「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 「クプラス」創刊号について 田村 元

2014年04月29日 | 日記
 2014年3月、俳句雑誌「クプラス」が創刊された。発行人は高山れおな。高山に、山田耕司、上田信治、佐藤文香を加えた四名が編集人を務めており、執筆者に依光陽子、杉山久子、関悦史、阪西敦子、古脇語、谷雄介、野口る理、生駒大祐、福田若之が名を連ねている。

 「クプラス」の表記は、もしかしたら「ku+」が正しいのかもしれないが、雑誌の奥付に「クプラス 第1号」とあったので、本稿ではそれに従った。表紙には「ku+1」とロゴがあり、最後の「1」は「第1号」の意味だろうか。今後、年2回の発行を予定しているとのことだ。

 ページをめくっていくと、イラストや、水着の写真や、漫画のカットが現れるのが普通の俳句雑誌と異なるところだ。見た目は、俳句雑誌というより、ムック本のような親しみやすさがある。表紙の裏側は赤。ページの隙間からはなんだか異様な熱量が伝わってくる。熱い雑誌が出たなぁというのが第一印象である。

 同人誌と総合誌の中間のような位置付けの雑誌だろうか。執筆者が一応固定されているらしいという意味では同人誌的であり、企画や構成、造本のプロっぽさからは、総合誌に近い一冊と言えるかもしれない。

 さて、「クプラス」創刊号の第1特集は「いい俳句。」である。特集の内容は、誌面の評論や座談会、俳人諸氏へのアンケートを読んでいただくことにして、この機会に、私も「いい俳句」について少し考えてみたいと思う。私が思う「いい俳句」がどんなものか、言葉で表すのは難しいのだが、「いい俳句」と私が思う句を読んでいると、短歌や小説などの他のジャンルの文芸では味わえない、独特の感覚が訪れることがある。子どもの頃に読んだ懐かしい絵本の風景が、ふと蘇ってくるような感覚なのである。

 「クプラス」創刊号の中から、私が「いい俳句」だと思う句を読んでみたい。

 秋風の大阪弁に和む日も 依光陽子

 シウマイに透けるももいろ春隣 杉山久子

 投票用紙の書き味に秋澄みにけり 関悦史


 依光作品では、「大阪弁」の人懐っこいイメージと、「秋風」の冷たさが、取り合わせによって混ざり合い、新鮮な空気感を生み出している。杉山作品では、「シウマイに透けるももいろ」というフレーズが、読者の「あ、それ分かる」という回路を経由することで、「春隣」の季節感と親和性を持って結びつけられている。関作品の「投票用紙の書き味」というのは、かなり実感に沿った表現だが、「秋澄む」という季語によって、投票という行為の秘める虚しさ、といった所まで、読者を連れて行ってくれる。

 どの句も、読者は自分の体験と作者(あるいは句の主体)の体験を接続させることで、句の世界に入っていけるのだが、いつの間にか現実とは少し違う世界に迷い込んでいるような感覚に誘われる。

 雨すこし重たくなつて烏瓜 阪西敦子

 水澄めり君なら月見うどんだらう 山田耕司

 死に際にボタン電池と見つめあふ 谷雄介

 迷路ではない浮世の岸の秋だらう 高山れおな

 口の無い月のひかりの枯野かな 上田信治


 阪西作品では、重たい雨の中に灯る「烏瓜」が、存在の覚束なさを物語っている。山田作品は、「君なら月見うどんだらう」という、一見何の根拠もない、やや強引に感じる推量が、「水澄めり」という季語に支えられ、妙な説得力を持ち始めてくるから不思議である。谷作品は、死に際に見つめ合う「ボタン電池」の異物感が、人生の一回性を際立たせている。高山作品は、「迷路ではない」と言ったことが「浮世の岸の秋」の混沌を感じさせるし、上田作品は「口の無い月」によって、返って口のある月の映像が頭から離れなくなる面白さがある。

