「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第104回  辛い 中山奈々

2018年11月25日 | 日記
 今年もあとわずかとなった。来年二〇一九年は途中から平成が終わり、新たな元号を迎える。昭和ぎりぎりに生まれたわたしにとっては二回目の改元である。所属結社である「百鳥」は二十五周年記念はどうやら平成のうちに祝えることとなった。
 当たり前のことだが、五年前には二十周年記念パーティーがあった。未だに東京は不慣れで、そのとき関東の友人である西村麒麟さん家で厄介になった。パーティーの行われた会場まで迎えに来てくれた麒麟さんに駆け寄ったら、「さっき磐井さんとばったり会ってさ、『麒麟はこんなところで何してるんだ』って話かけられて、『中山奈々ちゃん待ってます』って言ったらびっくりしていたよ」と口早く話してくれた。磐井さんつまり筑紫磐井さんはその時、来賓として来られていた。基本的にああいった会場では自分の席を離れないわたしに先輩が「あそこのテーブルに挨拶いったら」と連れて行ってもらったところに磐井さんがいて、お互い赤ら顔でどうもどうもと辛うじて挨拶といえる言葉を交わしたのだった。それが麒麟さんが磐井さんと話した約三十分前のこと。さっき会ったあの子か、となったのかもしれない。
 それから麒麟さんの家まで、彼曰くひとが混んでてすごく嫌な空間の電車に乗り込んだ。運良く途中から座ることが出来、そこから「そういえば磐井さんの俳句、知っている? 」という話になった。
「えーと、蕎麦つゆが濃い」
「濃くない濃くない。〈もりソバのおつゆが足りぬ髙濱家〉だよ。しかもかなり前ー」
 そのあと何句か諳んじてくれた。わたしはというと、面白い、やばい、とボキャブラリー不足を疑われるような感想だけ言って、頭の中はそうか、蕎麦つゆが濃いんじゃないんだ、と切り替えが出来ていなかった。あとから考えると、磐井さんがあまりに濃いから蕎麦つゆも濃いと思っていたのだ。
 
      金子兜太
  老人は青年の敵 強き敵    筑紫磐井
 
 筑紫磐井『我が時代ー二〇〇四〜二〇一三ー〈第一部・第二部〉』(二〇一四、実業広報社)より。表紙、背表紙、帯には「筑紫磐井句集」とも明記されているが、奥付には書いてないので書名には入れない。という我が拗らせをここで発揮しておく。でないと、磐井さんに対抗出来ないからだ。
 金子兜太さんは今年二〇一八年二月に逝去された。この句集の示す時期には確か、兜太だけが何故愛される、みたいな特集がどこかで組まれていたのではなかったか。兜太さんからすれば、誰も彼も青年だったに違いない。多分しないかもしれないが「この青二才が! 」と怒号を飛ばされても納得する。静かに去ってくれるなよ、という思いが強い。
 そんな強い敵が去り、担当していた朝日俳壇の選者欄を高山れおなさんが引き継いだ。れおなさんについての句もこの句集にはある。
 
      悪魔がささやいた
  高山れおなと辛きピッツァをたひらげる
 
 れおなさんとピッツァを完食する。そのピッツァ、元は辛くなった。笑いながらひたすらにタバスコを傾ける姿が見えてくる。なんでこんなことになったのか。悪魔がささやいたから。だが、そそのかされたふりをしてふたりで、どうだ悪魔、たいらげてやったぞと満足気な顔をしている。確か「現代短歌」(二〇一八年九月号)、佐藤文香・高山れおな「君とうたへば」の中でもピッツァを食べていなかっただろうか。違っていたとしても、いそうなのだ。タバスコを持って何処にでも。
 蕎麦つゆの濃さはつまり辛さである。タバスコとは違う辛さだけど、彼のひとは常に世の中を辛くしている。いや見ている。評論を重視するのもその辛さ故ではないか。その辛さをみんなで掛け合えば、俳句って朽ちない。疲れるかもしれないけど、草臥れない。

  誰がゐし疲れの残る椅子の凹み

俳句時評  第103回  大原テルカズの行方   木村リュウジ

2018年11月01日 | 日記

 1

 

