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俳句評 句集を読む 小峰慎也
石田波郷の『雨覆』という句集を読んでいる。
ここまで来て、この『雨覆』の鑑賞だけで一冊本を書いている人もいるようだということを知った。まだ読んでいないのだが。
2句目。「東京に出て日は西す鳰の岸」。
鳰はここでは「にお」と読み、水鳥の一種らしい。山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)では、冬の季語されているが、四時いるとか。
「東京に出て日は西す」はドラマ的・シチュエーション的である。東京に出たというのは、上京も思わせるが、「出て」となると、その日だけの出来事なのかもしれない。関東地方圏内から電車などで出てきたとき、日が暮れかかっていたという状況だろうか。「東京」といういいかたには、地域を示すだけではなく、別の思い入れ、意味がこめられる可能性があるから、はっきりとは状況が確定できない気がする。ただ、いずれにしろ、1句目「口に出てわが足いそぐ初しぐれ」よりは、状況が具体的であり、かつ通俗的である。「東京」ということばへの意味の「もたれ」が、そうしている。ただ(というか)、「日は西す」という処理の仕方には、「もたれ」を引きずる要素はない。突然の、大きな時間の圧縮がなされ、「省略」を感じさせるものとなっている。が、大きなくくりでは、やはり、背景に、東京に出てきて、日が沈んでいるという、劇画的な「絵」があるように思える。
「鳰の岸」はその「絵」に回収されるものだろうか。ここでの「鳰の岸」は、視線の移動というか、人間の物語からの移動、ではなく、人間の物語をさらに広い風景に置きなおしているのだと思う。
3句目。「鳰の岸女いよいよあはれなり」。
「女いよいよあはれなり」は、相当ベタな通俗性をよびおこしている。ただし、ここも、「鳰の岸」と置いてからの、「女いよいよあはれなり」である。「女いよいよあはれなり」自体の状況は、まったく具体的ではない。「女」が「いよいよあはれ」といわれたところで、「何がだよ?」というようなものだ。「あはれ」を、情感をともなったようすの表現だとしたら、俳句ではあまりよしとされない表現なのではないか。だとすると、これは、「あえていいはなっている」というふうに考えないと、面白くないということになる。「ベタなことをいってしまっている」という、俳句の作り手まで含めての鑑賞を要求している、といってしまっていいのだろうか(とんでもない勘違いをしていそうにも思えるが)。
それにしても、「女いよいよあはれなり」といいはなってしまったときの、ただごとではないところまで行ってしまっている度合いは、いったい何なのか。やはり、こんなこといってしまった、という書き手をも見る視線で鑑賞せよということではなく、いってしまったらこんなことになってしまった、という、「女いよいよあはれなり」のほうの、わからない波に乗って行くところまで行ってしまったほうがいい。
「女いよいよあはれなり」は、戯画的であるが、何の誇張なのかわからなくなっている。戯画的な大げさな書きぶりだけが変に拡大しているのだ。
と書いてきたが、実際にそういう女を見たのだろうか。あるいは妻とか。
3句目までのところ。
動きがある。書かれている対象が動いているという意味ばかりではない。場面に動きが与えられているということだ。その動きが誇張をともなって、演劇的な身ぶりになっている。なにか盛り上がっている状態である。
これは、4句目、「冬の宿擁かるゝばかりかな」にもいえることかもしれない。
「冬の宿」と「擁かるゝばかりかな」の文法上の関係は書かれていない。「冬の宿」というものが、「擁かるゝばかり」とされているようにも思えるし、「冬の宿」にいるということが「擁かるゝばかり」という状態にある(と思わせる)ということかもしれない。あるいは、切れていて、「擁かるゝばかり」というのは、人が人に「擁かるゝ」という状態かもしれないし、ほかにも考えられるかもしれない。「冬の宿」ということが、「擁かるゝ」ということに与える「大きさ」を感じとることになる、のだろうか。ただの「擁かるゝ」のほうが、語としては「広い」。ただし、それは、茫漠とした、語の定義として「広い」だけであって、用いられたときの生きた意味ではない。ここでは、「冬の宿」とともに使われて、はじめて「大きさ」として襲いかかってきているのだ。
