「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 句集を読む2 小峰慎也

2016年08月21日 | 日記
 前回を読んでいない方はこちらからお読みください。
 俳句評 句集を読む 小峰慎也

 石田波郷の『雨覆』という句集を読んでいる。
 ここまで来て、この『雨覆』の鑑賞だけで一冊本を書いている人もいるようだということを知った。まだ読んでいないのだが。

 2句目。「東京に出て日は西す鳰の岸」。
 鳰はここでは「にお」と読み、水鳥の一種らしい。山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)では、冬の季語されているが、四時いるとか。
 「東京に出て日は西す」はドラマ的・シチュエーション的である。東京に出たというのは、上京も思わせるが、「出て」となると、その日だけの出来事なのかもしれない。関東地方圏内から電車などで出てきたとき、日が暮れかかっていたという状況だろうか。「東京」といういいかたには、地域を示すだけではなく、別の思い入れ、意味がこめられる可能性があるから、はっきりとは状況が確定できない気がする。ただ、いずれにしろ、1句目「口に出てわが足いそぐ初しぐれ」よりは、状況が具体的であり、かつ通俗的である。「東京」ということばへの意味の「もたれ」が、そうしている。ただ(というか)、「日は西す」という処理の仕方には、「もたれ」を引きずる要素はない。突然の、大きな時間の圧縮がなされ、「省略」を感じさせるものとなっている。が、大きなくくりでは、やはり、背景に、東京に出てきて、日が沈んでいるという、劇画的な「絵」があるように思える。
 「鳰の岸」はその「絵」に回収されるものだろうか。ここでの「鳰の岸」は、視線の移動というか、人間の物語からの移動、ではなく、人間の物語をさらに広い風景に置きなおしているのだと思う。

 3句目。「鳰の岸女いよいよあはれなり」。
 「女いよいよあはれなり」は、相当ベタな通俗性をよびおこしている。ただし、ここも、「鳰の岸」と置いてからの、「女いよいよあはれなり」である。「女いよいよあはれなり」自体の状況は、まったく具体的ではない。「」が「いよいよあはれ」といわれたところで、「何がだよ?」というようなものだ。「あはれ」を、情感をともなったようすの表現だとしたら、俳句ではあまりよしとされない表現なのではないか。だとすると、これは、「あえていいはなっている」というふうに考えないと、面白くないということになる。「ベタなことをいってしまっている」という、俳句の作り手まで含めての鑑賞を要求している、といってしまっていいのだろうか(とんでもない勘違いをしていそうにも思えるが)。
それにしても、「女いよいよあはれなり」といいはなってしまったときの、ただごとではないところまで行ってしまっている度合いは、いったい何なのか。やはり、こんなこといってしまった、という書き手をも見る視線で鑑賞せよということではなく、いってしまったらこんなことになってしまった、という、「女いよいよあはれなり」のほうの、わからない波に乗って行くところまで行ってしまったほうがいい。
 「女いよいよあはれなり」は、戯画的であるが、何の誇張なのかわからなくなっている。戯画的な大げさな書きぶりだけが変に拡大しているのだ。
 と書いてきたが、実際にそういう女を見たのだろうか。あるいは妻とか。

 3句目までのところ。
 動きがある。書かれている対象が動いているという意味ばかりではない。場面に動きが与えられているということだ。その動きが誇張をともなって、演劇的な身ぶりになっている。なにか盛り上がっている状態である。
 これは、4句目、「冬の宿擁かるゝばかりかな」にもいえることかもしれない。
 「冬の宿」と「擁かるゝばかりかな」の文法上の関係は書かれていない。「冬の宿」というものが、「擁かるゝばかり」とされているようにも思えるし、「冬の宿」にいるということが「擁かるゝばかり」という状態にある(と思わせる)ということかもしれない。あるいは、切れていて、「擁かるゝばかり」というのは、人が人に「擁かるゝ」という状態かもしれないし、ほかにも考えられるかもしれない。「冬の宿」ということが、「擁かるゝ」ということに与える「大きさ」を感じとることになる、のだろうか。ただの「擁かるゝ」のほうが、語としては「広い」。ただし、それは、茫漠とした、語の定義として「広い」だけであって、用いられたときの生きた意味ではない。ここでは、「冬の宿」とともに使われて、はじめて「大きさ」として襲いかかってきているのだ。
 そこで、「ばかりかな」である。やはり動きを与え、「大きさ」を少し過剰にしているのである。

