「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評167回 令和の親子俳句鑑賞 三倉 十月

2023年05月31日 | 日記
 今回は「親子」という括りで、鑑賞をしてみたい。「親が子」を詠む、育児の俳句から、「子が親」を詠んだ句まで。例えば25歳で子を産んだ母親が85歳で亡くなるとしたら、60年。つまり一昔前なら人の一生に近い時間を掛けて、生から死へ親子は少しずつその姿を変えていく。「守る」から「守られる」に。「支える」から「支えられる」に。愛するから、愛するに。もちろん、うまく行く関係ばかりではないし、一緒にいられないこともあるだろう。近すぎてうまくいかないこともあるかもしれない。どの家族もどこかは歪なところがあるものだ。そうした親と子の様々な関係を詠んだ句に、スポットライトを当てたい。

 まずは、親が子を読んだ句を何点か鑑賞する。

腹の子の四方は闇なり虫の夜 明隅礼子
映像でも静止画でも、お腹の中にいる胎児のイメージ画像は赤っぽいピンクの光に包まれているが、母体の子宮も腹の皮膚もそうそう易々と光を通すとは思えないので、やはり腹の中は暗闇なのだろう(中から見たことがないので確実にそうとは言い切れないが)。
 その暗闇にも音は届くという。特に体の振動を通じて母の声はよく届くらしい。胎児が耳にする母の声や、それを取り囲む音が、虫の夜のように優しく美しいものであるといい。

子を抱けば唄あふれだす夏帽子 明隅礼子
 眩い夏の日差しが明るく母と子を祝福する。この唄は思わず口から”こぼれる”のではなく、身体の奥からとめどなく”あふれだす”というのが、力強くて気持ちが良い。「母は強し」という紋切り型の言葉があるけれど、それとは一線を画した、強く楽しい母の景である。

這ふことはたのし赤子も芋虫も 明隅礼子
 赤子と芋虫を並べることに一瞬ぎょっとする。でも、よく考えれば芋虫も赤子である。明隅礼子さんは愛にあふれた育児の句が多いが、こちらは赤子の動きにちょっとおもしろみを感じていることが伝わる。赤子の一年目の成長は目覚ましい。ずっと寝ているだけから始まり、手を発見し、寝返りを打ち……それぞれの期間が、ほんの一瞬で過ぎ去ってしまう。やっと自分で動けるようになって、それだけのことがとっても楽しい。そんな嬉しい時期を切り取った一句である。

子を余所にあづけてきたり花へちま 鎌田俊
 さて、子はもちろん可愛いが、四六時中一緒にいたら仕事もできないし文章も書けない。親だって人間なので、子を誰かに預けてこなさなければならない用事の十や二十がある。まだ需要に対して数は全然足りてないとは言え、少しずつ一時保育やベビーシッターなどを利用する親も増えてきた。少しの寂しさと、同時に足取りが軽くなる気楽さと。気負いなく咲いているへちまの花が良い。


子の問に何度も虹と答へけり 西川火尖
 育児のあるある場面を、優しく美しく切り取った一句。道を歩きながら、お店の中で、保育園の帰りに、ふと立ち止まった時に、夕食を食べながら、眠りに落ちる寸前の布団の中で、子どもからの質問は絶えない。頑張ってちゃんと答えようと思っても、家事や仕事で忙しい最中に、全てになんて答えたか覚えていられない時もあるし、もしかしたら子も覚えていないかも。それでもその言葉のやりとりをした時間は、空気は、他愛のない笑いや、声の感触は忘れないだろうと思う。

千人にまぎれぬ吾子よ運動会 鶴岡加苗
 ちょうどこの文章を書いている前日が我が子の運動会でもあった。うちの小学校も大きくて全校生徒は千人を超える。我が子は、親の観覧の位置からかなり遠いところにいたけれど、それでもその表情まで臨場感と共にはっきり見えた。そしてたくさんの吾子たちがそれぞれの保護者に向けて、そこここで輝いていた。

 ここからは子から親に向けた句をいくつか鑑賞してみたい。

かあさんはぼくのぬけがらななかまど 佐藤成之
 全部ひらがなの表記は子どもが呟いているような印象を受けるが、内容には少しドキッとする。「かあさん」という皮を脱いで脱皮する「ぼく」。出産後の空っぽの子宮を思わせる一方、「ぼく」がいなければ母さんには何も残らないというような、幼い甘えた幻想が見える。取り合わせている「ななかまど(七竈)」の語源の一つには「七回竃にくべても燃え残る」という説がある。かあさん部分が空っぽになったとしても、その後ろにいる人間には情念が残っている。子宮が空っぽになっても心臓は変わらず鼓動しているように。

