「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句俳優-渥美清と成田三樹夫の俳句について カニエ・ナハ

2014年10月27日 | 日記
  「春のお辞儀がしやりりと点滅」と題された俳句にまつわるトーク・イベントに今年の5月に行ってきたのですが (もう半年も経つんですね…)、出演の長嶋有さんと野口る理さんと榮猿丸さんのお三かたの、(半年前当時)出たばかりの句集『春のお辞儀』『しやりり』『点滅』(三冊ともふらんす堂刊)、三つタイトルを合体させたイベント名からしてすでにこのうえなく楽しいのですが、トークのおもな内容は、三つの句集についてそれぞれ自分以外の二人の句集の中から、六選(うち特選一句)と、逆選(「これはちょっと…」と思う句)一句をピックアップして、それについて話すというもので、私のような俳句素人が聞いても大変わかりやすく「なるほどこの句はこう読むのか、こうも読めるのか」という発見や驚きがあり、また「逆選」では、逆選といいつつもそれぞれ愛情たっぷりに選ばれ評されていて、とても楽しくかつタメになったのでした。
 そのトーク・イベントのあとのサイン会で、私はお三かたの句集にサインをしてもらったのだけど、サインをしてもらっているとき長嶋さんに、いままで私は句集といえばちくま文庫の放哉と山頭火の二冊くらいしか持っていなかったんです、という話をしたら、ちくま文庫のその二冊の句集がずっと「アマゾン」の句集のベストセラーランキングの上位に居座っているんだよね、というお話をされて、ああ、やはりそうなのかと思ったのですが、ともに漂泊の破滅型の生活を送りながら自由律俳句をつくった、異端者である二人が、現在ある意味もっともポピュラーの俳人であるというのは、いったいどういうことなのでしょうか。俳句を専門にやられているかたたちはかれらのことを(またかれらの人気を)、どう思っているのでしょうか。
 それはさておき、榮さんは俳優さんのようにかっこよく、野口さんは女優さんのように麗しく、長嶋さんは三枚目俳優のようにおもしろく、かれらが並ぶイベントはまるで映画の完成記念イベントと見まごうような華やかさだったですが、俳句と俳優はどちらも「俳」の字で、なにやら縁がありそう。
 「男はつらいよ」シリーズの寅さん役でおなじみの俳優の故・渥美清さんは「風天(フーテン)」の俳号で俳句をつくられていて、趣味で句会によく顔を出されていたとのこと。渥美さんと俳句とのかかわりについて詳しく書かれた、ジャーナリストの森英介さん著『風天 渥美清のうた』(文春文庫) という本には、渥美さんと俳句のうえで親交のあったひとたちから集めた「風天」としての渥美さんにまつわるエピソードの数々と、森さんが奔走して発見・蒐集された全「風天句」が掲載されており、渥美さん/寅さんファンにも俳句をされているかたにもぜひおすすめしたい一冊ですが、渥美さんは放哉や山頭火が好きで、生前、放哉や山頭火を演じてみたかったらしく、一度、山頭火のテレビ映画化にあたりその主演の話があったらしいのですが、ざんねんながら流れてしまったらしい。でも渥美さんによる「風天句」を読んでいると、渥美さんは俳句の中で放哉や山頭火を演じたのでは、という気がしてきます。たとえば、

  村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ  風天
  案山子ふるえて風吹きぬける
  ゆうべの台風どこに居たちょうちょ

 といった句は自由律のリズムが山頭火を髣髴とさせつつ、描かれている情景から、寅さんのことも思い浮かべずにはいられないです。

  行く年しかたないねていよう
  ただひとり風の音聞く大晦日


 などは「男はつらいよ」シリーズにおいて何度も、妹のさくらに「お兄ちゃん、今年こそはお正月、家でゆっくりしていきなさいよ」と言われながらも、「そうしてえのはヤマヤマだけどよ、これからが俺たちのカキイレ時でね」とかなんとかいって結局一度もそれがかなうことのなかった年末の寅さんの姿を思って、しんみりとしてしまいます。
 風天句のなかで私がとりわけ好きなもののひとつは、