俳句評 うそ? ほんと? ―僕の問題、君の問題―「オルガン」五号より 橘上

2016年08月03日 | 日記
「うそ?」
「ほんと?」

「僕の問題」
「君の問題」
「僕が問題にしている問題は」
「君にとっては問題じゃない」

「あなたが問題にしていることはある程度理解しているつもりよ」
「じゃあ」
「あなたそのものが問題外ということね」


「嘘つき村の人間は」
「何のパラドックスもなしに」
「『私は嘘つきです』と言うかもしれません」
「正直に、彼らの言葉で」
「もし彼らが『これはパイプではない』と言ったら」
「その言葉で彼らが言わんとしているのは」
「これがパイプであるということです」
「嘘つき村の人たちは」
「否定と肯定がひっくり返った奇妙な方言をはなしているだけの」
「正直者かもしれない」


「僕の職業はうそつきです」

「嘘をつくっていうのは」
「書いたことが本当か嘘かといった『書くこと』のレベルの話と」
「読者との関係性の中で嘘になってしまう、読者を裏切る嘘との二種ある」
「『父が亡くなっていないのに亡くなったと書く』ということと」
「『昨日風呂に入ってないのに入ったと書く』というのは」
「同じ嘘だと言っても全然次元が違う」
「前者には、読者の欲望が書き足されている」
「後から『父は死んでいなかった』という別のテキストが差し込まれることで」
「当初の欲望の位置が変わってしまう」
「このとき最初の欲望を『裏切られた』という感情が発生する」

「嘘かどうかを判断するには別のテキストが必要」
「テキストのどちらが正しいかをジャッジするメタテキストは存在しません」
「何が嘘か本当かわからない騙しあいみたいな世界になっていく」

「事実が後からついてくるということもある」
「ある人が朝日記を書く」
「その一日の中で書いたことがつぎつぎに実現したとすると」
「それは嘘だったのか本当だったのかわからなくなる」


ここから先は未来日記
先に詩に書いたことを
後から君に言っている

「書くことにおける虚と実は、時間的かつ相対的なものでしかない」


「読者の中に感情を伴った新しい何かを現前させているときが実」
「読者に新しいものが加わらなかったら虚」



「こんばんは森進一です」
「って書いたときに」
「作者が森進一だったら本当」
「作者が森進一じゃなかったら嘘」
「でも歌手のあの「森進一」じゃなくて」
「栃木在住の土木作業員『森進一』だったら?」
「『こんばんは森進一です』には『歌手の森進一です』とはどこにも書かれていない」
「だから『土木作業員の森進一』でもなんら嘘ではない」
「しかし多くの読者が歌手のあの森進一のことだろうと思ってしまう」
「つまり作者が『歌手のあの森進一』でない時点で」
「読者の欲望を裏切ることになる」
「で」
「話を『虚』と『実』の方向に持っていこう」

「『こんばんは森進一です』と書かれていて」
「作者が『歌手のあの森進一』だった場合」
「『森進一』が『森進一』であると書いているわけでウソはない」
「読者の『作者は歌手の森進一であろう』という期待にも応えている」
「それ故、わざわざそれを書く意味があるのだろうか?と思ってしまう」
「『森進一』が『森進一』であると書くことに何ら新しいことは発生しない」
「だが何ら意味がないことをわざわざ書いて提出したとなると」
「その動機に得たいのしれないものを感じる」
「作者に『意味のないことを書かせた衝動/動機』こそ読者にとって未知のものであると言える」
「となるとここに『実』が生れる」

