「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 お隣さん 法橋 ひらく

2020年07月13日 | 日記
 最近、バニラアイスにほんのちょっと塩を振って食べるのが好きだ。ちょっと前に塩キャラメルが流行ったときには全然乗れなかったのに我ながらどうしたのか。麦茶にもほんのちょっと塩を入れて飲んだりしている。漢方の先生が言うには、抱え持った恐怖を御しきれなくなったひとはやたらと塩味を欲したりするんだそうな。今年はまぁ、こんな世相だし、自分もいつの間にか恐怖感が溜まってきているのかもしれない。
 そんな今年、詩歌トライアスロンに初めて応募した。今まで専ら短歌しかやってこなかったので、今年は他のジャンルにもトライしてみようと思ってのことだった。トライしてみてわかったけれど、僕は俳句というものが壊滅的にわかっていない。現代詩については読者としてであればそれなりに触れてきたけれど、俳句は、そういえば読んだこともほとんどないのだった。
 ちなみに、僕が詩歌トライアスロン応募作品の冒頭で詠んだ俳句と、ラストに置いた短歌がこちら。


  火よ、 冬野にあればなお赤く


  投げ出されてここへ着いたと思ってた 冬、燃えているのは流れ星


 普通に俳句を詠もうとしても詠める気がしなかったので、ラストに置こうと決めて作った短歌からイメージを逆算して、季語を調べて、初句が破調だけどもういいや、という勢いでなんとか作った一句だった。季語なんて調べるのも初めてで楽しかったけれど、審査員の方々にこれを俳句だと思ってもらえる自信はなかった。


 ずっと短歌をやってきて、隣接ジャンルなのに何故こんなにも俳句と縁遠かったのだろう。


 考えてみる。やはり「俳句って難しそう」という僕の中のイメージが僕を俳句から遠ざけた大きな原因なのだけど、「難しそうだから近寄らなかった」の一言でくくるのは雑すぎる気もする。じゃあ短歌は「難しそう」じゃなかったのか?
 短歌を始めたころの自分のことを考えてみる。当時自分は二十台の中盤で、新卒で入った会社をすぐに辞めたその後で、とにかく悶々としていた。学生時代を引きずり続ける青春ゾンビ状態でもあったし、何物でもない自分が苦しかった。
 未消化の感情を吐き出すこと。アイデンティティの核になる何かを見つけること。その二つのことを求めていたときに引き寄せられたのが短歌だった。   
 ――未消化の感情を吐き出すこと。
 多分理由はそこにあるように思う。当時の僕が短歌に引っ張られ、俳句には強い引力を感じなかった理由。整理のついていないグジャグジャの感情、想いを受け止める【器】としての短歌に、僕は無意識的に引き寄せられていったんだと思う。色んな感情や感傷を持て余していた当時の僕にとって、十七音、かつ季語の使用が求められる俳句はあまりにも余白が少なく感じられたのだろう。
 もちろん、皆が皆そうだとは言わない。短歌をやっている知人の中には「想いなんてどうでもいいから言葉で遊びたいんだよ」というスタンスのひともいるし、俳句をやっているひとが皆感情の整理されたスッキリした人格の持ち主ってわけでもないんだろうとは思う(どうなんだろう)。ただ、僕の中で俳句はどこか高度な知的遊戯のように見えていて、俳句を専門にやっているひとはスカッとしていてすごいな(私的な感情と表現欲求をリンクさせずにいられてすごいな、みたいな詳しく翻訳すると多分そんな感じ)、とずっとそんな風に感じていた。これまで俳人の方と交流を持つこともほとんどなかったので、今後出会う俳人の方がいればそこらへん、聞いてみたいなと思っている。それこそ、「私はまさに青春ゾンビですが専ら俳句をやっています」なんてひとがいたら超話したい。


 今回、詩歌トライアスロンに応募したのがきっかけで俳句にも少し興味が出てきている。自分ももう三十台後半になって、短歌の作り方や短歌との関わり方も少しずつ変わってきた。短歌を離れる気なんてないけれど、鞄の中に歳時記を入れて持ち歩いたりするのもこれからの自分の日々にとって良いアクセントになるかもしれない。ここ(短歌村?)に住み始めて十年以上、ずっと交流のなかった「お隣さん」俳句について、僕がいま感じているのはそんなところ。


