「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 村松友次(紅花)先生のことなど。 江田浩司

2014年06月28日 | 日記
 俳句に関するエッセイということで原稿をお引き受けした。
 私が俳句結社に所属していたのは二十代の半ばまでである。高野素十系の後継誌「雪」に所属し、当時主宰をされていた村松紅花先生に師事した。村松先生は大学の恩師でもあり、芭蕉、蕪村の研究を中心にすぐれた業績を上げられていた。反権威的な研究姿勢と、虚子、素十の客観写生を継承する創作姿勢を生涯貫かれた方である。創作者としての直観が研究に活かされたユニークな説も多く発表されている。「芭蕉忍者説」の出どころは村松先生である。斎藤栄の推理小説『奥の細道殺人事件』に登場するT大学のM教授のモデルは村松先生であるという説もある。
 ロシア語をハルピン鉄道学院露語専修科で学習され、ロシアの教育理論書や日本古典文学史を飜訳されている。若い頃には演劇、映画の脚本や、短歌も創作されていた。また、R・Hブライスの大著『俳句』全四巻の飜訳を試みられたことは特筆すべきことではないかと思う。残念ながら全巻の飜訳は達成されなかったが、アメリカのビートニク世代の詩人を中心に、欧州の詩人にも多大な影響を与えた『俳句』が、一部でも飜訳されたことはとても意義のあることである。(『俳句』第一巻 二〇〇四年 永田書房刊 村松友次、三石庸子訳)
 私は『俳句』飜訳の勉強会に二、三度顔を出させて頂いたが、難解な文章にまったく歯が立たなかった。
 ブライスは鈴木大拙の弟子であり、現天皇の皇太子時代の英語の教師でもある。昭和天皇の「人間宣言」の起草に協力していることでも名前を残している。俳句への愛情が非常に強く、俳句は、仏教(禅)、道教、漢詩、和歌など、アジアと日本の文化のすべてが集約されたすぐれた表現であるという信念を持っていた。
 鎌倉東慶寺内の松ヶ丘文庫(鈴木大拙の蔵書を中心に収蔵されている)にブライスの蔵書を拝見させて頂くために、当時ご存命であった文庫長で仏教学者の古田紹欽さんを村松先生とお訪ねしたことも懐かしい。東慶寺にあるブライスのお墓は大拙のお墓の後ろに慎ましやかに控えている。お花とお線香を供えて手を合わせたと記憶している。ブライスの辞世の句は「山茶花に心残して旅立ちぬ」である。ブライスの俳句に関する業績はもっと広められてもいいのではないかと思う。しかし、如何せん主著の『俳句』が膨大な上に難解で、なかなか取っ付きにくいことが障害になっている側面があるだろう。
 私は素十俳句の本質が理解できないまま主観性の強い俳句を創作していた。村松先生からは、「金子兜太さんのところに行った方がいいかもしれない。」とからかわれることもあった。金子兜太さんとは確か訪中団の一員としてご一緒したときに、俳句に対する価値観を超えて意気投合したことを先生がお話されたのを記憶している。
 村松先生の紅花という俳号は虚子から頂いたものである。小諸に疎開した虚子に師事され、虚子が鎌倉に帰られた後の小諸虚子庵を昭和三〇年まで守られている。村松先生の第一句集が『梁守』というタイトルであるのはそのことに因んでいるだろう。
 次に『梁守』収録の句からいくつか引用してみたい。

  庵(いおり)守るたのしさ月とはゝき木と
  虚子旧廬月のつらゝの一二本
  天草(てんぐさ)桶(おけ)抛りし波に身を抛り
  月光の流るゝ身折り米洗ふ
  冬の浪よりはらはらと鵜となりて
  一古典一寒林のごときかな
  よからずやおたまじやくしの生涯も


 一句目、二句目に虚子庵が詠まれている。三、四、五句目は、伊豆大島で小学校の教員をしていた頃の作である。六、七句目は大学で俳句の講義をされていたころのもの。村松先生の句を一言でいえば、情の句である。対象への情愛が豊かなものが多い。また、小さな生きものへの愛情に充ちている。
 先生の句を読むのに便利な俳句シリーズが二冊刊行されている。自註現代俳句シリーズ・六期32『村松紅花集』(一九九〇年 俳人協会刊)と、日本伝統俳句協会 新叢書シリーズ(2)『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』である。
 『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』から引用してみたい。