「作者が『栃木在住の土木作業員森進一』だった場合」
「『森進一』が『森進一』であると書いているわけでウソはない」
「しかし、読者の『作者は歌手の森進一であろう』という期待を裏切っている」
「つまりこれは告発である」
「『こんばんは森進一です』という言葉は」
「『歌手のあの森進一』のみが発すると考え」
「実は世の中に数多くいるであろう〈『歌手のあの森進一』でない森進一〉から」
「『こんばんは森進一です』と言う言葉を奪い取り」
「〈『歌手のあの森進一』でない森進一〉への想像力が働かない」
「我々の集団的無意識への、切実なる訴えだ」
「我々の想像力の埒外である〈『歌手のあの森進一』でない森進一〉へ読者に意識を向けさせた」
「となるとここに『実』が生れる」

「作者が森進一でなかった場合」
「要するにこれは嘘である」
「読者の期待も裏切っている」
「故にこれは言葉への不信任案の提出である」
「嘘であれ裏切りであれ容易に言葉にすることができる」
「存在の根源を問う『わたしは~である』という構文において」
「このような嘘をつくこと」
「それは言葉そのものが孕む危険性」
「森進一でないものによる『こんばんは森進一です』が投げかけられた後」
「我々はいかなる言葉も信ずるに足らないという事を突き付けられて尚」
「言葉を発さなければならなくなる」

「なんだ『こんばんは森進一です』って」
「作者が誰であれ『実』があるんじゃん」
「みんな実でみんないい」
「それを踏まえて今一度書こう」
「こんばんは森進一です」


「ここに携帯電話がありますけれども」
「『携帯電話』という言葉は『この携帯電話』を表しているわけではない」
「言葉にするといった時点で」
「いろいろな付随する要素を持ってくる/捨ててくる」



●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●


「作家っていうのは、何を作らないか、であると思う」
「こだわりをなくせばどんどんできちゃうものだからね」

「物理法則に逆らえば、本質的に嘘をつくことができる」

「ここには何もないけれども」
「何か花があった方がいいと思わないか」
「あった方がいいと思います」
「いま、ここにはないけれど」
「水仙があった方がいいと思ったら」
「ここに見えてくる」
「それが写生です」

「自分が感動したことを、人にぶつけるのははしたない」

「嘘か本当かが本質ではなくて」
「人格における嘘は証明がつかない」
「嘘であろうとそれが面白ければいい」

「僕は今まさにこの場で嘘をつくかもしれない」
「僕が言いたいのは」
「嘘か本当の問題は」
「その問題系の外側から語ることができない」

「僕はこの世界のことを全部知っているわけでもないし」
「うっかりすると」
「実際になかったことを書いているつもりで」
「実際はあったことかもしれない」

「それ本気で言ってるの?」
「冗談だって言ったら幻滅するし」
「本気だって言ったら引くんだろ?」
「この質問には答えるもんか」


「女の子はしゃぼん玉なんだよ。マジでゲロゲロ」
「これについて」
「『マジでゲロゲロ』は実際にあったことですか?」
「と問うのはナンセンスでしょう」
「書かれているのは出来事ではありませんから」


「ケツかゆい」
「うそ。ホントはかゆくない」
「うそ。やっぱりかゆかったのでした」
「故にさっきの『ケツかゆい』は真実を表す言葉です」
「だから何?」


●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●


「『虚―実』と『嘘―本当』を自分なりに分けておこう」

「『虚―実』に関しては実生活とは関係のない芸術としての表現のレベル」
「『ガラスの皿がやわらかい』と詠んだとする」
「ガラスの皿がやわらかいということは、実生活ではありえない」
「でも表現としてはありえる」
「実生活よりもリアルな場合がある」
「リアルな場合を『実のある虚』と呼んだりする」
「リアルが感じられない場合は『実のない虚』ということになる」
「その「リアル」が実である」

「『虚―実』は対立概念でなく、想定される両極であって」
「どちらかにあることはない」
「あるかないか、というより、どれだけあるかという割合の問題」
「『虚そのもの』『実そのもの』というものはない」

