「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 季語と誓子の北方 財部鳥子

2014年09月30日 | 日記
 私のスクラップ・アルバムに金沢の犀星記念館へ行った時のビラがありました。「文学へのめざめ――俳句との出会い―」。裏には北国新聞の明治三七年一〇月八日掲載の「北国俳壇」欄の入選句のコピーがありました。俳号を照文といった犀星の句が入選しています。

  水郭の一林紅し夕紅葉  照文

 秋の華やかな紅葉のありさまが目に浮かびますが、これって季重なりでは? でも重なっていてもいいじゃないの。じっさい季語なんて誰が作ったの? などと思って調べたら、天保の時代に高井蘭山が中国から来た二十四節気を用いて、本朝七十二候を作ったとありました。ある人の調べによると、この本朝七十二候はだいたい大阪付近の動植物季節に一致しているということです。日本のような温帯では季節の移り変わりがはっきりしていますが、それでも北海道と九州では大いに異なると思います。

 季語についての示唆的な論をメモしてあったので、ここに引用させてもらいます。俳人大峯あきら氏の『季節内存在』です。
 「――中略――物を見るときわれわれが通常持っている人間中心の視座、自我というレンズは外すところに、初めて純粋な詩の地平が開けてくる。俳句が季語をもつということは詩に固有なこの宇宙視座が、詩の形式にまで現実化された出来事である。季語を俳人たちの約束と考える人もいるが、約束ではなく形式なのである。

 俳人平井照敏氏がNHK俳壇に出ていらしたお元気なころに、私はゲストに招かれて出演したことがありました。このときの季題は「初空」と「寒紅」でした。とても私には難しく、寒紅がまず理解できませんでした。
 歳時記によれば「寒紅は寒中に紅花から製造した最高級の日本紅」そしてまた「寒中に女性が使う紅一般ととらえてもいいだろう。」とあります。
 入選三句はつぎの通りでした。

  初空にラの音はよく響きけり   星野久美子
  差し上げて吾子には見ゆる初御空  中井 猛
  寒紅を女兵士も濃くさして    馬場園かね(ブラジル)

 
 ここでも季語「寒紅」の真意に悩みました。これは単に口紅でいいのではないかしら。作者がブラジルに住んでいるということにこだわれば、その土地に寒中という季節があることを想像できない。女兵士と寒の季節感がイメージできない私でした。

 私は中国大陸の北方、戦前に満洲帝国と呼ばれていた国で子供時代を過ごしました。
 父も、父の上司も俳句をつくっていたようですが、どの程度の熱を入れていたのか知りません。家には俳句の入門書のようなものもありました。私は 子供ながら芭蕉よりも蕪村の派手やかな句が気に入っていました。
 のちになって調べてみると昭和初期から中期にかけて、満洲にはたくさんの俳人が住んでおり、各都市に結社もいくつかありました。この俳人たちの悩みはまず季語の問題でした。 大陸には梅雨がないし、田植えもない、桜も咲かない、花野といえば一斉に夏と秋の花が開花する七月の野である、といったぐあいで、そこの花鳥風月は日本内地とはまったく様変わりしているのです。
 そんな時代に出版された山口誓子の第一句集『凍港』(昭和七年刊)は大陸俳人に大きな希望をもって迎え入れられたに違いありません。因みに誓子は十一歳から十七歳まで樺太(サハリン)で暮らしています。
 誓子が題材にした日本の最北、当時の樺太(サハリン)の四季は、大陸の季節の諧調にそっくり当てはまるようです。当時の樺太は島だけれどその半分はソビエトの領土であり、日本で唯一、地続きの国境を持つ地域でした。

  凍港や旧露の街はありとのみ
  船客に四顧の氷原街見えず
  氷海やはるか一聯迎ひ橇

    
 いま改めて読んでみると、私が幼少時に住んでいた土地の空間や匂いまでが鮮やかに思い浮かびます。点のような人影に、そくそくと寒さは身に沁み、天地の荒涼はきわまる。満洲には氷海はないけれど氷結した大河があります。アムール江の対岸はソビエト領、他国の街の灯も見える。俳句の持つ喚起力をすばらしいと思いました。

