「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 今度はマフィン 法橋 ひらく

2021年01月28日 | 日記

 好きな季節を聞いて「冬が好き」とためらいなく答える人になんとなくコンプレックスがある。人間としての根本の部分でなにか決定的に適わないような気持ちになるのだ(というのはちょっと盛ったけど)。だって、冬はまずとにかく寒い。こんな寒い季節が好きとか一体どういう理屈なのか。日が暮れるのが早いのも苦手だ。毎年、十一月後半の日に日に寒くなって日没が早くなる頃、気分が塞ぐ。自分がそんな風なのでこれはもう完全に主観的な決めつけなのだけど、好きな季節を聞かれて「冬が好き」とためらいなく答えられる人たちはきっと、心の中に「温かい冬の思い出」があるのだ。君の冷えた左手を僕の右ポケットに的な。いやそこまでベタじゃなくてもなんかそれに通じるような。寒い季節だからこそ誰かの温もりが的なヤツ。そういう温もりの記憶が胸の中に根付いているからこそ冬の寒さを好ましく思えるんじゃないか。つまり「冬が好きな人こそ真のリア充」説。
 と、そんなことを二十代の頃よく考えたなーというのを先日友人と話していて思い出した。「そういやリア充ていう言葉聞かんくなったね」「もう死語なんかな」という会話をしたのだけど、どうなんだろう。見聞きしている範囲では、最近の若い子たちは「陰キャ/陽キャ」という用語をもっぱら使っているように思う。死語かもしれないから一応補足しておくと、リア充というのは「リアルが充実している人」の略で、その場合の「充実しているべきリアル」というのは主に恋愛関係を指していたように体感的には記憶している。それに比べると最近の「陰キャ/陽キャ」という区分はどちらかというとパーソナリティや行動傾向の方に比重があるように見える。いま現在恋人がいなかろうが陽キャは陽キャ、恋人のいる陰キャだってそりゃいるわな、みたいな。世代が違うので把握が間違っているかもしれないけれど、この印象が正しいとすれば、自分たちアラフォー世代が浸っていた「リア充(爆発しろ)文化」に比べれば今の若い子たちの文化の方がいくらか成熟しているのかもしれない。

 「リア充」トークのついでに。僕は大学時代テニスサークルに所属していて、短歌を始めたのは大学を卒業した後だったのだけど、色んな歌会なんかに顔を出し始めた頃、自己紹介の場面で冷や汗をかくことが時々あった。短歌を始めたいきさつや学生時代のことを聞かれて「大学時代はテニスサークルでした」と答えると空気が一瞬凍るのだ。だんだんわかってきたのは、どうやら歌人になる層のそこそこ多くの人たちが「テニサーの奴ら」を仮想敵のように嫌って過ごした学生時代を持っているようだ、ということ。「あ、でもアレですよ。けっこう真面目にテニスやってたんでそんなチャラい感じじゃないですよ」とか聞かれてもいないのに弁明したことも何度かある。今にして思うと笑えるし、空気が凍るのももちろんその最初の一瞬だけのことなのだけど、当時歌人コミュニティに仲間入りしようとしていた自分にとってはちょっとした懸念事項だった。
 現在の若手歌人の世界はどうなんだろう。色んな大学に学生短歌会が出来ていてちょっとした短歌ブームの気配だし、短歌に惹かれて集まってくるひとたちの裾野も広がっているだろうし、「テニスサークルと短歌会を掛け持ちしてます」みたいなひとも普通に居るような世界になっていたら面白いなと思う(まぁわざわざ願わなくても結局「短歌が好きならそれで良し」のごった煮の友情が醸成される世界なのでそれでいいのだけど)。
 でもって俳句の世界はどうなんだろう。短歌と俳句、似ているようで全然違う詩形なので、そこらへんの微妙なコミュニティ内部の空気感みたいなものも違ってくるんだろうか。僕がもし当時、短歌でなくて俳句の世界の若手だったなら。句会で知り合ったそこそこ歳の近いひとたちに「大学時代はテニスサークルでした」と言ったとき、どんな空気になったんだろう。

