「詩客」俳句時評

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俳句時評149回 多行俳句時評(3) 多行形式試論(1)──前衛俳句、定型論争、人工知能   漆拾晶

2022年05月18日 | 日記
 安井浩司が亡くなった。享年八十五、折しも欧州の戦争が始まる一月前である。安井も参加していた高柳重信主宰の「俳句評論」とその後継誌「騎」同人の俳句実作者は現在、昭和六年生まれの岩片仁次を残すのみとなった。岩片仁次は平成以降も私家版の発行を続けているが、現段階で一般に流通する句集は無い(昨年末に刊行された林桂編『俳句詞華集 多行形式百人一句』の後記によれば岩片仁次編『多行形式百人一句』が刊行予定とのこと)。このような状況であるから、生前に用意されていたと聞く安井浩司の新句集は「俳句評論」系俳句運動の実質的な最終句集となるのかも知れない。
 今年の「俳句四季」四月号の特集は「前衛俳句とは何か──21世紀の「前衛」を考える」と題されていた。諸氏の論考の中には「旧ソ連の亡霊による戦禍」という言及があるにも関わらず、安井浩司の死に触れている文章はない。かろうじて安井浩司の句を紹介しているのは「俳句評論」と「騎」の同人だった川名大のみ。21世紀において、いわゆる前衛を実践し続けた俳人がこれほど等閑視される状況を鑑みると、「前衛俳句は死んだ」と簡単に嘯く者を俄には信じがたい。そもそも何をもって前衛俳句とするのか、明確な定義づけさえまだ出来ていないのではないか。

 現代俳句協会によって編まれた労作『昭和俳句作品年表』の「戦後篇」解説において、編者の一人である川名大は前衛俳句の成立過程を以下のように振り返っている。

 兜太が自作「銀行員等」(昭31)の句の創作過程の解析とともに立ち上げたいわゆる造型理論(「俳句」 昭32・2~3)。その背景には高柳重信が、いわゆる「社会性俳句」作家には新しい俳句詩法がないとし、それを嘱望したこと(「俳句研究」昭30・3)、暗喩による心象の連鎖を説いたこと(「俳句研究」昭31・11)があった。したがって、「前衛俳句」の発端は三十一年から三十二年にかけてとするのが妥当である。「前衛俳句」 の範疇の規定は悩ましい。兜太を中心に関西前衛派 (のちの「海程」と「縄」)で括ればすっきりする。早くから暗喩的な表現を多用していた「俳句評論」系は、 総じてテーマも表現方法も関西前衛派とは異なるが、 便法として当時の俳壇ジャーナリズムに倣って、範疇に含めておく。
(中略)
「俳句は本質的に前衛ではない」というのが高柳重信の一貫した認識だったので、重信を「前衛俳句」で括るのは本意ではないが、多行俳句の創出自体は本来の意味で前衛的だろう。


 同解説中で前衛俳句を「イメージと暗喩を主な方法とする」表現であると一応定義した川名は「多行俳句の創出自体は本来の意味で前衛的」として、高柳重信の「多行形式」による前衛性を金子兜太の「造形理論」よりも高く評価していることが伺える。「俳句評論」と「騎」に関わった川名であるから当然といえば当然なのだが、実際のところ、前衛俳句運動が「イメージと暗喩」を初めて俳句に持ち込んだとは言い難い。「イメージと暗喩」とは相容れない「花鳥諷詠と客観写生」を信条としたいわゆる伝統俳句という呼称が使われるようになるのは戦前の新興俳句運動に対応してのことであった。
 一方で多行形式はどうかというと、戦前にも荻原井泉水や吉岡禅寺洞、富沢赤黄男らの先例はある。しかしいずれも雑誌での単発的な発表にとどまり、個人句集に収められることはなかった。句集として刊行される多行形式の実践は昭和二十五年、高柳重信の『蕗子』にはじまる。『蕗子』に収められることになる多行形式の作品が最初に発表されたのは昭和二十二年。高柳重信の「多行形式」運動は金子兜太の「造形理論」運動より十年先んじていたことになる。
 
 堀田季何は「俳句四季」四月号の同特集の中で「現在、俳句の前衛は存在しない」としてその根拠をあげている。

 前衛的な試み(半世紀前の前衛俳句だけでなく、碧梧桐の新傾向俳句や昭和初期の新興俳句運動も各時代の前衛であった)は手法、文体、修辞などで試されていないものは殆どない。最後に俳句の限界を突破して、一種の新たな詩型の創出に至ったのは多行形式俳句だが、同様の突破が将来起こる可能性はないだろう。