母さんが優しく健康に産んでくれたので飛蝗捕る 中山奈々
 上五中七の早口のような字余りは、字面こそ感謝に満ちているけれど、甘えとシニカルなおかしさがある。そのような表現をする作中主体は成人だと感じるが、下五の「飛蝗捕る」が、子供っぽい自由そのものなので可笑しい。母さんが優しく健康に産んでくれたのだから、しがらみもレールも世間体も(どれも多くの場合、親が押し付けるものでもある)飛蝗のごとく飛び越えて、自由に生きる。その方が良いでしょ。そうだね、そう思うよ。と、最初から言い合える親子関係は少ないともしても、この句の自由な輝きは褪せない。


ぐんぐんと母のクリームソーダ減る 太田うさぎ
 喫茶店に母といる。きっとおしゃべりが弾んでいるのだろう。そこにあることを忘れていたクリームソーダを勢いよく飲んでいる母の姿。まるで子どもを見つめるような視線で、いつの間にか親を見ていることに気付く。

焼芋や母にまされる友はなし ミュラー初子
 ストレートで気持ちが良い。友達母娘、というと、子がまだ子供のうちは否定的な文脈で言われることはあるが、年を重ねたあとでこう言い切れる母娘は、難しいことが多いからこそ、理想の姿の一つだろう。焼芋の素朴さと温かさがとても良い。今、小学一年生の焼芋が大好きな娘に、四、五十年後にこう言ってもらえるだろうか。どうかな。

銀杏を拾へば父とゐるやうな 太田うさぎ
 銀杏落ち葉が広がる季節に、父と公園を歩いた思い出。子供にとって銀杏は臭いし、おいしさもよくわからないし全然嬉しくないけど、父が喜ぶから一緒に拾っていたのだろう。黄色の世界で銀杏を拾う時、そのことをふと思い出している。幼い頃の優しい思い出というのは、そのまま親の思い出であることが多いのかもしれない。

朧夜の「父」と着信ありにけり 津川絵理子
 着信があったことしかわからず、電話を取ったのか、不在として名前が残っていたのかはわからない。まだ健在の「」なのだとわかっていても、朧夜と取り合わせると、もっと不思議などこか、この世ではない場所からかかってきた電話のようにも感じる。親しみがあるのか、それとも少し緊迫した関係なのか。近くて遠い距離感を覚える句。

地下茎のやうな母なり梅雨満月 柴田千晶
 地下茎も梅雨満月も暗いものに隠れてよく見えない。あまり多くは語らずもしっかりと、強かであった母にちらちらと見え隠れする妖艶な一面を暗示するような句だ。自分は母の全てを知っていたわけではない。そして知らない母の面というのは、一つだけということでもなかったのだろう。人は兎角、多面的な存在であるということは、近くにいすぎることでわからなくなってしまうのだ。

日記果つ父老い長嶋茂雄老い 小川軽舟
 親の老いは誰しも避けては通れないものだけど、徐々に感じるものではなく、ある時はっと気付かされるものだと思う。いつまでも若く、自分が二十歳くらいの時に見ていた親の姿であるように思っていたのに、いつの間にか自分の方がずっとその当時の親の年齢に近かったりする。そして子供の頃にテレビで見ていた芸能人や著名人が、ずっと歳を取ってると気づいた瞬間、自分の親も同じように老いているのだと実感するのだ。掲句はそれが長嶋茂雄であり、私にはそれが榊原郁恵である。

一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子
 作者が母親を亡くした時の、その瞬間を呼んだ一句。俳句を始めたばかりの頃に読んで、かなりの衝撃を受けた。近くに住んでいるわけではなくとも、ずっとそこに居てくれるような気がしていた親も、当然のことながらいつかは亡くなる。覚悟をしていてもなお、その瞬間がくれば自分が想像しているよりも世界の見え方や空の色が、大きく変わってしまうのだろう。雲の峰があまりにも遠く、美しい。

花八ツ手母より生きて母に勝つ 三輪初子
 亡き母を想う句。カラッとしていて明るい。八ツ手の葉がかつて繋いだ母の手と、幼い自分の手を思わせる。「母より生きて母に勝つ」の中七下五が、ちょっとお茶目で、 力強く、母としても自分の死後に娘がこんな風に奮起しているのは、とっても頼もしい、と想うのではないか。私だったら嬉しい。ずっと勝ち続けて、元気に長生きしてほしい。


出典:
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』佐藤文香編(左右社) 
『女の俳句』神野紗希(ふらんす堂)
『俳コレ』週刊俳句編(邑書林)
『超新撰21 (セレクション俳人 プラス)』筑紫磐井 編纂(邑書林)
句集『サーチライト』西川火尖(文學の森)
句集『カムイ』櫂未知子(ふらんす堂)
句集『檸檬のかたち』三輪初子(朔出版)

俳句時評166回 多行俳句時評(7) 出会い損ねる詩(1) 斎藤 秀雄 

2023年05月04日 | 日記

 議論の手がかりとして、極端に複雑性を縮減した図式を提示することからはじめたい。〈作品(artwork)〉に向き合うときに体験される、〈詩(Poesie, poeticality, poetria)〉との出会い方には、次の二通りのタイプがあるように、私には思われる。