 中学生のころから正統に俳句を学んだ誓子は、内地とはまったく気候のちがう樺太にあっても季語を疎かにしていません。結氷する海を氷海として句にしたのは誓子がはじめてですし、ほかにも熊祭、氷下魚、流氷、などが季語として開拓されています。
 誓子は「季のこと」というタイトルの文の中で「季は季節、物としては季物、言葉としては季語です。」といい、「十七音という短い詩型の中で使われる季語は、出来るだけ単一化された言葉になっています。季語は単一化されていますが、無限に大きな季節、絶対のエネルギーを放射する言葉です。小さな言葉でありながら最大の効果をあげるのです」。

 昭和九年十一月、山口誓子は住友本社の人事課員として当時の満洲帝国、朝鮮へ出張しました。三十四歳、船旅をして大連へ入港しています。

  北風強く水夫のバケツの水を奪る
  北風強く水夫の口より声を攫ふ


 「北風強く」の句はその以前から試みていた連作俳句のかたちです。同じ言葉が繰り返されていくのがリズミカルで、詩として朗読されたら印象が強烈だろうと思いますが、俳句としては同じ句柄がいくつも出来てしまいます。しかし季語はなくてはならないと誓子は頑固です。
 満洲に到着してみればそこはもう冬で「季物」は満目すべて色を失い凍りついていました。

  凍る河見ればいよいよしづかなり
  駅寒く下りて十歩をあゆまざる
  ペーチカや弾琴次の間に黒き
 
 
 満洲在住の俳人たちはホトトギス系が多かったようです。大連で誓子が訪れたのも満州鉄道社員だったホトトギスの三溝沙美でした。ペーチカの句は三溝宅でのもの。日本のエリート社員で、客のある夕食には琴の弾き手を招くような家でした。
 「駅寒く」の句はハルビン駅での吟、出迎えたのはやはりホトトギスの野島一良で、当時、彼はまだハルビン学院の学生でした。「駅寒く」はどのような寒さであったか。虚子の句に「両足を伝ひて寒さ這ひ上がる」というのがあるけれど、ハルビンの寒さはそれどころではなく、ほんとうに両足はたちまち冷凍状態になってしまう零下二、三十度の極寒です。それを現わすどんな季語も温帯の日本にはありません。

  あめつちは凍てしままなり卒業す    竹崎志水
  復活祭国失へるもの集ふ        三溝沙美
  流灯に韃靼の水とこしなへ       野島一良
  四迷忌やわが青春の露語辞典      竹崎志水


 在満洲の若い俳人たちの句。同じ季語を使っても内地の俳人からは、わざとらしく大げさだとけなされています。
 季語というものはその土地(あるいは国)に三代の墓をもっていなければ、自分のものではない。という説もありました。しかし、詩の心は移民にも流浪の人にもあります。

 満洲の結社数もようやくふえてきたころ大陸俳人たちは有力な指導者だった「雲母」同人の佐々木有風を中心に「満州歳時記」を作ろうとしています。それほど俳句の季語は日本内地のものであったということです。
 昭和九年十一月の満洲旅行の成果として昭和十年二月、句集『黄旗』が刊行されました。圧巻は大陸に材をとった句柄の大きさでしょう。考えてみれば誓子の俳句修行は寒冷な樺太の地で始まっています。季語の斡旋も満洲では自然体です。

  枯野来て帝王の階をわが登る  (奉天北陵)
  枯れ原に御厩の馬を石としぬ
  陵枯れぬ尻尾地につき石馬立つ


 北陵の句は十句ばかりも続きますが、俳句の嘱目の堅固さと寸法のきつい洋服のような窮屈感とが相俟って、却って古い帝王の墓の壮大な規模を想像させるのが不思議です。
 同じ北陵を室生犀星は二十七首の連作短歌で詩として構成しています。
石獣ら/大いなる足ふまへけり/荒野のなかの/城の深きに
とこちらは清朝の歴史を叙情しています。

 句集『黄旗』を刊行した同じ年に誓子は肋膜炎を再発、その病中に「ホトトギス」を辞しています。そして秋桜子の「馬酔木」へ。やがて新興俳句の時代が始まるのですが、誓子は無季の新興俳句に注目しつつも、自身は有季の新興俳句派でした。 