 産業革命以来の冬の青空だ 福田若之

 あたらしい君がやさしい秋刀魚の夜 佐藤文香

 ぼんやりと見れば野焼の煙とも 生駒大祐


 福田作品の「産業革命以来」という把握のスケールの大きさ、佐藤作品の「あたらしい」「やさしい」のリズムが生む透明感、生駒作品の「野焼の煙」が持つ不確かな存在感。

 どの句も、どこか遠くて懐かしい。

 俳句は他ジャンルの文芸に比べて、より「言葉」なのではないだろうか。「いい俳句」を読んだとき、私の中にやってくる独特の感覚は、どこか言葉に出会い始めた幼少期の記憶に繋がっているように思える。「いい俳句」から私は、言葉への郷愁のようなものを感じているのかもしれない。

俳句評 新宿俳句泥棒日記 カニエ・ナハ

2014年04月29日 | 日記
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいる。
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいて、自由きままに本を読みあさっている。かれは横尾忠則で、かれはまだ青年で、数日前ここで若いうつくしい書店員さんに本を万引きするところを捕えられて、社長室へとつれていかれた。社長室でじっさいの社長さんが社長さんを演じる社長さんに説教ともつかない説教をされた。大島渚の映画『新宿泥棒日記』を見ていたらそんなシーンが出てきて、もう半世紀近く前の映画だけど、あのレンガづくりはそのままで、紀伊國屋書店の社長さんのせりふはたどたどしいけどなんだかものすごく貫禄も説得力もある。ご本人役で映画に出てしまうくらいの社長さんが創業者でもある紀伊國屋書店って、やはりなんかへんな本屋さんである。おなじ建物の一階には化石と鉱物の専門店やらパイプとナイフの専門店やらが入っているし、地下にはおいしいカレー屋さんやらおいしい和食屋さんやらもある(和食屋さんのなまえは珈穂音(カポネ)である)。詩歌のコーナーがやたらに充実していて、へんな本屋さんである(詩歌の本なんて売れないだろうに)。いまどんな俳句が読まれているんだろうと思って、紀伊國屋書店新宿本店をおとずれてみた。榮猿丸さんの『点滅』(ふらんす堂)という句集がPOPつきで平積みにされている。かたわらに無料の冊子がおかれていて、「榮猿丸 句集 点滅 紀伊國屋書店新宿本店フリーペーパー」と表紙にしるされている。

 別れきて鍵投げ捨てぬ躑躅のなか 榮猿丸

 深夜の誰もいない書店はうすぐらくて、はじめわたしは躑躅(つつじ)を髑髏(どくろ)と読みちがえてしまった。髑髏のなかに投げ捨てられた鍵が立てた乾いたツメタイ音を聴いてしまった。しかし、よく見ると躑躅であった。躑躅という漢字はごちゃごちゃしていてここに鍵を投げ捨てたら二度と見つかりそうにない。おまけに虫までいて(右下のあたり)こいつは鍵喰い虫といって躑躅のなかに潜んでいて捨てられた鍵を糧としている。復縁はないだろう。梶井基次郎のせいで桜の樹を見るたびにその下に埋まっている屍体をおもうことになってしまったのとおなじように榮猿丸さんのせいで今後、躑躅を見るたびにそこに投げ捨てられた鍵とそれを喰う虫のことをおもうことになってしまった。

 ビニル傘ビニル失せたり春の浜

 ビニールがビニルになるだけでやたらにニヒルに感じられる、ましてやビニルは失せていて、あとは骨ばかりの春の浜だ。おんなのひとの横顔がちらっと見えて、しまった見つかった、と思ったらPOPのなかの写真だった。鹿もいる。深夜の書店に美女と鹿。それは野口る理さんの句集『しやりり』(ふらんす堂)のPOPで、手書きのPOPに収録句がいくつか書かれている。本はパールの紙がやみのなかでもあやしくかがやく装幀で触れるとたしかにしゃりりという音がする。

 はつなつのめがねはわたくしがはづす 野口る理

 谷崎潤一郎の『盲目物語』はひらがなを効果的につかうことで盲目のくらやみをあらわしているけれど、ひらがなはくらやみのもじで、めがねをはずされて、よくみえない。ふたりでむかえるはじめてのなつかもしれない。よるかもしれない。めがねをはずされて、ここからほんとうのこいがはじまるのかもしれない。