「実生活のレベルでは経験していないことでも」
「見ることはあるし、聞こえることはある」
「言葉になった瞬間にそれはもう経験」
「僕の俳句は全部写生です」


もののあわれと虚しさは表裏一体。
あわれと言えば全てがあわれ。
虚しいと言えば全て虚しい。

「『嘘―本当』というのは、あくまで実生活レベルの話」
「書かれたものを『意味』で読み」
「ときには作品のテキスト外の情報までも含めて読む場合の話」
「大阪に行ったことがないのに『大阪に行った』と書いたら嘘」
「海鼠を食べたことないのに『海鼠を食べた』と書いたら嘘」
「そういう話」 

「僕の作品が『虚―実』が問題とされる場所にあり」
「『嘘―本当』が問題とされる場所にはない」


努力賞欲しさに犯罪に手を染める

「では『嘘―本当』が問題とされる作品とは」
「作者の実生活や人生」
「それが前提となって解釈され感動が持たされる作品」
「結婚とか出産、身内の死などが詠われており」
「それが作者の実生活に基づいているという保証の元に」
「感動がもたらされる作品のこと」

「『嘘―本当』のレベルで読まれる可能性がある場合」
「『嘘』をつくべきでない」
「こうした句集の作者の作者は」
「その作家性の中に実生活」
「つまり『本当』という意味を含んでいるんです」
「このタイプの作家性を持つ人は『嘘』をついてはいけない」

「もし僕が死んでない誰かの死を詠むことがあるとしたら」
「それが『嘘』であることが作品上わかるかたちにする」
「作品が『嘘―本当』のレベルではなく、『虚―実』のレベルに引きあがるように」


「じゃあセックスのことを事細かに書いておきながら」
「作者が童貞だったら」
「火あぶりにあうってこと?」
「逆魔女裁判」
「童貞異端審問団にご用心」

「いや、セックスのことを細かく書こうとする時点で童貞くさい」
「童貞っぽくない振る舞いをしようとするのが童貞だよ」
「だって実際に童貞じゃないんなら」
「多少童貞くさいって思われても」
「別にいいじゃん」
「実際童貞じゃないんだから」
「童貞だと思われたくない感がありすぎると」
「むしろ逆に」
「童貞臭い」
「『童貞』と『童貞臭い』は別」
「俺からすれば松崎しげるなんか童貞くさいもん」
「だって全然童貞っぽくないじゃん」
「あそこまで童貞臭くないと」
「逆に執拗に『童貞臭くなくしよう』という必死さすら感じられる」
「童貞臭くないが故に」
「松崎しげるは童貞臭い」

「ここでいう松崎しげるは」
「あなたが思ってる松崎しげるのことじゃないよ」
「あの松崎しげるのことだよ」

「こんばんは、森進一こと、童貞の松崎しげること、橘上です」
「あの橘上です」


●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●


「お父さんが生きているのに死んでいると書くと批判されるが」
「死んでいるのに生きていると書いた場合は批判されない」

「生きているのに死んでいるほうは」
「同情されたいというか」
「自分にない物語を付け加えたいって欲望がはいってるから」


「じゃあ童貞なのに童貞じゃないフリすると叩かれるが」
「童貞じゃないのに童貞のフリしても叩かれないの?」
「むしろ逆か?」

「さっきから」
「『むしろ』とか」
「『逆に』とか」
「そういのうのやめない?」
「そんな言葉使うから」
「言葉遊びみたいな文になっちゃうんだよ」

「殺人犯についてのインタビューで」
「とてもそういう風に見えなかった」
「なんて聞き飽きた言葉だろ」
「飽きても飽きてもまだ聞こえる」
「怪しくないからむしろ怪しい」
「モテなそうだから逆にモテそう」
「現代に生きてて」
「『むしろ』や『逆に』なんて」
「普通のリアリティーを示す言葉だ」
「もし」
「『むしろ』や『逆に』が言葉遊びって言うんなら」
「現実がまだ言葉遊びに追いついてないのさ」

「嘘にはある程度責任が伴う」
「作品の意味的な部分で」
「その作者の作品や、作品テキスト外の情報との」
「からみから生じてくるその作者の特徴」
「作家性の問題として」