 これには私も概ね同意できる。「日本の俳句」の惨憺たる状況を鑑みて、堀田は「世界俳句」に新しさの可能性を見出しているようだが、語学に疎い私は残念ながらその妙を味わうことができない。だが確かに「日本の俳句」はやりつくされている。そしてその傾向は俳句人口の多寡に関係なくさらに加速していくと思われる。
 
 『人工知能が俳句を詠む』なる本が昨年登場した。北海道大学の調和系工学研究室が2017年から続けている人工知能俳句プロジェクト「AI一茶くん」を開発者自ら紹介するという内容。本書によると「AI一茶くん」によって生成された”新しい”俳句はすでに一億句を超えている。現状では有季定型にはまらない句は除外しているとのことだが、「AI一茶くん」が無季や破調の句を詠み始めるのも時間の問題だろう。
 同書によると、観測可能な宇宙の原子数すべてを合わせても、その個数は十の八十乗個と言われているそうだが、この数は「日本の俳句」にも偶然あてはまるらしい。

 俳句で使われる文字を漢字とひらがなのたかだか一万種類程度と見積もったとすると、これが二十文字分続くと仮定しても、俳句としてありえる日本語文は十の八十乗程度に過ぎません。(『人工知能が俳句を詠む』pp.227-228)

 「十の八十乗程度」に過ぎないと豪語するのはさすが科学者というべきか。ちなみに日本語における最大の数詞「無量大数」は一般に十の六十八乗とされている。この十の八十乗という数字はあくまで文字の組み合わせの数にすぎないから、実際に俳句と認められ得る日本語文の総数はかなり少なくなるだろう。「バベルの俳句図書館」はたった今も増設中である。有季定型一行俳句が文字通り書き尽くされる日は近い。

 かくの如き末期的状況において必要となるのが外部からの視点であることは言を俟たない。昭和の終わりから平成初頭にかけて、詩人の飯島耕一は歌人の岡井隆や玉城徹、俳人の金子兜太らとの公開往復書簡を通じていわゆる「定型論争」をひき起こした。飯島は、川路柳虹らが明治初年の新体詩に抗して押し進めた口語自由詩が戦後詩の中心となり、「器なく、通路なく、現代の自由詩は、ひと吹きの風、詩的水たまり一個、といったやり方で来た」が、「新鮮さをとっくに失って、マンネリになって」しまい、「多くの詩人たちは、自由詩は一作ごとにおのれの形をつくる、などとうそぶいてきましたが、もう明らかに無手勝流は行き詰まって」いると当時の自由詩の状況を認識しており、「いま現在は定型模索にのり出すほうが実験的前衛的アクトである」と主張する。(飯島耕一「定型への安住は否定する」一九九〇年七月十四日〜九月一日「毎日新聞」玉城徹との往復書簡)
 俳句への造詣が深く、俳句に関する単著も出している飯島は、自由詩とは反対に俳句は「定型」を疑うべきだとする。

 歌人、俳人の自らの詩型や音数律への過剰な信じこみ方には驚くべきものがある。彼らの方は少し五七五七七や、五七五定型を疑うべきだろう。そして詩人は書き流しの自らの詩のかたちのなさを疑うべきだろう。どちらもマンネリズムの病状は重いと思う。(飯島耕一「自由詩は再検討の時に来ている」一九八九年「詩学」五月号)

 詩は「定型」を求め、俳句「定型」は逆にこのあたりで大きく揺らいだ方がいいのである。(飯島耕一「俳人は「定型」を疑うべきだ」一九九〇年六月二十二日記、「新潮」同年八月号)

 飯島耕一の提言が顧みられなかったことは、散文に改行を施しただけのようなインターネットポエムの氾濫を見ればわかる。それでも飯島の提言は、人工知能が台頭する現代においてこそ真価を持つように思えてならない。管見の限りでは、人工知能にとって書きやすい詩型は一行定型俳句と非定型散文詩ではないだろうか。これらはまさに飯島耕一がそこから離れなければならないと指摘した詩型である。そしてこの「定型論争」より四十年前に、「自由詩の定型化」と「俳句の脱定型」を試みる詩型が用意されていた。他ならぬ高柳重信の「多行形式」である。彼の創出した「多行形式」が書き尽くされたとは言い難い。全編が多行形式で構成された書物自体少なく、日本語の多行形式作品集を刊行した女性はおそらく一人しかいない状況なのだから。
 人工知能の発達を根拠に多行形式の一行俳句に対する優位を主張すると、多行形式もいずれ人工知能に書かれるようになると反論されるだろう。現に海外ではダンテや李白や杜甫を模倣する人工知能が生まれている。しかし彼らはまだ「弱い人工知能」である。シンギュラリティにでも到達しなければ、人工知能は詩を作ることができてもその意味を解することはできない。つまり、ある多行形式作品が一行ごとの内容に沿った改行の必然性を備えているならば、その一句は人工知能が到達することのない深度を有するということになる。