 象死して秋たけなはとなりにけり

 ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』のタイトルの由来にもなっているという故事成語「群盲象を撫ず」は目の見えないひとたちがそれぞれ象の部位に触れて(牙、鼻、脚…)、その感想を語り合う。その象が死んでしまって、私たちはこれからなにをなかだちにして語り合えばいいのか。ぽっかりと巨大な穴のあいた秋だ。鹿の視線のさきには長嶋有さんの句集『春のお辞儀』(ふらんす堂)が二色並んで平積みされている。中身はおなじ。(にしても、どの本もふらんす堂ですね。『泥棒日記』のジャン・ジュネは言うまでもなくフランスの作家・詩人・劇作家・政治活動家そして泥棒。)ぱらぱらとめくってみる。

 押せば出るフロッピーディスク出さぬ春 長嶋有

 フロッピーディスクという言葉のなつかしい響きに立ち止まる。そのとなりには、

 薫風や助手席にいてチューバッカ

 という句があり、フロッピーディスクとチューバッカ。なつかしい響きがひびきあって、はるか昔、とおい銀河の未来だった。森山大道さんの著書のタイトルにあるように『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』。フロッピーディスクの句はよくわからないのだけど、ワープロ(だと思う、パソコンじゃなくて。たぶん)がお役御免になったことを言っているのか、書きかけの文書(原稿かあるいは手紙かもしれない)が行き詰ったままなのか。いずれにせよ、ワードプロセッサーは消えたけどフードプロセッサーは生き残った。にもかかわらず、フープロがワープロほど略語として定着していないのはなぜなのか。チューバッカの句は薫風に吹かれる助手席(オープンカーかな)で接吻ばかりしていることをチューバッカにかこつけてノロケているのかと思ったが、「しおり」にチューバッカの註が載っていて「キスばっかりしている人ではありません。」と釘をさされてしまった。あるいは優秀な機械工であるチューバッカならば壊れたワードプロセッサーを直してくれるかもしれない。(ちなみにチューバッカって、映画『スターウォーズ』に出てくる、ハリソン・フォードの相方の、毛むくじゃらのことね。そのモデルといわれているヨークシャーテリアのことをこの句では言っているのかも。なにせ「サイドカーに犬」の作者だものね。)

俳句評 型破りまでの正しいストレッチ そらしといろ

2014年04月27日 | 日記
やせ蛙負けるな一茶これにあり 小林一茶

 俳句との出会いは教科書が先だったか、個人での体験が先だったか。
私はおそらく、個人での体験が先だった。記憶がはっきりとしているのは、小学校の中学年頃、家族旅行で長野へ行ったときに“一茶記念館”へ立ち寄ったことだ。そこで一茶の俳句と出会い、難しいことはさておき、なんだか可愛らしいもの、と思った。
当時の私は俳句の基礎を知るより、二つ三つ、一茶の句を覚えて暗唱することが楽しかった。音符はないのに、音楽のようにリズムがあって、口ずさむと心地よかったのだ。
 今でこそ、無季自由律の尾崎放哉の俳句が大好きな私だが、最初に出会った俳句は有季定型だった。ということで、放哉にたどり着くまでの私と俳句の珍道中を辿ってみよう。

 一茶の俳句と出会い、なるほど俳句は短くて覚えやすいと感じた私は、一茶と同じく俳句を作っていた松尾芭蕉という人物を知り、『おくの細道』の絵本を借りた記憶がある。この時点では(同級生が知らないことを知っている私はカッコイイ。)という、学問・知識と結びついた自分に陶酔していた。今となっては、肝心の収録作品が何であったか、まるで覚えていない。芭蕉の絵本を読む自分に酔っていた証拠だろう、とても恥ずかしい。

