石田波郷の句集『雨覆』を読んでいる。
5句目。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これには、「戦終りければ」と前書き(というのでいいの?)がついている。切れる場所ということについて。「ニコライの鐘の愉しき」で切れて、「落葉かな」と考えるとする。とする、というよりたぶんそこで切れる。それは、これが俳句であるということがわかっているから、なのだろうか。というか、「切れる」ということがある、というルールの把握があって、はじめて、ここで切れるのかな?と思うことができ、切れている、ということがわかってはじめて、二つのものが並べおかれて、何らかの力関係が期待されている、ということがわかるのでは、と、いまあらためて思った。
この句集を読むのに先立って、俳句入門書を読んだときに、「切れ」ということを、しつこいくらいに強調されてはじめて、切れていることを意識することが自分の読み方の中にふくまれた、と、いまあらためて感じた。というのも、俳句というのは、見た目切れていないし、教科書や何かで、「切れ字」だとかなんとかいっても、その当時ではただの知識で、少なくともぼくには、読むときに「わかった」ということをともなって把握されるものではなかったので、はっきりいえば、切れているものをつながっているように意味をとろうとして「?」になっていたわけである。短歌にもそれがある。短歌の場合には、特に、平安時代とかなんでもいいが、ともかく昔のやつには、掛詞があり、一つのことばがそのままで、上の部分の文の一部になり、かつ下の部分の文の一部になるというか、どこで切れるかをわからなくさせる技術が使われているのが普通なのだ。短歌に対しては、切れとかそういうことばを使わないのだろうが、掛詞、縁語、枕詞といった、教科書的には決まり文句として、くりかえしおぼえさせられる「術語」が、短歌の意味を把握するときに、どのように短歌の構造を決めているのか、どう「わかった」に結びつくのか、ということを、わかるように誰もいってくれなかった。いまでもわかっていない。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これ、ほんとうに「愉しき」のあとで切れている、と思っていいのかどうか。「愉し」なら切れているといっていいが、「愉しき」だと、連体形ですか?「落葉」にかかっているとしてもおかしくはない。たぶん常識的にはすでに決まっているのだろうけど、つながっているとして読んだ場合、「鐘の」「落葉」ということになり、一般的な意味としては、「鐘」に「葉」はないので、「おぎなう」か、そのまま読むしかない。おぎなったものを読解として出すには、それらしさ、ある程度の一般的な了解をえられる、たしからしさが必要になる。思いつきでいってみると、鐘に葉っぱがはりついていてそれが落ちていっている状態。とか。鐘の音を「落葉」という比喩でいったもの。とか。想像すればいろいろあるのだろうけど、その幅を放置するのがいいのか、ある程度、こうだといってしまうのがいいのか、わからない。そもそも前提としている、ここで切れていないということが「違って」いたらその幅も成りたたないということになる。それに、ここで「おぎなう」といっているものが、現実世界にありうること的なものを前提としてしまっていることに、ぼく自身窮屈なものを感じるし、無理な設定のようにも感じる。これは、こういうことなのだ、と、そのようにはっきりたしからしくいえるところについては、いったほうがいいと思うのだが、そうでない不確定な部分にまで、現実との照合みたいなものを解答にする読み方は変だろう。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を、切れておらず、かつそのまま読むという場合、「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということを認める、ということになる。思考はほぼ停止していて、それを「あり」とする読み方だ。意味がわかる、という「レベル」を変更することになる。「理解」はしていないが、「そこ」でいい。「ニコライの鐘の愉しき落葉」を、ただ、そのままの意味としてとらえる。これ以上敷衍したら「変わって」しまうので、それをやらないという読み方だ。これを認めるかどうかでいろいろ変わってくる。何が何でも「理解」しないと気がすまないという人にとっては、気持ちの悪いことだろう。思考停止のそのまま読みだ。
この、そのまま読みは、別の角度からもう少しいうことができるようなものなのだろうか。いまこの句が、そのまま読みを求めるものである確率は低い(先にいったように、「切れ」がある確率のほうが高い気がする)ので、その方向での押し切り説明も、言を弄していることになるかもしれないが、一応考えると、1)この作品がどのようなものなのか、いいかたをかえると、どのような意図で書かれたものなのか(というと誤解をまねきそうなのだが)、を、ある程度のたしからしさのなかで推理、説明する、ということが一つ考えられる。ここでいうのは、あくまでも、そのまま読みのための、発信者のやっていることの推理であり、作者が思っていることとは違うものだ。と、仮にその可能性を設定してみたが、この句にそのようなメタ説明のようなものがふさわしいだろうか。そちらに踏みきるには、あきらかなサインがなくてはならない。
2)では、そのまま受け取ったときの「感じ」を、もう少しだけいいかえることはできるのだろうか。というか意味はあるのだろうか。ほぼ同語反復的に、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を浮き立たせるということである。「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということは、「の」の連続でつながれていながら、「ニコライ」から「落葉」にいたったときに、一つの静止した何かを示しているような感じがしない。展開、というのとは違うが、「ニコライ」→「鐘」→「愉しき」→「落葉」というように、移動するのが認められ、その動きそのものが、了解ではなく、「愉し」いのだ、と一応、いっておく。
