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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句の鳩は十二季を飛ぶか?(俳句と川柳と短歌における語彙の比較) 沼谷 香澄

2023年10月24日 | 日記
 2023年に入って、俳句と川柳の実作を始めました。俳句は結社の会員になり、結社誌に句稿を出し、吟行やオンライン句会に実作を出しています。川柳は教室に通って一か月に一回の指導を受けています。自分の手を動かしてみて、できたものに対する意見や指導をもらいながらの形をとったおかげで、やはり予想しなかった気づきがありました。

●語に含ませる時空的なものの小さい順から大きい順に、川柳→俳句→短歌 となる。

同じ単語が、3詩形でどのように使い分けられているかを探ってみたいと思いました。

(1)シンギュラリティ(→失敗)

 最初に思いついたのが「シンギュラリティ」。技術的特異点と訳されて、物理学やITのジャンルで最近よく聞く言葉です。

白菜と鶏の水炊き シンギュラリティ                   暮田真名『補遺』2019
チョコワから真顔でこっちを覗いてるシンギュラリティ後のシンギュラリティ 榊󠄀原紘『セーブデータ』2021

 川柳と短歌です。どちらも食べ物とシンギュラリティが組み合わされていますが、この作者、お二人は一緒に活動されることも多い方たちなので、もしかしたらこれは偶然ではないのかもしれません。
 そして、俳句には、見つかりませんでした。人間側から見て結構思うところのある語だと思ったのですが。あと、ゆっくり読めば中七、早く読めば下五に収まる、使いやすい語だとも思ったのですが。ちなみに「シンギュラリティを使った俳句」でググると、AIが作ったという俳句が大雨のあとの側溝のように流れていって辟易しました。
 せっかくなので少しだけ鑑賞しますと、川柳の方は、読み終えてこれからこのシンギュラリティ(の語)に何をさせようかなと心が動き、短歌の方は、このシンギュラリティはここで何をしているのだろうと考えるかなと思いました。読後、すでに持っている情報量が、詩形の長さに比例しています。

(2)こおろぎ(→失敗)

 つぎに、「こおろぎ(こほろぎ、蟋蟀)」という語を使った作品を探してみました。

こおろぎを支配しすべて裏返す                     平岡直子『Ladies and』2022
こほろぎのこの一徹の貌を見よ                     山口青邨『庭にて』1955
同じをどこまでも鳴く蟋蟀こおろぎのわれのねむりにはぐれてゆきぬ       吉川宏志「叡電のほとり」2023.10.10

 なんとか三詩形そろいましたが、現代俳句に見つからないことに驚きました。私の持っている数少ない俳句関連の雑誌や句集には、なかったのです。、なかったのです。山口青邨の句はググって見つけました。掲載句が強すぎて、この句の後にチャレンジする人がいなくなってしまったと推測します。コオロギは堂々たる季語(三秋)ですが、あの姿かたちであの声(いや音)なのでいろいろと詩情を呼ぶと思ったのですが。これは困ったぞと思いました。
 ちなみに吉川さんの短歌はふらんす堂のウェブサイト連載記事からなので、新作だと思います。余談ですが、虫とボーカロイドは、歌うのに呼吸を使わないので、いくらでも伸ばせます。ずるいですね。
 平岡さんの川柳にいるこおろぎは、鳴いておらず、小さく無力な虫の代表としておかれているようです。山口青邨の俳句にいるこほろぎは、接写レンズ的な主体の目(というかにらみつける心情)を通して描かれています。吉川さんの歌の蟋蟀は、声だけが続く存在として限定されています。コオロギのビジュアルを思わせないので歌が美しいです。

(3)鳩

 次は「鳩」にチャレンジです。

母笑う鳩や汽笛をこぼしつつ                      なかはられいこ『くちびるにウエハース』2022
こんなときだけど鳩の脚ピンク 
鯉が来て鳩が来て広東語をしゃべる

よく動く駱駝の顎と鳩の首
一茶忌の朝日の橋を渡る鳩                       佐藤文香『菊は雪』2021
ふくらむ鳩アコーディオンの襞に塵
風に色なし像に聴衆めく鳩ら
微笑んでゐるのは春の三鷹駅けんけんぱつと鳩がゆきたり         睦月都『Dance with the invisibles』2023
白い鳩売るこの店の顧客名簿マジシャン含有率高し            田中有芽子『私(わたくし)は日本狼アレルギーかもしれないがもうわからない』2023
長閑のどやかな朝鳩達が車体ぎりぎりをるチキンレースをやめない

