「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 外部から見た俳句の世界 平居謙

2015年01月25日 | 日記
はじめに
1 勝手に選者! 
2 幻句会で手を挙げる
3 批評・座談の驚愕と衝撃
4 特に時事俳句に関して
おわりに

はじめに

 俳句の世界では、どんなことが話題になり、どんな句が評価されているのか。長らく詩は書いてきたけれども、俳句世界の全体像は分からない。そこで角川「俳句年鑑」を買った。年末、電車の中でも家でも道でも勤務先でも、頁を繰っては○印や×をつけ、ばきばきと折り目を付けた。元々分厚い本が、ずいぶんと歪な形に膨らんで、表紙の羊のイラストが可哀想なまでにぼろぼろになった。「現代詩年鑑」を読んで「これが現代詩の全部」と思ったら、面白い詩人や作品を見失うことは経験上よく知っている。だから「読んだら俳句の全体に少しは掠るだろう」くらいに考えることにした。絶対視しない、ケイベツもしない。そう思って読んだら、とても楽しい1ヶ月になった。
 本稿では、第1・2節には「勝手に選者!」と題して僕の選んだ「秀逸三十句+α」とそれに関する短いコメントを挙げる。句の後ろ、( )内の数字は、角川「俳句年鑑2015」のページ数。次に「批評・座談への感想」を付し、最後に時事俳句に関して思うところを述べた。俳句を論じるのに俳句を作ってなきゃ駄目、というわけじゃないだろうけれど、批評軸を知っていただく意味で、拙句を自己紹介として以下に挙げる。デスモスチルスは古代獣。ブルース・リーは1970年代に彗星のように現れて消えたご存知憧れのカンフーマスターである。

蕗の薹 デスモスチルスの鼻の先        
急流や 皇帝ダリアを抱く午後
浜日傘 中心に挿す以外なし
突き指のブルース・リーと夜濯ぎかな
温め酒飲めば隣に裕次郎
               謙

1 勝手に選者!

 角川「俳句年鑑2015」から、1席~3席を発表いたします!選者は勝手に平居謙。さすがに選りすぐりの中からさらに振るいにかけただけあって、いいモノが並びました。

1席  プリンター「賀「賀「賀「賀「賀「賀と賀状書く   蔭山 恵 (p260)
2席  鯛焼といふ詫び状に似たるもの           佐藤郁良 (p393)
    旅人を深く睡らせ月の谷              天野小石  (カラー頁秋)
3席  れんこんの穴を残して食べたまえ          コマダキョウコ (p441)
    父のする変な体操小六月              仲 寒蝉  (カラー頁冬)
    黙禱の立ち位置ゆらぐ原爆忌            嶋田麻紀 (p144)

 1席は「プリンター「賀「賀「賀「賀「賀「賀と賀状書く」。いろんな解釈があるだろうけれど、僕は「ミスプリント」と読んだ。「賀「賀「賀…と出てきた時の、私の焦った気持ちが面白い。あ、早く用紙取らなきゃ、ストップボタンはどこ?!そんなことを思って焦っているうちにガガガガガガ…!何枚も用紙が無駄になって、お正月!詩にも視覚詩というジャンルがあり、「皿皿皿皿皿皿皿皿…」の高橋新吉や、「るるるるるるるるる…」の草野心平などの作品が有名だ。確か俳句でもそんな試みがずっと昔あったと思うが、こんなに生き生きと、聴覚までカバーするのを見つけると、現代俳句の水準に驚かざるを得ない。

 2席前者「鯛焼といふ詫び状に似たるもの」は、「鯛焼」という「まがい物」の悲哀をよく表現しつつも、その開き直り香ばしさも匂わせる。この詫び状は煮ても焼いても食えない奴じゃなく、そのまま頭から食えるもの。しっぽまで餡たっぷりなもの。詫び状に対して作者はあくまでも中立だ。この淡々とした眼差しが何とも気持ちがいい。

 2席後者「旅人を深く睡らせ月の谷」は極めて正統的な俳句だろう。地味な中にも安らぎがある。とっぷりと暮れた夜の村。布団に身を沈め疲れを癒す旅人。現在では「旅人」も「深い眠り」も「」も見つけにくい。パラダイスというものはぎらぎらしたものではなく、こんなにも静かなところにあるのだ。と知らせてくれるのが俳句の力なんだね、きっと。

 3席1句目。「れんこんの穴を残して食べたまえ」れんこんの穴残す、という発想で勝負あった。ユーモラスであろうとして大コケする作品も多いけれど、この句は大丈夫。驚きは小手先だけでは作れない。知的に処理された新鮮な感動がある。『ドーナッツの穴』でも議論を呼ぶのだから、れんこんみたいに沢山穴があればさらに凄い!

