「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評161回 令和のファッション俳句鑑賞 三倉 十月

2023年01月30日 | 日記
 この「詩客」の俳句時評では、自分の興味がある分野を自由に考えながらテーマを選び、これまで「妻俳句(not 妻恋俳句)」「食の俳句」「SF俳句」と書かせて頂いた。それぞれ繋がりもないし脈略もないが、どれも大好きなテーマであることは間違いない。そして今回、自分が最近好きなものとして「ファッション俳句」の鑑賞をしてみたい。

 鑑賞にあたり、ひとまず「ファッション」という言葉の定義を確認したところ、以下のようにあった。

【ファッション】
流行。はやり。特に、流行に即した服装・髪型など。また、単に服装の意にも用いられる。(デジタル大辞泉)

 ふむ。どれも納得できるが、「単に服装の意」が最もしっくり来る。流行を追うだけがファッションではないし、服を着ない人はいない。何を着るかは季節にも密接に関わっている。今回は流行りだけに拘らず、服飾全般を取り上げてみたい。

 服飾に関する季語は色々ある。夏ならば「Tシャツ」「レース」「サンドレス」「アロハシャツ」「サングラス」、冬ならば「コート」「セーター」「カーディガン」「ブーツ」。どれも季節が変わり目には、ファッション誌に登場するキーワードだ。

 春と秋は具体的なアイテム名は少なくなるが、春には「春服」「春コート」「春ショール」やお花見にきていく「花衣」など。秋には「秋袷」があった。(洋装メインで引いてしまったが、もちろん他の季節にも和装の季語も多い)。

 こうした服飾に関する季語を中心とした、ファッションアイテムが登場する俳句をいくつか、季節順に紐解いてみたい。



春服の人ひとり居りやはり春 林翔

 立春は毎年2月4日頃。寒さのピークの終わりあたりだろうか。この日から俳句の当季雑詠では春の季語になるし、ファッションに敏感な人の服は少しずつ春にシフトチェンジしていく。もちろん「そうしなくちゃいけない」ではなく、「そうすると楽しい」という細やかな話。電車の中、街中、オフィスの中で重い冬服の合間に軽やかな春服を見かけたら、それはやはり春の兆しである。「ひと」「」「はる」などの音が一句の中で繰り返されていて、少し浮かれた感じを覚えるのも春らしくて良い。

廻転扉出て春服の吹かれけり 舘岡沙緻
春コート巨船より去りひるがへり 加藤瑠璃子

 さて本格的な春の到来だ。日が伸び、暖かい日が増え、ゆっくりと草木が芽吹き始め、桜の蕾も膨らみ、そして、何より風が強い。春というものはとにかく風が強いのである。軽やかな春服が、ショールが、スカートが、ワンピースが、そして薄手のコートが、風に吹かれて翻る。海の上でも、都心の大きなビルの間でも、豪快に端々をばさばさひらひらとさせている。

暮れかぬるジーンズの破れ目の肌 小川楓子

 暖かくなって来れば、自然と軽装になる。冬にはとても着れなかったダメージジーンズも、春風の中では心地よい。ゆっくりと暮れていく春の夕方に破れ目から覗く肌には、まだまだ青春を謳歌する強さを感じる。

半袖やシャガールの娘は宙に浮く 三井葉子

 夏がやってきた。立夏は5月5日頃。ゴールデンウィーク前後は急な寒さが戻ってくる日もあるが、これ以降はどんどんと夏に近づいていく。夏といえば老若男女、半袖が基本の季節。この時期にはまだ少し早いけれど、ファッション好きの中には浮き立つ心で半袖を着始める人も結構いるだろう。シャガールの「青いサーカス」の娘のように、わくわくに大胆に行こう。

ハイヒール山に突き刺し夏に入る 加納綾子

 ハイヒール(しかも突き刺さるからピンヒール)で山に行ったら方々から叱られそうだが、ロープウェイで展望台までちょっと登るくらいは許して欲しい。少し登るだけでも夏の山の空気は清々しく、元気に一方を踏み出したものの、展望台までの道は舗装されていなくてヒールが刺さっちゃったりする。汚れたヒールと共に、大事な旅の思い出だ。

