「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第111回 やがて消えゆく俳人たち 廣島 佑亮

2019年07月09日 | 日記
 中部地区に「中部日本俳句作家会」(以降、中日作家会)という超結社俳句団体がある。七十年の歴史を持ち、東海地区現代俳句協会の母体となる組織である。昭和二十三年に発足、昭和二十九年から会員のアンソロジーである「年刊句集」を毎年発行している。
 今回は、中日作家会の初期に参加した女性俳人の動向を、年代順に「年刊句集」から見ていき、句風の変遷・直面する問題などを考察したい。

◎第一集 昭和二十九年
 戦後の中部地区の現代俳句を担う俳誌は、「天狼」(山口誓子主宰)、「早蕨」(内藤吐天主宰)、「南風」(山田麗眺子主宰)、「環礁」(加藤かけい主宰)、「地表」(小川双々子主宰、昭和三十八年創刊)である。
「年刊句集」参加者一五九名のうち、女性は十一名だった。巻末に会員名簿があり、「住所」「生年月日」「職業」「所属結社」が記載されている。掲載する句数は一人二十五句。気になる女性俳人を三句ずつピックアップする。

●牛嶋美佐子
   鵜の叫び嗚咽にも似て忘られず
   不安きざす水爆下の夏涼しくて
   全身の汗云ふべきを云はずして

「環礁」所属。明治三十八年生まれ。職業は「主婦」。終戦後十年、核戦争勃発が現実的恐怖だった時代。「云ふべきを云はずして」が今の時代にも通じるのが恐ろしい。

●小川智子
   げんげ濃し抱かれて濃し激しく濃し
   スカートの中にクローバ入れて座す
   愛なければほおずきの苦味舌走る

「環礁」所属。昭和七年生まれ。職業は「医学部学生」。初々しく希望に溢れているのは、学生ということもあるのか。橋本多佳子、杉田久女の影響が強い。句集を読んで勉強したのだろう。

●河村与志子
   蚊帳吊つて人それぞれに不幸なり
   自らを弔ふごとく汗ぬぐふ
   おぼろ夜の陸橋敵として別る

 無所属。昭和三年生まれ。職業は「刈谷商工会議所勤務」。境涯俳句のような切なさがある。独学でやってきたのなら、凄いことだ。社会人として仕事をしているためか、俳句に重みがある。

●中村吉子
   剥かれゆくよろこびに桃雫して
   家出決行の日が延びてゐて桐咲けり
   すつくと向日葵少女脱衣す傍に

「早蕨」所属。昭和四年生まれ。職業は「保健会社職員」。さらりとうまく詠みつつ、内に秘めた思いが韻律を通して心に伝わってくる。


◎第二集 昭和三十年
「年刊句集」参加者一八一名のうち、女性は十五名。掲載する句数が一人二十句になった。会員数も女性俳人の数も順調に増加している。「環礁」の加藤かけいが女性会員の獲得に積極的だったらしい。今も現役の六十代七十代の女性俳人に加藤かけい門下が多い。

●牛嶋美佐子
   五分咲きの花を頭上に酔いきれず
   岩肌の冷え伏したる胸に伝わり来
   そのままの遺品いなづま触れてすぐ

 句の内容、リズムが石田波郷の影響を受けているような印象がある。「そのままの遺品」がもの悲しい。

●小川智子
   柔らかき乳房の如き雲騰る
   口づけといふ語まばゆき雁光る
   わが驕りカンナのおごり恋炎昼

 職業が「医学部インターン生」となった。研修生となり実生活も順調だ。他の句に「接吻」「若き乳房」の語があり、恋人ができたのか、それとも恋に憧れていただけなのか。

●河村与志子
   病む夫の窓に花火をかかげたし
   クリスマス病む瞳病む瞳に迎へられ
   夫病みてひそかに餅の黴育つ

 ご主人が病気だったようだ。他の句に「血をはく」「喀血」とあるので結核だったのだろう。商工会議所に勤めて、生計を支えた。当時の社会状況から考えて、相当な苦労をしていたと思われる。