 2句目「父のする変な体操小六月」父本人は至って真面目。真面目すぎて外部からは滑稽に見える、というのはユーモアの重要な構造だ。「変な」という表現の雑駁さが気に掛かるが、その隙間がまた可笑しさを作り出しているのかもしれない。

 3句目「黙禱の立ち位置ゆらぐ原爆忌」大変な時事俳句。ちょっと硬いので、3席に採ったが、提示する問題の本質から考えれば、1席や2席に置いても不思議ではないのだ。これに関しては、第3節で詳しく考えたい。


2 まぼろし句会で手を挙げる

 同じく角川「俳句年鑑2015」の、僕が選んだベスト30。後ろに寸評を付した。それぞれの句に寸評を書いていると、今ここでまぼろしの句会が開催されていて、自分が手を挙げて発言しているような錯覚。「いや~本人はそんな風には思ってもみませんでした~」と後で作者に明かされているような不思議。何だか得した気分です。

馬老いて虚空の露を舐めるなり   吉本伊智朗 (p37)
ただ口をもぐもぐさせている馬の空ろな表情が目の前に浮きあがってくる。

春風も閻魔もなんてことないわ   坪内稔典  (p51)
風が吹いても痛い、という痛風地獄を煩う人物の強がりのように読むと滑稽。

香水を嫌がつてゐる仁王かな    高橋将夫  (p60)
バスツアーで寺社めぐりするご婦人に、仁王様も近頃は辟易としているのだ。

モンゴルの草原に似てパンの黴   仲 寒蝉  (p78)
パンの上に無限に広がるモンゴルの勢。角界にも新星がどんどん誕生する。

花冷の床屋のほそき鋏かな      兼城 雄  (p102)
鋏の不気味なまでの静けさが、緊張感を高めている。志賀直哉の『剃刀』のよう。

韋駄天の父の血引かず運動会    安部元気  (p110)
なんだかちょっと、お父さんに申し訳ないような気がしてきました。息子の気持ち。

踊子のひとりは銀河より来たり   明隅礼子  (p112)
いいねえ。銀河より来た踊り子に、是非逢ってみたい。なんだかレトロな響きがある。

病む馬のたてがみへ降る流れ星   石 寒太   (p117)
流れ星が鬣に降るとその馬はたちまちにして若い力を取り戻す。そんな伝説を想像する。

恋の夢覚めて炬燵の脚がある    大石香代子 (p124)
長年連れ添った老夫婦が、炬燵で昼寝している図が目に浮かんでくる。うちの両親もそうだ(笑)。

冬の少年冬の少女に跪く      大木孝子   (p125)
難解のようでいて、実は「冬の」を取り去れば、意外と生き生きとした現実。Boy meets girl!