「正義という言葉の欺瞞に辟易して何もしない奴と」
「正義という言葉を盲信して暴走する奴」
「しかいないのか?」
「どちらでもない奴は」
「どちらからも袋叩きさ」
「shot by both side」

「作品つくりの仕事は」
「まず作品を始めてから始まる」



「人類皆兄弟 テレビゲームは皆ファミコン」


「本当のことを言うことと嘘をつかないということは違う」


「言いたいことがあるうちは何を言ってもムダなのさ」

「ただ、すべての作品が悪いかどうかはわからない」
「父の死を書いた作品があって」
「その作者の父は死んでいなかった」

「でも、この作品のこの表現ならばわかる」
「作者がふだんから」
「あるいはその一連の作品において」
「作り上げている世界があり」
「その世界に照らして納得がいくのなら」
「問題はありません」
「作家性の問題」


いもしない君と彼女を作り上げるのも
確かにいた君と彼女をなかったことにするのも
なかなかたいした思い上がりだ

俺は言葉で君や彼女を作り上げようとしているのか?


「書いたら全部ウソにやるって言ったけど」
「書かないことはどうなるの?」
「あなたが書いてることは書いてることだけ」
「書かないこともしっかり書かなきゃ」

「松井に千円借りた」
「●●○●」
「●○●●○」
「★?」
「○●●」
「―○○●」
「作品を読むときに文脈は必要なのか」


「作品で嘘をつくことよりも」
「その嘘に誠があるかが問題なんじゃないか」


「君さ、どんな女が好き?」
「裸」

「誰か読み手がいて、その人に言葉が伝わる」
「というコミュニケーションの問題として」
「俳句を捉えることによってはじめて」
「俳句で嘘をつくという事態を考えることが可能になる」

「俳句を通して」
「読者はこれをもともと読みたかったのだと気づく」
「言葉が欲望を喚起する」
「『情緒』は明らかに詠み手との間で生成される」


「俺のYESと君のYESがこんなにまでちがうとは」


「僕にとって俳句はかならずしも読み手とのコミュニケーションではありません」

「俳句を書くときに」
「僕は俳句自体とはつねに触れ合っているはずで」
「俳句とのあいだにはコミュニケーションがつねにある」

「このコミュニケーションにおいて」
「俳句に対して誠実でありたい」


「徐々にエスカレーターを降りる」
「7階ってのはおりるのに」
「丁度いい」

「『俳句で嘘をつく』というのは」
「俳句のメッセージが、読む人に対して作者がついた嘘として響くということ」
「『俳句に嘘をつく』というのは」
「俳句と自分との何らかのかかわり合いのなかで」
「そのかかわり合いを破綻させてしまうような」
「何らかの不実をやってしまうということ」


「この一行というペテンに全てを掛けてみたい」


「本当のことを言う前に」
「まず、ウソをつくよね」
「悪趣味だね」
「準備運動さ」

「今からウソつくよって言った方が」
「俺の言うこと信じるんだろ?」

「あなたは神を信じますか?」
「神が俺を信じるなら信じる」


●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●
     
高柳重信『伯爵領』より




この文中、青字の箇所は、宮本佳世乃編集/鴇田智哉発行「オルガン」所収「座談会『虚と実』」から宮本佳世乃・鴇田智哉・生駒大祐・田島健一・福田若之各氏の発言の引用・参照。
彼らの発言中に引用されている「宇田喜代子・阿波野青畝各氏の対話」、「高柳重信『伯爵領』からの最後の句」も孫引きの形で引用。
また一部「俳句」という言葉を削除あるいは「作品」と言う言葉に書き換え、「句作」「詠む」という言葉を「書く」と言う言葉に書き換えた。

 文中の黒字部分は橘上によって書かれたものですが、一部に橘上未刊詩集「ノー・スウィート・メモリーズ」からの引用があります。

編集註 引用は原則は赤ですが、今回一部言葉を変えた完全な引用でないため、作者の希望もあり青にしました。