「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句。 小峰慎也

2015年03月29日 | 日記
 俳句には入門書が多い。そこで、その入門書に書いてあることが、どれだけ実行できて使えるのか、テストしてみることにした。
 図書館で藤田湘子(ふじたしょうし)という人の『新20週俳句入門』(立風書房、2000年)という本を借りてきた。先に書店で俳句入門書コーナーを見たときにも藤田湘子という名前を見たし、図書館にもあり、見ると、実践的なことが書いてあるような気がした。だから、借りた。もっと理由がある。この本には、「俳句をまったく知らぬ人が、俳句を作る、あるいは俳句を作れるようになるには」と、あとがきの最初に書いてあって、第一作の書き方を具体的に指南している、ということがわかったからだ。
 藤田湘子は、長くカルチャー教室で教えてきた経験に基づいて書いている。俳句を書こうとする初心者が、どんな点でつまずいて、「典型的なダメ句」を作るのか、について、あるわかり方に到達している。
 湘子は、「「五・七・五で、季語と、『や』『かな』『けり』のどれか一つを用いて作ってごらんなさい」と言いたいところだが、そう言われても、「さあ、どれから手をつけたらいいか分からない」というのが落ちであろう。」とした上で、よく作られている、俳句の四つの型を取り出してくる。まずは、その型にそって、第一作から作っていくのが、典型的な「ダメ」を避ける、効果的な手である。
 〔型・その1〕「(季語)「や」」(上五)・「中七」→「名詞」(下五)
 などと、いま書いてみたが、これではなんだかわからない。本の中にある、例句、「名月や男がつくる手打ちそば」(森澄雄)のように、①上五で季語を使い、「や」で切る。②下五を名詞止めにする。③中七は下五のことを言って、④中七・下五でワンフレーズになっている。⑤中七・下五は上五とまったくかかわりのない内容である。という型である。
 早速作ることにするが、その前に、俳句の作り方を大きく二つにわけて説明している。一見関係ない二つのものを衝突させて作る「配合の句」と、一つのことがらを対象とする「一物の句」である。この本では、もっぱら、配合の句の作り方を示すとしている。一物の句が、一つのことがらを書き手独自の視点で洞察しないといい句にならないのに対して、配合の句は、初心者でも、取り合わせの妙をつかめば、いい句ができる、ということらしい。

 たんぽぽや余りすぎたる茶封筒
 春分やうごくことなしのりのフタ

 とか、もっと作ったのだが、ろくなものができない。これはマニュアルが悪いのではない。『歳時記』も見ず、古語辞典の季語一覧とかで適当に季語を選んで書いたこととも関係しているかもしれない。あと、もっと基本的なことだけど、試行錯誤を繰り返さずに、いきなりいい句ができるわけはない。
 〔型・その1〕については、もう少しつっこんだコツが書いてあった。まず下五の名詞から考えろというのだ。それで、それに響きあうような季語を決めて、中七は下五のことを素直に書く、ということだ。たしかに、上から作っていましたね。

 中日や切りひらかれた茶封筒

 結局いまいち。名詞止めの下五というのが、部屋にいるとなかなか思いつかない。素直にというのもむずかしい。一応、素直にはなれるのだが、七・五音にぴたっとくるものが思い浮かばない。それに、素直でも「常識」はダメと書いてある。そのことに関係してくると思うが、「A(だから)B」のような、AからBが容易に連想できる関係になっているものはダメである。
 「悪い句の見本」として書かれていることも、鋭い。

 どうしていけないのか。「蝉」「終戦日」「蓑虫」はどれも決(き)まり文句。(略)内容も虫酸(むしず)の走るような陳腐(ちんぷ)さと薄っぺらな感傷。「毛糸編」「薔薇」「秋」のほうは、巧く表現しようとして小細工した句で、感動のかけらもなく、作者の「してやったり」とほくそ笑む顔が見えるよう。とくに「薔薇」の句は教訓めいたものを言おうとしていて、手に負えない。だいたい俳句の中に次のような内容を盛りこもうとすると、まちがいなく失敗する。いや、俳句の体(てい)をなさなくなる。とくとご承知おきを。
 ・道徳観、倫理観、教訓。
 ・理屈、分別臭。
 ・風流ぶり、気どり、低劣な擬人法。
 ・俗悪な浪花節(なにわぶし)的人情。


 どんどん実作を繰り返す、というのはいいとして、それはいまここですぐにできることではない。当面、うまくいってない理由の一つとして、季語に意味がありすぎる、ということがいえるかもしれない。自分が、季語に親しむ、というこの本というか俳句の眼目に欠けているので、季語の意味をもてあましてしまうのだ。たとえば、「情報や楳図かずおの白い縞」などと、季語の来るべき場所に、方向性のない語を入れると、(この句がいいかどうかは置いといて)急に作りやすくなる。まあ、しかし、それでは、マニュアルの点検になりませんね。
 じゃあ、ダメな句ならいくらでも作れるのかと思って、