A:脳髄にズカズカと這入りこんでくるように感じられるタイプ
B:その門を通ろうとすると、バチンと弾かれ、拒まれたように感じられるタイプ

 AとBと、どちらが良いとも悪いともいうことはできない。たんに二通りのタイプがある、というだけである。また、個々の作品に帰属される性質についても述べてはいない。あくまでも鑑賞者の体験として、鑑賞者に帰属される知覚の性質について述べている。ここでBは、〈詩〉と出会う前に拒まれているわけだから、いわば出会い損ねているのだが、「出会い損ね」という出会いのタイプもありうるだろう、と私には考えられる。この図式が「極端に複雑性を縮減」したものだというのは、個別具体的な体験が、ここまでクリアカットなものであることは稀だろうからだ。じっさいには、任意の作品に任意の時点で向き合うとき、「Aが七割で、Bが三割」といった感受のされかたとなるだろうし、あるいはまた、「かつてAと感じられていた作品が、いつの間にかBとなっていたことに気づく」といった体験もしばしばあるだろう。一般的にいうならば、「Aと感じられたその奥に、Bの壁が聳えており、繰り返し鑑賞するうちにBがAに転じ、さらにその奥に次のBが聳えている」という事態が、個別の作品鑑賞において体験されるプロセスであるように思われる。
 また、「バチンと弾かれ」たというよりも、「いつの間にか門を通り抜けてしまっており、どこに〈詩〉があったのやら、まるで気づかなかった」という体験もあるのではないか(またはそうしたケースが多いのではないか)、という、表現上の異論もあるかもしれない。ここではしかし、それはたんに表現上の問題であるし、そのばあいでもやはり「拒まれ」ているといって差し支えないのだ、と考えることにしたい。
 じつのところ、この二値コードは、かの禁断のターミノロジーであるところの〈分かる/分からない〉という図式にあるていど対応してしまう。この禁忌の語法がしばしば議論に混乱をもたらすのは、これらの語を用いるばあいには「これはunderstandではなくappreciateの意味での『分かる』なのだが、云々」といったエクスキューズをいちいち差し挟まなければならない、という事情による。こうしたわずらわしさを、われわれは回避したい。また、さらにわずらわしいことに、「分からない」は迂遠な罵倒語として解されてしまう。私も使う。「私にはこの作品は難解すぎて、ちょっと分かりません」というわけである。こう述べるとき、「私はこの作品には〈詩〉がない、と判断した」と宣言していることになるのだが、こうした判断の拙速さをも、われわれは回避したい。
 本稿の議論の都合上、もうひとつの縮減を導入しておきたい。いまでも社会において使用されている、意味的リソースとしての、〈作者〉である。ひろく知られているように、作品(テクスト)を縫合するための架空のポイントとして、〈作者〉概念は、縮減の機能を果たしてきた。私はこれまで、(テクストの複雑性を)「縮減してしまう」がゆえに、〈作者〉概念の使用(濫用)を批判してきたし、戒めてもきたのだが、ここでは、議論の整序のために、その縮減の機能を利用しよう、というわけである。
 試みに、次のような単純な言い回しをしてみたい。私にとって、Aのタイプの俳句作品を多く書いた作者は加藤郁乎や阿部完市である、と。こういってみて、これが「極端な縮減」であるとすぐに分かる(understand)のは、加藤や阿部の「どの作品」についてそうなのか、また、個々の作品について「どの程度」そうなのか、やはり、詳細に論じなければ、何も言ったことにならないだろうからだ。しかし、ここでは、そういった複雑性を無視することにする。
 Aのタイプが加藤郁乎や阿部完市、と表明することよりも、個人的により興味深いことは、私にとって安井浩司がBのタイプに含まれていた、ということである。このことは、個人的には理由がはっきりしており、安井の第四句集『阿父学』から読みはじめてしまったからである。むろん『阿父学』には《ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき》《まひるまの門半開の揚羽かな》といった、多くのアンソロジーに所収される「いわゆる名句」を含んではいるのだが、句集を読むという体験は、アンソロジーで名句をつまみ食いする体験とは、おのずと異なるところがある。安井の、名句を志向しない書き方を読むことにとって、むしろ前掲の「名句」を知っていることは、妨げになったともいえるかもしれない。この「苦手意識」とでもいうべきものが克服されたのは、これまた単純な話ながら、第一句集『青年経』から順番に読み進めることにしてみたことによる。《雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う》《或る青空醜い棒へ車輪嵌める》といった作品が、「自然に」安井の言語感覚の領土へと私を導いたといえる。むろんこれもまた、非常に単純化のし過ぎではあって、いまでも安井俳句の多くは、少なからず「拒まれている」という感じを私にもたらしている。
 私の文章によくあることながら、前提が長くなってしまった(前提を共有しない相手に向けて書いているからだ)。ここからようやく「多行俳句時評」になる。前段までの前提を必要としたのは、酒卷英一郞氏の俳句作品に触れるためである。私にとって、酒卷作品は、その詩に触れようとすると「拒まれている」感覚をもたらすものであり続けている。酒卷氏とは句会で同席しているし、「採る」こともあり、その際は選評も書く。しかし、どうにも「私は分かっていない(appreciate)のではないか」という疑いが、脳裏をよぎって仕方がないのである。この記事で、あわよくば「BだったものをAに」したい、という下心がないわけではないが、むしろ、この記事を通じて、「詩に拒まれる」という感触を読者にも追体験してもらいたい、と思っている。
 『LOTUS』創刊号(2004年)掲載の「阿哆喇句祠亞 αταραξία XIV」からはじめよう。アタラクシア、直訳すれば「動揺のないこと」「パトス(情動)のないこと」。連作シリーズの十四番目、ということは、安井俳句のときのように、初期からたどり直すことはできない。が、とにかくやってみよう。なお、酒卷氏の作品において、表記は一貫して正書法が用いられているが、文字コードやフォントの都合上、表示しえないものは、それぞれ新字体に改めた。

