晴 最高/最低℃ = 36.3 28.6
月曜はジムがないので、休日感覚だ。
仕事をしている人にはわかりにくいだろうが、年金生活に入ると、所得に関係なく終日休日なのだ。
上司もおらず、組織から命令や支持を受けることもなく、時間的には自由である。
だから、好きなことを自由にやれる。
しかし自分がやりたい趣味を持っている人は少ない。
私も、趣味はいろいろあるが、それにのめり込むほどの情熱はない。
目の前にTVがあれば、ついついTVを見てしまうし、昼寝もよくする。
やる気になれば、趣味の世界でも家事でもするべきことはいくらでもある。
例えば、机の周りは本やチラシの山に来あこまれていて、そうした物を積み上げた山がいくつもあって、たまにそうした物がどさっと崩れる。
家事で、片付ができていないのだ。
そうした事(趣味や家事)に集中すれば、多分何か結果が出るだろうが、そういうことはせず、ぐうたらしている。
そんなぐうたら生活をしていると、ごろごろして人間としての機能や能力が衰え、健康も害し、惨めな末路を送ることは目に見えている。
私の知人にも、アル中になったり、生活不活発が原因で病気になった人をたまに見かける。
しかも、認知機能の低下は、本人も周囲も気付かないまま進行する。
表面的には正常でも、認知機能が衰えている人は多い。
スーパーのレジでもよく見かける。
財布を見ると小銭も千円札もあるのに1万円札で支払う人や、財布を店員に見せて、指示を仰ぐ人(外人ではない)や、大量の小銭をレジに置き、必要な分だけ店員にとってもらって、残りの小銭をを財布にしまう人など、いろいろ見かける。
始めの頃はそうした光景に気付いて驚いたが、よく見ると稀なことではなく、日常目にする光景であることも分かった。
普段のあいさつや受け答えはまともでも、簡単な判断力ですら疑問の多い人は結構いるようだ。
信号待ちの歩行者で、自分の進行方向の歩道の信号と横の交差している信号を見間違えて進もうとする人もたまに見かける。
生活不活発病や、認知機能の低下には50代のころから関心を持った。
ずっと独身で、親族もいなくなり、一人暮らしの終末期を想像するとどんな状態か、想像がつく。
だが、それと同時に、兄のことに絡んで終末期のことに関して、家族がいても居なくてもあまり変わらないのかもしれないと思う体験を過去にした。
私が50代の頃、兄がパーキンソン病を患い、長い療養生活に入っていた。
その際、病院を3か月から6か月単位で転々と移った。
私は週に1度以上は見舞いに行った。
その時に、同室に居た人たちの状態を知ることが出来た。
私の兄は、兄嫁と独立して過程を持っている兄の子供たちと、私がそれぞれ別々に見舞いに行くので、同室の患者からうらやましがられることが多かった。
そこで知ったことは、家族がいても月に数回しか見舞いに来ない患者がかなり多いということだった。
ある男性は、息子さんを一流大学に入れ、今では地方自治体の上級管理職になっているのに、月に一度義理程度に来てすぐ帰ると嘆いていた。
ある患者の家族は、ほとんど来ないという話も聴いた。
多くの病院で、看護師から、私や兄家族のように毎週来る人は少ないということを聞いた。
そういうことを考えると、私のように家族がいない独居老人も、家族がいて別居又は同居している独居老人も、あまり変わらないのかもしれないと思った。
終末期の余談が長くなったが、家族がいようがいまいが、終末期は誰でも訪れるが、死の直前まで元気でいて、いわゆるピンピンコロリの状態で終末期を迎えるように元気な間から、準備したいと思った。
そのことは、終末期を考えることよりも、現在を楽しむことでもある。
その意味ではたとえ肉体が元気であっても、成すことなくゴロゴロしたり、昼寝をしたりするのはもったいない(いかがなものか、ではない)と思い出した。
即ち、倫理主導の働かざる者食うべからずの価値観ではなくて、今を精いっぱい楽しんで生きないともったいないという価値観がいいように思いだしたのだ。(価値観は論理ではなく、好み・意思の問題と考えている。)
(有名コメディアンの口癖でもある。)
今後とも、成り行きで適当にぐうたらすることもあるだろうが、同時により面白く生きるために、様々なことを充実させチャレンジして楽しみたいと思っている。
今までの言説とは裏腹に、この日も昨日記を書いたり、マインドフルネス関係で追加事項を書いたり、副食作り以外は、なすことなくTVを見て過ごした。
月曜はジムがないので、休日感覚だ。