 今年の10月『今井杏太郎全句集』が角川書店より上梓された。今井杏太郎(1928~2012)は、

 

  老人と老人のゐる寒さかな

  みづうみの水がうごいてゐて春に

 

といった、平明な表現が特徴的な俳句作家である。

 しかし、私はその句よりもむしろ句集の末尾に添えられた略年譜に興味を持った。そこには、杏太郎が俳句を始めたきっかけとして、千葉中学校(現在の千葉県立千葉中学校・高等学校)時代に一級上の大原テルカズに俳句をすすめられた旨が書いてあったからである。

 大原テルカズ。私が俳句を書き始めてから知った多くの俳句作家のなかで、取り分け忘れられないのが彼である。

 本稿では、彼について述べる前にまずその略歴を書いておく。

 

本名・大原照一(読み方同じ)。

 

1927年 3月20日千葉県に生まれる。

1941年 「大原や蝶の出(い)でまふ朧月」(内藤丈草)という句を知り、千葉中学校3年生の夏休みより作句を始める。

     この頃今井杏太郎に俳句をすすめる。

1942年 俳誌『芝火』を知り、投句を始める。主宰の大野我羊に師事。太平洋戦争末期に同人となる。

1949年 法政大学卒業。『東虹』(大野我羊主宰)発刊に参加。

1958年 『俳句評論』(高柳重信等による同人誌)創刊に参加。

1959年 第一句集『黒い星』(芝火社)を上梓。

1960年 連作「全市蝋涙」で現代俳句協会賞候補となる。

      火曜会(高柳重信・加藤郁乎等)のメンバーとして合同句集『火曜』上梓。

      大阪府に移住。『縄』(島津亮等による同人誌)に参加。

1966年 第二句集『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』(八幡船社)を上梓。

1968年 『Unicorn』(加藤郁乎・安井浩司等による同人誌)に参加。

1980年 『俳句公論』(小寺正三主宰)10月号に無所属として「鶴と犬」という題で5句を発表。

     現在確認出来る最後の作品。

1995年 死去。没月日不明。

 

 私がテルカズを初めて知ったのは倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬舎新書 2012年)を読んだときだった。この本にはタイトルの通り松尾芭蕉から戦後に生まれた人物まで、様々な俳句作家が残した「怖い俳句」が収録されているのだが、彼の句風は他の作家たちと比較して大きく異なっていた。以下、『怖い俳句』より彼の句を何句か引く。

 

  懶惰てふ體内の墓地晩夏光(『黒い星』)

  積木の狂院指訪れる腕の坂(『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』)

 

 まず1句目についてだが、懶惰(らんだ)とは怠けること。自分のなかの怠ける心を「體内の墓地」と表現する重苦しさが印象的である。加えて「晩夏光」、つまり夏の終わりの光が自分に降り注いでいるのだから、「墓地」という表現と相俟って怠けるどころか生きる気力すら感じさせないような句だ。

 続く2句目だが、まず「積木の狂院」という表現が印象的だ。これが「積木の家」なら微笑ましく感じたが、わざわざ「狂院」、つまり精神病院と特定されるとその雰囲気は大きく変わる。

 そして、その積木の狂院に腕を這わせて指が訪れていると掲句では表現されている。私は、この積木の狂院に向かって自分の腕を坂にして指を歩かせているその人物こそが、実際の狂院の患者なのではないかと思う。つまり、掲句は「狂院」と外側から場所を指しているように思えるが、実は狂院の内部の光景を書いた句なのだ。

 テルカズの句について広く言われていることだが、彼の句は江戸川乱歩や夢野久作の怪奇的・猟奇的な作風と似通った部分がある。掲句はそうした部分が前面に押し出された句と言っていい。

 『怖い俳句』のなかに収録された数句を読んだだけで、私はテルカズの句の世界観に背徳感のような抗い難い魅力を覚えた。以来、今日まで私のなかで彼は忘れられない俳句作家となっている。

 

 2

 

 『怖い俳句』を読んでから少し経った頃、彼の句集『黒い星』(芝火社 1959年)と『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』(八幡船社 1966年)を読む機会に恵まれた。どちらも東京・大久保の俳句文學館に所蔵されていた。