マスクして何を考へても自由    佐藤博美   (p140)
そうか、自由なんだ。何してもいいんだ。いや、違う。いいのは「考える」だけ。妄想三昧。

その昔サーカスの来し春の泥    島谷征良   (p143)
これも懐かしい風景。物悲しさの中に、わくわくするものが確かにあったのだ。

セクシーに投票箱は冷えてゐる   関 悦史   (p147)
時事的視線を最大限に生かした作品。そうか、セクシーと言えばいいのか。はっとする感覚。

■朧夜や魔女伝説を疑わず      高尾秀四郎  (p149)
期待通りの闇夜です。確信に満ちた構図です。その強さ、ブレのなさが魅力だと思います。

春愁やシーラカンスの後退り    中田尚子   (p160)
シーラカンスがいるだけで驚くが、後退りされるともう、居た堪れないほど物憂げになる。

■少年のような青空苺買う      行川行人   (p162)
ぱっと世界が変わるほど、目が覚めるほど明るい詩情。青と緑と赤と黒。色彩のコントラストが美しい。

古里は死よりしずかに桜咲き    鳴戸奈菜   (p163)
古里に桜の蕾が開き弾ける音が聞こえてくる。「しずかに」とあるのに、僕はこれを読んで爆音を想像する。

サングラスかけるを忘れ街に出る  坊城中子   (p172)
誰かに見られちゃいけない脅迫観念。または怨敵紫外線。さりげないところに様々な敵が潜む。

絶筆のごと寒鯉の尾ひれ揺れ    堀本裕樹   (p173)
誰かが「絶筆」する瞬間!尾ひれの揺れは、よく見ると死への痙攣を内包しているのだ。

太陽を使ひ切つたる子供の日    山本一歩   (p186)
私が?それとも目の前にいる子供が?太陽を使い切るとどうなるのだろう。爽快と絶望のアマルガム。

臆病な飛魚だっているきっと    浦田姫佳   (p277)
臆病さは、飛翔への第一条件。それを克服するために繰り返し試行する動的なざわめきが鮮烈。

あるときは道標となる雪だるま   星野高士   (p279)
あるときは、雪に埋もれて雪だるま。本稿を書いたお正月、京都は数十年ぶりの大雪でした。

先生の遺書にルビあり青嵐     北川美美   (p350)
遺書にルビがあるという不思議な悲しさ。漱石『心』のことは封印して別の場面を想像する。

古里はどの道も坂夏木立      磯野貞子   (p375)
以前は、そうでもなかったんだよ。知らないうちに坂道が増えたのさ。きっとそうさ。

十二月魔法のランプなら買ふよ   葛生みもざ  (p378)
年末は何かと物要りですしね。。。でも、魔法のランプなら何をおいても、僕だって!

母の日やエプロンはもう呉れないで 山本千勢   (p386)
そういえばエプロンは家事労働の象徴。プレゼントとは言えない。身近なフェミニズム的視線。

先生に体当たりして卒園す     呉竹弓夫   (p388)
本人は体当たりしている自覚がなく、もう体当たりしちゃあいけない立場の大人がこれを描写するのだな。

孑孑や水面の裏にぶら下がる    市ノ瀬翔子  (p395)
僕は、この句を読むまで水面に表と裏とがあるとは知らなかった。「A面で恋をして~♪」

カーネーション母である事面映ゆく 大島慧子   (p440)
面映いけれど、その底にはカーネーションへの喜びが滲み出ていてとてもかわいい句に感じる。

絵の中のユダを探すや冴返る    平井洋子   (p520)
どれがユダ?最後の晩餐を見て父とよく話した幼年期を思い出す。ユダの罪に戦慄が走る。

 3 批評・座談の驚愕と衝撃

 「俳句年鑑」には周知の通り、批評や座談も掲載されている。その中からいくつか気になった部分について触れておく。
 まず句評では、若手を評している櫂未知子の句評に読み入った。所属ばかり尋ねられて、個性などどうでもいいように感じたという櫂自身の体験を基に語られているこの句評は、「大したことがない」というタイトルが付されていて、大いに挑発的に見えた。しかし、そうではなかった。個性など問われなかったのは、実は「大したことがない」ということを若手が自覚するためにベテラン勢が教えてくれた大切な教訓、といったニュアンスで彼女は語ってゆくのだ。「日々、山のように句が生まれ、消えてゆく。自分がいてもいなくても俳句が続いてゆくことを、若い世代ほど自覚すべきだと私は思っている。」というフレーズでこの句評は閉じられている。「大したことがない」と後の世代を諭す俳句の世界。まるで徒弟制度さながらの堅固な世界。限りない奥の深さに僕は軽くない驚愕と衝撃を受けた。
 橋本榮治・横澤放川・津川絵理子による鼎談「今年の秀句、そして諸問題」も興味深く読んだ。
 
 橋本の発言で面白かったのは以下の点。
①俳句の本質は「隠す」という点にある
②俳句というのは天地異変を直接詠む詩型ではない
③これまで八十、九十代の人々が高齢で俳句が作られることはなかったので新しい可能性がある

 横澤に関しては次の3つ。
④理念が受け継がれないならば、その結社はやめたほうがいい。
⑤若い人たちは(句史に関して)極めて勉強不足だ。それを理解しない限り自分の位置も分からない。
⑥結社内に必ず自分の句を理解してくれる人がいるという感覚が大切。

 津川は遠慮がちに語っているが、3つ挙げるならば以下の点。
⑦結社は縛りが厳しいイメージがあるが、年上の人々から学ぶところが多い
⑧師を亡くしても、心の中で対話することで関係が継続する
⑨俳句と、俳句以外の世界の人たちとの対談などが面白かった

 それぞれについて軽くコメントを付す。2節ではまぼろし句会が開催されたが、ここでは鼎談に、時空を遡って僕も乱入してみよう。

①俳句の本質は「隠す」という点にある
 今のままの、選句ゲーム形式を基盤とする限り、それは真実だろう。逆算すれば、隠さなくて済むためには、選句形式を一掃することを視野に入れれば新しい可能性が開ける。でもそうすると、句会自体の緊張感がなくなり面白くなってしまうかも。代替案としては、同一人物の10作品を、どれがいいか選んでゆく形にする、などの工夫も考えられるな。「対決」させないと判断できない、というのは、年柄年中、「詩のボクシング」しか詩の合評会でやらないようなものだから、ちょっと発想が偏ってくるよね。