仕事をしている人にはわかりにくいだろうが、年金生活に入ると、所得に関係なく終日休日なのだ。
上司もおらず、組織から命令や支持を受けることもなく、時間的には自由である。
だから、好きなことを自由にやれる。
しかし自分がやりたい趣味を持っている人は少ない。
私も、趣味はいろいろあるが、それにのめり込むほどの情熱はない。
目の前にTVがあれば、ついついTVを見てしまうし、昼寝もよくする。
やる気になれば、趣味の世界でも家事でもするべきことはいくらでもある。
例えば、机の周りは本やチラシの山に来あこまれていて、そうした物を積み上げた山がいくつもあって、たまにそうした物がどさっと崩れる。
家事で、片付ができていないのだ。
そうした事(趣味や家事)に集中すれば、多分何か結果が出るだろうが、そういうことはせず、ぐうたらしている。
そんなぐうたら生活をしていると、ごろごろして人間としての機能や能力が衰え、健康も害し、惨めな末路を送ることは目に見えている。
私の知人にも、アル中になったり、生活不活発が原因で病気になった人をたまに見かける。
しかも、認知機能の低下は、本人も周囲も気付かないまま進行する。
表面的には正常でも、認知機能が衰えている人は多い。
スーパーのレジでもよく見かける。
財布を見ると小銭も千円札もあるのに1万円札で支払う人や、財布を店員に見せて、指示を仰ぐ人(外人ではない)や、大量の小銭をレジに置き、必要な分だけ店員にとってもらって、残りの小銭をを財布にしまう人など、いろいろ見かける。
始めの頃はそうした光景に気付いて驚いたが、よく見ると稀なことではなく、日常目にする光景であることも分かった。
普段のあいさつや受け答えはまともでも、簡単な判断力ですら疑問の多い人は結構いるようだ。
信号待ちの歩行者で、自分の進行方向の歩道の信号と横の交差している信号を見間違えて進もうとする人もたまに見かける。
生活不活発病や、認知機能の低下には50代のころから関心を持った。
ずっと独身で、親族もいなくなり、一人暮らしの終末期を想像するとどんな状態か、想像がつく。
だが、それと同時に、兄のことに絡んで終末期のことに関して、家族がいても居なくてもあまり変わらないのかもしれないと思う体験を過去にした。
私が50代の頃、兄がパーキンソン病を患い、長い療養生活に入っていた。
その際、病院を3か月から6か月単位で転々と移った。
私は週に1度以上は見舞いに行った。
その時に、同室に居た人たちの状態を知ることが出来た。
私の兄は、兄嫁と独立して過程を持っている兄の子供たちと、私がそれぞれ別々に見舞いに行くので、同室の患者からうらやましがられることが多かった。
そこで知ったことは、家族がいても月に数回しか見舞いに来ない患者がかなり多いということだった。
ある男性は、息子さんを一流大学に入れ、今では地方自治体の上級管理職になっているのに、月に一度義理程度に来てすぐ帰ると嘆いていた。
ある患者の家族は、ほとんど来ないという話も聴いた。
多くの病院で、看護師から、私や兄家族のように毎週来る人は少ないということを聞いた。
そういうことを考えると、私のように家族がいない独居老人も、家族がいて別居又は同居している独居老人も、あまり変わらないのかもしれないと思った。
終末期の余談が長くなったが、家族がいようがいまいが、終末期は誰でも訪れるが、死の直前まで元気でいて、いわゆるピンピンコロリの状態で終末期を迎えるように元気な間から、準備したいと思った。
そのことは、終末期を考えることよりも、現在を楽しむことでもある。
その意味ではたとえ肉体が元気であっても、成すことなくゴロゴロしたり、昼寝をしたりするのはもったいない(いかがなものか、ではない)と思い出した。
即ち、倫理主導の働かざる者食うべからずの価値観ではなくて、今を精いっぱい楽しんで生きないともったいないという価値観がいいように思いだしたのだ。(価値観は論理ではなく、好み・意思の問題と考えている。)
(有名コメディアンの口癖でもある。)
今後とも、成り行きで適当にぐうたらすることもあるだろうが、同時により面白く生きるために、様々なことを充実させチャレンジして楽しみたいと思っている。
今までの言説とは裏腹に、この日も昨日記を書いたり、マインドフルネス関係で追加事項を書いたり、副食作り以外は、なすことなくTVを見て過ごした。
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