 鳩は少し句集歌集をめくったら出てきました。鳥は花鳥風月のメンバーで、鳥である鳩は、季節にあまり結びつかない、また、身近である故に好まれも嫌われもする微妙な立ち位置の生き物だと思います。
 なかはらさんの川柳句集には鳩の句が四句ありました。引用一句目がよいサンプルになると思います。これ、お母さんが、鳩や汽笛をこぼしながら笑っている、と私は読んだのですが、つまり、鳩は笑い声の比喩として使われているだけです。が、お母さんの笑う姿が周りに作り出す空気になにかすさまじいものを感じることができるのではないでしょうか。
 佐藤さんの俳句句集における鳩は、川柳の時のような道具としての単語ではなく、生きて動いている鳩としてそこにあり、その鳩をみている主体(人間)のまなざしを感じます。
 短歌の鳩は、探せばいくらでも出てきますが、最近の歌集から二人の作品を選びました。特に考えず、対極の作風と思って2歌集を選びましたが、睦月さんと田中さんは同じかばんの所属でした。改めてかばんの会の懐の深さ(または底知れなさ)を感じます。現代短歌の場合、そこで鳩が描写されても、実景とは限らないし、主体が心情的に寄り添っているとも限りません。
 睦月さんの作品において鳩は、春の三鷹駅前に置かれて目立つ演技をしていますが、読者がその鳩という語の意味や役割について、妄想をたくましくする余地はそれほど残っていないです。田中さんの一首目も同様で、というかさらに拘束度は上がっていて、手品用に店で売られる鳩の話になっています。二首目、ガラス窓や車にぶつかって死んでいく鳩は本当に多いので勘弁してほしいですが、ここの鳩たちも、初句の「長閑やかな」をひっくり返す役目を担っています。
 このように、川柳から俳句へ、短歌へと、詩形が長くなるにつれて、言葉が多く使われる分、抱える文脈が増えて、語の自由度と言うか解釈の余地が小さくなっていきます。理屈で考えてもその通りなのですが、短歌を作り慣れている身から、いざ俳句や川柳を、とやってみるときに、語に何を負わせるかが本当に違うのだなあと感じた次第です。

●まとめ 詩形が短いほど、強い語彙の選択が可能である。

 短歌は作者の生きる姿勢にまで影響すると言われ、それに反発する気持ちを持って創作する人は少なくないと思います(私もそのひとりです)が、文が書けてしまう長さで詩を書こうとすると、きちんとした物言いが求められるのかなと想像します。いえ、分別くさい文体をよしとするわけではありません。自分の内心に正直でないことは書きにくい傾向があるという意味です。

 俳句は、短くて文が書けるほどではないですが、川柳よりも芸術性が高いという位置づけで(発句の性質を踏襲しているため)、ということは、作者の美意識を載せることになるので、やはりあまり変なことは言えない感じです。しつこいようですがこれも客観的に言って荒唐無稽なことが言えないという意味ではなく、自分の美意識から外れたことは自分の名前を付けて発表しにくいというニュアンスだと取ってください。

 そして川柳は一番実験性を高めることができるように感じています。連句における平句がどういうものであるか考えると、そこまで巻かれてきた流れを受けて、季戻りや打越を避けて、句去りに配慮して、読んで面白いものを書く、というのは、パズルともゲームとも近いものがあります。いま目の前にあるこの場所にこのような言葉を置くことができるという提案は、間違いなく自分が行ったものですが、可能性の提案に作者の署名が付いた、という以上の詮索(詮索)は控えられると言っていいと思うのです。

 それで語彙の強さと今言ったことの何が関係しているのかと言いますと、短歌→俳句→川柳の順で、後ろの方が、より思い切った語彙の選択が可能になる、と私は感じています。責任、というのはあまり嬉しい言葉ではありませんが、使った語彙に対する責任の重さが、後ろに行くほど軽くなるという感じです。その軽さを使って、言葉に思い切った冒険をさせてあげられる。いま短歌・俳句・川柳の微差をみてきましたが、これが、短詩全般の実作のだいご味といえるかもしれません。


*引用作末尾の西暦年は句集・歌集の刊行年です。

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