●中村吉子
   万緑や男粘りある唾液もてり
   接吻の乾く音佳し枯木に陽
   乳房汚れ春泥を犬蹤きまとふ

 急に生々しい俳句になった。俳句としてはちょっと詰めこみすぎの感じがするが、激しい心情を赤裸々に表現する。


◎第三集 昭和三十一年
「年刊句集」参加者一二四名のうち、女性は十名。参加者も女性の数も減少した。毎月発行される会報に、加藤かけいが「俳句の進むべき次の段階への足がかりが不明で低迷している」と書いている。中日作家会が発足して九年でマンネリ状態だった。

●牛嶋美佐子
   水着シヨウ女の生態さげすまれ
   多彩なる吾が生涯や蛾のはばたき
   愛情を与へんとして山下る

 自虐的な俳句が増えている。これまでの写生句ではなく、自身の内面を作品として描こうとしている。

●小川智子
   降る雪の白さに心うずめたし
   胸抱く逆巻く雪に逆巻く愛
   奔逸に恋の手紙を書きし夜

 職業が研修生から「女医」になった。恋の句が多く、与謝野晶子の影響もある。実際は医者になり立てで恋をする暇などはなかったはずだ。

●河村与志子
   欠伸にてつくろふ涙炭火あかし
   寒夜紅さす夫へ口づけ送るため
   寝たきりの夫と吾が間に雪降り降る

 ご主人が寝たきりになった。病気の夫とは口づけを交わすことができない。口づけを送ることができるだけ。口紅ではなく「紅さす」が、作者の夫への溢れる愛情が伝わってきて切ない。悲しい結末しか予想できない。

●中村吉子
   手袋の こぶしの うちの密かな愛
   霧の中 あなたの香と解るまで寄りぬ
   朧夜の花咲く乳房 木の幹に

 分かち書きになった。富沢赤黄男の影響もあるのかもしれない。第三集で分かち書きをしているのは、彼女一人だ。新しい俳句表現を模索していたにちがいない。


◎第四集 昭和三十二年
「年刊句集」参加者一二四名のうち、女性は十名。金子兜太が角川書店の「俳句」に「俳句の造型について」を発表し、この「造型俳句論」をめぐって議論が盛んになった。

●牛嶋美佐子
   花にそむきて老ゆる都会に住み慣れて
   仏心なき若さ夏帽かむりつづけ
   血の一滴時の一刻秋夜に生く

 この年から「天狼」にも所属している。「環礁」は「天狼」の衛星誌で、「環礁」と「天狼」に所属している俳人が多かった。多少理屈っぽいが、句材の配合・対比に意外性がある。

●小川智子
   ずしりと重き青葡萄の房若き日は
   手に享けて綿虫軽しかなしく軽し
   寒月光己が影にも躓きぬ

 職業が「女医」から「医師」になった。さまざまな心境の変化があったらしい。「恋」「愛」など甘い言葉がなくなり、句に深みが増した。彼女はこの集が最後となる。元「環礁」同人に消息を確認したが、覚えていないという。医業に専念したと思いたい。

●河村与志子
   花冷えや疎まれて来し貌映す
   寝たきりの夫の靴より黴はじむ
   男下駄つつかけ異境の火事を見る

 職業が「事務員」と書かれている。ご主人の病気はあいからず重いようだ。夫が病気で、家計も楽ではなかっただろうが、俳句の出来栄えは素晴らしく、心に訴えかけるものがある。つらいことだ。