 事態は多行形式のみにとどまらず、「連俳は文学に非ず」(「芭蕉雑談」)と宣う子規が切り捨てた連句にまで波及する。前句を理解することのない人工知能が付句を生成することはできない。多行形式は子規以後の俳句伝統に抗して生まれたが、それはある意味で連句の構造を一句のうちに取り込む試みでもあったと言える。高柳重信は連句の可能性を捉えていた。

 それにしても、連句にかかわる一切を断念するということは、新しい俳句形式に賭ける当然の決意であろうが、また一度、常に自在でありたい一個の詩人の立場からすれば、みずから手を縛ってしまうに等しい行為でもあった。だから、断念は断念として、やはり昔日の俳人たちに許されていたように、七七の短句や、発句ではない自由な五七五などを書いてみたいという潜在的な意欲が、そう簡単に眠ってしまうことはなかった。たとえば、自由律の俳人たちが盛んに試みた短律や、新興俳句運動の渦中での連作俳句や無季俳句の実践などは、おそらく、そういう潜在的な意欲が、おのずから噴出して来たものと思うことも出来よう。そして、また、それらの試行すらが、彼等にとっては新しく俳句に出会うための健気さの現れであったと言うべきであろう。(高柳重信「俳句形式における前衛と伝統」一九七六年)

 連句の無視は季語の絶対視にもつながる根深い問題である。俳諧研究で知られる潁原退蔵の「季の問題」によれば「季を伴わない句は、俳諧一巻の中に数多くよまれる機会が与えられて」おり、「無季の句は平句として自由に存在が許されて」いた(潁原退蔵『俳句周辺』昭和二十三年)。平句は発句、脇、第三、挙句ではない句のことであるから、連句一巻のうちの大半が平句ということになる。現在我々が「俳句」と呼称している詩型の起源は平句ではなく発句とされていて、発句は巻頭の挨拶性が重視されるため、その場での季節感を伴う句になることが多かった。とは言っても無季の発句が全く無かったわけではないから、季語は発句成立の絶対条件になり得ない。俳句にしても同様である。

 前衛と目される詩人や歌人が俳句を詠むと、前衛的な作風になるとは限らず、むしろ有季定型の伝統俳句に仕上がることが多いのは興味深い。高橋睦郎も有季定型を遵守して作句する一人であるが、彼自身の俳句入門書を見ると視野の広範さがうかがえる。

 二十四節気は古代中国の天文学によって分けられ、当時の中国の政治的・文化的中心地の実際の気候を当て嵌めたものである。これをそれまで季節感というにはあまりに鷹揚な年感というよなものしか持たなかった私たちの祖先が文化という以上に制度として採り入れたところからわが国の季節感が始まった。この二十四の項目こそがのちの歳時記の基本になる骨格、といっていいだろう。
(中略)
 じっさいにはわが国では旧暦一月五日頃(現在の暦では二月十日頃)、「蟄虫始めて振く」というようなことはない。そこで江戸時代の学者がこれを「黄鳥睨院」と変えているが、こんな小細工をしてもどうしようもないほど、中国の気候の概念とわが国の気候の実際はずれている。早い話が、わが国で旧暦一月初めを立春といっても寒さきびしく、同じく旧暦七月初めを立秋といっても暑さの盛りだ。しかし、大陸の先進文化が齎した制度はそれこそ海彼から訪れる神にも等しく神聖冒すべからざるもので、制度に近くいる者たちは改変を考えるどころか疑うことすらできなかった。
(中略)
 芭蕉の歌枕をさぐる旅は季節感を点検する旅でもあった。ことに東北や北陸の京や江戸との季節感のずれは、中国から来た暦の上の季節とわが国の実際の季節感のずれとをするどく認識させたろう。その上で芭蕉の句は季という中心において現実と虚構との二重構造をいっそう確かに保証されたのだろう。
(高橋睦郎『私自身のための俳句入門』pp.167-171)

 季節感は日本固有のものではなく「大陸の先進文化が齎した制度」であり、もとより季語は実際の自然現象とは食い違って当然の虚構であると高橋は認識しているようだ。今後は気候変動によって歳時記との乖離がさらに加速するであろう”伝統的”な季節感も虚構にすぎないとなれば、もうすぐ機械に書き尽くされるという有季定型一行俳句にこだわる必要がどこにあるのだろうか。

 連載第一回の本稿では「多行形式」に関わる「前衛俳句」「人工知能」「定型論争」「連句」「季語」という問題を見てきた。次に扱うべきはさらに厄介な「切れ」の問題であろう。連載二回目以降の課題としておきたい。