散歩者goo 

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昨日記141004土(評論関連勉強会 シャツ購入)(追)

2014年10月06日 18時36分23秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇  最高/最低℃ 平均/最低% =24.0  19.8  61  43
主要または気になったニュース 
強い大型台風18号(5日現在945hPa)北上中、6日0時四国の南130km付近。
近畿には、未明から午前中最接近

10月4日(土)は、午前中大急ぎで昨日記を書き、昼食を済ませてから、自転車で日本橋近くのギャラリーAMI-KANOKOで行われた「12回評論を書くことを考えてみる会」に出かけた。

この会には、2013年3月30日の第8回にも参加している。
評論対象作家の、芝高康造氏(版画と 吉井秀文氏(平面、立体)は二人とも知人だ。
吉井氏とはギャラリーくるせ時代からの知り合いで、彼の企画展もたまに観に行ったし、会の前に行われた奈良の展覧会にも行って話を聞いていた。
芝高氏に関しても、以前から他の画廊の企画展で氏の作品に関しての考え方も聞いていた。
第8回の会の下見に行ったときにも、作品に関して芝高氏とかなり突っ込んだ意見交換をしていた。
この時は夜に、奈良でパーティーがあるので、芝高さんの評論だけ聞いてから奈良に出かけた。
その時、ディスカッションで、私が評論に関して疑問を投げかけ、評論者が多くの点で作品のメッセージを見逃している点を指摘し、作品の持つメッセージを汲み取っていないと指摘した記憶がある。


今回の、催しには、私の貧困事情も考え不参加のつもりだった。
参加したい催し物の情報は、ネットで調べるとたくさんある。
しかも、京都、奈良、神戸で開催される場合も多く、こうした場所に移動するだけで雑費も含めると1000円から2000円が必要となる。
この半年、いろいろなイベントに参加し奈良や京都や神戸にも行き、出費を重ね私の経済的状況が赤字基調になってきたので、強い危機意識を感じた。
こんなことを、考えてながらブログを書いていくと長くなったので、10月6日投稿のブログ「私的経済状況の確認・認識」にまとめた。

話が横道にそれたが、とりあえず写真は苦手だが、どのよう写真作品について話し合うのか興味があって、前日ギャラリーまで見に行ったことは、昨日記141003に書いた。

その時思ったことをもう少し詳しく書くと、次の通りである。
会場で、写真を見ると、単なる写真作品と思っていたが、どうも違う。
どう見ても現代美術作品である。
しかも論点はたくさんありそうだ。
評論者たちが、どのような評論を書くのか聞きたいと思った。

1階の作品に隠された、作家から鑑賞者への挑戦とも見える事柄を発見した。
それについて、評論者がや参加者が、作品の主張を見抜くことが出来るのか知りたかった。

また、2階の作品では写真がインスタレーションの一部として使用されていて、非常に小さい写真が壁に配列されていた。
床の間には椅子机のミニチュアに引き出しが載せてあり、意味ありげなものが入れられていて、丸テーブルには写真が貼ってあり、椅子には人形と、ウサギの人形が置いてあった。
しかも、彼女はアメリカの複数の現代美術コンクールで賞を取っている。
作品には、強いメッセージや寓意が隠されていると感じ取ったが、それをどう読み解いていいのか分からなかった。
この勉強会に参加して、こうした点を、聞きたかった。

私は作品を見る時は、作家の言葉、過去の作品、モチーフ、素材、制作方法、そして五感、感性、直観、分析、過去の類似作品、といったあらゆるものを総動員して、虚心坦懐に手掛かりを探し、作品を見る。
作家がいれば作家に聞く。
前日もそのようにして作品をじっくりと観ながら考えた。

そうすると作家の技量がある程度優秀であれば、作品から作家の意図が見えてくる。
作家の技量が低い場合は、鑑賞者にはメッセージが伝わらない。
無論、鑑賞者側も同様のことが言える。