●中村吉子
   幾日照りつづく噴水の矜持
   雪白の壺の円さよ冬バラ欲し
   今生れしバラの棘なるくれなゐもゆる

 分かち書きから普通に戻った。職業欄が「第一生命保険職員」となっている。転職したのかも知れない。俳句は少し詰めこみすぎだが、金子兜太の影響がうかがえる。


◎第五集 昭和三十三年
「年刊句集」参加者一〇三名のうち、女性は八名。十周年大会を開催し、松井利彦、高柳重信を招いて講演を行った。
 高柳重信が「俳句評論」を創刊し、中部地区からも多数の俳人が参加した。
 小川双々子が同人誌「河口」を創刊した。同人誌という形態が双々子の考える俳句の方向性とは乖離していたためか、数年で自然消滅した。
 余談だが、中部地区の短歌団体である短歌会(中部短歌会)の代表だった春日井瀇が、小川双々子の母校で教鞭をとっていた縁で、角川書店の「短歌」に「未青年」50首を発表し、歌壇で注目を浴び始めていた息子の春日井建に、創刊エッセイを寄稿してもらっている。

●牛嶋美佐子
   ケーブルの鉄扉へ霧が殺到す
   草矢射る見えざる富士を目測して
   自画像が暑し来世へ何願う

 観念的だが、独特な世界がある。「殺到す」「目測して」など名詞に動詞「する」を接続する言葉使いは、今も元「環礁」の俳人がよく使用する。「環礁」の作風のようだ。

●河村与志子
   三十に入りて子を得ず蚊帳たたむ
   マスクして思索なき眼をきらめかす
   寒夕焼週末病夫と逢い別る

 ご主人が入院したらしい。子供もいなかったようだ。仕事をしているので、見舞いに行けるのは週末だけなのだ。「逢い別る」が悲しみを誘う。

●岡本英子
   枯枝が視野にあり空が遠くなる
   逆光の青葦秋を告げにけり
   岩塊を蝶の歩めば息つめて

 この集より参加。「南風」所属。昭和二年生まれ。職業は不明。直接的な表現だが、情景が見える。写生句としてよくできている。

●中村吉子
   鏡屋の鏡の中に去りゆく春
   酒に濡れし髪匂ふなるかなしき五月
   晩夏光あまねき高原駅を発つ

 すっきりとした句風になった。定型を外しながらも、独特のリズムがあり、奥深さを感じる。金子兜太の句風を上手く昇華しているようだ。


◎第六集 昭和三十四年
 伊勢湾台風が東海地方を直撃し、死者・行方不明者五〇九八名に及ぶ甚大な被害を及ぼした。
「年刊句集」参加者九六名のうち、女性は八名。参加者が少ないのは、台風の影響があったのだろう。
「俳句評論」への参加者が続出したことについて、加藤かけいが「東京に頭を下げぬための中部日本作家会だったのに」と会報で苦言を呈している。東京に対するルサンチマン的な心情は今も根深く残っている。この集から加藤かけいが参加せず、「環礁」系俳人の中日作家会離れが始まる。