②俳句というのは天地異変を直接詠む詩型ではない
 短いからな。何かを主張したいならば、解釈の幅のある「文芸」で言うこと自体がナンセンス。そういう意味で詩人でも俳人でも、社会的な発言をするためにはちゃんとした散文がきっちりと書けることが必要で、TPO考えずにどこでもここでも誌や俳句発表で発表してたら、戦力的には弱いのは明白だ。

③これまで八十、九十代の人々が高齢で俳句が作られることはなかったので新しい可能性がある
 これは俳句に限らず、例えば疾病なんかでも、高齢化することで大きく分布図が変わってきている。

④理念が受け継がれないならば、その結社はやめたほうがいい。
 宗教における現行理念と、教祖の理想との落差を考えれば、理念が生き残るということが奇跡に等しいことだということは自明。横澤の発言通りで、理念が継がれないなら止めたほうがいいだろう。というより、結社自体を止めたらどうなんだろう。まあ、僕は口を挟むことではないけれども。

⑤若い人たちは(句史に関して)極めて勉強不足だ。それを理解しない限り自分の位置も分からない。
 若い人が勉強不足なのは、現代詩の世界でも同じ。「好きな詩人は誰?」と言っても出てこない人もいる。
 それに比べると、俳句の世界は優秀じゃない?もっとも、ただ、俳句を作ってるだけの人もいるだろうけれど。しかし、そういう人が駄目なわけじゃないということは肝に銘じる必要がある。勉強している人としていない人は、異なる俳句を作る道に別れてゆくだろうけれど、優劣は付けられない。好みの問題だから。ただ、不勉強の故に、批評家の意見を鵜呑みにするということがあるとすれば、それを避けるために最低ラインは押さえて置くべきかもしれない。結局は、圧倒的な自信がないなら、ある程度は勉強しろ、という極めて妥協的なところが妥当なところだろう。

⑥結社内に必ず自分の句を理解してくれる人がいるという感覚が大切。
 ま、ひとりで書いていると大抵の人はやめてしまうかつまらなくなりますから。

⑦結社は縛りが厳しいイメージがあるが、年上の人々から学ぶところが多い
 そういうのに体質的に合う人は俳句に、合わない人は現代詩にいく、と僕は長年漠然とそう思っていたのだが必ずしもそうではないことは、現代詩にも「みんなで一緒に」的人々が多いことからもよく分かってきた。これは僕には意外な発見だったのだが。

⑧師を亡くしても、心の中で対話することで関係が継続する
 これは気高い魂の発言だと思う。俳句の世界に限らないだろうけれど、これがなければジャンル自体が成立しない。詩や俳句が語られる場所は、ますます「教室」の割合が高まっている。いい師に出会うことだ。

⑨俳句と、俳句以外の世界の人たちとの対談などが面白かった
  ここで言われているのは、例えば「民俗学」などとのつながりのことである。そういえば僕は先日句会で「目目連」(障子のお化け)という言葉を使ったのだけれど、多くの人が知らなかった。伝統的なものは年配の人たちはよく知っているものだと勝手に思い込んでたからちょっと面食らった。でも考えてみれば、僕自身も、水木しげるの漫画を通して知ってるだけで、親から子供へ、子供から孫へ、という伝わり方ではないわけだ。何を共通の文化と考えるか。歳時記は発想としてはいいと思うけれど、それだけでは深みを手に入れるには不十分。本気でやるならば、世界を広げつつ、自選の歳時記を作ってゆくべきなんだろう。

 こうして、座談に「乱入」してみると、横澤放川の発言が面白かったような気がする。概して正論的発言が多かったが、逆に言えば、それだけ「世界の確認」には打ってつけ。タイトルにある「諸問題」がうまく整理されてそこにあったということだろうか。

4 原発俳句の提示するもの

 第1節の最後に置いた

黙禱の立ち位置ゆらぐ原爆忌            嶋田麻紀 (p144)