柄に柄合はせて楽し南風 箱森裕美

 柄に柄を合わせるのはオシャレ上級者のすることだ、な〜んて、そんなルールはほっぽり出して、大好きな柄と大好きな柄の組み合わせを自由に伸び伸びと考えるのはなんて楽しいことだろう。大きくて優しく心地よい南風が、そんな自分の”大好き”を全部包み込み肯定してくれる。


あたらしい水着のはなしサラダバー 神野紗希

 四十代の自分から見ると、この句には「あの頃の楽しい夏」が全部詰まっている。大好きな女友達と、これからいく楽しい旅行の予定と、ちょっと冒険しちゃうかもしれない水着と、それ以上にもっともっと尽きることのないおしゃべりと。恋は始まる前が一番ドキドキするし、旅行は準備が一番わくわくするし、水着だって選んでいる時が一番楽しい。永遠にこのサラダバーに居たかった。

たたみたる日傘のぬくみ小脇にす 千原叡子

 昨今の日本の夏は日傘がないと生き抜くのも厳しい。最近はデザインの種類も豊富で、自分のスタイルに合った日傘を探すのも、ファッションの大きな楽しみの一つだ。そんな戦友、日傘先生を屋内に入りさっとたたむと、たっぷりと太陽の熱を吸いじんわりと温かい。クーラーがぎゅっと利いた屋内では、案外それにホッとする。

秋雨や鎖骨に歪むネックレス 西生ゆかり

 秋がやってきた。立秋は8月8日前後でまだまだ暑いけれど、お店のショーウィンドウはじわじわと秋物に移行していく。秋雨が降り始める頃には、急に冷え込む日もあるから注意だ。この句では鎖骨にかかるネックレスが僅かに歪んでいる。ペンダントトップが気づかぬうちにズレてしまっているのかも。長雨が続くとついぼんやりして、ネックレスの存在を忘れてしまう。

秋風やとろりと外すネックレス 西生ゆかり

 こちらのネックレスの句も同じ作者から。こちらはネックレスに「とろり」という擬音が心地よく、とても素敵だなと思った一句。細くて長い、金のチェーンのネックレスを想起した。今日の出来事を思いながらゆっくり丁寧に外すとチェーンがとろりとたわむ。秋の風の爽やかさ、朗らかさも良い。

スカートの襞に月光溜りくる 柴田千晶

 襞のあるスカートと言えばプリーツスカート。プリーツが太いものは学校の制服のイメージに近く、細いものは大人の女性がよく着る定番デザインである。秋の夜に、プリーツスカートで佇み月光を浴びている。ただそれだけの景であるのに、スカートに出来る細い陰影には何か秘密が隠れていそうな空気だ。

祖母はモガ秋夕焼の開きゆく 佐藤文香

 モガは、言わずと知れたモダンガールのことで、1920年代(大正〜昭和初期)に西洋の服装や文化を積極的に取り入れた、いわば当時のファッションリーダーだ。おばあさまはとってもオシャレな女性だったんだろう。秋夕焼の濃い色の中に、いつかの情熱の残像を見る。

右ブーツ左ブーツにもたれをり 辻桃子

 最近は下手すると10月半ばまで暑い日があるので、11月7日前後に立冬を迎えても「やっと秋が来たな」と思う感覚ではある。だが、気候が追いついていなくとも履きたいのがブーツ。かっこいいスタイルにも、フェミニンなスタイルにもよく合うが、脱がれている様はパンプスに比べて少し滑稽だ。ブーツキーパーがなければすぐにくたっとしてしまったり、諦めてぱたりと倒れてしまったりする。この句のように互いに凭れ掛かり何とか立っているのなら、絶妙に良い感じとも言える。

