高校生の時、文人俳句という言葉を聞いて違和感を覚えた。『羅生門』を習う際、便覧で芥川龍之介について学習をしたのだが、その時にその言葉が出てきた。「作家が余技として俳句を作っていたから文人俳句と言います」と習った記憶がある。当時の私は国語の時間以外で俳句を作ったこともなく、まだ俳句をおもしろいと感じたこともなかったのだが、文人の俳句とそうでない人の俳句をわける必要があるのかと疑問に感じてしまった。中学生の時の教科書に載っていた自由律俳句であれば、確かにわけておく必要もありそうだと感じはしたが、便覧に載っていた芥川の句を見ても、何が違うのかさっぱりわからなかったのだ。
その後、紆余曲折を経て日々俳句を作るようになったが、いまだに文人俳句という言葉はもやもやしたまま残り続けている。
岸本尚毅『文豪と俳句』(集英社新書)が出版されたのは今年の八月のことだ。この本の中では、十三人の作家の句(そのうち、夏目漱石と永井荷風については句合わせの形をとりながら)にどのような特徴があるのかが読み解かれていく。
おわりの部分で著者が「そもそも小説家の俳句は、そうでない作者の俳句とどこが違うのでしょうか。(中略)その違いは、作者が発信する情報量の差です。小説家は小説や日記などの形で豊富な情報を発信します。俳人も散文を書きますが、小説家の比ではない。文豪と呼ばれる小説家については評伝や研究書も豊富で、それらも俳句を読み解くヒントになります。」と述べている通りに、彼らの作品等が数多くふまえられながら鑑賞が進んでいく。
例えば内田百閒を論じた章では、「砂原の風吹き止まず朝の月」に対して『件』の「月が西の空に傾いて、夜明けが近くなると、西の方から大浪の様な風が吹いて来た。私は風の運んで来る砂のにおひを嗅ぎながら、これから件に生まれて初めての日が来るのだなと思つた」という一説を引用し、彼の小説の作風と結びつけながら怪異の兆候として風を捉えている。
また、宮沢賢治の「岩と松峠の上はみぞれのそら」という句の「峠の上はみぞれのそら」は下手だと断じたうえで、「訥々とした調子は、賢治の声を聞くような感じがします。(中略)賢治にとって俳句は窮屈だったでしょう。字余りを避けて「みぞれそら」「みぞれぞら」とすると、「みぞれ」が「そら」の一部になってしまう。賢治は「みぞれ」と「そら」が別々の言葉として、それぞれが一語一語として粒立っていることにこだわったのだと思います。」と、賢治の人柄、詩人ならではの感性から来る言葉の選択も考察している。
一読し、百閒にしても賢治にしても、それぞれの作家の詠んだ句とその評については納得させられる部分が大きかった。言葉遣いが荒いと思った句(泉鏡花の「打ちみだれ片乳白き砧かな」など)も、著者の指摘を読んで印象が大分変わった。やはり、情報量の差は大きいことだろう。俳句の読みを考える本としてはとてもおもしろく読むことができた。
さて、最初に戻るが、この本を読んでますます文人俳句という言葉に違和感を覚えてしまった。
取り上げられている小説家は誰もが俳句に真剣に向き合っていた。萩原朔太郎は『小説家の俳句 俳人としての芥川龍之介と室生犀星』で「前にも他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。」と文人俳句を非難していたが、その対象でもあった芥川龍之介にいたっては俳句を専門にしている人間と全く同じ執念を感じざるをえ得なかった。
だからこそ、文人俳句と呼んで分けてしまうのは、句を作っていた彼らに対してこれ以上ないほど酷い仕打ちに感じられてしまう。その点、『文豪と俳句』には文人俳句という言葉がほとんど登場しなかったのは好ましく思えた。
その一方、著名な作家の俳句だから好意的に評価しましょうとなると危険なことに思う。あくまでも俳句は俳句。今後も新しく俳句を作り始める作家は出てくるだろう。その際、著名な作家だから肯定的にとらえるのではなく、その作家のこれまでの蓄積は単なる情報として、俳句は俳句としてしっかりとらえていきたい。