 中学校の一・二年生の頃は、教室になじめず、いわゆる保健室登校をしており、授業はほとんど出ずにいた。好きな小説を繰り返し読み、ライトノベルのような文章を書くことに興味を持ち始めた頃だ。それでも中学三年生に進級し、高校受験がちらつく。腹をくくり、教室で授業を受けることになった。
授業で使った国語のノートが手元にあったので開いてみた。中学三年生だった平成十五年の五月十六日金曜日に、“近代の俳句”という見出しが書かれている。おそらく、教科書の引用として次の句があった。

柿食へば鐘がなるなり法隆寺 正岡子規
咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや 中村汀女
ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子
ソーダ水つつく彼の名でるたびに 黛まどか


 季語や切れ字に線を引き、季節がいつであるか記し、どのような句であるか簡単な解説を書き留めている。他には、俳句の基礎知識、歴史を書いたページもある。
これらを手本にして、授業目標にあった<鑑賞文を書く>が実行された。中学三年生の私が授業中に草田男の句について書いたものが下記の文章である。

諸手さし入れ泉にうなづき水握る 中村草田男

 こんこんとわき出る水、泉。太陽に照らされたそれは、光のようで、思わず手が泉にのびる。しかし、ふと頭の中で何かがよぎった。私は泉に触れてもいいのだろうか。けれどもう遅い。手は泉の中。今更ながら私は泉に問いかける。「握ってもいいかい?」泉は何も言わない。言わないけれども、何故だか「いいよ。」と聞こえた気がした。私は泉を握った。一気に体中の熱が引いたような気がした。ただ、じっとしていても汗が流れる暑さ。今日はそんな夏の日。

 有季定型の、ある意味でお行儀のよい句が並ぶ中、リズムを壊した草田男の句に惹かれたのだと思う。
私は、この俳句の鑑賞文を書いたことで、俳句は切り取られた、とある世界だと感じた。写真のような、ジオラマのような一瞬の世界が文字の奥に存在している。それを体感するため、仮想空間へ入り込むように文字の奥をかきわけてゆく。上手く言えないが、それまで読んでいた小説とは異なる想像の仕方を覚えた。
 だが、自分で文章を書くことが楽しかった時期と、受験勉強が重なったことで、俳句を鑑賞する機会は教科書の中にとどまった。

 高校へ進学し、クラシックギターと漫画と小説にどっぷりのめり込み、妄想する力が鍛えられていた。脳内で自分に都合のよい世界を構築することが楽しくて仕方がない。
 そんな高校二年生が、現代文の授業で俳句と再会する。

かりかりと蟷螂蜂の㒵を食む 山口誓子

 現代文の先生が言った。
「㒵(かお)っていう字が、蜂の顔っぽいですね。それと、かりかりという音がとても美味しそうに聞こえます。」
言われてみれば、そういう風に見えるから不思議だ。香ばしい、飴色のお菓子が頭に浮かんで、口に唾がわいてくる。
 
あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷

 「薔薇は本来、夏の季語なのですが、作者は雷に“春の”と付けているから、春の句になります。あえか、というのは弱弱しい様子です。弱った薔薇を選り分けているときに、春の雷が鳴った、そんな風景です。」
 中学校で習ったものより、字面にしても描写にしても、素直に読めるものではなかった。その分、先生の言葉に誘導されて、自分の頭の中で妄想が膨らむ。
 自分がカマキリになり、ハチをかりかり食べる姿を想像してうっとりした。本当は、カマキリもハチも苦手なのだが、その情景に異様な美しさを感じてしまう。春の雷が鳴るような、きっと薄暗い庭で、あえかな薔薇を選り分けるのは一体どんな人なのだろうか。あやしげな雷鳴と雷光に薔薇と人の影が揺れる、怖いようで魅力的な一瞬。
 俳句をこのように楽しむのもアリなのでは、と思った。今でもふと、授業中の先生の落ち着いた声と、自分の頭の中で描いた妄想の景色と共に、この二つの句を思い出す。