 私は、実際にテルカズの句集を手にして彼への認識を新たにした。先に「彼の句は江戸川乱歩や夢野久作の怪奇的・猟奇的な作風と似通った部分がある」と書いたが、言わば彼の俳句の怖さの基盤になっているのは虚構(フィクション)としての怪奇性・猟奇性だと考えていた。   

 しかし、句集を読んでそうした怖さの基盤になっているのは生々しいまでの人間の負の感情であると気付かされた。本稿では『黒い星』を中心として私のなかのテルカズへの認識について述べていきたい。

 例えば、以下の句にそうした負の感情は表れている。

 

  血吐くなど浪士のごとしおばあさん(『黒い星』)

 

 老婆が血を吐いているという光景や、その光景を「浪士のごとし」という比喩で表現している時点で既に掲句からは異常な雰囲気を感じさせるが、その異常性の最たるものは掲句の前書にある。

 その前書は「祖母胃潰瘍」。つまり、掲句はテルカズの実際の祖母を書いたものなのだ。しかし、実の祖母が胃潰瘍で血を吐いているという緊迫した状況のなかでも、それを句にする彼の視線はどこか醒めている。それは実の祖母に対して「おばあさん」という他人行儀な呼び方をしていることから伺える。また、掲句の「浪士のごとし」という比喩からも史実に見られる浪士の悲壮感はあまり伝わってこない。むしろ実の祖母を眼の前にしながら、その姿にテレビの時代劇を重ねるような悪趣味すら感じさせる。

 そう、テルカズが実の祖母に向けているこの醒めた視線や悪趣味こそ、私が考える彼の怖さの基盤である。彼の俳句に書かれた彼自身と他者との間には、それこそテレビの中と外のような断絶がある。そのことは、例えば以下のような句にも見て取れる。

 

  雪の路燈市長と呼べど人違ひ(『黒い星』)

  アマリリス婢(はしため)の頃の母かわいい(同)

 

 塚本邦雄は自著『百句燦燦』(講談社 1974年)で、「血吐くなど~」や「雪の路燈~」といった句に対して以下のように述べている。

 

 「おばあさん」と「市長」の人を馬鹿にしたやうな俗惡な誇張と肩すかしに虛を衝かれる私自身が厭はしかつた。思へばこの二句のフモール(註・ユーモア)は絕對人を哄笑に誘はない。哄笑の假面を冠った滿身創痍の作者が「など」「呼べど」の蔭で聲を呑んでゐる相が見えるからだ。

 

 この文章で塚本は、テルカズを「哄笑の假面を冠った滿身創痍の作者」と書いているが、私も同意見である。そのことは、テルカズが他者に向けていた視線を、彼自身に向けたときの以下のような句からも言える。

 

  終湯は明日への穴のごと黒し(『黒い星』)

  終湯に野良犬とわが四肢だぶる(同)

 

 「終湯(しまいゆ)」とは銭湯のその日最後の湯のこと。如何に利用客が湯槽に浸かる前にみな体を洗うとは言え、終湯ともなればその湯は真っ黒である。テルカズの句にはこの「終湯」という言葉が多く登場する。

 その終湯を「明日への穴のごと黒し」と表現し、またそこに浸かる自身を「野良犬」と重ねるテルカズの姿からは、日々の徒労感が強く見られる。まさしく「滿身創痍」の姿と言える。

 テルカズが俳句のなかで他者に向けた醒めた視線や悪趣味は、決して安全圏から放たれたものではない。むしろ敗戦直後の暗い世相のなかで、彼が世の中と向き合うために身についた哀しい術なのかも知れない。

 また『黒い星』の序文を書いた一人に高柳重信がいるが、彼はその序文のなかで以下のように述べている。

 

 いま、僕の眼の前には、この十余年間に、彼が秘かに剽めとり、秘かに貯えてきた多くの財宝が、――すなわち、「幼さ、卑しさ、愚かさ、古さ、きたならしさ、ひねくれ、濁り、独善、悠意」と彼が呼ぶところのものを蒐めた、句集「黒い星」がある。(中略)思えば、この十年に余る困難な歳月を、彼も、そして僕も、多くの誇りを人々から奪いとり、剽めとつて来たようである。彼も、そして僕も、まさに、まことに、そうすることによつて切実に生きて来たのであつた。