●牛嶋美佐子
   暗がりに釘箱の冷え夫病めば
   氷割る指の陶酔死の陶酔
   養老院に追いつめられし寒き痴話

「死」という言葉も出てきて、全体的に暗い俳句が多い。養老院は老人ホームのこと。作者はこの時五十四歳ぐらいなので、親が入院したのだろう。

●岡本英子
   花の浪に寄られて塔の孤立せり
   霧雨に濡れて枯木の抗えり
   雪原の足跡隣人やもしれぬ

 リズムが整っていて上手い。安定していて意外性もあり、古さを感じさせない句風だ。

●中出智恵子
   春泥を行く少年の鞄大きすぎる
   枯野行く己れ無力をさらけだし
   日向ぼこ蟻の骸を見てしまう

 この集から参加。「早蕨」所属。昭和四年生まれ。職業は「教員」。たぶん国語の先生だろう。日常的な内容だが、深遠さを感じる。

●中村吉子
   見知らぬ地にて胸衝くばかり青葉の坂
   冷房にて舌痺らする氷菓の快感
   彼が視野にて氷上の乙女の回転

「にて」を使うと説明的になってしまう。句風が前衛的になり、言葉が展開していく流れのイメージを、一読で掴むのは難しい。


◎第七集 昭和三十五年
「年刊句集」参加者九九名のうち、女性は七名。前衛俳句の隆盛が顕著で、中部地区にも如実に影響が現れている。

●岡本英子
   寝る時刻働き蟻が紛れこむ
   灯に出でてこおろぎひげを振りにけり
   夏海の鴎に別れを告げにけり

 写生句として良くできている。奇抜さに偏ることもなく、安心して読める。

●中村吉子
   ジンをぶちまけし香に針葉樹芽吹く
   芝生に夜が来て待たるる足音とささやき
   緑陰の卓子アブサンは火を欲ること切

 酒の句が増えたことに、不安を覚えるが、象徴的な俳句作りになっている。破調のような措辞に作者の苦心がある。

●中出智恵子
   雪嶺に近い駅で買う鮮明な地図
   少年の胸まで溢れる四月の光
   向日葵に今日がはじまる誰も居ない校舎

 伝統的ではない言葉使いを韻律に乗せようという作者の試みが感じられる。前衛俳句の赤尾兜子の影響も見える。


◎第八集 昭和三十六年
「年刊句集」参加者一〇二名のうち、女性は七名。十二月、現代俳句協会賞の選考を巡って現代俳句協会が分裂し、俳人協会が設立した。

●河村与志子
   生を得し夫と薄暮の土筆摘む
   夫婦とも教師バラ垣に足袋干され
   藁塚も夫も寝て己が一人の刻

 第六集・七集に不参加だった河村氏。ご主人が快癒して退院したようだ。俳句も希望に満ちている。河村氏の参加は今回が最後となる。その後の消息はわからないが、幸福に暮らしたと思いたい。

●中出智恵子
   枯木を縫つてゆける風へ庶民の未熟な防衛
   ピアノ弾く月があなたを後ろより照らす
   五月の森へ太陽のリズミカルな投射

 前衛的な俳句で、韻律が整っている。片仮名を使うなど、試行錯誤を繰り返しつつ、新たな句風を模索している。


◎第九集 昭和三十七年
「年刊句集」参加者一〇三名のうち、女性は十一名。
 三月の中日作家会会報に巻頭で「現代俳句協会ならびに俳人協会に対する声明」を発表、「今回の俳人協会の分裂は、甚だ非民主的な方法で行われ、確固たる文学運動の意味ももたず、俳壇の権威をそこなうもの」と断じている。
 六月に「俳句評論」と共同で「現代俳句を語る会」を二日にわたって開催した。中部地区以外の俳人では高柳重信・赤尾兜子ら十数名、画家から堀尾実・大口登、詩人から長谷川敬・荒川晃、短歌から春日井建が参加した。

●岡本英子
   春そこまで行きずりのシヨールの赭きバラ
   我が影の中より落葉駈け出しぬ
   父逝きてひとりに沁みる一人子我

 父が亡くなった。他の句に「父病めり」「父眠る」などの句がある。肉親を失う悲しみが、時として秀句を生む素地となることがある。

●中出智恵子
   かび匂う古書に心理を探求す
   誰よりも少年仙人掌に深き愛
   街に夜がきて裸木のまぶしい輝き

 韻律が戻った。観念的な言葉を使いつつ、具象化された俳句世界を構築している。

●中村吉子
   二の腕の眩しき初夏が車中に充つ
   菊散らす夫婦たることの退屈は
   菊花展黒衣の美貌のみ光る

 写生を越えた美を感じる。日々の暮らしの心情や感情を、美しく表現している。独自の俳句世界の確立に成功している。

●増田信子
   ガムの味うすれ風花島から来
   いわし雲見知らぬ町に童話買う
   夜業の椅子堕胎の記憶聞いていし

 この集より参加。「南風」所属。昭和十三年生まれ。職業は「公務員」。夫は「南風」同人の増田河郎子。俳句はリズムが良く、句材も過不足ない。昭和十年代生まれが参加し始めた。