綺語も食む
蓮󠄀喰ひ人で
御座すかな

 『LOTUS』創刊号掲載の連作の、一句目がこの作品だから、ある意味での挨拶句として読んでもよいだろう。連作九句中、《睡蓮󠄀》《蓮󠄀葉氷》などの別の単語に含まれるケースも合わせると《蓮󠄀》の文字が六度用いられている。蓮根の根茎がなす網目の内へと、掲句が冒頭で出迎える。二行目にみえる《蓮󠄀喰ひ人》(lotus eater)はLOTUS句会の頻出ワードのひとつ。古代ギリシアには蓮を食うと記憶を失うという伝説があった。『オデュッセイア』には「蓮喰い人(ロートパゴス、ロトファゴイ)の国」に漂着したオデゥッセウス一行が、蓮の果実を食べて故郷を忘れてしまったため、オデュッセウスは無理やり部下たちを引きずり、出航した、との記述がある。現在では「放蕩三昧の人」を意味することばで、私は詩の世界における褒め言葉だと基本的には受け取っているが、「愚か者」として批難するニュアンスも、とうぜん、あるだろう。これが《綺語も食む》という。《》というからには、《綺語》以外のものはとうぜん食べるのだが、というニュアンスがあるのだろうし、ここでは「季語」との地口が成立していると考えてよいと思う。地口を介して[季語|綺語]の二重性を読むことが、まずはできる。さらに、そもそも《綺語》とは、第一に仏教語として「虚飾のあることば」を意味し、「十悪」のひとつにも数えられるほどに、強く批難されるべき「悪」である(殺生、偸盗、などと同列である)。第二に文芸において「おもしろく飾ったことば」であり「美辞麗句」のことである。この二義性は、同時に成立しえないというものではないが(宗教的に悪でありつつ、芸術的に卓越している、という事態はいまさら珍しいことでもない)、《蓮󠄀喰ひ人》という語にあった、あの二義性、称賛する感情と批難する感情とが同時に(あるいは指し示しの側を振動させながら)・表裏一体となって到来する、意味の散種の感触が、この語にも湛えられているように感じられる。[季語|{綺語(悪)|綺語(美)}]と図式化できるだろうか。三行目の《御座す》(おはす)は尊敬語であるから、ひとまず、掲句は次のようにパラフレーズすることもできるだろう。「かのお方は、季語だけでなく綺語も食べる、蓮喰い人でいらっしゃることだなあ」と。いま「かのお方」を主語としてパラフレーズしたのは、「尊敬語が用いられているから、主語は語り手自身ではない」という通念に従ってみたというだけなのだが、作品ぜんたいのニュアンスは、これが挨拶句としての性質ももつ限り、必ずしも「無関係の第三者」を記述したものとも思われない。むしろ「彼は、彼らは、我々は、私は」と、主語の位置にくるものがスライドしてゆくようにさえ感じられるのだ。
 と、この段落を書いてみて、仮に句会において私がこの句を採ったとしたなら、このような選評を書くだろう、とは思うのだが(まさにそのようなつもりで、いま、書いてみた)、そして、けして私は的外れな選評を書いてはいないとも思うのだが、しかしそれでもまだ「拒まれている」感触は残る。私はまだ、この作品の詩の可能性の半分も受容できていないのだろう、という引け目を感じる。そのことは、「だからこの作品を低く評価する」という結論へ導くことはないのだが、「そのような自分がこの作品を評価している」という事態への、強い違和感に苛まれることになる。掲句一行目の《綺語》を[季語|{綺語(悪)|綺語(美)}]と図式化し、「意味の散種の感触」と述べた。が、このように図式化しながら、私は、散種(dissémination)というよりもむしろ多義性(polysémie)の解釈学をやってしまっているのではないか、と感じていた。むろん〈散種/多義性〉は「AでないものはB」というたぐいの、分類のための概念セットではない。散種は、古い認識論(頽落)において生じる錯視を、白日のもとにさらすための、「働きかける語」であって、いわば「非概念的概念」である。多義性は散種にとってかわられる。私が「散種ではなく多義性」などという奇妙な感触を抱いてしまうのは、テクスト内在的に読んでいるというよりも、仕掛けられた罠の仕組みを解き明かしているように感じてしまうからだ。なぜそのように感じてしまうのか、はっきりとは分からないが、酒卷作品の多くに伏在する謎(拒まれるような、あの不思議さ)のヒントは、部分的には、その点にあるようにも思う。