に関してこの第4節では述べたいと思う。反核ということに関して、日本は唯一の原爆被爆国として世界にアピールする立場にあったし、それが期待されてもいた。或いは使命でもあっただろう。しかし原発事故とその後の事故対応、核対応によって、黙禱の立ち位置が揺らぐ。「原爆反対」「核兵器反対」を訴えても、当の国家が原発事故の後でさえ経済優先で再稼動を推進していては、海外から見て何の説得力も持たない。それはちょうど原発事故によって、日本の科学技術への信頼度が吹っ飛んでしまったのと似た図式にある。作者の意図を特定することは出来ないが、2014年―2015年現在においてこの句を読むとき、東日本大震災あるいはそれに伴う原発事故を目巡る国家の信頼度の変化。それらを加味して読まれる運命にあるし、そうすることによってこの句の潜在力が格段に増加するのである。そのような意味においてこの句は、2011年の原発事故という借景を言外に得て、大きく化ける。原爆に関する句であると同時に見事な原発句でもある。
 このことを第1節で述べなかったのは、この「年鑑」には他にも多くの原発句が散見し、これらとセットで述べるほうが有効だと考えたからだ。
年鑑の「巻頭提言 俳句のユーモア」で小川軽舟が以下のように述べている。

 今年の俳壇の最大の話題は、高野ムツオの句集『萬の翅』、とりわけその震災詠が俳壇内外から読売文学賞と蛇笏賞を受賞したことだろう。

  もっとも「みちのくの今年の桜すべて供花」という句に関しては以下のように否定的に述べているから、個々の作品のあり方の問題であることは言うまでもない。

 美しい鎮魂歌ではある。悪い句だというつもりはないが、この句には読者に同じ方向を向いて慟哭することを求める強引さがあるように感じてしまう。

 一般論として、震災のことを出してきたからと言って即座にそれが作品にとってプラス要素になる訳ではない。また、誰も否定できない題材を詠むことでNOを突きつけることを躊躇させるというやり方自体もそもそも拙いのだろう。震災以降限りなく繰り返されてきたであろう論議を蒸し返さねばならぬほど、確かに震災題材の句が目についた。いくつかを並べてみた。ただ、後で述べるが、ストレートに読む限りにおいては秀れたものとは言えないものも含まれている。しかしそれらも「一定の工夫」の上で読まれることで大いにその意義が立ち昇ってくる。

放射線飛ぶとも見えず初御空       佐藤安憲   (P456)
セシウムの語呂のさびしさ水母鳴く    野ざらし延男 (p459)
原爆忌被曝フクシマよ生きよ       金子兜太   (P252)
   ④震災忌原発忌いや人類忌         高野ムツオ  (p253)
原発などそもそも吾等草の露       長岡 由   (p256)
   ⑥原子炉の裡の真闇に雪とどかぬ      奥坂まや   (p268)
   ⑦福島にうまき酒あり初鰹         中田尚子   (P363)

 「原発」「フクシマ」「セシウム」を連発することで、社会性を帯びるとは誰も考えていないだろう。繰り返すが上に上げた①~⑦の句の中には、ストレートに読む限りにおいては、それほど評価できないものも含まれている。にもかかわらず「年鑑」の秀句として採られているという現実は何か。実際に心動かされている人がそこに何人もいるということなのだ。
 そこで、僕は頭を捻って考えた。その結果、原発句(に限らずもしかすると時事俳句全体?)というものは、おそらくは秀逸なパロディとして読めばいいのではないかという仮説に辿りついた。すなわちここに挙げた句たちの中の、「一見高評価に値しない句」も、読者がついつい走ってしまいそうな「間違った発想」を一旦 「お手つき」という形で示してくれる反面教師なのだと考えるのだ。みんなの先頭に立って、認識の過ちを自らそれを実践することで示してくれる。そう考えると、これらの句の存在価値が突然現れてくる。これが先に言った読み方の「一定の工夫」である。

放射線飛ぶとも見えず初御空       佐藤安憲   (P456)
 京都の職場の近くで、昼食をいつも食べに行っている飯屋の女将さんがある日こう言った。「この魚綺麗やろう?(産地に関して)いろいろ言う人いるけど、私は綺麗やったらええように思うんやけどな」それで僕は、そこでこれからも昼食を食べるかどうか、躊躇している。女将さんが、仕入れ先から「表面の綺麗さ」だけで判断しているとしたら、ちょっと安全性が心配じゃないか・・・。僕たちの目で見えるものなんか、所詮知れてるのだ。けれども、どこか、目に見えなければ間違ってないよう僕たちも勘違いしてしまい易い。「今日の空気綺麗だ。セシウムが含まれているように、全く思われない。」もちろん佐藤はそういう「見えないけれども潜んでいる放射線」を直視し、それについて感慨・憤慨しているのであって、飯屋の女将さんとは違っている。違っているけれども、ついつい陥り易い発想を読者に警告してくる役割は持つ。