◎第十集 昭和三十八年
「年刊句集」参加者一〇三名のうち、女性は十四名。現代俳句協会の総会で、地区組織を設ける議案が提出され、関西・北海道・北九州・東海の四地区設立の件が可決、東海地区現代俳句協会が発足した。
 小川双々子が「地表」を創刊し、戦後の中部地区の代表的な俳誌が揃った。だが、会員名簿の「所属結社」を見ると、「環礁」系俳人は三名だけで、中日作家会から「環礁」が離脱した。

●江頭奏子
   脳検査おわる万緑風雨して
   破れ蓮の中より少女とび出せり
   巨きものなし春の雨やまずして

 この集より参加。「地表」所属。昭和十四年生まれ。職業は「会社員」。常識にとらわれない作風でリズムも良く、可能性を感じさせる。この稿を思い立ったのも彼女の句を読んだのがきっかけだ。
 余談だが、前年の昭和三十七年、小川双々子から後藤昌治氏(現・「韻」代表、現・中日作家会運営委員長)に電話があり、後藤氏の近所の女性が尋ねてゆくので話を聞いてやってほしい、と頼まれ、現れたのが彼女だった。その後、愛知県一宮市の小川双々子宅で開催される句会に、後藤氏は彼女を車に乗せて何度も連れて行ったという。

●中出智恵子
   四囲の山脈が枯草の匂いを充満さす平和な村
   生きる力欠く炎天の花壇の花たち
   虹が片足つつこむ海ここも海流異変

 日常生活や境涯を読むのではなく、作者と対象に、ある程度の距離を置くような作風だ。金子兜太の造型俳句の影響と思われる。

●増田信子
   法廷より手袋のぬくみ持ち帰る
   菖蒲湯に沈む女の髪むらさき
   子に許すことばを探す紫蘇揉みつつ

 当時、全盛だった前衛、社会性に流されず、身の回りの世界を作品化する。句材の選び方に意外性があり、表現にも工夫が見られる。


◎第十一集 昭和三十九年
「年刊句集」参加者一〇八名のうち、女性は十四名。会員名簿を見ると、複数の結社に所属する俳人が増えている。結社の俳人に対する拘束力が低下し始め、また、結社の抑圧から離脱して自由に行動する俳人が増えた。

●江頭奏子
   冬ざれにわれ群集となりゆけり
   わが体温保つストールまきおこし
   生存を強いるものあり破れ蓮

 「生存を強いる」という表現は、なかなか思いつかない。小川双々子の難解さや晦渋さを受け継ぐ「地表」同人は多いが、彼女は双々子の俳句表現の自由さと世界観の広さを自分のものとしている。
 彼女は勤め先近くの名古屋駅前のビルで、「地表」名古屋句会の世話人するようになった。小川双々子の期待のほどがわかる。
 また余談だが、昭和三十七年、小川双々子の句会に通うようになってすぐ、妹の盈子氏を後藤昌治氏宅につれて来た。「妹は短歌をやりたいと言うのです」と言う。短歌に詳しくない後藤氏は、書架にあった春日井建の『未青年』を渡したと記している(「韻」第二十八号)。

●岡本英子
   舞台終る踊子汗の真顔にて
   鬼やんま夜のとばりをいきいき飛ぶ
   夜の冷えに触れて噴水崩れけり

 二年ぶりの参加となる。激しい感情を内に秘めた句だが、リズムが整っていて心地よく響く。

●中出智恵子 昭和四年生 教員 早蕨
   わが影の長し見返す塔までも
   天のガラスにはめたように輝く寒星座
   欠けたもの残し新学年の空気吸う

 前衛俳句の影響から脱し、境涯俳句でもない、独自の句風になってきている。その時々の心情に没入し、そのまま表現している。

●中村吉子
   囁かれふりむきしとき雨ばかり
   霧を歩く憂愁を手ではらいのけ
   すみれ野の小径丹念な老人の足音

 二年ぶりの参加だ。無季俳句にも挑戦し、次のステップへ向かい始めた。しかし、彼女はこの集が最後となる。これで、第一集に参加した女性俳人が、「年刊句集」から全員消えた。ただ、彼女の場合は、退会したわけではなく、六十一集(平成二六年)まで会員名簿に名前を確認できる。古参の会員たちに消息を確認したが、誰も知らなかった。