斜交ひに
蓮󠄀飼ひに
そのとことばに

 もう少し他の作品にも触れたい。掲句は、《》で三句がそれぞれ締められているという外見上の異様さが目を引く。本作の詩の最大のポイントもそこにあるように思われる。一行目は場所・方向の助詞《》。《斜交ひ》つまり斜めに、交わるように。二行目は一行目から地口を引き受けて、動作の方向または結果の助詞《》。《蓮󠄀飼ひ》とは蓮を動物として飼育するもの、というほどの意味の造語だろう。一種独特の植物である《蓮󠄀》が動物化したならば、やはり一種独特の異様な景をもたらす。むろん、植物であるのに動物であると思いこんで飼育しているもの、という可能性は排除できない。《蓮󠄀飼ひに》とは、この人物に向かって何かをする(方向)とも、この人物に成る(結果)とも、ここでは助詞の機能は確定できない。三行目《そのとことばに》は、連体詞または感動詞「その」+形容動詞「とことば(ナリ)」の連用形、と思われる。平安期以降「とことは」(永久、不変)とハに転呼したが、古くは《とことば》であった。この語に「ことば」が含まれる点に面白みもあり、一種の地口と考えてもよいかもしれない。《その》を連体詞または感動詞、としたが、まずは連体詞として読めるだろう。すなわち「斜交いに、また蓮飼いに、その永久の期間に何かを行う(または何かがある)」と。著しく省略が施された作品とも、通常文法を逸脱した作品とも読めるが、いずれにしてもパラフレーズが難しい。感動詞である可能性は除外できない。「まあ、その」「ほら、その」の間投的な《その》である。
 と、この段落を書いてみて、今度は選評のようにではなく、分析風・解説風に書こうと試みたのだが、仕掛けられた罠に嵌っている感触は少ないものの(仕掛けがより巧妙である可能性もある)、やはり、あの「拒まれている」感じは残る。それは、コンスタティヴなパラフレーズが難しい(あるいは不可能である)から、という理由によるものではない(そもそも詩のパラフレーズに何の意味があるのか)。もしもこの句が一行で書かれ、LOTUS句会ではなくプネウマ句会に提出されていたなら、私は採るだろうか。おそらく採るだろう。三行という外観の「恐ろしさ」に私は尻込みしているのだろうか。本作になされた署名に怯えているのだろうか。そうした要因は排除できない。「署名」はテクスト外的要因と考えるにしても、「三行という外観」はここではテクスト外ではないと思われる。

三夕の
暮六つの藪
御存知か

 酒卷作品の別の――であるかどうかはともかく――側面も見てみたい。一行目。《三夕》は、第一義には「三夜、三晩」だが、いわゆる「三夕の和歌」を想起させる。「秋の夕暮れ」を結句とした新古今の三首である。三首の作者名を、寂蓮・西行・定家と書き出してみると、「蓮」の一字を見出すことができる。蓮根の網の目にかすかに繋がれている、とも読めるだろう。《三夕》には秋の質感(季感)が籠もっているため、二行目の《暮六つ》(酉の刻)は現在なら秋の午後六時頃、ということになるだろうか。秋の午後六時となればじゅうぶんに暗く、《暮六つの藪》とは恐ろしい舞台設定、ということになる。もんだいは三行目であり、《御存知か》と唐突な問いが出現する。《御存》または《存知》には「知っている」「知り合い」「覚悟している」などの辞書的意味があるが、いずれにしても、三行目に到達したときに、読者は突然に問われるのである。この「藪から棒」とでもいうべき問いが、「第四の壁」を突き抜けて、差し向けられる。刺される、といってもよい。「恐ろしい夕暮れの藪のなかに入ってゆく覚悟はおありか」などと無難なパラフレーズも可能ではあるが、この三行目の理不尽な感触は、こうしたパラフレーズには還元できない。
 そこでもう一度一行目に戻る。《三夕》は「近世、遊女の通り名のひとつ」でもある。《》はこれまた非常に多義的な語だが、「花柳界における陰毛の隠語」でもある。すなわち「遊女の、暮れ六つどきの陰毛を知っているかい」とパラフレーズすることもできることになる。「酒卷作品の別の側面」とはつまり破礼句のことであるが、しかしこれが「別の側面」といえるのかどうか、難しい。「結論は、これは、破礼句です」とはならない。この作品についていえば、破礼句としての解釈をしてみても、やはり三行目の《御存知か》の問いが、理不尽であることには変わりがない。
 ふたつの読み、《》を恐ろしい舞台設定と読むラインと、遊女の陰毛と読むラインとは、いっけん、ポール・ド・マンの見出すような《相互に排他的な二つの意味》(ド・マン『読むことのアレゴリー』二九頁、土田知則訳、講談社学術文庫)の関係にあるかのようにみえる。が、三行目に至るとき、問いという理不尽さのなかで、このふたつのラインは再び統合されてしまう。「覚悟はおありか」と迫られるとき、《》が秋の夕方のおどろであっても、遊女の陰毛であっても、さして違いはない、ということになるだろう。