 

 この文章から私は、芥川龍之介『羅生門』のラストシーンが思い浮かぶ。羅生門の楼で老婆の着物を剥ぎとった下人は、そのまま梯子をかけ下り京の夜へと消えてゆく。その下人の姿と、敗戦直後の暗い世相を「多くの誇りを人々から奪いとり」生きてきたテルカズの姿が重なるのだ。

 

 3

 

 略歴に書いたように、テルカズが俳句を書き始めたのは千葉中学校3年生の夏休みからだが、『黒い星』の最初に収録されている句は「千葉中学」と前書のある以下の句である。

 

  冬晴れのオリーブの葉を嗅いでみる(『黒い星』)

 

 このさわやかな句風が、他者への醒めた視線や悪趣味を感じさせる句風に変わるまでの、重信の言うテルカズの「切実」な日々を想像してしまう。

 ただ、先に書いたように私はテルカズの句に魅力を覚えているが、一方でこのような切実な生き方を俳句に昇華させる方法が長く続くとは思えない。忌憚なく言えば、テルカズにとって俳句作家としての大成などというものは最初から縁がなかったのだろう。『黒い星』の後記で彼は以下のように述べている。

 

 「黒い星」は、俳句の毒汁を滲ませつつも小市民的隘路の墓標として、反主流域にいち早く風化する運命にある。

 

 この自身の後記が予言だったように、『黒い星』の上梓から約9年後の1968年、テルカズは『Unicorn』の発刊に参加するが、創刊号に参加したきりで『Unicorn』から退会してしまう。(さらに言えば、創刊号のなかで彼は同人名簿に名前こそ載っているものの、俳句は発表していない)そしてこのあたりから寡作になっていったようで、経歴もよく分かっていない。

 現在確認出来るテルカズの最後の作品は、小寺正三主宰『俳句公論』1980年10月号に「鶴と犬」の題で掲載された以下の5句である。

 

  霊安所くずれ十字の霧腰かけ

  孫曳くや黄泉をローマの石流れる

  鶴と犬との骸に沈み霜蜥蜴

  ししむらのコロナに次ぐや霜の華

  脳裡緋に藍はた銀に或る町あり

 

 個人的には最後の句に注目したい。「脳裡」のなかの「緋に藍はた銀に或る町」とはどのような町だろうか。掲句からは、テルカズの理想世界が終(つい)に外界ではなく自身の内面にしか無かったことを伺わせる。

 そして、それから約15年後の1995年にテルカズは亡くなったという。没月日は分かっていない。

 大原テルカズとは何者だったのか。彼の句風の変化や時代背景からある程度の人物像は推し量ることが出来るかも知れないが、結果的には彼が残した唯一無二の俳句に圧倒される他はないと考える。

 千葉中学校時代、俳句によって知り合った今井杏太郎と大原テルカズ。現在は両者とも故人だが、前者は全句集が上梓されこれから再考察も進むだろう。しかし、後者は突如として「俳壇」から姿を消したままである。残念なことだが、これもテルカズの選んだ道なのだと思う。

 彼の行方は、誰も知らない。

 

〈参考資料〉

 

・書籍

今井杏太郎『今井杏太郎全句集』角川書店 2018年

大原テルカズ『黒い星』芝火社 1959年

大原テルカズ『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』八幡船社 1966年

倉阪鬼一郎『怖い俳句』幻冬舎新書 2012年

塚本邦雄『百句燦燦』講談社 1974年

 

・俳誌

『豈』第39号-2 特別号(関西篇)より酒卷英一郞『一角獸(ユニコーン)の殘夢-「ユニコーン」資料編』 2004年12月

『俳句公論』1980年10月号

 

・ウェブサイト

俳句九十九折(19) 俳人ファイル ⅩⅠ 大原テルカズ(冨田拓也)

(http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2009/01/blog-post_10.html?m=1)