 陽春や車に散った紙の花

 というふうに、これは、花粉症で車の中に鼻をかんだティッシュが大量に散乱していたのを、コンビニの駐車場で、さっき見たんですね。われながら、ぞくぞくするほどのダメっぷりだ。
 春から花粉症への直結もすごいし、散乱したティッシュを「車に散った紙の花」はないだろう。恥ずかしくないのか。
 だからどんどん作れるのかといったら、こうしてダメ度にはしゃいでいる分にはいいのだが、書く意欲的につづくわけがない。
 ところで、俳句という文芸、この本のように明晰なものを読むと、文体に対する個人的なこだわりを抜き去ったところに「活」を見出すものなのだなあと思った。文体に関しては、先人の積み重ねにゆだねてしまって、ほかのところで「書く楽しみ」を持てばいい。だから、文体は「型」として、「教えてしまっていい」のである。詩であれば、これも異論があろうが、文体はどこか個人のものという意識が強く、それを方式化して「教える」には抵抗がある、というか、とられちゃう、というか、そういうケチくさい気持ちがはたらく。これって、文体を自分のデリケートな部分と考えているからですよね。
 〔型・その1〕は、応用型へと進む。
 応用型とは、「秋晴れや宇治の大橋横たわり」(富安風生)などのように、さっき挙げた〔型・その1〕の条件のうち、①④⑤が共通している型である。基本型のほうが、名詞止めなのに対して、応用型は動詞や形容詞そのほかで終わっている。中七・下五の流れが、わりと普通の文に近い状態になっていたり、自由度が高まっている、といえるのだろうか。この本では、〔型・その1〕をしっかりやったあとで、応用型を作ると、楽な作り方だと感じると書いてある。

 木蓮や車がとまってまたうごく
 
 とかかなあ。

俳句評 俳句を見ました(2) 鈴木一平

2015年03月14日 | 日記
 ここ2週間ほど実家の本棚にあった『クッキングパパ』(うえやまとち、講談社)を読みつづける日々を送っていたのですが、おかげでこの原稿の存在を掲載予定日の翌日に気がつきました。
 この何かに気をとられる、という状態は、考えるまでもなくやっかいなことで、「こんなん(料理)どう見てもぜったい不味いだろ……」ぐらいのことしか考えられなくなる。思考が受動的になる。けれど、それはCPにかぎった話ではなくて、むしろ私の能動的に考える力を奪い、私を支配する作用は、テレビなどに代表される映像表現を思いうかべた方がいいのかもしれません。映像表現のもつ力に対して最初期に語られたのは、観者の思考の断片化・受動化作用だったそうです。ところで、完全にCPから脱線しますが、受動的であるという状態は、私のものではない何ものかの作用によって私の意識が組織化されている、そのことに気が付いた瞬間にわかるものですが、すぐれた芸術作品のおおくは、それを経験する私たちになんらかの断片化をもたらすようなショックを与えます。私たちの見る経験のなかに作品がもぐりこむ。さらにその作品が、作品体験の前後に私たちの世界観を分けるような忘れがたさをもつようなとき、私たちの感覚はこれまでとは異なったかたち、作品体験を通して組み替えられたかたちで組織化されるそうですが、たとえば「細部の注目」や注目に伴う描写の論理の提示は、私たちの具体的な生活圏を描いているようでありつつ、経験的なものには回収されない別の世界の光景そのものとしてあるようにおもえます。

サングラス試着の鼻の疲れたる ふけとしこ
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/05/haikuworks0523.html

 疲れるという感覚は、体を横切った時間によって、体がなんらかの歪みを引き受けることに起因するものですが、この句を見て思ったのは、サングラス(目にかけるもの)を試着して、鼻が疲れるという経験が自分にはなかったということでした。それは、ぼくが日常的にめがねをかけて生活しているからなのかもしれませんが、であれば、この句は、サングラスやめがねをかけていないひと(試着をする人)よりも、日常的にかけているひとに対して強く作用するのではないかとおもいます。自分の鼻はいまこの瞬間にも、少しずつ疲れているのではないかという印象によって、実際に鼻が疲れていくのを体験できるからです。

真青なる水羊羹の包装紙 前北かおる
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/09/kakyocho3.html

 色は視覚がものに対して感覚するところの、形から発生するもので、色の知覚には光が私たちの周囲に満たされている必要があります。光はこの場合、ものと視覚の関係を成立させる媒介として機能し、それ自体は目に見えないものとして処理されますが、「真青」なのは「水羊羹」なのか「包装紙」なのか、という判断のゆらぎが、「水羊羹」をここでいう光のような存在として機能させるのではないか、とおもいました。現実の景色とはちがって、芸術作品に対する視覚は瞬間的・安定的に成立するものではなく、それを見る時間のなかで刻々とつくられていくわけですが、ちょうどその途中の時間がこの句のなかには組み込まれているように読めます。個人的には真青な水羊羹があってもいいし、実際にあるみたいですが、それよりも「真青な水羊羹も存在するし……」という判断によって生じる視覚の成立の遅れが、結果的に「水羊羹」の存在を際立たせること、それがおもしろいと感じました。こうした句の場合、として、「真青なる」が固着すべき対象は、あらかじめ過去の作品によって規定されているのかもしれませんが。