  芋虫のポトリと落ちて庭しずか

 ですが(これほどまでに静寂の庭を、それまで私は見たことがありませんでした)、ほかにも、

  天道虫指先くすぐりあっちへ飛んだ
  冬の蚊もふと愛おしく長く病み
  赤とんぼじっとしたまま明日どうする


 などなど、ちいさきものへこころを寄せた句が非常に多く、これらちいさきものたちもまたほんのわずかな時間、この世に生まれてまた向こうへとさまよい去っていく漂泊の旅人で、かれにとっては旅の仲間だったのかもしれません。

  ひぐらしは坊さんの生れかわりか

 という句もありますが、このひぐらしはあるいは放哉の、山頭火の、生れかわりかも。
 ちょうど、「とらや」のひとたちが寅さんのことを「しょうがないやつだなあ」といいながらも、どこかでとてもうらやましく思っているように、「定型」に守られつつもそれにしばられて日々を営んでいる私たちは、一方で放哉や山頭火や寅さんの自由と漂泊にどこかであこがれているのかもしれません。
 ところで「男はつらいよ」シリーズと並んで私がもっとも好きな邦画のひとつが「仁義なき戦い」シリーズで、戦後まもない混沌の広島を舞台に、やくざたちの血で血を洗う抗争を描いたシリーズ中、血の気が多く怒号まきちらす人物ばかりが連なるなかで、それらの人物とは一線を画し、声を荒げることなく始終クールに、頭脳でたたかっていくインテリやくざを演じて、いぶし銀の輝きでわれわれを魅了する俳優・成田三樹夫さん。かれも趣味で俳句をされていたとのことで、没後に遺稿句集『鯨の目』(無明舎出版)が出ています。

  目が醒めて居どころがない  成田三樹夫
  色々の人々のうちにきえてゆくわたくし

 など、かれもまた自由律の俳句を多くのこしていますが、悪役やアウトローの役に定評のあった成田さんには自由律が似合っている、なかなかキマッているように見えます。読んでいると思わず「仁義なき戦い」のテーマソングが頭の中で流れ出してきちゃったりもするのですが、「男はつらいよ」のほうの主題歌は渥美さんの声で「どうせおいらはやくざなあにき」と歌い出されますけども、「目が醒めて居どころがない」のはやくざもののサダメでしょうか。二番目の句もいろいろな読みかたができると思いますが、さまざまな人物を演じるうちに、いつしかもともとの「わたくし」を見失いかねない、俳優をなりわいとする人たちの哀しいサダメのようなものを私はそこに読んでしまいます。

  咳こんでいいたいことのあふれけり  

 放哉は「咳をしても一人」ですが、この三樹夫句の咳こんだ人物もまた一人ぼっちで、いいたいことがあふれても、それを伝えるべき相手はかれのまわりのどこにも見あたらず、コトバは言葉にならないまま、虚空へと消えていくのです。

俳句評 「俳句に通じるっ!」 池田瑠那

2014年10月27日 | 日記
 確か、「サタデースポーツ」だったと思うが。
 ある夜見ていた、TVのスポーツニュース番組の中で。その日のプロ野球の試合を振り返り、解説者が解説を加えるコーナーが、あった。
「先発の○○投手は、立ち上がりが余り良くなかったのですよね。ただそうした中で、配球が光っていました。カーブの次はシュート、その次にフォーク、で、ココでもう一回カーブを入れてストレート。」
 映像を見ると、成程、○○投手(名前忘れた)は様々な球種を投げ分けているらしい。
「……というように、決して同じ球を2球続けない工夫をしている。前の球の残像が残るから、打者はどうしてもそれに引きずられるのです。で、打者としては的が絞れない。打ち損じる。
○○選手が調子が良くない中、配球の工夫によって序盤を抑えたのが結果的に今日の試合を作ったと……」
と、そこまで聞いて私は思った。
――今の話、俳句に通じるっ!

