「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句甲子園より ひでやん

2023年07月20日 | 日記
 俳句をもう10年ほどやっているが、どれほど鑑賞力がついているのかは分からない。ましてやある意味門外漢である詩について評論をするなどおこがましい気もしている。だが、飛ばなければ飛べないのであるから、挑戦なくして前進もあるまい、という気持ちでお受けした。しかし、書いてみると、そもそも評論などではなく、随筆になっているような気がする。こんなのを皆さんの立派な文章に並べてもらっていいものかとも思う。兎にも角にも拙文ご容赦願います。

 実は、俳句を始める前から俳句とは縁があった。毎年夏、松山で開催される「俳句甲子園」との縁である。もう16年も前になるが、第10回大会。開催方式が現行に近いものに大きく変わったころなのだが、俳句の経験がなくてもできる部分の運営補助として、一般のボランティアを募集することになった最初の年だった。知人が俳句甲子園実行員会のメンバーであったことからボランティアに誘われたことがきっかけとなり、その後実行委員会に入り、現在に至る。俳句甲子園自体も様々ご意見があり、評論が書けるほどなのも承知しているが、ここはそういう場ではないので、そのことは措いておく。

秋立ちて加藤登紀子が愛歌う 白石ちひろ(第1回大会1998年)
カンバスの余白八月十五日 神野紗希(第4回大会2001年)
夕立の一粒源氏物語 佐藤文香(第5回大会2002年)
山頂に流星触れたのだろうか(第10回大会2007年)
草いきれ吸って私は鬼の裔(第25回大会 2022年)

 これらはそれぞれの大会の最優秀句をいくつか挙げてみたものである。第1回は、まだ参加校が愛媛県内の高校のみだったときのものだ。すべて、公式の選評については、俳句甲子園の公式ホームページのアーカイブに残っているので、そちらをご覧いただきたい。
毎回審査員が変わるなかで、その回ごとで相対的にこの句が良かったという評価であるから並べて比較することにあまり意味はない。最近の大会の句に比べるといささか物足りなさを感じるという意見もあるが、やはり四半世紀を経て進化(深化?変化?)しているということはあるだろう。運営に携わっていて感じるところだ。
 第4回、第5回の句は、現在俳句の世界で活躍している著名なお二人の句であり、今でも二人を紹介する際に代表句として挙げられる句である。おそらく、今後もずっと俳句甲子園出身ということで必ず取り上げられる句であることは間違いないものと思う。
俳句甲子園は俳人養成の場というわけではない。そういう機能もないわけではないが、それは野球の高校球児が、その後ごく一部を除いて普通に会社員などの社会人となっているのと同じで、文系で高校時代に打ち込む、仲間をつくる、といった大げさに言えば高校時代の「教育的側面」がある。とはいえ、あくまで俳句が評価されるのであって、「高校生らしい」ことが評価基準ではないことは強く言いたいところである。
 10回大会あたりから、ディベートも洗練されてきて、句もバラエティに富んだものが出てくるようになったという。
 始まりの時期には、まだいろいろと試行錯誤があった時代でもあり、著名俳人や開成高校のような強豪校の句に目が行きがちだが、第1回の「秋立ちて」の句、今見ていろいろ評価はあろうかともおもうが、「素朴」とか言ってしまうと評として陳腐だろうから、公式の選評は見ないで個人的な読みをしてみたい。私がこの句を読んだときは、不思議と加藤登紀子という歌手(のイメージ)と秋という季節が似合っていると感じた。加藤登紀子の歌は恋愛の歌ばかりではないが恋愛を歌ってもなにか哀愁を感じさせ、やはり秋なのである。K音のリズムや固有名詞の力も評価されうる点であろう。
 コロナ禍を挟んだけれど、昨年からほぼ通常通りの開催ができるようになった。一つの懸念として勝負事である以上、勝ちに行くためにチャレンジしなくなるということなのだが、昨年の「草いきれ」の句が地方視点からの日本史のような新しい切り口もあり、高校生たちが日々言葉を紡ぐために言葉と苦闘している様子も垣間見える。
 ちなみに今年の第26回大会は8月19日(土)、20日(日)の開催である。高校生世代の俳句の動向の一端を知る意味でも、一度皆様にご覧いただきたい。(昨年の大会のアーカイブ映像がYouTubeにあります。)