●増田信子
   わかめ売る女の空の暗くなる
   吾子の瞳の定まらずして極暑来る
   六月の風に子の髪ばさと切る

 そのまま詠めば、平凡な写生句になるところを、彼女の内面の幻想的風景に変える。俳句の展開も屈曲し、独特の世界になっている。


◎第十二集 昭和四十年
「年刊句集」参加者一一九名のうち、女性は十三名。東海地区現代俳句協会・中日新聞と共催で、中部日本俳句大会を開催した。金子兜太・永田耕衣を招いての講演とシンポジウムを開いた。

●江頭奏子
   万緑と人間ずぶ濡れで輝やく
   野菊摘む小さき母と癌とあり
   稲の花暮れて無言の父帰る

 季語と他のフレーズとのバランスが絶妙に上手い。俳句のスケールも大きくなっている。しかし、彼女はこの集が最後となる。「無言の父帰る」は父が亡くなったことを詠んだものだ。母親も癌に冒されてしまった。彼女は二十六歳、妹もいる。生計を支えるため、俳句活動を「地表」だけに限定せざるを得なかったのだろう。

●沓名きよ子
   辛夷ひらく雑踏のなかの幽しい白さ
   海をはみ出た傷心貝殻のように
   星になつた物語夜の静寂は海が刻む

 この集より参加。「早蕨」所属。昭和六年生まれ。職業不明。五七五の定型におさめないという早蕨の句風をすでに習得している。

●増田信子
   バラのある一日を勤め妻に帰る
   烏賊を割くただ素直さが欲しい今
   木の実落つ失われゆくこの森に

 少し説明的ではあるが、リズムが良く、意外性もある。職業が「電電公社社員」となっている。


◎第十三集 昭和四十一年
「年刊句集」参加者一一二名のうち、女性は十二名。カラーテレビ、車、クーラーが「三種の神器」と呼ばれ、高度経済成長が始まり、大気汚染、自然破壊という深刻な問題も招いた。

●沓名きよ子
   首に飾る稲妻の彩 おんなの刻
   ある夜虹の火燃やす 一つの加速度で
   ピアノひく山霧のくらさ髪に沈め

 分かち書きが増え、観念的な句が増えた。日常的ではない言語空間の深みに踏み込んでいる。

●増田信子
   流産と聞きて受話器の手より汗
   枯野行く胸ポケットに数珠ぬくめ
   旅上雪おもちゃのネジがほどけ出す

 有季定型の中で、自分が見たもの感じたものを素直に句にしている。漢字、平仮名、片仮名のバランスが良い。


◎第十四集 昭和四十二年
「年刊句集」参加者一一二名のうち、女性は十三名。中日作家会発足、満二十年。この年、私が生まれた。

●沓名きよ子
   海を聴く火の色の夜具 乳房で伏す
   崩れる砂丘の胸に失速した時間
   食器沈むひややかな海 不眠な海

 観念的で難解な句だが、言葉の運び方に個性があり、句材の選び方も挑戦的だ。

●勝野俊子
   俎上に鯉置く回転木馬の曲流し
   屋根に鳩飼い寡黙になってゆく少年
   爪切つて捨てる屑籠に一かけらの闇

 この集から参加。「早蕨」所属。昭和七年生まれ。職業は「主婦」。感覚的な句だが、背後に激しい心情の底知れぬ深さを感じる。

●中出智恵子
   子等去つて春泥荒れしまま昏れる
   西瓜食う幼き顔をなでまわし
   裸木となり一斉に天を刺す

 二年ぶりの参加。育児に専念していたらしい。滑稽味のあるもの、自然の大景など、句風に広がりを感じる。


◎第六十四集 平成二十九年
 ここで時代は一気に現代へ飛ぶ。「年刊句集」の最新刊は第六十四集で、私が中日作家会へ入会した年でもある。私が生まれてからこの五十年間、俳句を続けている女性は何名いるのか。

