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10日土曜日は前日午前3時まで続いた作業で疲れると思ったが、ほとんど疲れはなく、普通に起きた。
そのわけは、副食の9食分の用意ができていないので、それを作らないと、朝食にありつけないためだ。
普段通りに近い状態で起きて、副食を9食分作り、それを使って朝食を食べてから、15分から30分ほど朝寝をした。
TVのアニメを見てからは、前日の続きに取り組んだ。
昼食後は、先に西天満の画廊街を見て回り、その後京阪モールで行われていた、ギャラリズムによった。
ギャラリズムを見るまえに、前日も行ったジュンク堂でワードとエクセルの初心者向けの本を購入した。
帰宅後は夜食後PCのセットアップに没頭した。
夜11時からEテレで放送された、北九州の古墳で発見された新羅系の金製の装飾馬具の特集に見入った。
この話は、以前確かクローズアップ現代でも取り上げられたように記憶している。
磐井の乱については、原田大六氏の本を読み多少の知識があったので、非常に興味深かった。
5世紀前後、高句麗 、新羅、百済、伽耶と倭の間で様々な政治軍事関係のことで、交流と対立があった。
しかもその関係は、中国情勢からも大きな影響を受けた。
中国・朝鮮半島の動きと倭=日本の成り立ちは、弥生時代から影響を受けて動いていたのは間違いない。
しかも最新の研究では、朝鮮からの一方的な流れだけでなく、倭人なり倭国の勢力が朝鮮半島南部(今のの伽耶諸国(釜山一帯)と強い交流を持っていたらしいことがわかっている。
新羅も伽耶近くの小国連合が統合してできた王国で、後日新羅が百済や高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一することになる。
倭国は、唐、新羅連合軍に攻められて滅亡寸前だった百済に大規模な援軍をだし、倭と百済の連合軍は白村江の戦いで破れる。
その後、倭は新羅・唐の侵攻を恐れ、北九州から瀬戸内や河内の高安山に大規模な朝鮮式山城を造営し、都も近江に遷都した。
この時期に多くの有名な万葉秀歌が生まれている、激動の時代であった。
発掘された新羅の馬具は、こうした時代北九州の豪族たちは、磐井の乱平定後後も、大和政権従いつつ朝鮮とも交流を持っていた可能性がある。
この当時は、まだ大和政権の支配が完全でなかったのかもしれない。
10日土曜日は前日午前3時まで続いた作業で疲れると思ったが、ほとんど疲れはなく、普通に起きた。
そのわけは、副食の9食分の用意ができていないので、それを作らないと、朝食にありつけないためだ。
普段通りに近い状態で起きて、副食を9食分作り、それを使って朝食を食べてから、15分から30分ほど朝寝をした。
TVのアニメを見てからは、前日の続きに取り組んだ。
昼食後は、先に西天満の画廊街を見て回り、その後京阪モールで行われていた、ギャラリズムによった。
ギャラリズムを見るまえに、前日も行ったジュンク堂でワードとエクセルの初心者向けの本を購入した。
帰宅後は夜食後PCのセットアップに没頭した。
夜11時からEテレで放送された、北九州の古墳で発見された新羅系の金製の装飾馬具の特集に見入った。
この話は、以前確かクローズアップ現代でも取り上げられたように記憶している。
磐井の乱については、原田大六氏の本を読み多少の知識があったので、非常に興味深かった。
5世紀前後、高句麗 、新羅、百済、伽耶と倭の間で様々な政治軍事関係のことで、交流と対立があった。
しかもその関係は、中国情勢からも大きな影響を受けた。
中国・朝鮮半島の動きと倭=日本の成り立ちは、弥生時代から影響を受けて動いていたのは間違いない。
しかも最新の研究では、朝鮮からの一方的な流れだけでなく、倭人なり倭国の勢力が朝鮮半島南部(今のの伽耶諸国(釜山一帯)と強い交流を持っていたらしいことがわかっている。
新羅も伽耶近くの小国連合が統合してできた王国で、後日新羅が百済や高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一することになる。
倭国は、唐、新羅連合軍に攻められて滅亡寸前だった百済に大規模な援軍をだし、倭と百済の連合軍は白村江の戦いで破れる。
その後、倭は新羅・唐の侵攻を恐れ、北九州から瀬戸内や河内の高安山に大規模な朝鮮式山城を造営し、都も近江に遷都した。
この時期に多くの有名な万葉秀歌が生まれている、激動の時代であった。
発掘された新羅の馬具は、こうした時代北九州の豪族たちは、磐井の乱平定後後も、大和政権従いつつ朝鮮とも交流を持っていた可能性がある。
この当時は、まだ大和政権の支配が完全でなかったのかもしれない。
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