天涯や
また睡蓮󠄀を
くじる音

 同連作からもう一句読んでおきたい。一行目の《天涯》、つまり天の果は、死を思わせる。柳田國男を典拠とするなら、本邦の死のイメージは山へ向かうか海へ向かうか、であったわけだが(あるいは神話的に、地の底か)、「天へ召される」のような語法は、人口に膾炙している。二行目に《また》とある。本作の詩の第一のポイントはここにあると思われる。語り手は《天涯》に長くいるか、繰り返し訪れているか、であろう。三行目の《くじる》とは「ほる、えぐる、うがつ」の意。《睡蓮󠄀を/くじる》という行為を、明確に視覚的知覚として結像することは私にはできないが、死の匂いが漂うなか、生命を失わせているのか、または新しい生命を(後の世のために)掘り出そうとしているのか、その気配は感受される。語り手は《》を聞いているというのだから、目の届かない遠い場所か、暗い場所でこの行為が行われている、あるいは語り手の視覚がすでに失われている、など、無視覚であることがほのめかされている。
 連作のなかで本作を読むと、「蓮」でなく《睡蓮󠄀》であることが、不思議に感じられる。蓮の英名Lotusはギリシア語由来で、エジプトのヨザキスイレン(Nymphaea lotus)からきているらしいから、睡蓮に蓮を、蓮に睡蓮を見出すことも、不可能ではないかもしれない(lotusはその他多くの種類の植物について用いられる名である)。ところで、いま睡蓮の属名であるNymphaeaの名を記述したけれども、いうまでもなくこれは「ニンフ(ニュンペー)」を語源としている。ニンフは処女神とは異なり恋に積極的であったとされ、「ニンフォマニア」の語源でもあるのだが、こうして本作も、ある種の破礼句として読む準備が整うことになる。《くじる》とは「棒などで穴のなかをかきまわす」の意であり、あとは言わずもがな、となる。前段の《》句と同様、ここでもやはり、「結論は、これは、破礼句」とはならない。なぜ《天涯》なのか。なぜ死の匂いを漂わせる必要があったのか。性愛を表現するのになぜ《くじる》という語が選択されたのか(たとえば「目をくじる」のような恐ろしい景を描くのに用いられる語でもある)。死と性は隣合わせだ、といってしまえばそれまでだが、その隣接性が、一種独特の作品世界の内で、激しくも静かに混濁されているように感じられる。性が死へ、死が性へと食い込むように、陰陽の卍巴の太極図のように。

(つづく)



俳句時評165回 川柳時評(7) 自由律やChatGPTについてのとりとめもない話 湊 圭伍

2023年05月04日 | 日記
 この川柳時評の担当は3ヶ月に一度。そのあいだあれこれネタの候補を探しながら過ごして、結局、締め切り間際にドタバタ書くことになる。が、今回は正直困った。何も考えてなかったわけではなく、前回の記事を送ってから、自由律俳句を参照しながら自由律川柳について書こうかなあと思った。それが何となく時間がたってテーマへの興味がぼんやりして焦点の定まらないタイミングで締め切りが近づいてきた。いやはや、どうしたものか。
 とりあえず、自由律川柳については伊良子擁一編『自由律川柳合同句集Ⅰ』(1941)という歴史的資料を手に入れたので、収録されている太平洋戦争以前の自由律川柳をいくつか引用してみる。

くすぐられるからわらつてやる          道田葉平

春の話へ咳こんでゐる              增位汀柳

火のないストーブがつまづくとこにある      村岸清堂

椿夕あかりしてゐる死あることが不思議なくらゐ  亀井愚寵

朝顔咲いてしまつた               木村半文錢

夕方の風に僕のからだとなつて歩きます      喜多川宵路

ちよいと拾うて春風をしよつてゆくひろひやさん  石川棄郎

神戸とある大根積んだトラツクをふりかへるのです 藤井蔭太郎

血を塗つた十字架の模造品が銀に光る       阿部俊一郎

こやつ電球となつて眞空を摑み得てゐる      川口為男

 引用する前は「あまり自由律俳句と変わらない」と書こうと思っていたのだが、実際にこうして気に入った句を並べてみるとそこはかとなく「俳句」とは違う川柳味があるような気がしてくる。どこが、とは言えないのが苦しいところだ。全体の印象としては素直なところが好ましくもあり、また、太平洋戦争の直前にこれが出版されたことに拍子抜けしないこともない。
 『自由律川柳合同句集Ⅰ』には、8つの川柳誌(「たまむし」、「手」、「紫」、「川柳ビル」、「川柳風呂」、「視野」、「巻雲」、「柳詩」)からの作品が収められている。そのうち、自由律川柳に特化していたのは「視野」のみのようだが、160人におよぶ作家の名前が並んでいるのを見ると、太平洋戦争までの時代には川柳にも自由律を求める必然性があったのだと感じられる。
 ちなみに、収録の160人には鶴彬が入っていない(鶴はこのアンソロジーの出版より前の1938年に、獄中で罹患した赤痢で亡くなっている)。ただ、巻末に収められた「自由律川柳小史」(杉田小寒郎)に、「巻雲」(井上剣花坊創刊の「川柳人」が改名した川柳誌)からの「諷刺的主張」のある作品として、