  夕日ぶら下がり枯木に飴のごと
  一掬の水を宇宙として金魚
  いつも一つどれかが揺れて梅の花
  虹立ちぬ小諸に虚子の在りしごと
  虹消えぬ小諸を虚子の去りしごと


 四首目、五首目は、虚子が孫弟子の森田愛子に送った次の句を踏まえている。

  虹立ちて忽ち君のある如し
  虹消えて忽ち君の無き如し
        「小諸百句」より

 虚子と愛子の交流は、小説「虹」に書かれていて名高いが、村松先生は「小諸百句」の先の句をプレ・テクストとして虚子への思いと句への讃辞を送っている。二句目の句は私のとても好きな句である。
 第二句集『木の実われ』からも引用しておきたい。

  百千(ひゃくせん)のいのちの蝌蚪(かと)となり群るゝ
  ものの芽(め)に夕影(ゆうかげ)といふもの生(うま)れ
  潮来(いたこ)に遊女(ゆうじょ)鹿島に月の一古人(いちこじん)
  冬日(ふゆひ)浴びをりて心に二(ふ)た仏(ほとけ)
  信濃(しなの)よりころび出(い)でたる木の実われ


 三句目の「一古人」は、鹿島に月見に出かけた芭蕉のこと。この句は一九八三年の潮来吟行のおりのもので、私も参加させてもらっている。新潟大学医学部の俳句会、若萩会との合同句会で賑やかな吟行であった。最後の句は、長野県の丸子出身の先生の自省の思いの深い句である。
 村松先生がお亡くなりになる数ヶ月前に入院先の病院をお訪ねしたとき、先生は病室のベッドで原稿を書いて居られた。新たな研究の構想が生まれてくることをお話しされた。私は西田幾多郎が島木赤彦の写生について、自分の哲学との類似を指摘している随筆のお話をした。それは以前、先生が、エッセイ集『俳句のうそ』(一九九七年 永田書房刊)に、「虚子の写生論と西田哲学」という文章をお書きになっているのを読んでいたからである。
 西田は赤彦の「写生」に言及した文章の中で、「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の現表でなければならぬ、否(いな)生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。(中略)表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有(も)つ真の生命の表現に外ならない。我々の見る所のものは物自身の形ではない、物の概念に過ぎない、詩において物は物自身の姿を見るのである。」と書いている。短歌の「写生」と俳句の「写生」を一括して考えるには充分な注意を要するが、西田の「写生」への理解は、短詩型文学を考える上でとても示唆に富んでいる。村松先生は西谷啓治経由で西田哲学に親炙されていた。西田哲学と「写生」について、先生と深く意見を交換できなかったことが今さらのように悔やまれる。
 俳文学者としての村松友次と俳人としての村松紅花にとって、私は不肖の弟子ともいえない存在にすぎない。芭蕉や蕪村の研究の道を進むこともなく、写生句の実作に邁進することもできなかった。しかし、私が先生から教えを受けたことは、今でも自分の中に生きていることを実感している。
 俳文学者で俳人の谷地快一先生が、村松先生の追悼文の中に、「選者になると句が下がる」という先生の持論を紹介している。『雪』の選者になったが、「師が在りし日のごとく、終生選を受け続けたい」という信念が揺るがず、『雪』の選者を辞し『葛』の主宰となって以後も、『ホトトギス』への投句を怠らなかったという。
 先生の反骨精神に触れる機会はいくたびかあった。その中で印象に残っていることの一つが俳句の前では誰もが対等であるということである。人を見て句を評するのではなく、句を見て句を評するということ。これは当たり前のことのようで、実際にはそうでない場面にしばしば遭遇する。権威がそこに絡むと尚更である。俳句でも短歌でも変わるところがない。村松先生の生涯は、選句に対する絶対的な自信を持ちながら、反権威的な姿勢を貫かれたものであった。
 私は最近やっと芭蕉の存在の大きさと素十俳句の本質が少しだけ解りかけてきたように思っている。以前には何げなく聞き過ごした先生のお話が、改めて意味深いものとして甦ってくる。先生の学恩に報いることが何かできるだろうか。それは私の大切な今後の課題の一つである。
 村松先生の俳文学研究の業績と俳句作品が広く読まれることを希望してやまない。

