「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 「獲得」と「解体」 久谷 雉

2019年12月28日 | 日記
  五月晴れ遠く離れて山一つ

 私が十歳の頃に、小学校の課題で作った俳句である。五月の霞んだ大気の中に「山」が「一つ」だけ、くっきりと稜線を表していることなどほとんどありえない。実景を詠んだ句ではないのである。しかも、当時私の暮らしていた北関東の農村では、浅間や赤城の周辺の連山はぼんやりと見渡すことができたのだが、「一つ」だけそびえたっている「山」というのがそもそもなかった。

 しかしながら、書き手自身の経験と書かれたものを切り離して読む、あるいは切り離されうることを利用して書く、などという文学理論めいたことなど学んでいないはずなのに、なぜ私は実景を写すことにこだわらずに、上の俳句を作ることができたのだろうか。

 この俳句そのものの出来不出来はとりあえず問わないでおくが、今となっては不思議なことだ。もしかすると、俳句という形式自体に、書き手の現実を拒む自由を、十歳程度の子どもにすら喚起する秘密が隠されているのではないか。

 子どもが俳句の手ほどきを受ける際に、五七五の音数の決まりと並んで、「季語」の存在を学ぶこととなる。たとえば「柿」ならば秋の季語、「こがらし」や「雪」ならば冬の季語であるという風に、事物やイベントと季節の結びつきのルールを押さえていく。

 しかしながら、ここで学ぶこれらのルールあるいは「常識」は、子どもの中にすでに内面化されている季節の感覚と一致するものなのかというと、実は怪しい。

 柿の実が赤みを深めていくのを秋の到来のしるしとして受け取ったり、曇り空からちらつきだす雪つぶてに冬の真っただ中であることを感じたり、といった現象と季節の変化の結びつきを「常識」としては知っていても、果たして実感としてとらえているのだろうか。ましてや、スーパーマーケットに一年中、同じような野菜の並べられているこの時代に。

 すでに「獲得」されたイメージ、すなわち「常識」としての季節感から出発して生成されていくのではなく、季節のイメージそのものを「獲得」していく過程こそが、俳句となって顕れるのではないか。実景にこだわらずに、言葉そのものと戯れることで一句をひねり出す。

 ひょっとすると、大人が子どもの俳句に何らかの新鮮さを見出すとき、本当は「獲得」の過程であるものを、「解体」の過程であると解釈するという誤解が生じているのかもしれない。季節の「常識」へ進む過程で生まれる大胆さを、「常識」から離れていく過程の大胆さであると錯覚してしまっているのではないだろうか。

俳句時評 116回 市井にして頂点~茨木和生 天宮 風牙(里人)

2019年12月11日 | 日記
 現在、俳句の読者数がどれだけであるかを僕は知らない。俳句を書かない者が俳句を鑑賞すること(純粋読者)の殆ど無い俳句社会においては結社に所属し主宰の選を受ける者、俳句総合誌、新聞等の俳句欄へ投稿し選者による選を競う者、カルチャースクールの俳句講座で学ぶ者が俳句人口の殆どであろうと推察する。俳句総合誌等に作品を発表できる俳人はごく一部で、あまたの市井の俳人に支えられているのが俳壇である。市井の俳人達は俳壇から注目されることも無く俳句を書き続ける。自己承認欲求を満たすために、中には俳壇はおろか所属誌内でも注目されることもない者が俳句の「先生」を目指すことになる。しかしながら、俳句作家であろうとする者も少なからずいる。そして彼らの作品の中には著名な俳人の作品に勝るとも劣らない句もあるのだ。

  猪裂くや胃の腑に溜まる穭の穂 玉川義弘『十徳』

  なめくじが授業に遅れたる理由 土屋郷志『法螺』

 里俳句会には寒稽古という鍛錬句会がある。一時間程の吟行の後、二度の二十五句出しの句会を二日間おこなうのだ。長い間、俳諧の世界にいた僕には吟行という習慣は無く頭の中での句作が中心であり、又、「多作多捨」の考え方も無く寒稽古に二の足を踏む僕に代表である島田牙城は「吟行なんて所詮、俳人の自慰行為。生活の中から生まれた句には敵わないのだ。それでも吟行は俳人が成長するための有効な手段なのだ。」と言った。東京の句会で高得点を得た農事句を『里』の佐久句会にも出したことがあった。農業従事者をはじめ農業が身近にある佐久の同人達には現実感の無い句だったのであろう無得点に終わった。前掲の土屋郷志は佐久句会の同人である、何度も寒稽古を経験した上で日常から生まれたこの傑作をものにしたのであろう。同様に玉川句も生活の中からしか生まれ得ない句である。俳句に限ったことではなく市井の表現者が認められ注目された途端につまらない作品しかできなくなるということが往々にしてある。自己承認欲求が邪魔をするのであろう。残念なことではあるが市位の表現者であり続けることもまた困難なことである。

  採りたてといふ鳥貝の刺身かな 茨木和生『潤』

 「採りたてといふ」の慣用表現とも言える措辞を用いた句はそれこそ星の数程あるだろう、又「鳥貝」を何に差し替えても文として成立する。しかしながら、貝の刺身の中でもその色合いの美しさを誇るのが「鳥貝」である。ありふれた楚辞も鳥貝に使われたことによって生き佳句となった。弾力のある肉厚なその身は甘い。