 俳句を始めてちょうど10年。まだまだ未熟者だが、そんな自分でもある程度「詠み易い句材」「まとめ易い詠み方」があり、「チョイ足しの小技」なんぞも身に付けてしまっている。だがそれに凭れかかっていては、同じ球種を続けて投げるばかりの投手だよ、バカスカ打たれちゃうんだよー、と私は思った。
○○投手にも、きっと得意とする球種、ここぞの勝負球があるだろう。とはいえそれが生きるのも、多様な球種を投げ分け、前の球の残像を打者の眼に焼き付けてこそだ。俳人も、自分の持ち味(らしきもの)を最大限生かすには、むしろ違う方向性の句も積極的に作って行く必要がある……?
 をを、何だか芭蕉の「新しみは俳諧の花なり」にも通じるものがあるような気がしてきたぞ。本棚から『芭蕉百名言』を取り出す。ふむふむ。……「新しみ」って、未だかつてこの世に存在しなかった、全く新規の「新しみ」だけではないのではないかな。「この人がこれまでの芸風と違う事をやった!」といった「意外性」や、「いろいろな芸を見せる中で、たまに十八番をやってくれると改めて良いモンだよね」という、「一周した意外性」もまた、受け手にとっては「新しみ」であろう。
まあそれにしたって、作り手が句材や句風の新規開拓を怠らず、「球種を増やそう」と努めることが必要とされる訳で、これがなかなか……と、「新しみは俳諧の花なり」の続きを読んでみたら。
新しみは常に責むるがゆゑに、一歩自然にすすむ地より顕はるるなり。
とあるではないか。「常に責むる」か!俳句道修行、厳しいのう……。

 日常の様々な場面で「俳句に通じるっ!」と思うことがあります。ああ、確かにそうだね、と周りの人に賛同して貰えることも稀にありますが、大抵は「えっ、どこが……?(ゴメン、付いていけないんだけど!)」という反応が返って来ます。今回はそんな一場面と、そこからの考え事を綴ってみました。ちなみに、野球はベイスターズを応援しています。
【参考文献】山下一海『芭蕉百名言』角川文庫 平成22年



池田瑠那(いけだ・るな) 昭和51年11月18日生。「澤」同人。俳人協会幹事。


俳句評 近所の和菓子屋のチラシから見る歳時記  そらし といろ

2014年10月19日 | 日記
<和菓子屋 秋の新米祭り>
10月17日(金)~10月18日(土)
●からみ餅/あんこ餅/きなこ餅
●みたらし団子/あん団子
●赤飯/山菜おこわ
●栗饅頭/かりんとう饅頭
●大福/どら焼き/スイートポテト
※その他、当店自家製の商品を多数ご用意しております。※


 我が家の郵便受けに、このような広告が入っていた。近所の和菓子屋が、秋に入って入荷した新米でおこわや餅を作ったそうだ。和菓子屋だから、この場合の新米は、もち米の割合が多いかもしれない。つきたての柔らかい餅、おこわの炊けた良い香りを思わず想像して、おなかが鳴る。
 と、グルメリポートでも始まりそうな書き出しだが、私は真面目にこれらの言葉から、(これは俳句のエッセイのネタになるのでは?!)と思ったのだ。ちょうど、この原稿の締切が近づいていた時に舞い込んだ一枚の広告が、ネタ出しに困っていた私を救ってくれた。
 ところで、私自身は本格的に俳句を作っている訳ではなく、単に、俳句を鑑賞するのが好き、下手なりに俳句を詠むのが好きという程度で、きちんとした俳句の知識があるわけではない、俳句初心者だ。ちょっと俳句に興味があって、乏しい知識なりに俳句に関して思ったり、考えたりしたことを、エッセイとして書いている。
 