●沓名きよ子
   夏帽子同じ形の駒並べ
   星祀る姉の祈りを降り注ぎ
   十六夜の月冴えており誰も孤独

 現在は「早蕨」後継誌のひとつ「青」に所属。お目にかかったことはなく、中日作家会の句会への投句もないが、「年刊句集」には毎年参加している。

●勝野俊子
   早春の水に未だという時間
   仏法僧鳴くや見えくる怨と艶
   呼ぶ人あり榠樝ひとつの夜の卓

 現在は「地表」後継誌のひとつ「翼座」(金子晴彦代表)所属。中日作家会の選者、運営委員として今も活動している。私が所属している「韻」(後藤昌治代表)の句会にも毎月参加している。句会終了後の懇親会で、一緒に食事をする間柄だ。

●増田信子
   満月の海を残して花火果つ
   夫と見し橋の上なり鳥帰る
   飛ぶ蛍飛ばぬ蛍を掌に受ける

 現在も「南風」(宮崎眞澄主宰)に所属。昨年、夫で「南風」前主宰だった増田河郎子氏を亡くされたが、今も「南風」へ毎月出句している。

●岡本英子
 現在も「南風」に所属。中日作家会も「南風」へも投句していないが、中日作家会の名簿に名前がある。

●中出智恵子
 現在は「ロマネコンテ」(播磨穹鷹代表)に所属。前年まで「年刊句集」に参加している。今は、介護施設へ入居し、元気な人を集めて俳句教室を開いている。「素人と俳句をやっても面白くない」とぼやいているらしい。ちなみに前回紹介した片山蓉氏は、彼女の句会に参加したことが俳句を始めるきっかけになったと記している。

江頭姉妹のその後
●江頭奏子
 後の長澤奏子氏。「地表」同人としての活動のかたわら、小説・エッセイも発表している。「地表」終刊後は「翼座」「深海」などに参加するほか、「朱華(はねず)」の指導責任者をつとめている。平成二十四年六月八日逝去。享年七十四歳。
 私は元「地表」同人の方々の句会に参加することが多く、存命ならおそらく句会を共にし、句会後の懇親会で一緒に食事をする間柄になったにちがいない。
 余談だが、彼女の小説集『星芒』は、織田信長の三男・信孝を主人公とした歴史小説。織田信孝の所領は伊勢・神戸、現在の三重県鈴鹿市神戸である。そこは私が生まれ、十八歳まで過ごした故郷。小学生の頃は、神戸城址で友だちとよく遊んだものだ。こんな偶然もある。

●江頭盈子
 後の久々湊盈子氏。説明するまでもないが、短歌誌「合歓」の編集代表人。第五歌集『あらばしり』で〈第十一回河野愛子賞〉受賞。彼女の義父は新興俳句の巨人・湊楊一郎。「湊楊一郎の近辺に在って、盈子も一本筋の通った、文筆にも秀でた一流歌人となったのだ、と私はつくづく思う」(「韻」第二十八号)と、後藤昌治氏は記している。

 第六十四集の参加者一〇七名のうち、女性は六一名。第一集では一割にも満たなかったが、今や約六割が女性である。女性俳人を取り巻く環境は、昔と対して変わらないという現実がある一方、「かぞ句会」「子連れ句会」等、現状を少しでも改善しようと取り組んでいる俳人たちがいる。
 俳句は、才能や技術の上達以前に、続けることが難しい。男女の別なく俳句を続けられる環境の整備を、各協会の組織力で行わなければならないと、自戒を込めて考える。