「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第96回 俳人戦士タサクタシャー参上 風見 奨真

2018年04月06日 | 日記

 俳句に対してどのような形で向き合うか、という点において現在はかなり恵まれているように思う。高校生に対して「俳句甲子園」という選択肢が増え、テレビでは『NHK俳句』や『俳句王国がゆく』、夏井いつき先生による『プレバト!!』などが放送されている。特に『プレバト!!』は、俳句に馴染みのなかった人々も俳句に気軽に触れることができる番組となっている。また、ツイッターではDM機能を利用した「ゲリラ句会」や投票機能を利用した「俳句バトル」などが登場し、その他ライン、ネットプリントなど、新しい形で俳句と関わることのできるツールも存在しはじめている。

 俳句は、別のなにかと組み合わさってはじめて関わることができるものだとわたしは考えている。例えば俳句甲子園は「俳句」と「鑑賞ディベートも含めた勝敗の概念」を組み合わせているし、『プレバト!!』は格付けや毒舌査定によるバラエティの側面をあわせ持っている。もっと身近な例でいえば、句集は本という形態と組み合わさっているし、句会は複数の俳句を伏せて並べ、好きな句や佳句を選ぶ(さらにそれを得点にし、得点を競ったりもする)というゲーム感覚の面が付随されている。

つまり、俳句になにか別の側面を足していくことで、各々が俳句を楽しんだり、句の上達を図ったり、自分が求める俳句との関わり方を模索するわけである。
もちろん、それぞれデメリットも存在する。俳句甲子園などはわかりやすい例だろう。「俳句の良さは勝敗によって決めることはできない」「俳句甲子園に参加したら俳句に勝敗があることが当たり前だと感じるひとが増えるのではないか」などの意見はよく耳にする。それらの意見はもちろん的を射ている部分がある。
しかし、そもそも俳句甲子園は俳句そのものではなく、あくまで関わり方のひとつに過ぎないのである。俳句甲子園に参加するのもしないのも自由である。重要なのは俳句甲子園への可否というよりは、参加者・審査員・その他関係者が、「俳句甲子園はあくまで俳句と向き合うときのひとつの形でしかない」ということを認識することだと感じている。


 話しが逸れたので修正する。つまり何が言いたいかというと、俳句を詠むとき、俳句は単体では存在し得ないということだ。残念なことに、そもそもことばがなければ俳句は生まれない。文字がなければ俳句を視覚化することもできない。景色なり物体なり想像なり、詠む対象がなければ俳句を詠むことすらできないのだ。
 ただ、鑑賞についてはこの限りではない。俳句を鑑賞するとき、鑑賞の対象はその俳句のみ(連作ならその連作のみ)となるからだ。もちろん作者の人柄や経験、または過去の作品を知っていて、それらを頭に入れたうえで鑑賞されることもあるだろう。しかしそれらの作者に関する情報や、句が生まれるための実際の景色など、他の要素を知らなかったとしても鑑賞する俳句さえあれば読むことができる。俳句は多種多様なコンテンツと組み合わさってその姿を他人の前に現すが、読者は俳句(作品)をそれ単体で認識・鑑賞できる、というわけである。

 俳句は俳句単体では存在し得ないと書いたが、それは俳句を詠む人間に対しても同じことが言えるだろう。俳句だけやって生きている人間はひとりもいないからだ。その「俳句のひと」は間違いなく、料理をしたり働いたりといった複数のタスクのなかで生きている。俳句以外の表現を持ち合わせているかもしれない。
俳句ではなく、俳句を詠んだ人間を「俳句」というひとつの面のみで見てしまうと、「もっと俳句と真剣に向き合え」や「このくらい俳句をやっていないとだめだ」のような向き合い方の押しつけをしたり、「そんな向き合い方に価値はない」「俳句やってるひとは総じて○○な人間だ」などと言ってしまったりすることが起こり得てしまう。
多種多様な人間が多種多様なかたちで俳句と向き合っているのに、「俳句にはこう向き合え」と強制されたり、「俳句のひとはみんなつまらない」などと一括りにされてはたまったものではない。


 さて、本題である。
 『俳人戦士タサクタシャー』は、2017年5月28日に四国で放送された『学生俳句チャンピオン決定戦2017』にて初登場し、2018年のまる裏俳句甲子園や同年1月28日放送の『俳句王国がゆく』にも出演した俳句を題材にしたヒーローである。主人公が変身する「タサクタシャー烈風」は、頭部の装甲は575、胸部の装甲はHAIKU、変身ベルトは一句の文字をモチーフにしている。

映像の制作のみならず、公式ツイッター(@tasakutasha)にて「タサクタシャーの一句入魂」と称して関係者の句を毎日1句ずつ公開している。彼らの句を一句ずつ紹介する。

ストーブやじゃんけん眠るまでつづく(萩原とてふ)
炬燵からわたしのもれぬやう眠る (タムラ カナメ)
麗かに尻のかたちを残す椅子(蜻蛉)
窓ぎはの声が春雨に偏る(茜﨑楓歌)
コートの左ポケットから出たため息(Riyona)

 「タサクタシャー」というネーミング自体は、黒岩徳将氏が友達の家で飲んだ次の日に戦隊シリーズを見ながら思いついたものである。決して多作多捨の姿勢が正義であるということではない。語呂が良いので使用させていただいたまでである。
 『俳人戦士タサクタシャー』はつまり、俳句に特撮ヒーローというコンテンツを掛け合わせたことになる。なぜ俳句にヒーローものを掛け合わせるのか?という声はおそらくあるだろう。もちろん、製作者のひとりである筆者が仮面ライダーなどのヒーローものが好きだからというのが一つの理由である。
そして同時に「ヒーローものにおける価値観の示し方」を、「俳句における向き合い方の多様性」と置き換えることができると判断したからでもある。平成以降のヒーローものは、単純悪に立ち向かう正義を描くよりは、多種多様な価値観を示すものが多い。それは一概に善悪で片付けることができないものである。例を挙げるとキリがないので割愛するが、2003年放送の「仮面ライダー555」や、2018年現在放送中の「仮面ライダービルド」などはその面が分かりやすい。

タサクタシャーはそれらの「多種多様な価値観のなかで自分自身と向き合う今のヒーロー像」を俳句に置き換え、ひとつの作風や向き合い方だけが正解というものではなく、多種多様な句や向き合い方を提示していく作品として制作中である。公式ツイッターをぜひとも確認していただきたい。

 「俳句の間口をいかに広げるか」「俳句を一部のひとだけのものにしないようにするにはどうするか」という点を以前夏井いつき先生と話したことがある。夏井いつき先生自身は教師の経験を句会ライブやテレビなどで存分に発揮しているが、「それぞれが得意な面を生かして俳句の間口を広げていけばいい」と仰っていた。
 前述のとおり、現在は俳句をどのように発表するか、どのように触れていくかという面で多種多様の方法が生まれている。「俳句は自由なのか否か」という問いに対する答えは各々違うものを持っているかもしれないが、少なくともどう向き合うかという面において、俳句は自由だと思う。このくらい遊び心があれば、もうしばらくは死ぬことはないだろう。