俳句時評 第123回 熊野紀行~句集『星糞』谷口智行 歌代 美遥

2020年07月04日 | 日記
 六月も果てようとする梅雨の中、熊野へ旅をした。
 谷口氏の暮らしている熊野である。句集に出てくる熊野の季語の現場を訪れる旅である。
 熊野へ訪れたらまず、最初に参拝するべきは、花の窟である。イザナミノミコトが、火神であるカグツチノミコトを産み陰を焼かれて亡くなり、葬られた御陵日本最古の神々の地である。
 甦りの聖地熊野の中で特に、黄泉の国と隣接する場所と言われている日本最古の神社を参拝し、海に向かう。この海岸は日本で一番長い砂礫海岸である、七里御浜は西国三十三所目指す巡礼者たちの信仰の道として、知られている。是非、裸足になり海神様とまぐわって欲しい。
 熊野在住の医師であり、俳人である谷口氏の案内で巡る。魂の故郷熊野の神々を愛し国生みの溶岩流跡が露わになっている美観を愛し、古事記に記載されているイザナギとイザナミの神々から、草木、虫魚に至る知識の成熟が、感動と不思議の神秘に誘引される。
 谷口氏は医師として熊野に土着し、俳句に切り取っていく、自然崇拝に根ざした神道と仏教の両者が結びついた、多様な信仰の形態が育む熊野三山詣の祈りの道が、熊野古道の景観に息づいている。
 句集『星糞』(2019年 邑書林)を上梓した、句集名が、凄い!
 まずその文字に魅せられる。星糞とは、秋の季語流星の傍題である。江戸時代の図入り百科事典「和漢三才図会」によると、星糞は隕石のことをいう。黒輝石の俗称で遠い星空から降ってきた不思議な石と大昔の人々は信じていた。
 言葉として五七五に著述すればたちまち、言霊となり句集の一句一句が胎動する神秘と熊野への視座が、谷口氏の普遍的な熊野というフラスコを宇宙まで、越境している。
 句集の妖美な表紙は、動的な神妙不可思議で、森厳な藤岡祐二画伯の絵画カバーが、また詠人の詠む前から期する心が止まらない。
 風土を詠むことは、作者の視座が言霊として湧き出る神々の淵源まで遡り、まぐわい生きている事を感受する。
 星糞は単なる宇宙塵としての隕石ではなく、「和漢三才図会」に見られる星糞にこだわった句集名である。
 
  いづれ旨しや猿酒と鶚鮨 谷口 智行

 木の洞や岩の窪みに猿が山の果物、ぶどうなどを隠しておき、そこへ雨露が入り醗酵を促し酒になる、猿酒を、狩人などが賞味したと伝えられている。曲亭馬琴「椿説弓張月」にも登場する話に猟師が、為朝に猿酒でもてなす件りがある。
 熊野に生きる土着が交わるもの全てを愛染の心で不易な神秘の森ならではないか、浪漫の物語を孕む。
 鶚鮨も、同様、海神様の贈り物である。黒潮の波がぶつかる自然崇拝の熔岩の岩岩の形態が、器となり人の技を超越している、時間と鶚の蓄える魚の作品である。鶚が、巌の窪みに貯えて置いた魚類に潮がかかり自然に醗酵して鮨の味になったもの鶚鮨。猿酒も鶚鮨も熊野の宇宙の中に抱かれ神々と交わすご馳走であり、作者もまた、酌み交わし時空を超え時の流れも無に体内から、涌出する高揚を、五七五の言霊として雫の光まで、熟覧した心から胎動する愛がある。

  手焙りの香具師は伯耆の流れとか  谷口智行

 医学博士として病める人々の医療の現場の暮らしで、命を守り時には人智の限界である死と対峙する苦悩を泡沫の記憶に押し隠すような軽視出来ぬ作者を解放する、生活の中の句も惹かれる。
 香具師とは、縁日や祭礼などの人出の多い所で見せ物など興業し、また粗製の商品などを口上して売る事を業とする露天商である。
 神農氏を守護神としている、十三香具師(十三の種類)は、薬売り、居合抜き、曲鞠、果物売り、小間売りといった小商人と遊芸人であった。
 この句の中に登場する伯耆とは、片山伯耆守久安が創始したという伯耆流の抜刀術の一派ことである。祭礼などの縁日で商う香具師には、今も古くからの掟書があり、この集団は家名を持博徒のように一家の親分子分兄弟分新入りといった、縦の秩序があり厳しい。入門、破門、破門解除といった手続きも、本人の行状と、親分の裁定により決定する。この句の魅力は香具師も、また神々の棲む熊野風土に命の鼓動を寄託し、融合している浪漫の物語に魅せられる。