 時は流れて、大学四年生。まさか、大学の授業で句会を行うとは想像していなかった。
 私はすでに、雑誌『現代詩手帖』へ詩の投稿を開始しており、所属していた文芸創作のゼミナールで放哉の句とも出会っていた。先に詩を書いていたので、俳句の十七音で世界を切り取るのは難しいだろうと、予想していた。
 講師は、俳句雑誌『澤』を主宰する小澤實先生だ。たまたま受講者が少なく、十人ほどの学生を相手に小澤先生は、俳句の実作を中心に、句会の簡単な作法を教えてくださった。句会は毎回の授業の一部として行われた。
 小澤先生は、取合せという方法にこだわっていらした。季語と、季語以外のもので構成する句のことだ。句会ごとに、次回の句会で使う季語を指定され、宿題として実作する。
鑑賞していただけの頃は、俳句に奥行きがあることは当たり前と思っていたが、実際に、取合せで俳句を作ろうとすると、どうやって奥行きを出すかが難しい。難しいが、ひらめいたときがとても楽しい。使い慣れない切れ字や文語体を自分で使おうとするのも新鮮だ。
 放哉のように無季自由律の句を作ってみたかったが、有季定型を知ってより一層、自由律の味わいが深まった。放哉の自由律にも定型のリズムの名残があることに気付けたことは、大きな発見だった。
 そうして、最後の授業の句会に提出した句がこちらだ。

紅すくう指きらめける浴衣かな
熱いプールサイドをぴょんぴょん跳ねてゆく子供


 最後ということで、季語は自由で、個人的には自由律にも挑戦させてもらえた。
 プロの俳人である小澤先生と、とても近いところで授業を受け、句会が出来た時間は、忘れられない宝物となった。可能ならばもう一度お会いして、句会を楽しみたい。

 俳句の鑑賞から実作へ至った私と俳句のお付き合いは、今も続いている。
 昨年出版した第一詩集『フラット』(思潮社刊)では、放哉の句をエピグラフとして用いた作品が多い。それらの作品はほとんど、放哉の句から見えた世界へ入り込み、体感したものを書いた。俳句を切り開いたところを、詩として書いたと言えばよいだろうか。俳句から感じた奥行きを、どうにか自分の言葉にして表現したかったのだ。
 私にとって俳句は、絵画や写真、詩、時には音楽へも繋がる、窮められた芸術作品だ。あらゆる制約の中で、それしかない研ぎ澄まされた言葉が、計算されて配置された美しい日本語によるアート。日本語であるからこそ味わえる十七音の調べに、これからも目が離せない。

俳句評 詩型の境界を楽しむ 財部鳥子

2014年04月01日 | 日記
 昨年六月の日本現代詩人会主催の詩祭では「越境できるか、詩歌」というタイトルでシンポジウムが行われました。現代詩からは高橋睦郎、短歌からは穂村弘、俳句からは奥坂まや、司会は野村喜和夫のみなさんでした。なかでも高橋睦郎氏は俳句においても、短歌においても、突出した作家だから、彼に訊けばすべて解りそうな気がするところがネックだなと私はおもいました。ところが高橋氏は「ぼくは曖昧ということが大事だと思っていて、境界というものは積極的に曖昧にした方がいいと思っています。」と述べていました。私は彼のような作家がこういうのは当然だと思いましたが、奥村まやさんはそうではなく俳句の季題というものがとても大切ということを言われました。これも納得できました。
 このシンポジウムは後になって「現代詩手帖」二〇一三年九月号に「詩型の越境」という特集で掲載されたから読まれた方も多いのではないでしょうか。
 そして今年の三月一五日には大阪で、やはり日本現代詩人会の主催で西日本ゼミナールが開かれ、作家・詩人の稲葉真弓氏が「詩と散文の境界」というテーマで講演することになっていました。
 詩人が詩型の境界を気にするのはなぜでしょうか。俳句の世界の講演会ではこのような問題はないような気がするのですがどうでしょうか。詩人が詩型の境界を気にするのは現代詩を自由詩ともいうように、詩には決まった形がなく作者の自由だからいつも不安なのかもしれません。小説と詩の境界はどうなのか、今度は稲葉さんからどんなお話が聞けるのかと楽しみにしていたのですが、残念ながら二月ころから体調不良でいよいよ入院ということになるらしく彼女は来阪できず、私には稲葉さんへの心配だけが残りました。急きょ詩人・評論家の北川透氏が同じテーマで太宰治の詩と小説、また三島由紀夫の詩と小説を題材に境界というものについて噛み砕くような丁寧なお話でしたが、しかしそれはやはり作家のケース・バイ・ケースであるわけで、結論などは出せるものではないし、私は北川さんの理論の組み立てが見事だったことに大いに満足しました。
そして人気俳人の坪内稔典氏が「小さな詩」と題して自作の俳句「三月の甘納豆のうふふふふ」の生成過程などを面白くおかしく話して、俳句を何回も朗唱し、小さな詩の覚えやすい利点を強調して百五十人ほどの聴衆を大いに笑わせました。
 このとき、私は坪内稔典氏に主催者側からご挨拶するべき立場でしたから、前日に坪内さんの著書「ユーモアと俳句」を読んで大阪へ出掛けました。この本を読んで笑ったと同じ話題でまた笑わせられたのは、名人の落語をきくようなものだったかもしれないと思いました。
 家へ帰ってから新しい「俳句年鑑」の坪内さんの代表句を読みますと、些かの破調もない練達の俳句でした。