俳句評 詩人くさい俳句ってなに? 財部鳥子

2014年06月28日 | 日記
 六月二一日は余白句会の当日でした。私は隔月に催されるこの句会にときどき出ていますが、調べてみると一一六回のうちのたった三回、今年は初めてです。
 余白句会は小説家・エッセイストの小沢信男を主宰としてはじまり、最初は連句をしていたので、その記録はないとのこと。最初のメンバーは詩人が主体であることは確かです。
 現在、小沢さんは余白句会にはお出でになっていません。それで、その後の主宰は誰なのか、俳人がよくいう師系はどういう系統なのか、出席したいときには井川博年さんに伝えることになっているみたいだから、彼がそうなのかな? いや、そうではあるまい。清水哲男さんは静かで披講の時にだけ口を開くから誰もが一目置いているようだから重鎮なのだろう。私はじっさい句座の詩人たちの詩の仕事のみ知っていて、俳句方面の実績は知らず、主宰がだれでもどうでもよく、楽しく句会をやりたいのみです。
 先日、私が句座でお会いした詩人を挙げると井川博年、清水哲男、八木幹夫さんなど。八木忠栄さんは出張中。また辻征夫の令弟で画家の辻憲さんにもお会いしました。
 そして名だたる俳人たちの姿も。今、余白句会では俳人が優勢になりそうな勢いです。私が三回の句会の間にお会いした俳人は今井聖、土肥あき子、三宅やよい、奥村まやさんなどの方がたでした。俳人たちの目的は他流試合でしょうか。それとも詩人を釣ってみようかなと遊んでいるのか、詩から栄養をとろうというのか。
 痩せた現代詩に何ほどの肉があろうか。と私などは自作を顧みて思うのですが、俳人たちは句会というものが大好きで、変わった連中と句座を囲みたいだけかもしれないとも思います。「詩人を釣ってみようかな」とは? あとでご説明いたします。

 私が初めて余白句会にお邪魔したのは余白句会五十回記念のパーティでした。七十人くらいの人が集まりました。全員が一句ずつ出すというきまりがありました。それは壁に片端から掲示され点が入っていく。
 そのとき、聞き捨てならない言葉が耳に入りました。
 「この句は詩人くさいな」「こんな句を作るのは詩人だぞ」云々と。
 それは「地下茎のやうな母なり梅雨夕焼」がまず話題に上がったのですが、これは柴田千晶の句でした。それから「花冷えや人切りにゆく座頭市」八木忠栄とか、「言い負けて男蠢く台風下」平田徳子などもターゲットでした。
 「どこが詩人くさいのでしょうね」と柴田千晶さんは私に言いました。「さぁ」と私にもわかりません。そのとき『俳句研究』の石井編集長が私に「詩人の俳句について何か書いてくださいよ」と言われたので私は後に短い文を書きましたが、それは「俳人はどうして詩人の俳句を詩人の作だと見分けられるのだろうか」というような素朴極まりないものだったと思います。ひとつ分かっていることは、詩人の句はどこかはみ出しているということです。これは季語や決められている十七文字の狭さ、切れ字などへの縛りへの愛憎表現でもあると思います。
 俳人にはそういう愛憎はなく?縛りを上手に活かす技術を身に付けている、歳時記を深く読み込んでいるなどがありましょう。
 柴田千晶さんはもう俳句作家として著名ですが、だからといって別に詩人くさいところを払拭したわけではないと思います。
 一昨年出された詩集『生家へ』は散文詩と俳句が呼応して、悪夢の中のカーニバルのようなふしぎな世界が出現していましたが、詩集のなかでの俳句の効果は言葉の筋肉の密度で、散文詩の様相を変えてしまうことです。あとがきで作者はこう言っています。
充満するエネルギーが定型の枠と拮抗し、ついには枠を超えて遥かなものに届くことを、俳句という詩型は望んでいるのではないか。
 例句を掲げると、

  まくなぎに顔消されゆく帰郷かな 千晶

 草葎におおわれた、田舎の故郷、道なき道を歩いて行くと、まくなぎの群に入ってしまい前も見えない、両手は荷物という状態だから追い払うこともできない。「顔消されゆく」という措辞に連想されるのは尾羽打ち枯らし前途もない帰郷者です。
 俳句として完成したいい句だと思います。