5句目。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これには、「戦終りければ」と前書き(というのでいいの?)がついている。切れる場所ということについて。「ニコライの鐘の愉しき」で切れて、「落葉かな」と考えるとする。とする、というよりたぶんそこで切れる。それは、これが俳句であるということがわかっているから、なのだろうか。というか、「切れる」ということがある、というルールの把握があって、はじめて、ここで切れるのかな?と思うことができ、切れている、ということがわかってはじめて、二つのものが並べおかれて、何らかの力関係が期待されている、ということがわかるのでは、と、いまあらためて思った。
この句集を読むのに先立って、俳句入門書を読んだときに、「切れ」ということを、しつこいくらいに強調されてはじめて、切れていることを意識することが自分の読み方の中にふくまれた、と、いまあらためて感じた。というのも、俳句というのは、見た目切れていないし、教科書や何かで、「切れ字」だとかなんとかいっても、その当時ではただの知識で、少なくともぼくには、読むときに「わかった」ということをともなって把握されるものではなかったので、はっきりいえば、切れているものをつながっているように意味をとろうとして「?」になっていたわけである。短歌にもそれがある。短歌の場合には、特に、平安時代とかなんでもいいが、ともかく昔のやつには、掛詞があり、一つのことばがそのままで、上の部分の文の一部になり、かつ下の部分の文の一部になるというか、どこで切れるかをわからなくさせる技術が使われているのが普通なのだ。短歌に対しては、切れとかそういうことばを使わないのだろうが、掛詞、縁語、枕詞といった、教科書的には決まり文句として、くりかえしおぼえさせられる「術語」が、短歌の意味を把握するときに、どのように短歌の構造を決めているのか、どう「わかった」に結びつくのか、ということを、わかるように誰もいってくれなかった。いまでもわかっていない。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」。これ、ほんとうに「愉しき」のあとで切れている、と思っていいのかどうか。「愉し」なら切れているといっていいが、「愉しき」だと、連体形ですか?「落葉」にかかっているとしてもおかしくはない。たぶん常識的にはすでに決まっているのだろうけど、つながっているとして読んだ場合、「鐘の」「落葉」ということになり、一般的な意味としては、「鐘」に「葉」はないので、「おぎなう」か、そのまま読むしかない。おぎなったものを読解として出すには、それらしさ、ある程度の一般的な了解をえられる、たしからしさが必要になる。思いつきでいってみると、鐘に葉っぱがはりついていてそれが落ちていっている状態。とか。鐘の音を「落葉」という比喩でいったもの。とか。想像すればいろいろあるのだろうけど、その幅を放置するのがいいのか、ある程度、こうだといってしまうのがいいのか、わからない。そもそも前提としている、ここで切れていないということが「違って」いたらその幅も成りたたないということになる。それに、ここで「おぎなう」といっているものが、現実世界にありうること的なものを前提としてしまっていることに、ぼく自身窮屈なものを感じるし、無理な設定のようにも感じる。これは、こういうことなのだ、と、そのようにはっきりたしからしくいえるところについては、いったほうがいいと思うのだが、そうでない不確定な部分にまで、現実との照合みたいなものを解答にする読み方は変だろう。
「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を、切れておらず、かつそのまま読むという場合、「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということを認める、ということになる。思考はほぼ停止していて、それを「あり」とする読み方だ。意味がわかる、という「レベル」を変更することになる。「理解」はしていないが、「そこ」でいい。「ニコライの鐘の愉しき落葉」を、ただ、そのままの意味としてとらえる。これ以上敷衍したら「変わって」しまうので、それをやらないという読み方だ。これを認めるかどうかでいろいろ変わってくる。何が何でも「理解」しないと気がすまないという人にとっては、気持ちの悪いことだろう。思考停止のそのまま読みだ。
この、そのまま読みは、別の角度からもう少しいうことができるようなものなのだろうか。いまこの句が、そのまま読みを求めるものである確率は低い(先にいったように、「切れ」がある確率のほうが高い気がする)ので、その方向での押し切り説明も、言を弄していることになるかもしれないが、一応考えると、1)この作品がどのようなものなのか、いいかたをかえると、どのような意図で書かれたものなのか(というと誤解をまねきそうなのだが)、を、ある程度のたしからしさのなかで推理、説明する、ということが一つ考えられる。ここでいうのは、あくまでも、そのまま読みのための、発信者のやっていることの推理であり、作者が思っていることとは違うものだ。と、仮にその可能性を設定してみたが、この句にそのようなメタ説明のようなものがふさわしいだろうか。そちらに踏みきるには、あきらかなサインがなくてはならない。
2)では、そのまま受け取ったときの「感じ」を、もう少しだけいいかえることはできるのだろうか。というか意味はあるのだろうか。ほぼ同語反復的に、「ニコライの鐘の愉しき落葉かな」を浮き立たせるということである。「ニコライの鐘の愉しき落葉」ということは、「の」の連続でつながれていながら、「ニコライ」から「落葉」にいたったときに、一つの静止した何かを示しているような感じがしない。展開、というのとは違うが、「ニコライ」→「鐘」→「愉しき」→「落葉」というように、移動するのが認められ、その動きそのものが、了解ではなく、「愉し」いのだ、と一応、いっておく。