 老いが好き嫁菜の淡い花びらも     坪内稔典
 カステラも冬のベンチも端が好き
 正月にペンギン歩きをしてはだめ
 水脱いで春の昼寝の河馬二トン
 今日は御忌ボクサー犬にぶつかった


 以上の五句です。私は「カステラも」と「正月に」の句に思わず「うふふふふ」と笑いましたから、やはり真髄は甘納豆と同じ骨太のユーモアでしょう。カステラとベンチは私も端が好きです。そんな些事を季語もあり、リズムもある十七文字の俳句に仕立てるのはすごいことです。また、二回も雪が降った二月、思いもかけない積雪の翌日に都知事選挙がありました。天気がよかったので雪は溶けはじめ、車は使えないので人々は両手でバランスを取りながら足場を求め、よちよちと歩きました。その様子を私もペンギンみたいだと思ったのでした。その滑稽を「ペンギン歩き」と形容してすでに俳句にしてあったなんて夢にも思いませんでした。ユーモアが上品であることもすばらしいと思いました。
 俳人や歌人は境界などあまり気にしていないようですね。それらの詩型は日本伝統の詩歌として国民的なものであるし、それが詩歌としては新入りの現代詩人には羨ましいのです。それで「越境」とか「境界」などという言葉を弄するのではないでしょうか。

 現代詩にユーモアが欠けているのはこれこそ伝統的なもので、私は詩の朗読を聴いて笑ったことがほとんどありません。それに物のイメージが主役ではないから観念語の多い詩を朗読で聞かされるとその観念的な言葉に対処できないでうろうろしているうちに眠くなってしまうのです。私の詩も当然、朗読にふさわしくないものだと思っていますが。
詩の朗読で笑ったのはいつだったか、だれかが朗読した西脇順三郎の詩を思い出しました。それは即興で作られた詩でパーティに集まった人の名をもじっていました。西脇先生は会田綱雄氏をヌビアの王女アイーダに模して「アイーダ」と詩のなかに登場させました。「アイーダ」はエジプトの将軍ラダメスに恋して二人とも牢獄で死ぬ悲恋のオペラです。むくつけき大男の会田さんが「おお、アイーダ」と詩の中で呼ばれると非常におかしかった。「アイーダ」になりきった会田さんに西脇先生も大笑いして「笑うのは人間だけに与えられた特権だ」というようなことをおっしゃっていました。その詩は何処に入っているのかいま不明なので、代わりに「旅人かへらず」一六八篇のなかから、かそけき可笑しみのある二篇をここに掲げてみます。

 一〇
十二月の末頃
落葉の林にさまよふ
枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの
葉の蕾が出てゐる
これは都の人の知らないもの
枯れ木にからむつる草に
億万年の思ひが結ぶ
数知れぬ実がなってゐる
人の生命より古い種子が埋もれてゐる
人の感じ得る最大な美しさ
淋しさがこの小さい実の中に
うるみひそむ
かすかにふるへてゐる
このふるへてゐる詩が
本当の詩であるか
この実こそ詩であらう
王城にひばり鳴く物語も詩ではない