 昨年六月の余白句会のころ、二〇一一年五月に心筋梗塞で亡くなった清水昶さんの句集『俳句航海日誌』が上梓されました。
 句会での話のやり取りの間、私はてっきり新刊は清水昶の遺稿詩集だと思っていました。そして兄上の清水哲男さんにその新刊を送って下さるようにねだっていました。やがて送って下さった本が俳句集だったので驚きました。そうか、昶さんも余白句会の人だったのだと今更ながら気がついたのですが、四十年近くもお会いしたことのなかった清水昶は、私にとってはやはり詩集『少年』や『野の舟』の詩人としての印象が深かったのです。四十年経って俳句集を開いたそのときの感想は、私の清水昶はまだあそこにいるのだろうという時空を飛んで行きたい気持ちがありました。それは多分、一九六〇年代末、何かの用で昶さんが九段に住んでいた私を尋ねてこられたとき、私はちょうど友人の画家がアトリエを新築したそのお祝いに出かけるところで、昶さんも誘って一緒に行きました。
 環八に面した轟音のひびくアトリエでしたが、お酒の大好きな彼はたちまち酒のなかに紛れてしまい、轟音に対抗して話すのにも疲れて眠っていました。私は彼を画家宅へ置き去りにして帰りました。翌日の夕方になって「まだ清水君はいるけれど、どうしよう」と画家から困惑の電話。私も(どうしよう!) とパニックになった記憶があります。どうやって彼を自宅へ帰したのか記憶にありません。
 それが「少年」の詩人清水昶でした。

生活の鬚を剃り落とすたしかな朝
きれいなタオルを持った少年は
わたしの背後にひっそりとたち
決してふりむくこともなく老いるわたしを
いつまでも
待ちつづける

―――「少年」の最終行

 その後、彼はほんとうにふりむくことなく老いたのだろうか。
 昶さんは二〇〇〇年ころからネット上で俳句を発表し始めたといいます。三五〇〇〇句あったのだが、そのうちの五〇〇〇句のデータが紛失した。それで実質三〇七二〇句から選句し、九四七句を収録している句集を私は手にしています。単純に句数をかぞえると一年に三五〇〇句ということになり、一日約一〇句になりましょうか。こんなに真剣に俳句に取り組んだのは背後の「きれいなタオルを持った少年」をふりむくことを自分に禁じたからでしょうか。いや昶さんは「きれいなタオルを持った少年」を心に持ち続けていたと思います。句集は愛情のこもった仲間たちの編集で、題字はやさしい流れるような自由さの吉増剛造の筆跡でした。
 句には日付がふってありましたがここではそれを省きます。

自爆するイスラム教徒に亀鳴くや
開花宣言その日村上一郎自刃せり


 掲句はたぶん世に言う詩人の俳句というものでしょう。でもそれが清水昶です。

骨髄を痛めて仰ぐ花の山

 「骨髄が痛むので吉祥寺のあべ病院でレントゲンを撮った。骨が融けかけているのが鮮明にわかる。医者に「骨粗鬆症」という病名を付けられた。しかし医者は何の手当も薬もくれなかった。」と注が入っている二〇一一年の春ごろです。痛みと花の山のバランスがいいと思います。

杖を曳き無念夢想の小春かな
牡丹雪火に包まれて父逝けり
逝きし父に似た両眼の無い雪だるま


 陸軍軍人だったお父上が亡くなり昶さんは茫然として、「骨粗鬆症」のため転倒して歯を七針縫ったりします。何とかして生きようと毎日のようにストレッチをしていますが、転倒して右目が狸のようになったり、その過酷な日々はやはり昶的過激です。

遠雷の轟く沖に貨物船

 昶さんは不安な未来を載せている貨物船と「きれいなタオルを持った少年」を「骨粗鬆症」の骨の隙に住まわせていた。辛いなあ!詩人だなぁと私は思います。
 詩人としての昶さんの自分ではどうしようもない生き方。やはりあの画家のアトリエで、酔いどれて愛されながら居眠りをしているかれを想像してしまいます。迎えに行きたいと思ってしまいます。