セーターにもぐり出られぬかもしれぬ 池田澄子
 
 寒い季節に安心して身を預けるのはやはりセーター、ニット類。ほっこりしたシルエットにはなってしまうが、寒さの前ではおしゃれの気概もしょぼくれて、毎日セーターを着る。ぼんやりと頭を潜り込ませれば、何かに引っかかって出れなくなったり。いやむしろ、この暖かで安心できる場所から、出たくないのかも。

セーターの袖から我のほどけさう ばんかおり
 
 そんなセーターを愛し愛されながら冬を何とか生きていく。空は重くて、世界は薄暗くて寒くて頭がぼんやりしてくる。セーターと自分がほぼ一体化する頃に、ふと気づけば袖が綻びかけている。そこからゆったりと、セーターと共に自分も解けていくような感覚に陥る。何もかも全て冬の倦怠感と一緒に。

色褪せしコートなれども好み着る 杉田久女

 ここまでは現代の俳人の句を多く取り上げているが、この句を詠んだ杉田久女は明治生まれ。大正から昭和初期の俳人である。
 毎年、色んなブランドから色んな種類のコートが出ているけれど、本当にお気に入りのコートと出会うのはそうそう簡単なことではない。物が溢れている今の時代でさえそうなのだから、この句が読まれた時代は尚更だろう。色が褪せていても好みだからという理由で着るコートは、本当に自分の体によく合って心地よいコートなのだろう。そんな一着と出会えるのは幸せなことだ。

アイロンをあてゝ着なせり古コート
句会にも着つゝなれにし古コート 杉田久女

 杉田久女は他にもこんな古コートの句を読んでいる。(同じコートだと仮定して)本当に気に入っていて、丁寧に手入れをしながら、大切に着ていたんだろうな。「愛着」という言葉があるが、自分の持ち物の手入れを愛情を持って行うと、例えそれが物であっても愛情ホルモンのオキシトシンが出ると読んだことがある。そんな風に愛せるものだけでクローゼットを構成したい、という想いはずっと持っている。

ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子

 そして再び春が来る。例えば去年の春先に「素敵!」と思って買った服でも(よほどの”霽れの日用の服”というわけでなければ)やがて生活になじみ、今年のふだん着になっていく。特に肩肘を張ることもなく、それでいてささやかながらに華やぐような、そんなふだん着、ふだんの心を目指したい。




出典:
角川俳句2022年11月号(株式会社KADOKAWA)
角川俳句2022年12月号(株式会社KADOKAWA)
角川俳句2023年2月号(株式会社KADOKAWA)
合本俳句歳時記 第四版(株式会社KADOKAWA)

炎環 Enkan No.509 2022年11月号
『覚えておきたい極めつけの名句1000』角川学芸出版 編(株式会社KADOKAWA)
『新撰21 (セレクション俳人 プラス)』筑紫磐井 編(邑書林)
『超新撰21 (セレクション俳人 プラス)』筑紫磐井 編纂(邑書林)

句集『すみれそよぐ』神野紗希(朔出版)

『句具ネプリ-冬至- vol.08』(句具)

インターネットサイト:
『増殖する俳句歳時記』清水哲男 https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/index.html

俳句時評160回  世界と幻視――小田島渚『羽化の街』より 谷村 行海

2023年01月05日 | 日記
 世界を言葉にしたがゆえに言葉の隙間からその多くがすり抜けてしまいます。それでも言葉と向き合うのは、有限の命を持つ者の無限に触れたいという欲望があるからかもしれません。

 上記は兜太現代俳句新人賞を受賞した小田島渚の句集『羽化の街』のあとがきによる。「言葉の隙間からその多くがすり抜けてしま」うとあるが、この句集を一読した際、そのすり抜けは良いベクトルへと向かっている印象を受けた。

石と化す都市や緑雨の鳥祀る

 例えばこの句。「石と化す」と言うことにより、眼前にあるありのままの荒廃した姿を都市は見せてくれる。つまり、都市の持つ今の姿がクローズアップされ、過去の姿が剥奪されている、すり抜けている。しかし、今の世界を言葉にしたがため、過去の世界への憧憬がかえって強まってくる。今を写し取ることにより、確かにすり抜けたものがあることには違いない。だが、その奥に潜んでいた世界を私たちに再提示してくれるようなプラスの効果をももたらしていると思うのだ。