 そんな俳句初心者の私が所持している歳時記は下記の二冊だ。
●『ハンディ版 入門歳時記』大野林火(監修)/俳句文学館(編)/角川学芸出版
●『デジタル大辞泉』「分野別小事典/歳時記」/小学館
 角川学芸出版の方は紙の歳時記で、小学館の方は電子辞書に入っている電子の歳時記だ。
 二冊とも“歳時記”だが、収録されている語数が違ってくる。広く一般に、これは誰が見ても季語だというものは大抵、どの歳時記にも収録されているだろう。その他の季語は、歳時記の編集方針によって変わってくるのだと思う。
 『ハンディ版 入門歳時記』は「序」にて大野林火さんの言葉が下記のように掲げてある。
 “各編纂委員は各自の豊富な実作経験を生かし、何回も会合を重ねてこの作業に当り、現代生活に密着している季語約八百を選んでくれた。これだけあればまず以て日常の作句に不自由はない。
 大野林火さんによれば、約八百の季語があれば日常の作句には十分足りるということだ。しかし、小学館の電子辞書に入っている歳時記には、『ハンディ版 入門歳時記』には載っていない季語も含まれており、おそらく、電子辞書版の歳時記の方が収録語数は多い。
 私が歳時記を買う時に、何に注意して選んだかを思い出してみる。本屋で色々な歳時記をめくってみて、私は俳句初心者だから、単純に季語がたくさん載っているだけではなく、季語の解説が丁寧に書かれているものを選びたかった。また、季語に対する例句の引用も、なるべくたくさん欲しいと思った。総索引や季語の一覧表が使いやすいものが良い。その結果、上記の歳時記を購入した。もし、俳句初心者の方で歳時記を買ってみようと思っていらしたら、自分がどのような歳時記が欲しいのか、メモに書きだしてから、いくつかの歳時記を見比べてみると良いと思う。

 さて、冒頭の<和菓子屋 秋の新米祭り>に話題を戻す。
 (秋の新米、そうだよな、実りの秋にお米は収穫されて、新米の名前で呼ばれる。新米ってもしかして:秋の季語?)
 という発想から、この広告には一体、いくつの季語が隠れているのかを分析したくなったのだ。

●分析の方法
1・広告に表記された言葉、メニューを分解し、季語になりそうな言葉を探す。
例:からみ餅=大根と醤油をからめた餅→季語らしき言葉:大根、醤油、餅
2・季語になりそうな言葉を私が所持する二冊の歳時記で調べる。
例:大根……季節・冬、分類・植物(角川)(小学館)
  醤油……調べた結果、季語ではない。
  餅 ……季節・冬、分類・生活(角川のみ)
※両方の歳時記に記載されている場合は(角川)(小学館)と記し、片方のみに記載されている場合は(●●のみ)と記す。※

 このような方法で、とにかく季語になりそうな言葉を探して、調べる遊びを開始する。また、基本的に季語の解説は省くことにするが、必要な場合は歳時記より引用する。

●<秋の新米祭り>→季語らしき言葉:秋、新米、祭り
・秋 ……季節:秋、分類・時候(角川)(小学館)
・新米……季節:秋、分類・生活(角川)(小学館)
・祭り……季節:夏、分類・行事(角川)(小学館)→“夏季に行われる神社の祭礼を総称して「祭」と呼び、夏の季語になっている。夏祭という言い方は一般には使われるが、季語としては重言といえる。春や秋の祭りは「春祭」「秋祭」として季語となっている。
”(角川)

 なるほど、歳時記の中では「祭」=「夏祭」なのか!もし、春や秋の祭りとして使う場合は、「春祭」や「秋祭」と表記する必要があるんですね。

●あんこ餅=あんこ、つまり小豆を甘く煮詰めたものをからめた餅→季語らしき言葉:小豆 ※餅は例にて調べたので、ここでは省略する※
・小豆……季節:秋、分類:植物(小学館のみ)

●きなこ餅=きなこ、つまり大豆を粉にしたものをからめた餅→季語らしき言葉:大豆
・大豆……季節:秋、分類:植物(角川のみ)

 小豆は小学館のみ、大豆は角川のみの記載となっている。これは編集方針の違いからだろうか。

●みたらし団子=「御手洗」の「団子」なのだろうか→季語らしき言葉:御手洗、団子
・御手洗  ……季節:夏、分類:行事(小学館のみ)→御手洗会(みたらしえ)の略
・団子   ……季語ではない。
・御手洗団子……季節:夏、分類:行事(小学館のみ)→“京都の下鴨神社の御手洗会の時に茶屋で売られる。”(小学館)

 まさか、みたらし団子そのものが季語だったとは!私の中で最大の発見と話題に。

●あん団子→“あんこ餅”の「小豆」を参照してください。

●赤飯=小豆を炊き込んだ赤い色のご飯→季語らしき言葉:赤飯
・赤飯     ……季語ではない。
 追記※赤のまんま……季節:秋、分類:植物(角川)(小学館)→“秋に紅色の穂をつけるタデ科一年草の犬蓼のことで、赤のまま・赤まんまともいう。花穂を赤飯になぞらえた名である。”(角川)