 余白句会の最初の主宰だった小沢信男さんのことを申上げます。
 小沢さんの句集には、『昨日少年』があります。一枚の美しい紙を横の四つ折りでウラ・オモテ八頁に仕立てて、表紙、春、夏、秋、冬、新年、自分のエッセイ(去来と其角)、そして余白句会の故・辻征夫のエッセイ(昨日の魚)、が入っている。全八ページになります。一九九六年発行です。編集はすでに亡くなった大西和男さん、発行は小柳玲子さんの夢人館でした。小沢さんは日本橋生まれの生粋の江戸っ子で粋な人です。また大西さんも八丁堀の人。それで、この句集も粋の極みなのだろうか。ペラ一枚の句集って素敵だなぁと見るたびにいつも思いました。
私はこの句集を大事にしていたのですが、仕舞い失くしたころに大西さんが亡くなって、ショックが二つ重なりました。今は版元の小柳玲子さんにお願いして「昨日少年」を二冊、それと、その後の句集『足の裏』一九九八年発行を頂きました。大切にしています。

 小沢句を少し上げておきましょう。『昨日少年』から引きました。

しわひとつなくて雛の老いにけり
春宵のはてなこの路地抜けられぬ
そもそものいちぢく若葉こそばゆく
つみひとつつくりそこねて梅雨の坂
ひぐらしや昨日少年今日白頭
干されても愕いている鰯の目
もしかするともったいないか五年日記
寒夕焼かさぶた色にいまさらに
人間万事塞翁が馬道ぬけて初詣


 句集は一季節十四句という並びで、新年は六句しかないのですから、句集全体では六十二句ではないでしょうか。
 前半で私が言った「詩人を釣ってみようかな」は、辻征夫が寄稿した短文に詳しく書かれています。句集の七ページにありました。「詩人を釣ってみようかな」の名解説です。

余白区会をはじめた頃、小沢さんによく釣られた。小沢さんが釣師で私たちは魚だった。釣師は、長年現代詩にかかわっている魚が、いかにも好みそうな句をぽんと投げ出す。すると魚は、みさかいもなくすぐにとびつくのである。何度こうして私たちは小沢さんに釣られたことだろう。あ、またやられたと騒ぐ私たちと、顔を紅潮させて相好を崩している小沢さん、そんな情景を思い出しながら、いま『昨日少年』の句稿を読んだのだが、どうしたことだろう、私は、おや? あれ? と思うばかりで、かつて私たちが飛びついた餌のような句は一つも見当たらないのである。

 辻さんはこう書いていますが、「現代詩にかかわっている魚が、いかにも好みそうな句」とはどんな句でしょうか。余白句会の初期の資料を見ると一目瞭然です。詩人が只事俳句はとらないということがわかります。いや只事を言葉にするなんて理解できない、わからないのです。余白句会の席に小沢さんが出したのは次のような句です。これらはみんな詩人の点を稼ぎました。

 「干されても愕いている鰯の目」「人妻のふくみ笑いや梅雨の宿」「太郎次郎の屋根うち鳴らせ春一番」(これに引っかかる詩人の純真さ・財部注)。「バキュームカー裏門へ来て梅屋敷」(お屋敷にだって厠はある・財部注)「新樹濃く自転車ならう修道尼」「鬼一匹とじこめられて鬼胡桃」(これには財部も釣られてしまう)「冬ばれや裾野二十里三十里」などなどです。以下は略。
 そして辻さんは書いています。

たしかに句会で選んだ覚えのある句はいくつもあるが、それらの句は今だって選ぶだろう。小沢さんの句は、俳句らしく事物事象の提示でありながら、卓抜なエッセイストである資質を充分に反映させて、どこかに物語としての広がりを秘めている。それが私たちの好みなのだといえばいえるが、それは釣師と魚とはまた別の次元の話で、ただ句としていいというだけのことだ。はっはっは、また釣っちゃったなあという小沢さんの顔と声を思い出しながら、そうかあれはいつまでも初心の域を抜け出てこない私たちへの、ねぎらいであったのかといまにして思い当たる。そうか、そうだったのか。

 以下まだ続くが割愛します。
 辻征夫が詩集『俳諧辻詩集』によって第四回萩原朔太郎賞を受けたのは一九九六年。辻征夫の詩碑は前橋の広瀬川河畔に建っています。
 タイトルは「海峡」です。たった一行の詩はこうあります。

