これまで三詩型のなかで最も縁が薄かったのは俳句だった。
もちろん、松尾芭蕉や小林一茶、正岡子規など代表的な俳人の作品は読んでいたし、金子兜太や高柳重信など戦後の前衛俳句の作品もある程度は読んでいた。送らてくる書籍やWEBページにも目を通していた。しかし、俳句は自分の表現ではないと思い込んでいたのも事実だ。
そもそもの間違いは初めに顔を出した俳句結社が、今はなき多行俳句の牙城「未定」だったことだ。多行俳句は戦後に高柳重信が中心となった俳句の一形態であり、五七五の文字を多行、多くは3~5行に分けて書いたもの。「未定」は高柳が創刊し30年以上続き2017(平成29)年に終刊した俳誌である。
そこで出会った高原耕治氏は話も魅力的であり、作品も見事な小コスモスを形成し、私は惹かれしばらく通うようになった。しかし、同じ行分けなら自由詩の方が私にとって奥行きがあるように思え、高柳や高原氏のような無限循環をする言葉が書けないなら自分の手の届く表現ではないと、離れていった。
そんな私が再び俳句に出会ったのは、一期一会ともいえるたった1度の金子兜太氏との出会いだった。2017年私が所属する「脱原発社会を目指す文学者の会」の「文芸サロン」で兜太さんの講演があったのだ。
「どんな言葉でも俳句になる。俳句は書きたいことを何でも書ける」
兜太さんの言葉は、今考えれば当たり前だが、最初の先入観で俳句を小難しく考えていた私には、目から鱗がおちる言葉だった。もちろん作品である以上、俳句は作品でないという人もいるが、技術と思想はしっかりしていなければならないが、
「書きたいことを自由に書く。なんでもぶっこめ」
という兜太さんのメッセージは再び俳句への道を開いてくれた。
しかし、残念なことに兜太さんは翌年2月に98歳で大往生となり、会のみんなと熊谷でバーベキューをするという企画も果たされず、まさに1回だけの僥倖となった。その後は、亡くなった年の9月に創刊され今年4月に4号で終刊となった、藤原書店発行の雑誌「兜太」が道標となった。「兜太」は兜太さんを通して戦前から現在の俳句を考える雑誌であり、初心者の私にもわかりやすい、戦後俳句の入門書ともなる雑誌だった。同誌の「兜太俳壇」にも投稿し、それと「脱原発社会をめざす文学者の会」のご縁で、黒田杏子さんにも出会うことができ、少しずつ俳句のリズムを体に取り入れていった。
「たくさん書いて、句会に出る」
「俳句は言い切るもの」
何でもない言葉かもしれないが、黒田さんの言葉も私には栄養素のように体にしみこんでいく。
最近では日々の生活の中で無理なく俳句が出てくるようになり、定型とはこういうものかと実感している。もちろん表現は、入口は広くても奥は狭く険しい道なので、知ったように語るのは愚かなことだが。しかし、「50代の手習い」の楽しみである。
もちろん、松尾芭蕉や小林一茶、正岡子規など代表的な俳人の作品は読んでいたし、金子兜太や高柳重信など戦後の前衛俳句の作品もある程度は読んでいた。送らてくる書籍やWEBページにも目を通していた。しかし、俳句は自分の表現ではないと思い込んでいたのも事実だ。
そもそもの間違いは初めに顔を出した俳句結社が、今はなき多行俳句の牙城「未定」だったことだ。多行俳句は戦後に高柳重信が中心となった俳句の一形態であり、五七五の文字を多行、多くは3~5行に分けて書いたもの。「未定」は高柳が創刊し30年以上続き2017(平成29)年に終刊した俳誌である。
そこで出会った高原耕治氏は話も魅力的であり、作品も見事な小コスモスを形成し、私は惹かれしばらく通うようになった。しかし、同じ行分けなら自由詩の方が私にとって奥行きがあるように思え、高柳や高原氏のような無限循環をする言葉が書けないなら自分の手の届く表現ではないと、離れていった。
そんな私が再び俳句に出会ったのは、一期一会ともいえるたった1度の金子兜太氏との出会いだった。2017年私が所属する「脱原発社会を目指す文学者の会」の「文芸サロン」で兜太さんの講演があったのだ。
「どんな言葉でも俳句になる。俳句は書きたいことを何でも書ける」
兜太さんの言葉は、今考えれば当たり前だが、最初の先入観で俳句を小難しく考えていた私には、目から鱗がおちる言葉だった。もちろん作品である以上、俳句は作品でないという人もいるが、技術と思想はしっかりしていなければならないが、
「書きたいことを自由に書く。なんでもぶっこめ」
という兜太さんのメッセージは再び俳句への道を開いてくれた。
しかし、残念なことに兜太さんは翌年2月に98歳で大往生となり、会のみんなと熊谷でバーベキューをするという企画も果たされず、まさに1回だけの僥倖となった。その後は、亡くなった年の9月に創刊され今年4月に4号で終刊となった、藤原書店発行の雑誌「兜太」が道標となった。「兜太」は兜太さんを通して戦前から現在の俳句を考える雑誌であり、初心者の私にもわかりやすい、戦後俳句の入門書ともなる雑誌だった。同誌の「兜太俳壇」にも投稿し、それと「脱原発社会をめざす文学者の会」のご縁で、黒田杏子さんにも出会うことができ、少しずつ俳句のリズムを体に取り入れていった。
「たくさん書いて、句会に出る」
「俳句は言い切るもの」
何でもない言葉かもしれないが、黒田さんの言葉も私には栄養素のように体にしみこんでいく。
最近では日々の生活の中で無理なく俳句が出てくるようになり、定型とはこういうものかと実感している。もちろん表現は、入口は広くても奥は狭く険しい道なので、知ったように語るのは愚かなことだが。しかし、「50代の手習い」の楽しみである。