そこで、「ばかりかな」である。やはり動きを与え、「大きさ」を少し過剰にしているのである。
俳句評 句集を読む 小峰慎也
石田波郷の『雨覆』という句集を読んでいる。
ここまで来て、この『雨覆』の鑑賞だけで一冊本を書いている人もいるようだということを知った。まだ読んでいないのだが。
2句目。「東京に出て日は西す鳰の岸」。
鳰はここでは「にお」と読み、水鳥の一種らしい。山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)では、冬の季語されているが、四時いるとか。
「東京に出て日は西す」はドラマ的・シチュエーション的である。東京に出たというのは、上京も思わせるが、「出て」となると、その日だけの出来事なのかもしれない。関東地方圏内から電車などで出てきたとき、日が暮れかかっていたという状況だろうか。「東京」といういいかたには、地域を示すだけではなく、別の思い入れ、意味がこめられる可能性があるから、はっきりとは状況が確定できない気がする。ただ、いずれにしろ、1句目「口に出てわが足いそぐ初しぐれ」よりは、状況が具体的であり、かつ通俗的である。「東京」ということばへの意味の「もたれ」が、そうしている。ただ(というか)、「日は西す」という処理の仕方には、「もたれ」を引きずる要素はない。突然の、大きな時間の圧縮がなされ、「省略」を感じさせるものとなっている。が、大きなくくりでは、やはり、背景に、東京に出てきて、日が沈んでいるという、劇画的な「絵」があるように思える。
「鳰の岸」はその「絵」に回収されるものだろうか。ここでの「鳰の岸」は、視線の移動というか、人間の物語からの移動、ではなく、人間の物語をさらに広い風景に置きなおしているのだと思う。
3句目。「鳰の岸女いよいよあはれなり」。
「女いよいよあはれなり」は、相当ベタな通俗性をよびおこしている。ただし、ここも、「鳰の岸」と置いてからの、「女いよいよあはれなり」である。「女いよいよあはれなり」自体の状況は、まったく具体的ではない。「女」が「いよいよあはれ」といわれたところで、「何がだよ?」というようなものだ。「あはれ」を、情感をともなったようすの表現だとしたら、俳句ではあまりよしとされない表現なのではないか。だとすると、これは、「あえていいはなっている」というふうに考えないと、面白くないということになる。「ベタなことをいってしまっている」という、俳句の作り手まで含めての鑑賞を要求している、といってしまっていいのだろうか(とんでもない勘違いをしていそうにも思えるが)。
それにしても、「女いよいよあはれなり」といいはなってしまったときの、ただごとではないところまで行ってしまっている度合いは、いったい何なのか。やはり、こんなこといってしまった、という書き手をも見る視線で鑑賞せよということではなく、いってしまったらこんなことになってしまった、という、「女いよいよあはれなり」のほうの、わからない波に乗って行くところまで行ってしまったほうがいい。
「女いよいよあはれなり」は、戯画的であるが、何の誇張なのかわからなくなっている。戯画的な大げさな書きぶりだけが変に拡大しているのだ。
と書いてきたが、実際にそういう女を見たのだろうか。あるいは妻とか。
3句目までのところ。
動きがある。書かれている対象が動いているという意味ばかりではない。場面に動きが与えられているということだ。その動きが誇張をともなって、演劇的な身ぶりになっている。なにか盛り上がっている状態である。
これは、4句目、「冬の宿擁かるゝばかりかな」にもいえることかもしれない。
「冬の宿」と「擁かるゝばかりかな」の文法上の関係は書かれていない。「冬の宿」というものが、「擁かるゝばかり」とされているようにも思えるし、「冬の宿」にいるということが「擁かるゝばかり」という状態にある(と思わせる)ということかもしれない。あるいは、切れていて、「擁かるゝばかり」というのは、人が人に「擁かるゝ」という状態かもしれないし、ほかにも考えられるかもしれない。「冬の宿」ということが、「擁かるゝ」ということに与える「大きさ」を感じとることになる、のだろうか。ただの「擁かるゝ」のほうが、語としては「広い」。ただし、それは、茫漠とした、語の定義として「広い」だけであって、用いられたときの生きた意味ではない。ここでは、「冬の宿」とともに使われて、はじめて「大きさ」として襲いかかってきているのだ。
そこで、「ばかりかな」である。やはり動きを与え、「大きさ」を少し過剰にしているのである。