(蝶来タレリ!) 韃靼ノ兵ドヨメキヌ

 ああ、これはと私は息をのみます。辻征夫は安西冬衛の詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」に釣られたふりをして、美しいうっちゃりでまた歌っているのです。そうか、そうだったのか。


俳句評 俳句と現代詩のあいだ 宇佐美孝二

2014年06月02日 | 日記
 現代詩のことなら多少わかるが、俳句は残念ながら門外漢である。原稿の依頼をうけた時、「何かの間違いでは?」と回答すると、詩客の運営責任者からは、それでも結構・・・と返事がきた。わからないことを学ぶのは嫌いではないので、この機会にお勉強をいたすこととして、不見識を承知で俳句の世界に切り込みを入れたいものです(笑)。

 ■時間について
 古本屋で見つけた、『現代俳句』楠本憲吉著(学燈文庫)はなぜか出版年が入っていない。奥付には著者の検印が押してあるので、古い本には違いない。昭和30年かそこらだろうか。そこには正岡子規から橋本多佳子まで37名、錚々たる俳人の句が載っている。
 数々の名句である。そこに一定の視点、言うまでもなく「自然」という視点があることに気が付いた。その自然からの視点は、時間の流れも少なく“瞬間”を切り取ったものがほとんどである。

山肌の虚空日わたる冬至かな   (飯田蛇笏)

 ひとつの物なり現象が止まっている。もちろん書かれていない過去の時間は流れている。しかしながら書き写された現象時間は止まっているように思える。これが伝統俳句というものなのだろうか。それでも、37人の俳人(小説家も)のなかには、違った時間感覚のある2、3の俳人のいることが見えてきた。漱石はその一人である。

菫程な小さき人に生れたし   (夏目漱石)

 これを瞬間の感慨と捉える人は多いに違いない。表現される時間には二種類ある。一つは眼の前を流れる(感覚で捉える)線的な時間。もう一つは、蓄積された地層のような、全体で感じる非線的な時間である。漱石の句には、非線的な時間の重なりを感じる。高浜虚子や山口誓子にも時間の重なりや流れを感じる。
 私の直観による時間概念は、なにも新しいことではない。が俳句は目の前の瞬間を切り取るものであるという“写生の常識”は、子規以来連綿と続いている。こうした歳時記風俳句は、俳句の世界では伝統に則ったやり方であり、疑う人は少ないという。自分たちの日常をそのように記録することに異論を唱えるわけではないが、一方で書かれた時間が流れたり跳んだりすることで内容(時間の広がり)はずいぶんと豊かになるのではないかと思ったりする。

  Fall               田村隆一

落ちる
水の音 木の葉
葉は土に 土の色に
やがては帰って行くだろう 鰯雲の
旅人はコートのえりをたてて
ぼくらの戸口を通りすぎる

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくらの人生では
日は夜に
ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちてゆくべきなのに

落ちる 人と鳥と小動物たちは
眠りの世界に

                 
(詩集『新年の手紙』より)


 現代詩の世界で、時間を表現した一例である。もちろん手練れの詩人である田村隆一の作品であることを強調しなければならないが。
 
 ■季語のこと
 時間概念は、歳時記風俳句として記録するおおかたの俳句には自覚が薄いのではないかと想像するが、反論もでてくるだろう。そうした時間と並行して考えるのは、季語のことである。現代詩の世界からみると、季語の存在は不思議でもある。

海に出て木枯帰るところなし   (山口誓子)

 なるほど、季語によって17音の中に厖大な「時間の累積」が生じる(先ほどの「時間の広がり」とは別の意味で)。われわれが古来感じてきた感覚が一語で時間を飛び越える。それによって「自然のなかの普遍的なうつくしさ」(鷹羽狩行)を感じられる、一種の象徴の力であろう。
 だが一方で、この感覚は人間にとって本当に普遍だろうか、と思わざるを得ない。言葉が、古典的な意味から現代的な意味と感覚に移るように、古い感覚の上には新しい感覚が積み重なる。またそれが言葉の、われわれの感覚を新鮮に保つ醍醐味でもある。人間は古い感覚層に安住したがる生き物だ。季語とはわれわれの感覚を試す装置かもしれない。