  正月もおまへん鹿の悪さには 茨木和生『潤』

 前掲の玉川句の猪は穭を餌としている、田という人間の生活圏に入り込んだ猪。即ち「有害鳥獣」としての猪でありこの茨木の「鹿」もまた「有害鳥獣」である。季語「鹿」はその夫恋の鳴き声を持って「秋の季」とされてきた。詩歌の世界で千年以上鳴き続けてきた「鹿」は茨木の眼前では鳴いてはいない現実世界の中の鹿である。
 現『運河』主宰茨木和生(1939年1月11日 - )間もなく81歳になる。運河創刊主宰である右城暮石とその師である松瀬青々という天才肌の二人とは異なり才気というものをまるで感じさせない市井の俳人である。宇多喜代子(1935年-)、坪内稔典(1944年 - )という才気溢れる二人に挟まれその後塵を拝してきた地味な印象も拭えない。しかしながら現在、句作においては遥かに二人を引き離し現俳壇の頂点にいると思っている。天才肌の俳人に囲まれ更に中上健次との交流は己が市井の俳人であることをいやがおうにも意識せざるをえなかったのではないだろうか。もしかしたら、それ以前に早熟の天才島田牙城との出会いからかもしれない。その島田牙城は茨木和生を評して『僕が茨木和生を信頼出来るのは、彼が自ら厨に立つからである。彼が自ら茸を穫りに山へ入るからである。それを俳句の為にしているのではない。自らの[生きる]を確認するため。』と述べている。

  山の田に拾ひし十粒螺肴 茨木和生『潤』

  みちのくの五穀取り寄せ姫始 

 「螺肴」「姫始」という古季語に新たな生命力を宿らせている。「絶滅季語」と称して古季語を遊んだりはしないのだ。市井の俳人であることを悟りそこから始まったのが茨木和生なのではないだろうか。
 現代俳句協会に所属する俳人の多い句会後の懇親会等の席で茨木和生をはじめ有季定形を標榜する俳人の保守性への批判を多く耳にする。俳句における保守性とは何か? を良く考えて欲しい。保守性を批判する俳人の句の多くに僕は「古臭さ」を感じる、それは所謂「二物衝撃」的な言語感覚に頼った句でしかない。詩性川柳を標榜する現代川柳の一部と酷似している。川柳だからダメだと言っているわけではなく、所謂前衛俳句でやり尽くされてきたからだ。もっと言えば天和調と言われる俳諧の発句を見て見れば良い。その前衛俳句がやってきたことも既に約400年前にやり尽くされているのだ。「新しさ」を標榜する俳人こそ句集『潤』を読むべきである。そこには、季語の本意などという生命力を失った言葉は一つも無い。ただ、茨木和生の眼前の景(若しくは事象)が生き生きと描かれているだけである。

  春野菜福島産と聞けば買ふ  大牧宏『朝の森』

  小名浜の鯖と出されて得心す 茨木和生『潤』

 共に蛇笏賞を競った句集からの句である。同じ福島県を書いた句でありながら前者は2011年3月の震災及び原発事故が前提にあり、後者は作者の眼前の今、此処だけが描かれている。『朝の森』の帯に「反骨魂を持って俳諧に生きる」と「俳諧」が使われているので言わせて貰うが、俳諧の発句と平句の違いは前句の有無にある、平句には必ず前句がある。大牧の句は一見一句独立しているが、前句に「原発事故」が隠された平句では無いのか。平句化した俳句は川柳とはならずに標語となってしまう典型例である。
 この詩客の俳句時評第110回島田牙城論https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/43b1d5c35e6c80d15d352f2450b72ddcで書いた牙城の写生四段階論の第三段階「物と同一になる感覚が生まれる」に該当する俳人は茨木和生、小澤實、岸本尚毅、島田牙城の四人しかいないと考えている(他にも佐藤文香がいるが天才故の気まぐれか数年に一度の爆発である。)。小澤、島田が「取材」による写生なら茨木、岸本は波多野爽波の「俳句スポーツ説」に近いように思う。

  凍る寸前の木雫まるまれり 茨木和生『潤』

  樹々の雪落ちずに凍ててゐたりけり

  塊打ちを繰り返しつつ耕せり

 そしてなによりも、  

  天牛の体を立てて飛び来たり 茨木和生『潤』

 天牛のあの長い触角がはっきりと見える正しく「物と同一になる感覚が生まれる」である。
 間もなく81歳になろうという大ベテランであるにも関わらず『潤』から読み取れたのは『伸び代』であった。与謝蕪村がその最晩年に最盛期を迎えたのを彷彿とさせる。結社の会員を経験していない僕には所謂「師」はいない。俳句歴は五年の新人であるがそれ以前の俳諧、短歌の経歴を加えるなら半世紀近いベテランでもあり今更、結社で俳句を学ぶことは無いだろうと思っていたが『運河』会員になりたいと思い始めている。それは、茨木和生の選を受けたいというより、茨木和生を身近に感じてみたいと思っているからである。なぜなら、既に頂点にいるにも関わらずこれから最盛期を迎えようとしているからに他ならない。年齢が年齢である、この先の10年、20年が確約されているわけではない。芭蕉、蕪村、子規、虚子の如くに茨木和生が文学史に残る一句を産む瞬間に立ち会いたいのだ。僕を含むあまたの市井の俳人のために。