三笠配られ阪神忌のうららかに 橋本昭一
阪神淡路大震災から9年後の2004年、大阪でイベントがあり、私もパネラーとして参加することになった。詩人4人で話をしてから最後に質疑応答となった時、会場の老紳士から私に、「神戸はまだ回復していない」と発言があった。私が不用意に「街が復興してよかった」という言葉を発したことに対するストレートな怒りであった。前日に訪れた、私がかつて仕事場として通っていた辺りが、震災前よりは整備され、一見街の機能が復元されたように思ったのはとんでもない間違いだったと、その発言は示していた。お詫びして祈りの言葉を続けながら、その老紳士がうっすら涙を浮かべているようで、私は足の震えが止まらなかった。なんという想像力のなさよ。復興・回復という言葉の多層な意味合いに配慮を欠いた自分が情けなく腹立たしかった。「うららかに」と謳えるまでにどれだけの歳月が経っただろう。和菓子「三笠」の粒餡の甘さにも、塩っぱさが混じっていたかもしれない。
鬼ゆりのあふれる花粉渇水日 坪内捻典『坪内捻典句集』
上水道の完備した昨今では渇水の実感は薄れただろうが、高度成長期には、ちょっとした日照りが続くと水道から水が出なくなることがあった。非常時に備え町内のどこかに鍵付きの共同水道栓が設置されていた。そしていざというときには、その鍵を持つ町内会の役員が定時に開栓するまで炎天下、住民は各自バケツを持参し列を作って並ぶのだった。私の実家は高台にあったので、1日分の水を得るために、草の茂る小径を子供には重いバケツを提げて、往復しなければならなかった。日差しと草いきれと、そう、オニユリのむせるような香りが、零れた水で濡れたサンダルの足元に纏わり付いた。水道栓から頼りなく出ていた水は、きゅっと鍵が締められるともう出ない。その不足を補うかのように、花粉から発せられる豊満なユリの香りが私を労い、慰め、坂の上まで背を押してくれたのだった。
浸水の引きし一線家々に 右城暮石
水の過少も困るが過剰も困る。1972年7月、郷里では未曾有の水害が起こった。町の中央を占める湖が連日の大雨のため氾濫し、死者12人、家屋全半壊114戸、浸水家屋24953戸という惨事を引き起こした。実家の周りの崖は崩れたが、高台にあったため水の被害はなかった。それでも水を含んだ土が粘り気を増して、辺りを凌駕しているように思えた。大事を取り時間を置いて町に出てみると、あっという間に足元が汚れた。異臭がしていた。今まで見たこともない光景が広がっていた。異様な興奮と脱力感とでふらふらしながら歩いていると、大人達が騒いでいた。「ここまで来た」と誰かが言った。「うちもここまで」と指さす人がいた。「浸水の引きし一線」、どの家にも水が住宅を襲った爪痕が同じ高さに残されていた。被災間もなく、引き去った水に等しく傷み、手を伸ばし合う人たちを繋げる印が残されていた。
みちのくの今年の桜すべて供花 高野ムツオ『萬の翅』
2011年は忘れられない年だ。3月11日に東日本大震災が起こった。これは地震だけの災害ではなかった。地震を起点とする津波だけでもなかった。震源地に近い福島県には原子力発電所という爆弾が置かれていた。平時では電力を生み出し人々の生活を活性化し豊かにするものであるはずのものが、大地震によってひとたび軌道を逸すると、手綱を操ることを拒む暴れ馬のように制御不能となり、人々の生活だけでなく命までも危険にさらした。渦中の人々は勿論のこと、遠巻きに見守る人々にとっても、その過程と影響を知るまで多くの時間を要した。だから、4月、目の前にあるのはただ、失ったものいなくなってしまった人たちの存在の空洞であった。いなくなってしまった人たちのかつていた場所さえなくなっていた。何に向かって手を合わせればよいのか途方に暮れるなか、桜だけが例年通り美しく咲いたのだ。せめてもの弔いの祈りとして。
災害は遠いものだと思っていたが、振り返れば筆者のすぐ側にもそれはあった。身近に災害が起こった当時は、それが冬に雪が積もるのと同じで当たり前のように思っていた。けれども、地域によって冬でも晴天が続いたり、雪が積もらないところがあったりすることを体感すると、急に当事者としての痛みが全身を襲ってくるのだった。そして、年中途切れない災害の知らせに、耳を澄ませ、身をこわばらせ、体を丸めて無事を願う。
また、こんなにも災害は頻発していた、何故、という疑問も生じる。単に知らなかっただけでは済まされないザワザワとした思いが日常の隙間をすっと突き刺す。そのように敏感に構えていても、真の当事者でなければ(当事者であっても)、整理することも消すこともできない形のない痛みがあって、そこを癒やすのには計測不能の時の経過が想像される。そのとき詩歌はどうしているだろう。
津波のあとに老女生きてあり死なぬ 金子兜太『百年』
津波の去ったあと老女がそこに生きている、と歓喜すると同時に、「死なぬ」と続く熱量の高い言葉の強さが読み手だけでなく、作者自身の気持ちをも奮い立たせる。生きよ、生き続けて欲しいという切実な願いもある。何があっても俯いていないで前を向こうというエールが、わずか18文字に凝縮されて放たれる。放たれた言葉の無限の光が、残された私たちを生かす。平常非常にかかわらず、作歌の姿勢が作品の真価を糺す。俳句の器はとても小さなものだけれども、盛られるのは底の知れない命への祈り、そして悲喜こもごもの生に寄り添うひとことひともじなのである。
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