 一一
ばらといふ字はどうしても
覚えられない書くたびに
字引きをひく哀れなる
夜明けに悲しき首を出す
窓の淋しき


 このような西脇詩を俳諧的だという人もいますし、私もそう思うことがあります。ばらけた俳句だとも。また、ある人は連句のようだとも言いました。
「一〇」の詩は初冬の枯れた林の樹に絡むつる草の無数の草の実について書いています。そのあとの八行ほどの真面目な述懐はたぶん俳句にはないものでしょうけれど、しかしそこはこの詩のユーモアの在りどころで、また詩のリズムにもなっていると思います。
 「一一」の詩は誰もが感じていることで、バラとかユーウツという漢字は読めても書けない。当たり前だと私などは思うほうですが「字引きをひく哀れなる」男が西脇先生だとしたらかそけき可笑しみに忍び笑いをしてしまいます。この五行は連句でいえばつなぎの七、七の句などに当たるかもしれません。

 さて「越境できるか、詩歌」のタイトルにもどりますが、俳人の奥村まや氏の総論は以下のようでした。詩型はどれでも要は作品ということで「それが意味を超えてなにか新しい世界を開いていけばいい。意味の伝達に終わらず、言葉として一つの宇宙を開いていれば、それは短歌でも、俳句でも、現代詩でも変わりないことです。」とこれは詩歌としてまともなことだけれども、最後に俳人でなければ言えない個性的なことを結論として述べられました。
私が申し上げたのは、俳句には固有の世界観である季語というものがあって、すくなくともそこに自分が共感しないといい俳句を作ることは難しいということです。そういうジャンルとしての俳句の独自性を申し上げたかった。
 奥村さんのこの言葉は俳句の真髄を端的に言いあらわしています。
 どうしても歳時記なのです。
 詩を書いてきた私はあるとき歳時記を買わなければならない破目になりました。詩の雑誌「現代詩手帖」に季語のコラムがあったころ、そこに「花野」について寄稿するということがありました。「花野」とはどういうものか。やはり歳時記を読まなくてはと思いました。
最初に買った歳時記は平凡社刊『俳句歳時記』全五巻でした。三十年前です。編集代表は富安風生。今では例句も古色蒼然としているし、編集委員の方々は全部故人となっています。そのかわり現代ではもう使われていない季題が丁寧に並べられているのが貴重なところです。当時、読んでも私には分からないことがたくさんありました。
 私は中国の北方で育ったので日本の繊細な四季を詳しくは知りませんでした。大陸の北では梅雨はありません。だから雨期に関する季語はよく理解できなかったということがあります。大陸の北方はたちまち秋が過ぎ九月半ばになると水たまりなどに氷が張ります。冬は大河が凍結して道路になってしまうのでした。もちろん大陸にも花の咲き乱れる野原はありますが、それは六、七月でスズランが咲き終わるすぐに一年中の花が一斉に咲いて気が狂ったような獰猛な花野が出現します。そして八月半ばにはいっせいに枯れてしまって「連れたちて花野さみしといふ人と 滝沢鶯衣」というような情緒は全然ありません。
 ぜひとも日本の風土に住んでいなければ歳時記は理解できないし俳句は作れない。するとこの世界最小の詩型といわれる俳句は、日本という風土にこそ存在するもので、日本独特の詩型であると定義できるのではないでしょうか。十七文字の短い詩型だから共通する意味場というものがなければならないでしょう。それを指示するのが歳時記という魔法の書なのだと私は理解しました。
 そして、今この古い歳時記を開くとなにがなし深い虚無感におそわれてしまいます。この季語たちはいまも生きているだろうかという問いがおきます。たとえば飯田龍太の「春耕の田や少年も個の数に」とか、村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」というような労苦も精神も遥かに遠くなってしまったなぁと思ったりします。「打つ田」は耕運機や休耕田に取って代わられ、農村の少年も少女もだいたい学生になってしまって「個の数」として田畑に出て手伝うことなどもなく、このあたり季題としては弱くなりました。
 その後、私は幾種かの歳時記を買ったり頂いたりしていますが、歳時記を読むのはいつもおもしろいです。新しい歳時記には新しい季語が入ってきます。
 一番目立つのは新しく鬼籍に入った人の忌日、たとえば中上健次の健次忌、大野林火の林火忌など、そしてたびたび変わる祝祭日、たとえば明治節は文化の日に、年寄りの日は敬老の日に、陸軍大演習はなくなり、秋季皇霊祭は秋分の日に。春季皇霊祭は春分の日に、天長節は昭和の日になりました。
それから、歳時記では季語に付けられた難しい漢語の当て字が覚えられます。
 いまは亡き詩人吉岡実の句集に『奴草』(書肆山田刊)があります。その句集が発端でいろいろ考えさせられたことがありました。
吉岡さんは若いころ熱心に句会へ出ていたようです。また俳誌『旗艦』などにも投句していました。俳句少年だった吉岡実は下町の厩橋に住んでいました。そのころの句は昭和初期の土地柄を髣髴とさせるなつかしいものです。