グラインダーの蒼い火花に徹夜續きのあばら骨   彬
あざむかれた移民の意気地で煙突を磨く      楊生坊
富士の晴れる日はにつぽんの下駄を履いて出る   帆吉

 があげられているのには、この(太平洋戦後も今に至るまで)最後の「自由律川柳」アンソロジーを編んだ人々の気概が感じられる。
 それにしても、上に引いた作品の木村半文錢や石川棄郎といった作者名に見られるように、戦後まで生き延び、今も川柳家として名前を聞く人もいるものの、他の100人以上の自由律川柳家たちはどこへ行ったのだろう。戦後も、何らかのかたちで創作活動を続けたのだろうか。この続きこそを書きたかったところだが、始めに書いたように方向性が定まらず、今回の「自由律川柳」についての話はここで終わる。いつか、戦後の川柳における自由律の展開、というか、段階的消滅についても書いてみたいとは思っている。
 
 さて、「自由律川柳」についての考えがまとまらなかった原因のひとつとして、新しく手軽で派手なオモチャが出てきて、それを試すのに時間がとられたことがある。巷で話題のChatGPTである。
 これがどのようなシロモノであるかというのはいまネット上に情報があふれているので、ここでは最小限の説明で済ませる。自然言語を高度に模倣してさまざまな言語表現を出力することができるGPT(Generative Pre-trained Transformer)というAI(正確には、「大規模言語モデル」、らしい)に、普通の会話のかたちで入力を行えるインターフェイスをつけたものである。この出力される言語表現がこれまでにない「人間らしさ」を備えているので、情報処理能力との組み合わせで今までは人間が作業していたさまざまな知的作業を代行できると想定され、実際にそうなり始めている。
 私は創作と仕事の双方で言語を中心とした生活をしているので、一方では困ったなと思い、一方、いろいろと新しい展開になりそうなので面白くもなったとも考えている。とくに英語で英語圏文化について、例えば、”Write a short essay on the song “Tomorrow” from the musical Annie.”などと尋ねれば、各パラグラフちゃんと情報がそろった5~6パラグラフの文章、こうした事情をしらない先生ならすごい英文を書く学生がいる!と採点A+をつけた踊りだしたくなるような文章を書いてくれる。日本語はまだまだ下手なのだけれど、英語で出力した後に、他のAIツールの「DeepL翻訳」などを使えば立派な日本語文にもなる。
 じゃあ、ChatGPTくん、川柳も書いてくれるかな、といろいろ試しているのだが、「川柳」、”senryu”という言葉を入れてしまうとロクなものが出てこない。GPTの性質上、いちばんありがちな言葉な並び、言い換えれば一般的な通念に従った言葉の集まりができてしまうのだ。また、そのレベルでは、俳句と川柳の区別が(おそらく一般の日本人の多くもそうであるように)できておらず、出来の悪い俳句っぽい表現が量産されることになる。(例えば、馬鹿正直に “Write a senryu.”という「プロンプト」—入力する指示文のことをこう呼ぶ―を入れると、

Cherry blossoms fall,
Softly landing on the ground,
Beauty in decay.


 みたいなのが出てきます。)
 というわけで、ちょっと工夫して以下のような説明的な「プロンプト」を打ち込んでみた。

I want you to act as a poet. Write a one-line lyrical poem that describes a daily life scene with some illogical leap.
(詩人になって日常の場面を描いてちょっとした論理的な飛躍も含んだ一行の抒情詩を書いて。)

 すると、

I dance with the laundry, as it spins in the dryer's warm embrace.

With a flick of the wrist, I paint the sky in shades of my emotions.


 といったが出てきたので、おっ意外といけるのかも、もちょっと頑張れ!とくりかえしていたら、どんどん下手になって、

The streetlight hums a lullaby, coaxing the sun to rise from its slumber.