 「冬が好きなひとは冬という季節に温もりの記憶を持っているひとなのでは」ということを最初に書いたけれど、その直感は今でも割と信じていて、それは二十代の頃に考えていたような「リア充」的な意味合いにおいての温もりだけを指すのではなくて、もっと広範に「心が冷えていないことが冬を好きになれるかどうかを決めるのでは」と感じている。僕は一時期、冬の歌ばかり出来る時期があったのだけど、あれはまさに自分自身の「心の冷え」に直面してその温め方を考えていた頃だったように思う。冬が苦手なのに冬の歌ばかり捗って因果なもんだなぁなんて当時は思っていた。そして冬の歌が冴えれば冴えるほどますます冬が苦手になっていった。そんな風に、自分の感情世界を無視することがなかなか難しい短歌に対して、五感で外界の事象をキャッチする作業が創作においてかなりのウェイトを占める俳句。……健康に良いのはやっぱ俳句かもしれない(笑)。僕には短歌が必要だったし、ここ数年、冬に対する苦手意識が少し和らいできた(当社比)のでそういう意味でもちょっと自分に安心したりしているのだけれど。俳句に親しんで生きていくということはそれぞれの季節を、冬には冬の寒さや暗さを好きになったり飼いならしたりする糸口を見つけて生きていくということだと思うし、例えばそれが心の温め方としてもひとつのアプローチになったりするかもしれない。そんな風に思う。

そんなこんなで僕の好きな冬の句を三つほど(ここ数年内のものから)。

  爪を切る遠く弾けて大晦日        筒井絵里

  煤逃や若作りして街にゐる        清島久門

  どら焼にバターを塗つて冬の鬱      佐藤文香

 この文章を書くのにもどえらく時間がかかって、合間にメルティーキッスを一箱消費する必要があったりしたので僕のこれもやっぱり冬の鬱かもしれない。「バターを塗る」というひと手間をかけるその行為が冬を自分なりに飼いならす秘訣だと教わった気もするので、次に甘いものを欲したときにはマフィンか何か買ってきてバター塗ってみようと思う。冬もあと半分。


俳句時評 第131回 俳句の現実と理想を直視して 歌代 美遥 

2021年01月16日 | 日記

 句集 七十二句 城野三四郎

 句集名として意表を突かれる反面、城野三四郎という作家の悪戯っ子的な機知を読み手に供与しながらも、実は照れ屋の内気な実像から、読み手の眼を逸らそうとしているのかもしれない。
 作者は盛年の頃から燦々と充塞な職業に従事し、失敗の無い人生を歩んできた。今は気ままに土に親しむ暮らしをしている。
 句集は、題名の通りに七十二句だけ収めている。
 しかも、七十二歳だから、七十二句だけを収めた洒落を効かす作者の十五年の俳人の歳月は同人として、着実に真摯に向き合って来た足跡を凝固した七十二句の結晶の一つ一つなのだ。
 この句集の一句一句、一語彙の一つ一つが、魂を濃縮された心象の秘宝を宿す事説となり、読者の脳へ対峙してくる。

  切られ役なかなか死なず夏芝居
  甚平の似合ふお人と夜遊びに
  唐辛子干して土蜘蛛族の裔
  わが恋ももはや伝説星祭
  花冷や手のしろじろと人の妻
  境内に父の甚平や宵祭

 失敗の無き人生の後、どう生きるか!心には理想の夢があり頭脳の老いを論断しない自尊を強く持ち、正に俳句の出会いは主観的な野心を刺激したであろう。
 花鳥諷詠と頭脳の調和が瞬時に或いは、父の後ろ姿から学んだ無意識に俳句へ惹かれたと思われる。

  境内に父の甚平や宵祭

 粋な父の姿が見える。
 風狂な客観的に四季折々の移ろいの趣の中に、経験と実践を感覚的に表現する美学において、自ら社会的秩序のカテゴリーを廃し、自由と平等という俳諧の合理性を感受し、森羅万象に組み込まれた己の魂の存在に歓喜する。
 自然と暮らす日常の作者にとって、俳界という枠の中は、社会秩序の倫理的な合理性がある事に気付かされる。

  花冷や手のしらじらと人の妻

 文芸は社会的倫理観を封じ、心の具象化に変える美学が作者の求める渇望を満たす。人の妻に恋する事の自由、奪うという自由、倫理的な枠より露出せず、文芸の表現に戯れる快感が、俳句のゲーム的な勝利のごとく感受できる。
 更に句会という小さなカテゴリーの中に参加者の作品を巡る互選、特選にそれぞれの句評に秘密裡に闘争が繰り広げられる。蓮衆からの評価や互選、そして、師の特選を得る象徴闘争のなかでの勝利の句は宝になる。十五年という歳月をかけその中から七十二句だけ選ばれた、作者の努力と教養は文化的な宝である。
 短い十七音に込められた作者の想定する風狂な遊びを込めた人生の権威としての自尊なのである。
 中には句会というカテゴリーから、自ら敗れ遠ざかる人もいる。闘争が心に有れば悔しいという想いも湧くだろうが、作者は、闘争の極限を理解している。
 俳句という自ら得た文化的宝を傷つけるような風愚な行為はしない。野心を超越した風流に吟ずる遊びを幸せとして、俳諧に出会えた事に感謝している。
作者の七十二句の詰まった句集のエキスである。
 作者の幸せを、ひしひしと感じる。
 人は理想を求め、理想が崩れた現実に、心のバランスも傾き不安と迷いに、苦しむ。たかが俳句でと思う人もいるだろうが、自句は自分の人生のように思うから続けていける反面もある。
 何かバランスが崩れた恐れを感じたときに、高村光太郎の素晴らしい詩がある。