 「大豆」を角川の歳時記で引いた時に、隣のページに「赤のまんま」の解説があり、“赤飯になぞらえた名”とあったので、追記しました。赤飯そのものは季語ではないけれど、おままごとで子どもが犬蓼の花を赤飯に見立てて、赤いご飯として遊んでいるのは、自分にも覚えがあるような。

●山菜おこわ=山菜を炊き込んだおこわ→季語らしき言葉:山菜、おこわ
・山菜  ……季語ではない。
・おこわ ……季語ではない。
 追記※栗飯……季節:秋、分類:生活(角川)(小学館)

 新米の季節、秋には混ぜご飯のメニューも多いので、ふと思い浮かんだ“栗ごはん”は季語になるんじゃないかと思って探してみました。季語の場合、「栗飯」という言葉になるんですね。

●栗饅頭=栗の実が入っている饅頭→季語らしき言葉:栗、饅頭
・栗(実)……季節:秋、分類:植物(小学館のみ)
・饅頭  ……季語ではない。

 角川では「栗名月」「栗飯」「栗の花」は季語として載っていますが、何故か、「栗」そのものは載っていませんでした。「栗名月」は秋、「栗の花」は夏の季語です。

●かりんとう饅頭=かりんとうのように油で揚げた饅頭→季語らしき言葉:かりんとう
・かりんとう……季語ではない。ちなみに漢字表記は“花林糖”でちょっと可愛い。

●大福=白い餅であんこをくるんだお菓子→季語らしき言葉:大福
・大福……季語ではない。

●どら焼き=銅鑼の形を模した皮にあんこを挟んだお菓子→季語らしき言葉:銅鑼
・銅鑼……季語ではない。ちなみに鐘の“ゴング”を日本語にすると“銅鑼”。

●スイートポテト=材料にさつまいもを使った焼き菓子→季語らしき言葉:さつまいも
・さつまいも……季節:秋、分類:植物(角川)(小学館)→正確には「さつまいも」ではなく「芋」という季語の仲間「甘藷(かんしょ)」として、角川には記載されている。
単に芋といえば、俳句では里芋を指すので注意を要する。”(角川)“野生の芋の意味で名付けられた山芋をはじめ、芋の仲間には他に馬鈴薯(じゃがいも)・甘藷(さつまいも)・自然薯(やまのいも)・※ナガイモ・何首(かしゅ)烏(う)芋(いも)などがある。これらは単に芋とせず、それぞれ具体的に句に詠みこんで秋の季題とする。”(角川)※“ナガイモ”は 難読漢字で表記。

 さつまいもは甘い芋、つまり「甘藷」として「芋」という季語の仲間なんですね。ちなみに、さつまいもを焼いた「焼き芋」は冬の季語です。

<今回見つかった季語の一覧>※追記を含まない※
大根/餅/秋/新米/祭/小豆/大豆/御手洗会/御手洗団子/栗/さつまいも



 いかがだろうか。たった一枚の、ごくごく小さな和菓子屋の広告だが、季語に繋がる言葉がこんなにもあった。また、歳時記によってある季語が収録されているか、いないかの比較にもなったと思う。たった2冊でしか比較していないが、意外と差が出たので調べながら勉強になった。
 とくに、「みたらし団子=御手洗団子」が夏の季語だったとは、小学館の電子辞書版の歳時記で見つけた時にびっくりした。ダメはもともとで、探してみるものである。
 季語ではない言葉もあったが、歳時記によっては載っているのかもわからない。もしかすると、「さつまいも=甘藷」のように、同じ意味で別の言葉に置き換えられている可能性もある。まぁ、載っている可能性は低いと思われるが……。
 日本人は、季節の変化に敏感だから、たくさんの季語が生まれるのだと思う。どんな時代になっても、私は季節に敏感でありたい、と思いながら、和菓子屋で買ってきた栗饅頭を祖父の仏壇へ供えた。おじいちゃん、今年も実りの秋がやってきました。