セシウムの語呂のさびしさ水母鳴く    野ざらし延男 (p459)
 セシウムの語呂のさみしさ、といわれるとどことなく、納得しそうになる。しかし、そんな情緒的な感覚こそが目を曇らせるのである。作者がこのように過度に情緒的に先行してくれることによって、読者はその欠点を笑い、自分自身がそうならないための文字通り反面教師として用いることが出来る。

原爆忌被曝フクシマよ生きよ       金子兜太   (P252)
 「生きよ」という言葉が「上から目線」に聞こえてしまう。何様なのだという気さえする。「立ちあがれ」 「頑張れ」 というような言葉を投げかけることでは何も生まれてこないことは作者もそれは知っているはず。それなのに金子はそう書く。誰か=作者が書いてくれるから読者も反論できるのである。極めてありがたい警鐘である。

震災忌原発忌いや人類忌         高野ムツオ  (p253))
 「人類忌」、という大きな言葉が恐ろしい。そういう言葉が生まれてるとすると、それを悼んでいるのは一体誰?・・・ということになるのだ。「かつて人類というものが地球上に居たらしい。」こういう事態だけは生んではいけない、と書きながら、もはや限りなくそれに近い状況に今あることが分かってくる。

原発などそもそも吾等草の露       長岡 由   (p256)
 この手の理論によれば、ありとあらゆる難問は「草の露」なのだから、で流してしまえるわけだ。これをやっちゃあ、お終いでしょう。と、言うことくらい作者はお見通しで、もう一次元高いところから、この認識自体を嗤っていると読むのである。もっともこの句に限って言えば、もともと原発が、周りの人間のことなど草の露としてしか見ていない、と読むことでシンプルな原発批判ともとれる二重性を内包している。

原子炉の裡の真闇に雪とどかぬ      奥坂まや   (p268)
 殺人事件の犯人などについて語る時に多用される「心の闇」という言葉が結局は何も語りえないのと同様、原子炉の闇、なんていう言い方は、全く意味のない表現である。という自明の理に対して、知らん振りを決め込みストレートに句中に持ち込む。その「無垢の清清しさ」の演出として、この句は存在価値がある。雪が届いたらどうなるのだ?魔法が掛かったように、リセットされるとでも言うのか?しかし、心配はない。届かないのだ。

福島にうまき酒あり初鰹         中田尚子   (P363)
 今僕が気をつけていることは、できるだけ産地不明な食物は口にしないということ。小さなセルフディフェンスしかできずもどかしいが、国も企業もデータを明らかにしないのだから仕方ない。ところがこの句には「福島のうまき酒」「初鰹」という語が現れ、かつての美し国を懐かしく感じさせる。今僕は「この酒は旨い」とは入れるが、残念ながら「この福島の酒は旨い」と声高に言う、否、それを注文して飲む「勇気」は持てないでいる。句としての出来、不出来とは別に、「福島の」という過剰にも思われる語の意味について考えさせる。

 おわりに

  2013年9月から京都の句誌「きりん」に参加した。人生の先輩が多く、この年にして最年少である。いろいろ親切に教えていだだける。月に2回の例会があり、必ず豪華な飲み会がある。それで居心地よく続けている。また、調子に乗って僕が編集する詩誌「Lyric Jungle」に「Jungle句団」というコーナーを設け、俳句の書き手を少しずつ増やそうという企画まで始めた。2014年は僕にとって 「俳句の年」に他ならなかった。ただ俳句に関しては「俳壇」というものは埒外として勝手気ままにやろうと思っていた。が、森川さんのリクエストでこの「俳句評」を何度か書くことになり、俳壇を一瞥してみようという気持ちになった。
 実は本稿は、これが発表されてしばらく経つころに三回忌を迎えるある俳人に関する論のための「前提」として書かれたものだった。はじめに軽く「年鑑」で現状を整理し、俳句の世界に関して知識の補充をした上で該当の俳人について述べるつもりをしていた。しかし、書き進めるうちに、あまりにも分量が増え、この上に「本編」を加えることは、読者にとっても当の俳人にとっても好ましくないように感じ始めた。それで、前提の部分だけを切り離し、「外部から見る俳句の世界」と多少逃げ口上的なタイトルをつけた。
 そんな理由から「俳句年鑑」を評した奇妙な文章になってしまった。「はじめに」にも例で挙げたが、僕も現代詩の批評などにはちらりちらり目を通すが、現代詩手帖の「年鑑」をはじめから終わりまで論じた批評・批評は余り例を見ない。どことなく「年鑑」自体が総集編のような趣で、年が変わって昨年の年鑑のことなんかについてあれこれ言ってたら取り残されたような感じになってしまう。俳句の世界でもそうなのではないか。と勝手に想像して、それならそれで、珍しかろうと早速、編集室に送る次第だ。
 平居謙による2回目の俳句(時)評は、6月ころアップされる予定である。