   火星が出てゐる 高村光太郎

  火星が出てゐる
  要するにどうすればいいか
  といふ問は、折角たどった思索の道を初にかへす。
  要するにどうでもいいのか、否、否、無限大に否。
  待つがいい、さうして第一の力を以て、
  そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
  予約された結末を思ふのは卑しい。
  正しい原因に生きる事、それのみが淨い。
  お前の心を更にゆすぶり返す為には、
  もう一度頭を高くあげて、
  その寝静まった暗い駒込台の真上にひかるあの大きな、真っ赤な星を見るがいい。
  火星が出てゐる


俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に 丑丸 敬史 

2021年01月11日 | 日記

(1)はじめに

 今回は多行形式俳句の評論の4回目であり、最後のものとなる。

 筆者が属する俳句同人誌「LOTUS」の最新の第47号で、タイムリーに多行形式俳句の特集が組まれ内外から多くの多行形式の俳句作品が集った。次号以降にこれらの作品鑑賞が行われ、息の長い特集になる予定である。
 「LOTUS」同人の常の多行形式俳句の書き手には酒卷英一郎がいるものの、今なぜ多行形式俳句の特集が組まれたのか。「LOTUS」編集部の九堂夜想が本特集の立案者であるが、九堂は多行形式俳句を俳句と呼ぶことに疑問を持っている(このことは以前触れた)。そのような立場の九堂が本特集を組むということは、敵に塩を送る的な義侠心からか、もしくは俳句を名乗るのであればその内容でその存在意義を明らかにしてみよ、という挑戦状か。自分の考えを覆してくれるような内容の充実した作品群に圧倒されたいというアンビバレントな感情から来たものか、理由は何にせよ、この特集を言祝ぎたい。現在望みうる多様な多行形式俳句が集合した(「現在望みうる最高の」と言えるかは読者の判断に委ねたい)。まずは圧巻である。

 今回はその「LOTUS」第47号に掲載された多行形式俳句作品を鑑賞する。

(2)多行形式俳句の現在 その1

  遂に                          高原耕治
  鬣たり
  絶海に
  刺さる稻妻

  いまや絶巓
  醒めては想ふ
  かの靑海と
  阿呆鳥

  霧中咆哮                        上田 玄

  蛭子の舟の
  虎マッチ

  凍蝶は深く                       豊里友行
  破鏡の

  谺なり

 まず四行形式俳句を見てゆく。
 もし重信が長生きしていたらどのような作を作ったであろうか。
 外部執筆者、高原、上田、豊里の作品である。重信の志を継ぐ(継がんとする)作品と見える。そう見られることを彼らは厭わないのであろう。重信調とでもいうべき、ある種の重苦しさ、深刻さを継承している。高原の掲出句は、重信が使用したキーワード「」、「絶巓」を明らさまに用いて本歌取の句となっている。上田、豊里の句も重信調を纏う。これらは、ただ重くれだけではない、充実した詩的内容を伴っていることで翫賞すべき作となっている。

  相聞あひぎこえ                         横山康夫
  はは
  しゆく
  ははふえ

  空前くうぜん
  むね
  うつほ
  しまぼし

  頭韻とうゐん
  ひび
  ひと
  しもかみ

  脚韻きやくゐん
  んで
  殘雪ざんせつ
  のこんのつき

 外部執筆者の横山の作品。全てに振りがなを振る重信スタイル。ただし、大和言葉の古語の使用から来る印象の柔らかさは心地よい。

  瘋癲や                        無時空 映
  塔内の
  羊水で
  蒸す書物

  青き王妃よ                        
  睡魔の舌に
  溶けて
  星産み

 異色の雰囲気を湛えた、内部執筆者の無時空の作である。無時空は普段、多行形式俳句を書いていないが、今回の特集で彼の創作意欲に火がついたか、前46号の通常作品も多行形式俳句を提出した。物語性のあるダークファンタジーである。

