「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評(第4回) かっこいい俳句、かっこよくなりたい短歌 久真 八志

2018年01月24日 | 日記
〈1〉

 「天の川銀河発電所」(佐藤文香編・左右社)を読んだ。
 開いてまず目次の章立てにかるく驚く。54名の俳句作者たちが「おもしろい」「かっこいい」「かわいい」の章に18名ずつ配置されていたからだ。「おもしろい」はともかく、「かわいい」と「かっこいい」が、大分類に使用するほど批評や鑑賞で重要な概念と思ったことがなかった。

 編者の佐藤はこのような整理の仕方を採用した理由について「今まで俳句を読んだことのない読者に興味を持ってもらえるよう(P8)」と短くコメントしており、そもそもなぜこの3つの形容詞を採用したかについては書いていない。しかし読み進めていくと、佐藤やその対談相手の俳人たちがこれらの形容詞を各作品に対して用いているのが確認できる。

 読み終わってのち、作品に「かわいい」や「かっこいい」を用いるのが意外だと感じたのは僕が短歌評で見慣れていないためで、俳句評ではしばしば登場するのかもしれないと思った。
 そこで、調べてみることにした。

 方法は、以前書いた「『わかる』から探る詩観」と同じである。対象は詩客の俳句時評(俳句評)および短歌時評(短歌評)の記事、2011年4月29日から2017年7月8日までの掲載分とした。記事数は俳句評が145本、短歌評が188本であった。集計には計量テキスト分析用ツール「KHcoder」を、形態素解析エンジンには「Mecab」を使用した。

 まず「かわいい」を使用した記事は、俳句評で5本、短歌評で3本とあまり差がなかった。「愛くるしい」「愛らしい」など「かわいい」の類語を加えて集計してもあまり数は増えなかった。頻出といえるか判断の難しいところであるが、分析に十分な用例がなかったため、これ以上の考察は見送ることにした。

 次に「かっこいい」である。類語として「おしゃれ(洒脱)」「粋」「クール」も含め、それらの語を使用した記事を集計した結果が下表となる。




 差が統計的に有意と言えるかを判断するため、Fisherの正確性検定による棄却確率も示した。慣習としては、p<0.05ならば差が生じたのが偶然とは言いにくいとされる。

 「かっこいい」の使用頻度に差が見られる。短歌評では188本の記事中「かっこいい」という言葉が使用された記事が1本もなかった。また俳句評では「おしゃれ」「粋」などの語も、短歌評よりよく使われ、結果的に「かっこいい」またはその類語を使用した記事数に顕著な差が生じている。
 「かっこいい」やそれに近い概念が10本に1本以上の割合で登場すると考えると、俳句評で「かっこいい」はある程度重要な概念であると言えそうだ。短歌評ではほとんど登場しないにもかかわらず、である。

 やはり、僕が「かっこいい」という大分類に驚いたのは、短歌評で慣れていなかったためだったようだ。

〈2〉

 ここで次の疑問が生じる。俳句ではなぜ「かっこいい」を用いて評することが多いのか、である。

・(堀下翔について)「こんなに早くしてかっこいいレトリックを身につけていることは羨ましい限りです」(P82)
・(藤田哲史〈花過の海老の素揚げにさつとしほ〉について)「まさにこんなかっこいい俳句はないと嫉妬を覚えました。」(P88)

 いずれも「天の川銀河発電所」からの引用で、編者の佐藤の発言である。
 「羨ましい」「嫉妬」などの発言からは、読者であり自らも俳人である佐藤の目指すところを作者が実現していることがうかがえる。このように「かっこいい」は、それを用いる人つまり読者が抱いている理想を実現している作品に対しての賛辞として使い得る。
 なお「かっこいい」は句の姿が理想的である場合と、題材の扱い方が理想的である場合のどちらにも使う。いずれのケースかは厳密に区別されるとは限らないが、引用例は句の姿についての言及といっていいだろう。
 「おしゃれ」「粋」「クール」についても、示す内容はそれぞれ異なるものの、上記の前提は共通している。

 以上のことから俳句では、読者が作品にその人にとっての理想、つまり憧れを見出しやすいといえそうである。

 では短歌は、読者が憧れを作品に見出しにくいといえるのか。
 「かっこいい」やその類語があまり使われないということは、読者が作品に憧れを見出す機会が少ないことを示唆するだろう。
しかし次のようなケースで、憧れの感情を作品に見出す例は少なくない。