平居 謙 プロフィル
1961年生。詩集に『アニマルハウスだよ!』(思潮社)『基督の店』(ミッドナイトプレス)『太陽のエレジー』(草原詩社)他、著書・論文として『高橋新吉研究』(思潮社)『ワンピースに学ぶ仕事術』(データハウス)『「エルマーの冒険」に学ぶ観光』(人間社)など。代表論文に「萩原恭次郎『死刑宣告』研究」(博士論文)。詩誌「Lyric Jungle」編集。

俳句評 俳句と現代詩のあいだ 第二回 宇佐美孝二

2015年01月01日 | 日記
 ■盗むと真似るということ

 初めて詩なり俳句を作るという時、誰でも他人の作品を「真似る」ことから始めるだろう。書店の棚に並んでいる、どこかで聞いたことのある詩人や俳人の本を手に取り、自分でも買いたい衝動が生まれるある日、作品というものを書き始める。そこには自分の蓄積された、詩としての背景がないために当然というべきか、今まで読んだ詩人・俳人の作品の「亜流」になってしまうことは致し方ない。
  さて問題はその次である。ほとんどの作品の書き手は、誰々の影響から脱して次第に自分の「オリジナル」を追求していく。だが作品が本当に「オリジナル」なものかどうか、誰が判断すると言うのか。自分の頭のなかに浮かんだ作品であるから「オリジナル」なのか。では他人も同じような作品を作っていたとしたらどうか。そもそも自分の頭で考えたかどうかという点でも、本当に自信があっての作品なのか・・・。そうなると「オリジナル」なるものはいったい何なのか。哲学的なトートロジーに入り込んでしまうことにもなりかねない。
 現代詩という詩の一分野に生息している筆者の場合も例外ではない。高村光太郎やリルケ、後には川崎洋といった詩を読んで書き始めたが、たぶん最初はとてもオリジナルなものではなかったろうと今になって汗が出てくる。
 回りくどくなるが、書くと言う行為は誰でもが最初からは、オリジナルという視野は入ってこない。中学生、高校生という年齢だと、よほど成熟した人間は別として、その頭の中は既成の概念、既成の言いまわしで占められているはずである。頭にある言いまわしが、「これは使い古された言葉だな」と気づくあたりから、自分の創作に向かう人間はオリジナルという領域にやっと進むのだが、おおかたの高校生あたりでは既成概念に止まってその後の人生を生きて行くことになろう。
 表現するという行為も、悪く言えばオリジナルである必要はない。既成の言いまわしで世の中のことはたいてい事足りる。よしんば「自分の考え方」が重視される社会であっても、表現方法は既成のパターンで結構。要は事がうまく伝達されればいいのだ。周りを見て耳をそばだてれば、そこにはいかにも既製品ばかりが横行しているではないか。一般社会ではむしろその方が都合のいい場合がおおい。システムという言葉は極端に言えば、当たり障りのない既成パターンの言い逃れなのである。
 そこに「創作表現」という表現法が必要になるとき、「オリジナル」なものに視野が行くのだ。既成なものから創造性の領域へ。その境界にあるものの一つが「真似る」とか「剽窃」という行為である。過去、現代詩の世界でも剽窃問題が取り沙汰されることの事実は一つや二つではない。表に出る事例でもしばしば仄聞されるが、水面下ではかなりの数の剽窃問題が現れ消えていることだろう。善悪の評価はあとに述べるとして、筆者の周辺で初心者向け短詩系文学の募集が毎年ある。その詩の選者を仰せつかっているが、あるとき応募者のひとりから匿名の電話があった。印刷された入選作が、数年前のほかの自治体によって企画されているある賞とそっくりだというのだ。その賞の名前を聞き、インターネットで調べてみた。なるほどまったく同じではないが、本来の作品を巧妙に自分の作品に取り入れてあるように思える。注意深く比べてみると、やはりそこに「なぞり」としか言えない情景が見えてくる。芯になる心情が酷似し人物たちの動きもそっくり。言葉の枝葉を使ってうまく配色を違えてある。主観で判断しないよう、ほかの選者たちにも責任者から送ってもらい判断を仰いだ。その結果、やはり「盗んだ」作品だという結論に至った。数年前の、すでに誰からも閲覧されない状況をうまく利用したとも言える。腑に落ちないのは、賞を取り消したものの、主催者側はそのことを公にしないでしまったということである。クレームをつけたがうやむやな返事が返ってきただけであった。