  もろ                         中里夏彦
   うるはし
  じやうあゐ
  みつくし

  生まれない                      未 補
  耳の
  汀に
  遠雷は

 上に引いた中里と未補の作は四行形式俳句でありながら柔らかな手触り。中里の作、藍は揉むことでさらに色が深まる。双手にて地上、天上の藍を「揉みつくし」とは言っているが、決して、揉み尽くせないことを逆説的に感じさせる。未補の作、「生まれない」を生まれ得なかった水子の耳と読むこともできようが、そう限定せずに、不可視の未生の耳と読みたい。

  瓜と爪                        来栖啓斗
  舐め合う
  ぼくらの
  湖上かな

 外部執筆者の来栖の本作、「」と「」と漢字が似ていることから産まれた作ではあろうが、それにより「」になにやらエロティックな寓意が潜んでいるのではないかと勘ぐらせ、それが味にもなっている。

  花へ                         林 桂
  夜空を
  遍く父母の
  白髪かな

 外部執筆者の林の本作、通常の文法であれば「夜空へ/花を」となるところであろうが、それを逆転してポエジーを生み出している。花(桜)へ夜空を遍く架ける、それはまるで父母の白髪が棚引くかのごとく。

  水銀は丸                       笛地静恵
  く眠る能
  楽堂は井
  戸の直径

 外部執筆者の笛地の本作は、自由詩の形式に着想を得ての、文節に縛られず4文字目で強制的に改行する形式での多行形式俳句。韻律もなく、内容も自由詩の発想である。多行形式俳句が鵼的な融通無碍な形式であることが了解されよう。
 「水銀は丸く眠る」に驚くべきポエジーはないが、それに続くフレーズ、「能楽堂は井戸の直径」は解しがたく、「水銀は丸く眠る」からの飛躍も面白い。「水銀が丸く眠る能楽堂」ではないので、水銀が丸まり眠るのが能楽堂、とは俄かには読ませないところがミソである。

   赤繭                        漆拾晶
   
  かとりのな
   あや
   でま

 本特集にはカリグラム作品も散見された。上述の中里と豊里もカリグラム作品を提出した。外部執筆者の漆拾晶の本作、外部から周囲を時計回りに巡るように読み進めると、繭になるまで開かずの間の綾取、と読める。すぐれた詩情をも湛える。この俳句の形が繭の形になっているのが洒落ている。繭を開けるように読み進めていく外形と内容との合一。重信のカリグラム俳句の発展型を見る。

 とにもかくにも重信は偉大だった。
 この特集を見れば、四行形式俳句を継ぐ者たちの作品の充実ぶりが頼もしい。

(3)多行形式俳句の現在 その2

  夢殿の                        酒卷英一郎
  鈴蟲籠に
  露を飼ふ

 次に三行形式俳句を見る。同人の酒卷は、以前取り上げた大岡頌司の三行形式俳句を継承する。
 酒卷は今回の「LOTUS」特集をどのように感じているであろうか。それは、酒卷が多行形式俳句の現状、今後をどのように感じているかという問いと重なる。勝手に想像させてもらうと、特集はありがたいものの、もし時代が多行形式俳句を求めないなら消えるだけであるという日々覚悟を持って作句しているように見える。それは、たとえ時代に抗うことになったとしても、自らはそれを寡黙に静かに作り続け、問い続けるという気概を持ってのものであろう。「静かに」といったが、このような問題に関して、多行形式俳句の存在意義を声高にアピールしても仕方がない。外野から有無を言わせぬ、静かではあるが存在性を持った作品を作り続けて、その存在意義を示すしかない。それを酒卷は知っている。酒卷が「LOTUS」で特にこれまで多行形式俳句の特集を積極的に求めてこなかった理由であろう。それは、どこか重信系の多行形式俳句の書き手の態度とは多少とも異なるように思える。

 前回の「俳句時評 第126回 多行形式俳句(3)ちづをひらけば」で書いた。

  しばらくは                     大岡頌司
  陰に帰らむ
  麦の秋

 三行に書き分けることにより、これらの句から受ける印象は却って格段にやさしくなる。それはなぜか。展覧会で絵画を足を止めて一つずつじっくりと鑑賞するように、十七音を一気に読ませるのではなく、一行一行に分けることにより、時間をかけてゆっくりと鑑賞することになる。ここには改行による切れの重圧はない。改行による切れ、それは「文脈中の意味的切れ」ではなく「鑑賞の切れ」なのである。