  糞壷に小便ひびく夜寒かな    吉岡実
  牛めし屋に追へど犬くる小春かな

 その句柄には吉岡少年の勘のよさ素直さ人懐こさがあって、後年の吉岡詩がいくら難解であろうとも少年時代の俳句の本質は少しも失われていないのだと今更ながら思わせられます。吉岡実の初期の句作の季題はとても身近で分かりやすい。しかし、どうしても読めない漢字を使った季語があって、それは「螽蟖商談つひにまとまらず」というのですが、この虫だらけの奇怪な漢字が私には読めませんでした。読みが分からないので歳時記で探すこともできず、棚から『大漢語林』を下ろして部首からしらべ始めました。俳人の方々にとってはそんな季語はとうに分かっていることでしょうが、私には分かりませんでした。そして分かってみれば「なぁんだ!」と気が抜ける一方、大げさな文字に驚いてまじまじと字面をながめてしまいました。

螽蟖(きりぎりす)商談つひにまとまらず  吉岡実

 この句を下町の秋の雰囲気のなかに置いてみるとなかなかシビアです。不景気な時代のようですね。でもどうしてこんな難しい字を使うのか。これは吉岡好みだったのだろうか。なぜなら歳時記に例句を見てみると芭蕉をはじめとして平仮名で「きりぎりす」と表記している俳人が多いのです。若いころの吉岡実は螽蟖という文字を好んでいたのだなと私は思いました。しかしこの文字を「きりぎりす」と読ませるのは日本語としてはひどく恣意的ではあるまいかとも思ったのです。
 そしてあるとき清少納言の『枕草子』のなかにこう記されているのを見つけました。
見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの。いちご。つゆくさ。水ふぶき。くも。くるみ。」また「いたどりは、まいて虎の杖と書きたるとか。」などと。
 いちごは覆盆子。つゆくさは鴨頭草。蜘蛛。胡桃など。
 たしかに「ことごとしき」漢字ですが、これは全て現代の中国語辞典にあります。
大和言葉に漢語を当てはめて当て読みすることは清少納言の時代、主に漢字を使用していた男性たちがした仕事なのではないでしょうか。当時の文明開化的な役割だったのではないかと思われます。清少納言以後も続々とこのような変換は行われてきています。歳時記のなかにはたくさんの大陸渡りの季語がありました。
 詩歌人は日常使っている言語を詩歌に用いるときに漢語で書き表すことによって「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの」に変幻させることが大好きなようです。こういうことは決して言葉の本質を変えたりはしないのだけれど、精神にはなんとなく高揚感、達成感を与えます。たとえばヒジキを鹿尾菜と書き、サフランを洎夫藍と、ヒヤシンスを風信子と、イゴを海髪と、ツクシを土筆と書いて、もののイメージを詩に近づけることができると思いこみます。私もその一人ですから何をか言わんやですが。
 歳時記には日本の国の風土や四季が季題として収められているだけでなく、日本人の気持ちも書かれているのです。退屈な時は歳時記を読みましょう。