「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句が面白い 森川 雅美

2020年04月22日 | 日記
 これまで三詩型のなかで最も縁が薄かったのは俳句だった。
 もちろん、松尾芭蕉や小林一茶、正岡子規など代表的な俳人の作品は読んでいたし、金子兜太や高柳重信など戦後の前衛俳句の作品もある程度は読んでいた。送らてくる書籍やWEBページにも目を通していた。しかし、俳句は自分の表現ではないと思い込んでいたのも事実だ。
 そもそもの間違いは初めに顔を出した俳句結社が、今はなき多行俳句の牙城「未定」だったことだ。多行俳句は戦後に高柳重信が中心となった俳句の一形態であり、五七五の文字を多行、多くは3~5行に分けて書いたもの。「未定」は高柳が創刊し30年以上続き2017(平成29)年に終刊した俳誌である。
 そこで出会った高原耕治氏は話も魅力的であり、作品も見事な小コスモスを形成し、私は惹かれしばらく通うようになった。しかし、同じ行分けなら自由詩の方が私にとって奥行きがあるように思え、高柳や高原氏のような無限循環をする言葉が書けないなら自分の手の届く表現ではないと、離れていった。
 そんな私が再び俳句に出会ったのは、一期一会ともいえるたった1度の金子兜太氏との出会いだった。2017年私が所属する「脱原発社会を目指す文学者の会」の「文芸サロン」で兜太さんの講演があったのだ。
「どんな言葉でも俳句になる。俳句は書きたいことを何でも書ける」
 兜太さんの言葉は、今考えれば当たり前だが、最初の先入観で俳句を小難しく考えていた私には、目から鱗がおちる言葉だった。もちろん作品である以上、俳句は作品でないという人もいるが、技術と思想はしっかりしていなければならないが、
「書きたいことを自由に書く。なんでもぶっこめ」
 という兜太さんのメッセージは再び俳句への道を開いてくれた。
 しかし、残念なことに兜太さんは翌年2月に98歳で大往生となり、会のみんなと熊谷でバーベキューをするという企画も果たされず、まさに1回だけの僥倖となった。その後は、亡くなった年の9月に創刊され今年4月に4号で終刊となった、藤原書店発行の雑誌「兜太」が道標となった。「兜太」は兜太さんを通して戦前から現在の俳句を考える雑誌であり、初心者の私にもわかりやすい、戦後俳句の入門書ともなる雑誌だった。同誌の「兜太俳壇」にも投稿し、それと「脱原発社会をめざす文学者の会」のご縁で、黒田杏子さんにも出会うことができ、少しずつ俳句のリズムを体に取り入れていった。
「たくさん書いて、句会に出る」
「俳句は言い切るもの」
 何でもない言葉かもしれないが、黒田さんの言葉も私には栄養素のように体にしみこんでいく。
 最近では日々の生活の中で無理なく俳句が出てくるようになり、定型とはこういうものかと実感している。もちろん表現は、入口は広くても奥は狭く険しい道なので、知ったように語るのは愚かなことだが。しかし、「50代の手習い」の楽しみである。

俳句時評 第120回 ブルースを持った言葉 歌代 美遥

2020年04月03日 | 日記
 忌野清志郎詩集より

  ♪多魔蘭坂

  ♪夜に腰かけてた 中途半端な夢は
  電話のベルで 醒まされた
  無口になったぼくは ふさわしく暮らしてる
  言い忘れたことあるけど
  多魔蘭坂を登り切る手前の
  坂の途中の家を借りて住んでる
  だけどどうも苦手さ こんな夜は
  お月さまのぞいてる 君の口に似てる
  キスしておくれよ 窓から

  多魔蘭坂を登り切る手前の
  坂の途中の家を借りて住んでる
  だけど どうも苦手さ こんな季節は
  お月さまのぞいてる 君の口に似てる
  キスしておくれよ 窓から


 忌野清志郎は、詩集を、出さないかと、出版社から声が掛かる。

 詩集を編むって、俺でいいのかい。
 俺は詩人じゃないぜ。ブルース、マンだからさ、ブルースが取り憑いているのさ、ブルース、マンが詩集を出すのも構わないだろう。詩集は詩人だけのものじゃないぜ。


 清志郎のあの独特の声音で、あのメロディで、ストレートに女へ惜しげもなくエロティックな口説き文句を投げるうねりが、感受する熱量の高ければ、尚のこと、ブルースを奏でるごとく文字が、生もののように、ぬめぬめと絡まってくる。
 たまらん坂を漢字にしただけで、物語の含む世界が広がるように思える。
 た、ま、ら、ん、と、音にすれば、表現者の扉が開き強烈な原動力となって、憎しみ、愛、希望などあらゆる感情が溢れ出る。
 ブルース、マンであり、詩人である異界の表現者になっていく。

 拙句に、

  無駄におとこ待たせて梅雨のかずら橋  美遥

 がある。

 俳句の場合は心象を、深く抑制し表面には多く語らない事が作品として秀とされます。
 詩人は、赤裸々に血肉どころか心に潜む悪さえも、本音の芸術的な言葉になり、魂を揺さぶる良質な詩となる。
 清志郎は、ブルース、マンを宣言している。
 詩人であり、詩を音楽に造形していく強みがある。
 多魔蘭坂の途中に、詩人が居て坂の上を眺めて登りきらない手前、吊り橋の向こうに、無駄に男を待たせて作者は手前に居る。
 その成し遂げる迄の、空間という魔界、時間という霊界を操る霊力の未詳な中で人間の決心が弱化しないとも、限らない。
 人間ではなく、詩人と、ブルース、マンの清志郎はもはや、自由と言う異界の扉を開く伝説の人になる。狗潜りほどの出入口さえあれば、男でもなく女でもなく化粧して魔界を跨ぎ超人的パワーの迸りをリアリティに俗世の人々を酔わせていく。
 多魔蘭坂の途中に、立ち詩人の頭脳から創造物が増え続け魔界を広げゆく生死を超越した、詩がこぼれ、こぼれた詩はブルースを奏でていく。
脳内の気圧が脳を押し退けて高まり、一気に文字が生もののように迸る。

  ♪汚れたステージ衣装でおなじみの曲やるのさ
  意味もなくわめき散らすぜ
  yieah
  ベイビー逃げるんだ
  ベイビー逃げるんだ
  ベイビー逃げるんだ げるんだ
  最悪だぜ!夜中になるまで
  寝かしてくれねえ♪


 多魔蘭坂の途中と言う完遂の不熟の広大な世界に、不易の詩と音楽を創造する。
 清志郎の頭脳の断面を聴かされる。
 ベイビー逃げるんだと、繰り返す散文が、深い魔界を感じる不気味な計りようもない広さ深さが、詠み人に、聴き人に、一枚の絹の様に形となり包んでくれる
時には卑猥な言動を吐く。
表現者としてのアンバラスな揺れの音は、光を放ち、煌めきの輪郭を捉え、坂の途中に住み、君の官能を求め、

  キスしておくれ

 と、月に吠える。

 拙句の

  無駄におとこ待たせて梅雨のかずら橋 美遥

 かずら橋は、かづらで造られた吊橋である。祖谷渓の険阻な絶壁にかけられており、猿梨の蔓で編まれた原始的な形態の吊橋である。
 荒く編まれたままの橋は隙間が多く、吊橋の下を流れる川が望まれる。
 俳句は、語れぬ思いを物に語らせ、かづら橋を渡る私の、向こうに無駄に待たせる男が居る。
 無駄に待たせていて無駄ではない。