 この自然体の大岡俳句に対して、弟子の酒卷の俳句はどちらかというと技巧的な作りである。酒卷は自分のモードを確立し三行形式俳句の可能性を模索している。上記の酒卷の俳句はあまり技巧的なものではないように見えるが、「夢殿」、「鈴蟲籠」、「」と、マトリョシカのように入れ子構造を持つ作品である。

  成り申す                      酒卷英一郎
  成り申すとて
  花落つる

  花籠めの
  開かずの捫と
  空けずの悶

  睡らねば
  眠れる花と
  なりにけり

  南無蓮華
  空荷の我と
  我が空荷

 上記の作は「LOTUS」第35号の特集作品、酒卷英一郎「阿哆喇句祠亞 αταραξια」より引いたものである。そこで筆者はすでに下記のような文章を寄せた。

 酒卷の三行分かち書き俳句は、確固たる形式美を持ち、豊富な知識に裏打ちされて極めて理知的に端正に書かれている。これは酒卷の美意識に貫かれた俳是であろう。言葉遊び、反復、ずらしの妙が多行形式の形を得て、極めて効果的に詩が紡がれる。その時に、一行目、二行目、三行目がその仕掛けとして重要な役割を演じている。

 酒卷俳句はまず形式ありきで、この形式に詩魂を落とし込み為されたものである。一行棒書き俳句も勿論形式ありきであるが、酒卷俳句の形式はより大きな制約をもち、漢詩のように、クロスワードパズルのように厳密なルールに添って言葉が嵌め込まれてゆく。ただ、酒卷俳句を見ると、端正すぎる雛飾りを見るような胸騒ぎを覚える。これは無い物ねだりになるだろうか。

 現在の筆者の印象も基本的に同様である。それは、酒卷俳句がブレていないことを示す。そこにポエムをいかに盛り込むかが腕の見せ所である。

  花籠めの                     木村リュウジ
  地天返しの
  眠りかな

  花かつみ
  出づれば消ゆる
  祖語なりや

  たなびくや
  夢のたびらの
  ゆかたびら

  六道の
  徒手空拳を
  六花過ぐ

 その酒卷を師と仰ぐのが外部執筆者の木村リュウジである。木村は酒卷の俳句にインスパイアされて三行形式俳句を書く。句会では時折、酒卷の作かと間違える木村の作である。言葉の周旋が師匠の酒卷に似てくるのは当然であろうか。言葉遊びや、リフレインに適している多行形式俳句にポエジーを盛り込む技量はすでに並大抵ではない。ここでは、豊かな詩情が感じられるものを抜粋した。

  うずくまる                    三上 泉
  帷の淵に
  月光魚

 外部執筆者の三上泉の三行俳句の本作はそのような技巧を凝らさない自然体の作品である。外連味のない本作には多行形式俳句を書いてやろうという気張りが感じられない。上掲の大岡の作品と同様である。これを一行で書いても何ら不自然さは感じない。ただ、三行にかき分けたことでワードとしての「月光魚」が浮き上がる。
 筆者も以前、重信に影響を受け四行形式俳句書いたことがあった。その縁で今回請われて多行形式俳句を特集作品として提出した。ここで自作を披瀝することは控えるが、今回提出したものは三行形式のものである。それは前回の大岡俳句の鑑賞したことに起因する。

 是非、多行形式俳句世界の現在を知りたい方は「LOTUS」第47号を手に取ってもらいたい。今回紹介できなかった力作の嵐に出会えること、間違いない。

(4)最後に

 今回の多行形式俳句時評は自分にとってとても良い体験、勉強をさせてもらう契機となった。第1回では、多行の改行の必然性にこだわった読みをした(それは重信の問い、戦いでもあったが)。しかし、回を重ねるうちにその考えは徐々に変わっていった。そして今、最後に到達した境地は次のようなものである。

 理想の多行形式俳句とは、無為自然の境地にて、一行に書き直してもよろしきものではあるまいか。

 と。
 逆に言えば、良質な一行棒書き俳句もまた、多行形式俳句にしても上質に味わえるのではなかろうか。つまり、突き詰めていくと、一行と多行の境界は筆者の中で改めて曖昧になりつつある。

 ただ、この結論も(仮)である。
 この筆者の結論を根本的に覆すような多行形式俳句の出現を期待する。現在の多行形式俳句の奥深さ、間口の広さがそれを予見させる。
 今回の「LOTUS」特集が時代を変える、多行形式俳句、俳句の将来を変える、との大それたムーブメントを起こすとは思わない。それは俳句界という大海に投じられた小さな一石に過ぎまい。しかし、それで良い。小さな一石であっても漣は立つ。次々に石を投げ続ける実作こそが、磐石に見える俳壇に漣を起こし続け揺さぶることになろう。