みなかみに逝きし獣の骨芽吹く

 つまり、それは世界の再構築となっている。掲句においても、獣は既に死しており、それを言葉にすることにより、獣の生の記録がいったんはそこで確実に停止してしまう。しかし、その後を描くことにより、獣から円環されゆく世界の永遠性を感じさせてくれるのだ。あとがきにある「有限の命を持つ者の無限」がまさしく現出している。また、何の獣なのかを具体的に描写しないことにより、これもやはり獣へのイメージが広がっていく。言葉にすることによってすり抜けたものはあったとしても、私たち人間にも当てはまるようなさらなる普遍性を獲得している。

指先を鳴らせば変はる雪の速さ
型抜きに抜かれ白鳥つぎつぎと


 そのようなことを考えていくと、何気ない句もどこか不思議な印象を帯びてくる。
 常識の範疇で考えていくと、一句目のようなことは起こりえない。指先を鳴らしたときに仮に雪の速さが変わったとしても、それは偶然そうなっただけだったり、錯覚だったりにすぎない。しかし、それを言葉にすることにより、そのようなことが起きたのだという妙な説得力が生まれてくる。
 二句目においても、起きている事象はごくありきたりなことにすぎない。ところが、型抜きに抜かれた白鳥がまるで生命を持ち、そのまま躍動していくかのような錯覚に陥る。言葉の隙間から幻の新たな世界がぽろぽろとこぼれ落ちていくようだ。

芋虫に咆哮といふ姿あり
囀れり壁に塗り込められし鳥


 そして、この幻視が如実に表れたのはこの二句のように思う。
 一句目は爽波の蓑虫の句を思わせる。爽波の句では目と鼻という顔の細部を見ているが、この句が見ているのは姿そのもの。咆哮という全体だけを描くことにより、その細部は剥奪されている。しかし、見た際の驚きのようなものがそれによって句に表れ、読者は咆哮をしているときの顔やその時の体の様子などを想像する。作者が見た幻想の姿を読者も幻視することができるのだ。
 二句目は描かれた鳥。しかし、絵の持つ迫力などにより、まるでその鳥が絵の中から囀りをしているように感じられる。後半の説明的ともとれる文体から考えると、この鳥が単なる絵に過ぎないことは囀りを聞いているときにも頭ではわかっているにちがいない。しかし、頭ではわかっていてもその囀りの音が頭から離れない。現実をも優に超えていく幻視(幻聴)の強さがこの句にはある。

天使ではないので今宵髪洗ふ

 以上のように、句には世界を再構築する感覚とそこから漏れ出た幻想的姿があるように思う。それでは、自身についてはどうか。「天使ではない」とあるように、現実の自分をあくまでも単なる人間としてとらえている。超現実的にも見えてきた世界に対し、自身はどこまでも現実的存在で、だからこそ髪を洗うのだ。しかし、それはあくまでも有限の命を持つからこそなせること。もしかすると、有限性が消失したあとには、天使になれるかもしれない。現実はあくまでも現実として、そのあとの世界を幻想しているのだ。

 最後に、句集を拝読して惹かれたその他の句をあげて終わりにしたいと思う。

さまざまの桜の果ての墓一基
春雨や大仏のなかがらんどう
春夜へと産み落とさるる黒き山羊
流木のまた流れ出す星朧
紫陽花の冷たさに触れ巡り逢ふ
舞踏の素足花冠を海へ投ぐ
夏雲や飛ぶやうに傘出来てゐる
浮輪から見てゐる空と戦争と
冬の雨また轢かれたるゴシップ誌
撃たれたる記憶毛皮の全面に
発つ船の霞となるも手を振りぬ
大夕焼つぎつぎ見切品となる
青蔦のつひにわれらを這ひ始む
御空より零れ落ちては鳥つるむ