがい・喜びを感じることのできる生き方であることもまちがいありません。

 どうせ一回の人生、楽で空しい人生をやり過ごしてしまいたいのか?

 それとも、苦しくても完全・完成を目指して生きて、最後に「神のみもとに帰れる」と安心・納得して死にたいのか?

 こういう聖書のきびしい問いをまともに受け止めたところに形成されたのが、プロテスタンティズムの精神だといってまちがいないでしょう。

 そうしたプロテスタンティズム的精神は――もちろん原理主義的なかたちではなく、そのエッセンスが――現代の日本にぜひ必要なものなのではないでしょうか。

 プロテスタント的「神仏儒習合」の再構築といってもいいでしょう。

 学べば学ぶほど、プロテスタントの国々だった北欧が「持続可能な社会」に限りなく接近できているのは、ノルディック・デモクラシーももちろんですが、そのベースにある民族的エートスとしてのプロテスタンティズムという精神的遺産の力によるところが大きいと断定してまちがいない、と思うようになっています(その内容はおいおいさらに書いていきたいと思っていますが)。



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今日のことば 8: それでもコスモスは進化する

2008年07月21日 | 生きる意味






 ……150億年にもわたってたゆみなく働き、まごうかたなき驚異を産み続けてきた進化が、突然、終結し、終焉するということは、果たして考えうることだろうか。

               (ケン・ウィルバー/松永太郎訳『進化の構造1』春秋社、322頁)




 私が提唱しているコスモス・セラピーには、『進化の構造』(邦訳は1、2巻に分かれています)という大著でウィルバーが提示した宇宙150億年(2002年以降、137億年ということになりましたが)の歴史の見取り図――いわば「ウィルバー・コスモロジー」――の普及版という面があります。

 上に引用した一文は、その膨大な内容が現代世界のきわめて困難な状況に対してもっている意味をもっとも簡潔に表現していると思います。

 個人にとって、日本にとって、人類にとって「どんなに困難なことが起ころうとも 1)、それはすべての終焉ではない。それでもコスモスは進化する」という膨大な根拠に基づいて語られた一言は、大きなスケールの根源的希望を語っています。

 それでも進化するコスモスの進化の流れに参加(コミット)することが、人生の意味実現 2) 3) 4) の正道であり、もっとも近道なのだ、と思います。



*画像はm101銀河


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今日のことば 4: 魂の船旅

2008年07月13日 | 生きる意味

 『シレジウス瞑想詩集』から


    魂の船旅

 世界は私の海、船乗りは神の霊、船は私の身体である。このようにして魂は故郷へ旅立つのである。



 私が、世界・この世で生きることは、実は宇宙が私において生きていることです。

 そのことを「魂」というのだと解釈することができます。

 私の身体は旅が終われば乗り捨てられ、朽ちていく船のようなものですが、宇宙は宇宙に還る旅をしているだけです。

 私たち(本当の自己)は、生きる前も宇宙に、生きている今も宇宙に、そして死んでからも宇宙にいます



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