 山口誓子の句業のうち私がいちばん惹かれるのは、大陸俳句もさることながら昭和十七年に病重篤となって住友本社を退職、療養に専念しなければならなくなって以後の仕事です。
 その時期の句集『激浪』には俳句という魔物が棲んでいるような気配がします。とくに昭和十九年からはじまる日記体の句作には連作俳句の体験の実りを感じさせるものがあります。
 温暖な空気のきれいな海辺に療養専一の年月を送らざるをえなくなった誓子にとって、かつて提唱した「素材は新しく、しかも感情深く」つくる俳句はどう実現されたか。彼は海辺の家に寝たきりです。その寝床からながめる季物はけっして新しい素材とはいえません。しかし、そこで飽きもせず執拗に俳句を作り続けています。
 北の厳しい風物とは異なって、日本の四季を抱き込んだ穏やかな見慣れた季物ばかりです。しかし「感情深く」あればこそ、ありきたりの季物は新鮮な素材と化するようです。

 誓子は今までのなみなみならない俳句の修練を駆使して新しい病臥の日記俳句を作りはじめました。例によって骨太にぐいぐいと季物のなかから俳句を引き起こす。それは引き起こすというより、自分が俳句に引き起こされていたのだろうと思います。
 海辺には中学生が水練にくる。馬を冷やしに来る男もいる。蟹が砂や岩を這いまわる。炎天である。秋の暮れである。こがらしである。そのすべての季物に己を預ける俳人がいます。昭和十九年の作。

  水練の中学生褐一色に
  夏草とともに病髪伸びやすし
  秋の暮山脈いづこへか帰る


 日記俳句の方法は五年ほども継続しました。芭蕉のいう「感ずるもの動くやいなや句となる」を実践しているようです。季語は俳句文芸の約束ではなく、大いなるものにつながる形式であると納得できます。

  ことごとく木枯去って陸になし
  海に出て木枯帰るところなし
  駆け通るこがらしの胴鳴りにけり

 
 私は朝日文庫「現代俳句の世界」の虚子集と誓子集を俳人が吟行に句帳を持つように、長期の旅行には持っていきます。
 ノートには日々の印象を俳句や短歌のかたちに書きとめることにしました。たとえ俳句や短歌として不完全でも詩嚢に放り込めば水中花のように開く詩もありますから。

 アフリカのタンザニアへ一ヶ月滞在したときは、あまりの暑さに言葉を書き付ける端からペンが汗で滑ってしまうので俳句形式で書きました。季語は最初から圏外に置きました。なぜならタンザニアは年じゅう夏ばかりですから。そのノートから一冊の詩集をまとめましたが、俳句(らしきもの)は捨てました。季語がないのでということもあります。

 さて日本国以外のどこの国で季語の形式を持つ俳句を作ることが可能か、どこの国で国際俳句は成立つのだろうか。             
この稿終り。
                                                                               


たからべ・とりこ
新潟県生まれ。詩人。『モノクロ・クロノス』で平成十五年現代詩歌文学館賞受賞。ほかに詩集『中庭幻灯片』(花椿賞)、『烏有の人』(萩原朔太郎賞)など。散文小品『無垢の光』、中国現代詩の翻訳なども。

俳句評 俳句を見ました。(1) 鈴木一平

2014年09月05日 | 日記
 俳句を読む前に俳句を読む準備をしなければならない人間がいるということは、実はあまり知られていないとおもいます。依頼を受けた際に「若い詩の書き手の率直な俳句観をお願いします」といわれたものの、率直さは自分の知覚に対する確信の度合いで、理論よりも経験的にかたちづくられていく側面がつよく、俳句を前にしてなにをどう話していいのか、まったくよくわからないという問題に筆者は直面しているわけです。

 と書いたところで、なんとなく準備が整いました。俳句に対する経験に確信がもてないぶん、ややこしい手続きを踏む可能性もありますが、新鮮に感じられればとおもいます。もしくは、次回までに勉強できたらとおもいます。また、具体的にどの俳句を読めばいいかも与えられていないので、今回は「詩客」と「戦後俳句を読む」で掲載、もしくは紹介されている俳句を読んでいこうとおもいます(俳句を読む準備として、自分が相対的にながく関わっている詩のことを引き合いに出そうかとおもいましたが、やめます)。


なんらかの鳥や椿の木のなかに 佐藤文香
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/08/jihyo2.html

