「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 「ぽ」の俳句「ぽ」の短歌  秋月 祐一

2019年08月16日 | 日記
 ぼくの妻は、驚いたときに「ぽっ」とか「ぽー」と口走るくせがある。妻とツチブタはどちらが珍獣度が高いのだろうか。そんな思いで、短歌連作「妻とツチブタ」を書いた。その中の一首。

  ぽつとかぽーとか声を発する妻そしてツチブタはなんて鳴くのだらうか/秋月祐一

 短歌や俳句では、これまでに、さまざまな「」が詠まれてきた。
それらの句や歌を気ままに紹介してゆきたい。

  ライターの火のポポポポと滝涸るる/秋元不死男

 「ポポポポ」というオノマトペは、ライターの火の音や状態を表している。炎が風に揺られているのか、ライターのオイルが少なくなってきたのか。いずれにしても、火の点き具合がよくない印象を受ける。その火を見ているうちに、突然、冬場の水の涸れてゆく滝が想起されたのだろう。季語は「滝涸る」で冬。秋元不死男には「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」「へろへろとワンタンすするクリスマス」など、オノマトペの効いた秀句がある。

  十一月いまぽーぽーと燃え終え/阿部完市

 この句は、十一月になにかを燃やし終えたのではなく、十一月そのものが燃え終えたのだと読んでみたい。「ぽーぽー」は、ひらがな表記と相まって、単なる燃える火のオノマトペを超えた、なにものかに変質している点にも注目したい。これが昭和48年の作なのだから、アベカンは現代的である。「十一月」の句が収録された句集『絵本の空』には、「とつぜん今日花戦鳥戦あり  跡」という二字空けの句もあったりする。

  たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ/坪内稔典

 平易な言葉づかいで、読んで聞かせたら、子どもも大人も笑いだすようなユーモアがある。たんぽぽの「ぽぽ」という音から、火事のイメージを感じとる語感の鋭さと、「ぽぽのあたり」というとぼけた言い回しのおかしさ。そのギャップに笑いの源泉があるのではないだろうか。ネンテンさんの句には、必ずしも実景を思い浮かべることを要求されず、言葉そのものが喚起するポエジーを、読者が自由に味わうべき作品が多いような気がする。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ/田島健一

 句集『ただならぬぽ』の表題作。この句の「」は、これまで見てきた、どの「」とも異なっている。異物としての「」。モノクロの表記で見ても、そこだけ色が違って見えてくるような気がする「」である。「ただならぬ海月」と「光追い抜く」は、とびきりエモいフレーズなのに、それを断絶し、断絶しながらくり返しによって、句を勢いづけている「」。田島さんの作品では「流氷動画わたしの言葉ではないの」という句も、一読忘れがたい。

 次に、短歌における「ぽ」の用例を見てみよう。

  恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず/荻原裕幸

 「」を多用した「ポポポポニアにご用心」という連作の中の一首。一連には「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと生活すポポポポニアの王侯われは」という歌も見られ、俳句と比べ「」の数が一気に増大。この連作における「」の氾濫には、生活への憂愁や倦怠感がにじんでおり、「」の使い方として独特である。荻原には「ぽぽっぴあぷれっぴあぱふありのまま気分を感じてゐる春の暮」という楽しい「」の歌もある。歌集『あるまじろん』より。

  ぽつ ぽつぽと梟が鳴いてゐたよと吟遊詩人(バード)啼き ぽつ/こうさき初夏

 初句「ぽつ」、二句「ぽつぽと」という大胆な破調からなる作品である。吟遊詩人は英語で bard(バード)であり、それを鳥類の bird と掛けているのだろう。意味性よりも、韻律の躍動感が勝負どころの歌と言ってよい。梟は、こうさきが偏愛する生き物のようで、他にも「ぽ ぽ ぽぽ 梟ふくふく「通行手形を」ぽ ぽ ぽぽ」という、これも破調の歌がある。「」の歌の最新型として、こうさきの作品世界の広がりに注目してゆきたい。

俳句時評 第112回 新興俳句ループ現象の観測者 西川火尖

2019年08月08日 | 日記

 例えばずっと今日を繰り返したり、夏休みを繰り返したり、文化祭前日を繰り返したりするループもの作品は、名作が多く人気のジャンルである。
 ループものとは、僅かな既視感や違和感からその日々がループしていることに気づいた主人公が、試行錯誤しながらループの謎を解き、繰り返しの日々から抜け出すことを目指すストーリー展開を軸とするSFの一ジャンルである。また、「シュタインズ・ゲート」や「魔法少女まどか☆マギカ」などのように、タイムリープものの要素を加味し、望む結末を得るために何度も自らの意思でループを繰り返す作品も人気を集める。
 抜け出せない日々の絶望や焦燥、謎解きというストーリー的な盛り上げとともに、何度も過去の自分に戻って、(主に自分だけが)未来に起こることを知りながら再挑戦を続けられるという超越感、あるいは安心感が、ジャンル支持の背景になっていると言われている。
 なんとなく夏はタイムリープものやループものの季節のように思われるのだが、この話題を冒頭に出したのはそれだけではなく、別の理由がある。