 うーむ、なんとなく、頑張っているのは伝わってくるのだけれど・・・。
 もっと「プロンプト」を工夫するとよいのだろうが、「日常の場面」と書くと陽光にあふれた気持ちのよい朝食のシーンをやたらと使いたがるような「ありがち」にとらわれる傾向のあるAIなのである。「論理の飛躍を」も馬鹿正直に受けてしまっているようだ。根本のところが川柳に向いていないのだろう。気の毒に思えてきた。他にもさまざまに試しているのだが、よく考えると、こういう道具は「便利ツール」だけに途中のさまざまな作業をすっ飛ばすというところにポイントがあるのだった。創作、特に川柳の創作というのはむしろ、その途中のさまざまな作業で、意外な組み合わせや発想が生まれるところに醍醐味があるわけで、その意味でも川柳創作に使うには向いてなさそうである。アイデアをもらうという使い方もある、とChatGPT使用指南のYouTube動画などはいうのだが、そうした行為自体が「目的」に向けた「効率」の発想なので、そもそも無駄な行為である(と言い切ってしまおう)川柳創作とは正反対を向いているのだ。
 また、GPTという言語モデルは基本的に、ある言葉にその言葉につづく確率が一番高い言葉をつなげてゆくというリニアな仕組みらしい。その意味では、読みの過程で全体が把握できて、読みが前の言葉にも循環的に戻って重層的な意味を生み出していくような短詩には向いていないだろう。画像AIなどを組み合わせて、全体像のイメージを考慮させる、といった仕組みは作れるかもしれない。現在のChatGPT(無料版)の背後にあるGPT3.5ではなく、有料版に使われているGPT4 はmultimodal—言語だけでなく、画像や音声も扱える―らしいので、これは意外と早く対応できるようになる可能性がありそうだ。
 まあ、それ以前に、日本語の理解がまだまだというほうが気になる。「一音で発音する漢字をリストアップして」という簡単な指示にもまともに答えられない。

プロンプト
Can you provide me with a list of Japanese kanji that are pronounced in a single mora? Please keep in mind that a mora is the smallest unit of sound in Japanese language. List up 漢字 that are pronounced in a mora in Japanese.

回答
Sure, here are some Japanese kanji that are pronounced in a single mora:

一, 右, 雨, 円, 王, 音, 下, 火, 禾, 下, 歌, 花, 車, 子, 糸, 字, 耳, 手, 十, 几, 九, 人, 入, 内, 半, 白, 父, 太, 竹, 中, 虫, 町, 天, 田, 土, 二, 日, 八, 百, 不, 美, 無, 万, 名, 目, 矢, 也, 夜, 与, 予, 楽, 良, 流, 龍, 竜

Note that this is not an exhaustive list, and there may be other kanji that can be pronounced in a single mora depending on the context in which they are used.


 これは文字情報で学習しているので、文字数はカウントできるが、読みの音数までは手が回らないのだろう(中国語でも日本語でも字は同じだからまあ一緒だろう、という発想かもしれない)。俳句や川柳は575と定義ではいうのだが、実作では575が書けないのもたぶんこれが原因か。解決するのは元データの漢字をひらいたものを大量に学習させる、といった手間がいるし、これがなされるのは(それがなされるとして)ずいぶん先になるに違いない。(GoogleのBardでも試したが、ほぼ同じ結果だった。ChatGPTもBardも大本のシステムが Transformer というGoogleが開発した大規模言語モデルなので当然ではある。)
 私は意地悪だから、向いていないものに無理やりやらせるのが面白くもある。それと、こうしたシステムが出来ないことを確認することは、「私たちは何が出来ているのか」を知ることができるという意味で有益だなと思う。上の例でいえば、私たちの「書く‐読む」行為がリニアなつらなりだけでなく、映像的なかたち(ゲシュタルト?)の読み取りや、前に戻る循環的な理解からも成っていて、また、漢字と読みの二重性を瞬時にして読み取るような高度な情報操作が自然に行われている、という点などは、人間の知性とは違う現在の「AI」の情報処理と比べてみると、はっきりと浮き彫りになる。
 さて、最後に、お世話になったChatGPTに得意なこともさせてあげて今回の記事を締めようと思います。

プロンプト
I want you to act as a gansta rapper. Write hip-hop verses on a battle between senryu and haiku. Let senryu win in the end.

回答
Yo, yo, yo, what's good, y'all?
It's your boy ChatGPT, coming at you with a hip-hop brawl
We got Senryu and Haiku, two forms of poetry
Going head to head, who's gonna come out on top, we'll see

First up, Haiku, the OG of the game
Three lines, five-seven-five, that's the name of the game
Haiku's short and sweet, makes you ponder and reflect
But when it comes to battling, can Haiku truly connect?

Now let's talk about Senryu, the underdog in this fight
Similar to Haiku, but with a little more bite
Senryu's witty and clever, it packs a punch
And when it comes to battling, Senryu's got the lunch

Haiku steps up to the mic, ready to spit some fire
But Senryu's got some bars that will make Haiku retire
Haiku's lines are beautiful, but they lack some punch
While Senryu's lines hit hard, like a heavyweight lunch

Haiku's sweating now, as Senryu takes the lead
Senryu's flow is unstoppable, Haiku can barely breathe
Haiku tries to fight back, but it's too little too late
Senryu's got this battle, there's no debate

So there you have it, Senryu takes the win
Haiku put up a good fight, but Senryu's got the spin
Thanks for tuning in, y'all, and remember this rhyme
In the battle of poetry, Senryu reigns supreme every time.


 というわけで、thanx my homie ChatGPT!!!