五月晴れ遠く離れて山一つ
私が十歳の頃に、小学校の課題で作った俳句である。五月の霞んだ大気の中に「山」が「一つ」だけ、くっきりと稜線を表していることなどほとんどありえない。実景を詠んだ句ではないのである。しかも、当時私の暮らしていた北関東の農村では、浅間や赤城の周辺の連山はぼんやりと見渡すことができたのだが、「一つ」だけそびえたっている「山」というのがそもそもなかった。
しかしながら、書き手自身の経験と書かれたものを切り離して読む、あるいは切り離されうることを利用して書く、などという文学理論めいたことなど学んでいないはずなのに、なぜ私は実景を写すことにこだわらずに、上の俳句を作ることができたのだろうか。
この俳句そのものの出来不出来はとりあえず問わないでおくが、今となっては不思議なことだ。もしかすると、俳句という形式自体に、書き手の現実を拒む自由を、十歳程度の子どもにすら喚起する秘密が隠されているのではないか。
子どもが俳句の手ほどきを受ける際に、五七五の音数の決まりと並んで、「季語」の存在を学ぶこととなる。たとえば「柿」ならば秋の季語、「こがらし」や「雪」ならば冬の季語であるという風に、事物やイベントと季節の結びつきのルールを押さえていく。
しかしながら、ここで学ぶこれらのルールあるいは「常識」は、子どもの中にすでに内面化されている季節の感覚と一致するものなのかというと、実は怪しい。
柿の実が赤みを深めていくのを秋の到来のしるしとして受け取ったり、曇り空からちらつきだす雪つぶてに冬の真っただ中であることを感じたり、といった現象と季節の変化の結びつきを「常識」としては知っていても、果たして実感としてとらえているのだろうか。ましてや、スーパーマーケットに一年中、同じような野菜の並べられているこの時代に。
すでに「獲得」されたイメージ、すなわち「常識」としての季節感から出発して生成されていくのではなく、季節のイメージそのものを「獲得」していく過程こそが、俳句となって顕れるのではないか。実景にこだわらずに、言葉そのものと戯れることで一句をひねり出す。
ひょっとすると、大人が子どもの俳句に何らかの新鮮さを見出すとき、本当は「獲得」の過程であるものを、「解体」の過程であると解釈するという誤解が生じているのかもしれない。季節の「常識」へ進む過程で生まれる大胆さを、「常識」から離れていく過程の大胆さであると錯覚してしまっているのではないだろうか。
私が十歳の頃に、小学校の課題で作った俳句である。五月の霞んだ大気の中に「山」が「一つ」だけ、くっきりと稜線を表していることなどほとんどありえない。実景を詠んだ句ではないのである。しかも、当時私の暮らしていた北関東の農村では、浅間や赤城の周辺の連山はぼんやりと見渡すことができたのだが、「一つ」だけそびえたっている「山」というのがそもそもなかった。
しかしながら、書き手自身の経験と書かれたものを切り離して読む、あるいは切り離されうることを利用して書く、などという文学理論めいたことなど学んでいないはずなのに、なぜ私は実景を写すことにこだわらずに、上の俳句を作ることができたのだろうか。
この俳句そのものの出来不出来はとりあえず問わないでおくが、今となっては不思議なことだ。もしかすると、俳句という形式自体に、書き手の現実を拒む自由を、十歳程度の子どもにすら喚起する秘密が隠されているのではないか。
子どもが俳句の手ほどきを受ける際に、五七五の音数の決まりと並んで、「季語」の存在を学ぶこととなる。たとえば「柿」ならば秋の季語、「こがらし」や「雪」ならば冬の季語であるという風に、事物やイベントと季節の結びつきのルールを押さえていく。
しかしながら、ここで学ぶこれらのルールあるいは「常識」は、子どもの中にすでに内面化されている季節の感覚と一致するものなのかというと、実は怪しい。
柿の実が赤みを深めていくのを秋の到来のしるしとして受け取ったり、曇り空からちらつきだす雪つぶてに冬の真っただ中であることを感じたり、といった現象と季節の変化の結びつきを「常識」としては知っていても、果たして実感としてとらえているのだろうか。ましてや、スーパーマーケットに一年中、同じような野菜の並べられているこの時代に。
すでに「獲得」されたイメージ、すなわち「常識」としての季節感から出発して生成されていくのではなく、季節のイメージそのものを「獲得」していく過程こそが、俳句となって顕れるのではないか。実景にこだわらずに、言葉そのものと戯れることで一句をひねり出す。
ひょっとすると、大人が子どもの俳句に何らかの新鮮さを見出すとき、本当は「獲得」の過程であるものを、「解体」の過程であると解釈するという誤解が生じているのかもしれない。季節の「常識」へ進む過程で生まれる大胆さを、「常識」から離れていく過程の大胆さであると錯覚してしまっているのではないだろうか。