しんしんと肺碧きまで海の旅     (篠原鳳作)

 無季俳句は、歳時記俳句にたいして生まれた必然だったかもしれない。自由律俳句もそうだが、現代詩の観点からみると共感するところ大である。もちろん現代詩にしても「おじや風現代詩」(飯島耕一)と揶揄されるように、戦後60年以上もたてば風化、陳腐化していることは否めない。どの分野にも対立する構図、あるいは並行して派生する疑似関係の構図があるものだ。先ほどの無季俳句、自由律俳句であり、現代詩の分野でいえば、次のような作品がある。

              石 石 石
秋             

                唇
              船 船
    扉 扉
    扉         蠅
              蠅

                         
(連作[7]法隆寺)


 これは、戦後の前衛詩運動の一つ、コンクリート・ポエトリー(視覚詩)に関わった、新国誠一という詩人の作品。世界的な詩の運動体でありながら、新国は日本語の漢字と言うものにこだわった。2008年には国立国際美術館で回顧展が開かれている。
 俳句の世界でも、高柳重信が視覚的な俳句を作っていると聞く。こうした、いままで当たり前だと思われてきた概念を捨てて、新たな概念で表現活動をすることは言葉にとっても人間にとっても必要なことである。俳句を含めた詩は、自然を謳う時代から人間を謳う時代へと移ることが次の時代の土壌をつくることであると自覚してもよいのではないか。季語に話を戻せば、無季という句の選択は、世界を広げるひとつの鍵ではないかと考えたい。

 ■たこつぼ化を考える
 幸い、というべきか雑誌「ユリイカ」2011年10月号の「現代俳句の新しい波」という特集には、私が以上に述べ感じてきたことがほぼ他の俳人たちによって問題視され提示されている。それらを紹介することは目的ではないが、ここでは作家の長嶋有や西加奈子が句を載せ、同じく作家である川上弘美も句作の経験を鼎談で語っているという事実が、新たな俳句の展開をもたらしていると期待したいところである。

朝寒やフレーク浸る乳の色    (高柳克弘)

白雲と林檎とバスの時刻表    (神野沙希)

あの子ですエッフェル塔を盗んだのは  (千野帽子)
                  
(以上「ユリイカ」2011年10月号から)


 おそらく、60歳代以上が圧倒的多数を占めると言われる俳句の作り手たちの眼には、これらの明るすぎる俳句の世界に戸惑いと拒絶を感じるかもしれない。私にしても、20年前、30年前には、年輩の3、4人の詩人から、「あなたの詩はどうも(詩の正統?と)違うようだ」とか、間接的には「私の先生は<こんな書き方をしてはいけない>と言われました」と伝えられた経験がある。今から思えば苦笑ものだが、現代詩の世界でも自分の考えている枠組み、書き方から外れると拒絶反応を示す人たちがいたのだ。
 俳句人口300万とか600万とか、1000万とか言われる、現代詩からみたらとてつもない層の広がりのある詩の表現分野。現代詩の世界からも、句の世界に流入する人が増えている。だがそれとて、たこつぼ化という問題は必然だろう。聞くところによると「あれをしてはいけない、これもいけない」という“禁じ手”“作法”は呆れるほど多いらしい。結社と宗匠のある世界は、入るときは、裃を付けないといけないのか、と妄想するほどだ。これらの、いわゆる“たこつぼ”を揺らすのは相当な力が必要だ。
 前述の「ユリイカ」で角川春樹は俳句を、「盆栽俳句」「半径50センチの身辺(を詠んだもの)」という言いかたをしている。高年齢層では変えるのは容易ではないだろう。だが、「俳句甲子園」から出てきたような若い作り手たちなら可能だろう。現代詩の世界でも、私もかつて「身辺50センチの世界」と呼んだことがあるように、その大半は日常詩である。そこから出ていきたくても今さらどうしたら出ていけるかわからない、という状態である。平凡な結論になるが、若い、柔軟な感性が世界を変える。これはどの世界でも共通だろう。たこつぼは、揺らしても、水が枯れないと中からでてこない。地震が起きても変わりそうもない日本人の世界観(俳句観)は、10代、20代から変えていくしかないか、と思われる。web媒体である「詩客」の存在意義は大きい。