 角川俳句の8月号の特集は「いま、なぜ新興俳句なのか」であった。昨年末に刊行された現代俳句協会青年部・編による「「新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか」を受けてのもので、特集の中心の座談会は、編著に当たった神野紗希を司会に、メンバーに高野ムツオ、角谷昌子、岸本尚毅を迎え「現在につながる新興俳句」をテーマに語られた。
 その中身に立ち入る前に、座談会の導入部に感じた違和感について少し触れておきたい。
 導入部では「最近若手俳人を中心に新興俳句に共感する人が増えていると言われます。」という切り出しで始まるのだが、新興俳句とは今更そんな降って湧いたような話題だっただろうか。
 もちろん「新興俳句アンソロジー」の出版は大きなトピックで、新しい読者を獲得したと思うし、「最近共感する人が増えている」というのは、そのことを指しての切り出しだというのは分かっている。それでも「今こそ新興俳句」というようなスタンスに、「これ、何度目の「今こそ」」だっけ?という既視感を感じたのだ。俳句の世界の私たちは、新興俳句を取り上げるたびに「発見」するところからやり直しているのではないだろうか。「同じ」新しさを取り上げ、運動としては未完であるがゆえに、何度も「新興俳句とは何だったのか」という問を繰り返し、振り出しに戻っていないだろうか。
 もし、新興俳句を取り巻く状況がループ状態に陥っているのだとすれば、一見同じことの繰り返しに見える言説の中に立ち入って、ゆさぶりをかけ、僅かな違いを見つけ出すことがループからの脱出につながるはずである。
 脱出した先に何があるのかはわからないが、今回はこのように俳句世界をループものSFとして捉えた場合に見えてくるものを考え、ループの先へたどり着きたいと思う。

 少し、設定を盛り過ぎたというか、暴走してしまったきらいはあるが、座談会の内容をまとめながらループ仮説の検証をしていこうと思う。座談会では概ね以下のことが語られた。

・新興俳句では、俳句は文学だという意識によって、様々な手法、題材、態度が試された(神野)
・新興俳句は水原秋櫻子のホトトギス離脱による「反虚子」を出発点としたが、その萌芽自体は虚子によって育まれた(高野)
・現代の若手の新興俳句への共感は、不安定な時代という共通点から関心が芽生えたのではないか(高野)
・メッセージ性の強い新興俳句は、頼るべきものの無い世の中にあって、読者を待たず自立している。その強さが現代にフィットした。(岸本)
・多様な価値観と可能性が模索された新興俳句の存在意義を把握し、自分たちの新しい価値の発見を求めてほしい(角谷)
・新興俳句は成果と脆弱性、俳句の諸問題の塊であり、可能性の塊であった(高野)

 このうち、文学としての俳句の運動、反虚子という立脚点、これらは新興俳句の定義に関わる基本的な事柄で、繰り返しと言えば繰り返しだが、総合誌の特集などにおいては外すことのできないイントロダクションである。
 次に、現代の若手と新興俳人たちの置かれた状況が似通ってきているため、最近特に共感を集めるようになったのではないかという高野ムツオの言説はどうだろうか。
 確かに近年、政治や社会をとりまく状況は不安定化の一途をたどり、状況としては1930年代に酷似してきている。当然その時の心情や社会批判のメッセージ性の強い句が現代、にわかに力を回復し、私たちの心を打つということが起きている。
 三橋敏雄は「太古」(昭和16年 現代名俳句集二巻収録 教材社)自序中にて

僅々十七字たらずの措辞に依つて決定される聯想(れんそう)範囲に社会性を求めるならば、ある特定の時代的背景に頼りそれを要素とすることによつて、満たされぬ意慾を諦観の表情に保つみじめさであった

 と述べており、それは戦後の社会性俳句の挫折の要因のひとつとなるのだが、言い換えれば、社会的状況というピースが揃えば、その是非はともかくとして、当時の特定範囲下で詠まれた俳句でも表現としての力を回復することを示している。岸本発言の「メッセージ性の強さがフィットした」というより、私たちがそのメッセージの射線上に再び入ったという捉え方が実情に近いだろう。とにかく、

 twitterに投稿された神野紗希の

  どれにも日本が正しくて夕刊がばたばたたたまれてゆく

 昭和十年八月発表のプロレタリア俳人・栗林一石路の俳句。メディアが権力側につき戦争を翼賛し、一人一人の命を軽視した時代があった。一石路は後に特高に検挙。俳句を詠んだだけなのに。