余談になるが、美術は、見たままであるという人もいるが、その考えは誤りである。
観るトレーニングを積んだ人、とそうでない人で、見方は違うし、その際鑑賞者の知性や感性も大きく関係する。
マニエリズムの絵画では、西洋文化やその背景にあるギリシャ・ローマ神話やキリスト教文化や時にはケルトやバイキング文化や歴史に対する知識が必要だし、コンセプチャルな作品では、作家が主張する事柄に対しての知識は最低限必要である。
例えば、和歌や俳句俳諧でも、季語・引用・みなし・みたて・本歌取りや、俳諧の本質である諧謔の場合その前提となる元の詩歌や伝承の知識がなければ、味わえない。
音楽でも、ハードロックを聞く聞き方と、シャンソンを聞く聴き方は違うのだ。
バロック音楽の聴き方で、義太夫節は聴けない。
それぞれの芸術には、固有の文法文脈があり更に、その背景に固有の文化・風土がある。
芸術は、西洋文化だけではないのだ。


参考までに、作家の作品は、次の通りである。
Cannon Bernáldez(http://ami-kanoko.com/exhibition/cannon-bernaldez%E5%B1%95-2/)
Jessica Yadira Pérez Flores(http://ami-kanoko.com/exhibition/jessica-yadira-perez-flores%E5%B1%95/)

ギャラリーに着いた時は、定刻を少し過ぎていて満員だった。
レジュメが配布され3人の評論者が自分のレジュメの評論文を読み上げた。
その後、先ず1階に展示しているジェシカ・ペレスの作品について、司会の方のコメントを挟みつつ、質疑応答や感想の表明が進められた。
この作品のトリックについて会場内で誰一人気付いていなかった。
終わりの方で私が見解を述べた。
議論が根底から覆ってしまったので、評論についての議論はそれ以上進まなかったが、作品についての見方(テープの線と、実際に空間を横切るテープの数)で、参加者から議論が起きた。
評論を台無しにして、発表者の方には申し訳なく思った。
前回参加したときの芝高氏の作品に対する評論の時も、私は反論を加えて、発表された評論の論拠が違うことを主張し、芝高氏も同じ意味のことを更に掘り下げて、制作意図を述べられた。

いずれも評論者は、ある意味作品をじっくり見ていない、もしくは、評論文の表現形態や文章の表現方法にこだわって、書かれていることの本質を見抜くレーニングが出来ていないのではないかと思う。
これでは、本末転倒であり、評論以前の問題であろう。

ついで、カノン・ベルナルデスの作品についての討論が始まった。
写真家の方から、リンク先の写真とそっくりな、日本の写真家の古い写真が、回覧された。
このこと自体、日本の写真家の作品の方が古いとすれば、学問的に問題点を究明すべきことであろうと思うが、本質的議論には発展しなかった。
彼女の作品は、非常にコンセプチャルな作品とみていて、たとえば椅子に座ったウサギもアリスと絡んだ何らかの寓意性があるのではないかという、意見もあった。
私は、不思議の国のアリスを読んでいないので、その議論には参加できない。
アリスについては、ユングやフロイト系の心理学でも出てくるので、アリスを含む主な童話を読まなければと思っている。
この作品に関しては、評論に対する評価も作品の掘り下げも、かなり不十分なままに、時間切れで終わってしまった。

交流会としての2次会があったが、先に述べた経済的理由で参加は見合わせた。
ギャラリーを出て、昨日と同様北上し、天満橋に直接行った。
秋物のポロシャツを探したが、大手量販店にはクールネックシャツか、前開きのシャツしかなかった。
仕方なく厚手の前開きボタンダウンシャツが特価であったので買った。
それから下のいつもの店でお茶にして、ハイデッガーのニーチェⅠを読み始めたが、かなり分厚い文庫本なので、いつまでに読み終えるか分からない。

帰宅後は、5食分の温野菜づくりに追われた。
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