 ■盗作は現代の限られた表現か

  このような事態は現代的な現象であるとも言える。100年前ならどうか。「盗作」「剽窃」ということがあったとしてもあまり問題にならなかったのではないだろうか。なぜなら今は法的な著作権というものが確立されており、「オリジナル」なものへの関心、権利意識が高まっているからである。明治時代に遡れば、始まりは文学的な面やキリスト教的な面から「自我」「固有」という概念が輸入され、日本人の意識は徐々にだが変わっていった(農村などではまだまだ昔からの村意識があって古い体質に驚かされることがある)。こうしたことを柄谷行人は文化的“成熟”という観点から次のように語っている。
  「・・・ところで柳田(国男)がいう「題詠」は「代詠」ともいいかえられるが、実はそれを理解しないかぎり、「文学」以前の文学をけっして理解できないのである。同一の充実した「自己」がないところでは、「題詠」や「代詠」が自明であり、そもそも「自己表現」などありえないのだ。シェークスピアの「自己表現」という考えが出てきたのはドイツ・ロマン派を通してであって、元来そこにはオリジナリティという観念は存在しない。引用、模倣、本歌取り、合作が自在になされている。」(『定本 日本近代文学の起源』(岩波書店・p183-184)
 柄谷の本書での言いたいことのひとつは、日本の近代文学はいかに「自己」あるいは「主体」を育ててきたかということだが、その文脈上での上記の発言である。隘路に入る前に本題に戻れば、「オリジナル」という近代の概念と、本歌取り─引用─模倣等のあいだに横たわる、「剽窃」概念との境界をいかに設定し、その判断をしていくかが重要だと思われる。
 この欄は俳句時評だということなので、現代詩から、俳句のあいだにも横たわる問題を提起したつもりであるが、さらに絞って俳句における剽窃問題はいまどうなっているのか考えてみよう。むかし現代詩に関わり、今はもっぱら俳句をやっている方から聞いたところによると、17文字のなかには無限のパターンがあり、「剽窃」と捉えきるのは難しいことが多いという。一字だけ違えた作品はさらに無限に作られる可能性をもっているわけであり、そのオリジナリティはどこにその根拠を置けばよいのか、ということだろう。単に字面の問題なのか、その姿勢(類想)の問題まで含んでくるのか。17文字の宇宙の中には、短いだけに厄介な問題が隠されている。だが実際には、類句のとなりには盗句が存在することが実証されている。別の友人で、彼の入っている雑誌では内部の同人に盗句が見つかり、盗句した本人が謝罪したということを記載している。
 百歩後退した見方をすれば、明治以前の日本の詩歌において歌とは伝えるものであり、作者の個性は概念としては存在しなかった。「・・・平安時代には歌合が、中世には連歌が、近世には俳諧がそれぞれいずれも共同の場の文学として出来ている。時代が進んだからとて、抒情詩の個だけがとぎすまされるという展開のしかたではなかった。日本の伝統詩歌には、本質的には共同体をかかえこみながらその叙情の質をきたえあげていくという特質に貫かれているように思われる。」(『古代和歌の世界』ちくま新書・p45-46)と著者の鈴木日出男は述べている。そして古代の共同体では、「一首一首の表現がたがいに類似しあう現象」を「類歌性」として認めていることを指摘している。古代以来の「共同体意識」と現代の「個意識」という、相反する面を俳句は(短歌も)抱えていることになる。そもそも歌をうたうことは神への供物だったという意識を現代人は知らない。そういう点でも、ヨーロッパにおけるのと同様、表現としての変遷が認められるわけだ。
 したがって文学の「剽窃」という問題はきわめて近・現代的な問題であり、いずれ誰かが(どこかの上部団体あたりが?)その境界の判断基準を設定しなくてはならないと思われる。引用であるか、真似であるか、影響された作品なのか、偶然の結果なのか、そこから「剽窃」という現代としての判断をどう下すのか。「表現の多様性」という見方でみれば、そのひろがりに可能性を狭めることになり、創作欲に水を差すことにもなりかねない。かように事はそれほど単純ではないことはわかるが、現代に生きる人間として表現活動をしている以上、ある一定の基準(モデルケース)は必要かもしれない。表現という行為を見守りつつ、同時に一定の線引きをしていくことが表現者の利益を守り、逆に後進の意欲を高めることになるだろう。


 引用文献:『定本 日本近代文学の起源』柄谷行人(岩波書店)
     :『古代和歌の世界』鈴木日出男(ちくま新書)