 今のメディアを見ると「昔は大変だったね」と笑えない。」
https://twitter.com/kono_saki/status/1152869989860306945

 このツイートには多くの共感が寄せられており、これは戦後の高度経済成長期、バブル、平成の衰退を通して、ここまでの時代の相似はなかったはずである。ではやはり新興俳句特集はループしておらず、新しい局面に入ったと言えるのだろうか。
 その答えを出す前に、同時期のもう一つの総合誌、俳句四季8月号の「新興俳句とは何だったのか」という特集で、福田若之が主張した新興俳句のもう一つの見方について触れておきたい。福田若之は、新興俳句運動をホトトギスの「平等主義」に対して、「天才」の理念的な擁護が根本にあったと述べ、次のように続けている。

もし、現代の若い人たちが新興俳句となだらかなつながりを持ちうるとしたら、その接点は、連作の再活性化といった表層的な次元でもなければ、それぞれの時代の抱える不安などといったあいまいな共感性の水準でもなく、「天才」の可能性をどう考えるかという理念的な思索のもとに見出さなければならないはずだ。しかし、僕たちは、というより俳句は、もうずいぶん前から、単純に新興俳句的な理念のものとにとどまることもできなければ、かといって、素朴に虚子的な理念へと立ち帰るわけにもいかないような歩みを、進めてきたように思う。「何が新しかったか」という過去形の問のもとで、新興俳句はもはや決定的に死んでいる。

 また、「天才」の擁護を根本に置いた新興俳句を真に動揺させたのは、弾圧ではなく、桑原武夫の第二芸術論の方であり、それは山口誓子、西東三鬼の慌てようを見れば明らかであるという福田の指摘は鋭い。

 思うに現在の俳句の世界は、天才性と平等性を始め、取り入れたものをごちゃまぜにしたまま何事も示さず、矛盾には基本的に目をつぶったまま、やり過ごしているのではないだろうか。そして矛盾が無視できないところまで高まったときに、解決するのではなく、「新興俳句とは何だったのか」や「第二芸術論を再検証する」というようなトピックを立てて、何度も過去の自分に戻って、(主に自分だけが)未来に起こることを知りながら無意識に延命してきたのではないだろうか。
 だとするならば、本当にこのループから抜け出す気があるのならば、私たちが解決を怠ってきた矛盾に目を向けなければならない。例えばそれは俳句そのものに限らず、俳壇の旧態依然としたジェンダー観であったり、育児や貧困の問題にも及ぶだろう。直接的な句作や評論に限らなくても、今日的な問題への取り組みが新しい俳句の土壌となっていくはずである。俳句に限定していては新しい「価値観」を論じることができないのは、新興俳句が絵画や映画の俳句以外の技法を取り入れてきたことに通じる態度である。私たちは新しい映画を作品に反映させるのではなく、俳句で語られなかった新しい問題を語り合わなければならないのだ。

 最後に、しかし、新興俳句運動が結局外部からの弾圧で物理的に潰えてしまったように、時代は既に新しい局面に入ってしまった。意に沿わない表現の排除が、国民主権の権力の名のもと、多数者の支持や脅迫によって行われる新しい時代である※1。これまでは、弾圧で潰えたところで振出しにもどってきた新興俳句特集が、今後実際に弾圧を受ける場面が増えていく中で(すでに9条俳句事件において現実化している)それを無視して、新興俳句の挫折に甘えて、これからもリセットを繰り返すのか、それとも、今日的な自分たちの問題として、時代に立ち向かっていくのか、新興俳句が天才の問題だとしても、それよりも深いところにあるのは「表現の自由」の問題である。絶対に二度と繰り返してはいけない「表現の不自由時代」を前にして、答えを出さないことで生きながらえてきた俳句の世界はどのような反応をとるのか、結局は私たち表現者一人一人が答えを出し解決しなければならない問題である。

※1,「あいちトリエンナーレ2019」を念頭においているが、それは「国民感情」的に正当な排除だと思う方は、講談社の「はたらく車」の増刷中止を意識してもいいだろう。どちらも表現の自由上保護される権利であることは間違いない。もっとも、愛知の件と講談社の件は公権力との関係において決定的な違いがあり、完全に同じプロセスで議論できる事柄ではないというのが私の立場である。