 読んでまず際立って感じられるのは、「なんらかの鳥」というイメージの確定できない存在です。「なんらかの鳥」がいるという知覚は、それを書き手に与えた鳥自体には帰属されない。なぜならその知覚の強さは椿を椿として画定できる状況、つまり対象の木を椿として細分化する処理との落差と関係しているからです。そのため、そもそも存在が知覚されればそれで成立してしまっていた鳥が、にも関わらず不確定なままでごろりとあらわれてしまう。それは一方で、椿に対する知覚の再検討を促す。つまり、「なんらかの鳥」と「椿」のあいだに軋みが生じて、両者は同時に生起しない。それを解消させるために「木のなかに」があるともいえますが、たとえば「椿のなかにいるから鳥の正体がわからない」という因果関係の成立自体が、「なんらかの鳥」として知覚されている状況と矛盾しているともいえる。この記事で紹介されているものだと、ほかには「あきあかね太めの川が映す山」もすごい。

極太の闇束ねたる桜かな 飯田冬眞
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho6.html

不可視のものである闇を操作対象とするには、見えないものとして与えられているそれを見えるものとして処理しなければいけないのですが、それは闇だけが単体で与えられてしまうと成り立たず、せいぜい包括的なものとしてしか表現できないのではないか、とおもいます(それが闇と呼べるかはべつですが)。その闇に量感をつくるために桜を設置すること、つまり見えるものを設置することで、見えないものを見えるものとして扱うことが可能になる。見えないものをつくりだす見えるもの。これは、逆にいえば視野には常に不可視のものが存在している、ということでもあるのかもしれません。つまり、桜に視点が移るときに闇は見えないものとして背景になる。そして、この対比を意識することで、闇を対象として把握していた私の知覚は「」を見ることにも干渉するのではないでしょうか。つまり、「極太」で提示され、「束ねる」によって強められていく、抵抗としての「」のボリュームが緊張感をつくりながら桜を見せる。闇から目を反らすうちに含まれる物理的ともいっていい抵抗感で、桜がくっきりと立つ感じ。

スムージーに絞り入れよと夏の月 栗山心
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho6.html

 さきほどの句と同じ記事に掲載されていたものです。「スムージー」と「夏の月」のスケール感の差異から生じるインパクトが「絞り入れよ」で強められているように感じます。同時に、この句が前提として月をスムージーにすることはできないという認識から始まっているのがわかる。それは、月をスムージーにすることは(権利として)可能であることをより意識させるのではないかとおもいますが、実際にことばの上でやってのけることのインパクトよりもそうした抵抗があること(物理的に月をスムージーにするには相当な手続きが必要であること)を置いておく、その距離感がいいとおもいます(それが安定的な情感として基底をつくっているような弱さもありますが)。また、この句には地球から見える月の大きさと、実際の月の大きさとのあいだに生じる感覚の剥離も一枚かんでいる。地球の四分の一もある大きさというのは、それだけで月をスムージーにするのと同じぐらい非現実的なのかもしれません。


思うほど眼球軟らかく春雷 沙汰柳蛮辞郎
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho7.html

 ばらばらな情報を統合しようとする意識のなかで主体は立ち上がる、というより、そうした統合において主体がつよく意識されるのかもしれませんが、そうした統合に対する意識がリアリティとしてあらわれるには、個々の情報が容易には統合されないこと、つまり抵抗の様態にかかわってくるのではないかとおもいます。見る器官であり、見ることにおいては対象化できない(されるとしても見ることには還元できない)「眼球」が、自分のものであるにしろ他人のものであるにしろ相対化され前景化される、つまり見る機能を削がれ、即物的にあらわれる。それは触感を喚起する「柔らかさ」によって強められるので、「春雷」は「眼球」の表面に反射するものとして知覚される(そこで媒体としての眼球を通して軟らかさと春雷が結びつくことで、句が「思うほど眼球」「柔らかく春雷」として、二つのユニットに分割される可能性もあるのかもしれません) 。眼球が鏡になる。鏡は観察者を表象のなかに位置づけなおす機能を持つから、主体の統合として比喩的に機能しうる。見る自分を見るという状況においてばらばらだった体が統合されるという操作は、むしろ全体を見渡すような一挙性を仮構して、無理やりに成立させなければ不可能なものなのかもしれません。

 次回も(あるらしいので)よろしくお願いします。