 ・(田村元『北二十二条西七丁目』について)「巻頭の歌にも見られたように、どの歌のなかにも小さな憧れが表されている。」錦見映理子「田村元『北二十二条西七丁目』を読む

 作品に「主体の憧れの感情」を見出す評である。この場合、作品が描いているのはいわば「かっこよくなりたい」感情である。そのような作品に対して「かっこいい」という形で評価をすることは考えにくい。


 以上をまとめると、読者が作品に憧れを見出しやすいのが俳句、読者が作品に「憧れを持っている人」を見出しやすいのが短歌といえるのではないか。そのため俳句評では「かっこいい」が多く用いられるのではないだろうか。

〈3〉

 この違いはなぜ生まれるのだろうか? いくつか可能性が考えられる。

 一つ目は、形式の違いによるものである。短歌より短い十七音という音数、また季語を使用するために、主体とその感情を示すよりも、情報量を絞って物事の提示にとどめるという選択が俳句ではなされやすいだろう。逆に短歌は後者よりも前者の形をとりやすいのではないだろうか。

 二つ目は、作者の嗜好に違いがある可能性だ。

 (榮猿丸について)「この人、かっこいいというより、かっこよくないことに興味がない。」(P112)
 再度「天の川銀河発電所」の佐藤の発言を引いた。ここでは先ほどの引用例と異なり、題材の扱い方が佐藤にとって理想的なことがうかがえる。コメントは佐藤が作者の意図を類推したもので、その推定が正しいかはわからない。ただ、そのような制作態度がありえると読者である佐藤が考えていることは確かである。そして既に引用した発言からも、佐藤は「かっこいい」作品を作ることを目指しているだろう。

 なんらかの憧れを持っている作者がいるとして、俳句の作者たちは自身の憧れる「かっこいい」を作品に表したいと考える人が多いのかもしれない。一方で短歌ならば、仮想の主体にかっこよさに憧れている自分を託す人が多いのかもしれない。先に述べた形式の違いから生じる得意な表現のやり方が、それぞれのジャンルの作者たちの戦略に影響を与えているともいえそうである。


///久真 八志(くま やつし)///
1983年生まれ。
短歌同人誌「かばん」所属。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。
短歌評論を中心に短歌、川柳、エッセイその他で活動中。
Twitter&Facebook ID : okirakunakuma
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俳句時評 第93回  遠くて深い 西村麒麟『鴨』を読む   黒岩徳将

2018年01月10日 | 日記
 西村麒麟第二句集『鴨』が出版された。北斗賞受賞作を多くの作家が読んでいるので、筆者の読後感を書きつつもこれらと照らし合わせたい。

 盆棚の桃をうすうす見てゐたり
 盆棚のパプリカ赤し芋の横


 盆棚二句。桃の句は北斗賞受賞作、パプリカの句は本句集で加わった。桃を「見て」いるのに、最終的にカメラはじわじわと桃にズームされていく。パプリカの赤さを言いつつ、横の芋のことも気になっている。アプローチは違えども、二つをとりまく空気感は近い。盆「棚」という、小さな空間を支配する季語を使う構成力があると感じた。

 散らからず流れてゐたり秋の滝
 
 凍滝でない限り、滝は流れる。しかし、この句にとって「流れ」は省略することはできない。多くの歳時記に載っていない「秋の滝」を詠むこと、「散らからず」にうかがえる几帳面、あるいは神経質とも言える主体の様も注目点だが、措辞からうかがえる表面的な特徴にとどまらず、一句全体に(それこそ)流れる冷たいうねりがこの句にはある。対象と距離が離れているのにも関わらず、主体と滝との一体化も感じられて、ますますこの滝を見たくなる。

 踊子の妻が流れて行きにけり
 友達が滑つて行きぬスキー場


 他人事のように捉えているが、見ているということは0%より高い憧憬が存在することに他ならない。
 西村の「見る」については、既に久留島元や田島健一が述べている。「見る」から書いている俳句に、わざわざ「見る」と述べることの意味は、認識の手順の開陳だと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。 

 観察に徹した主体は、低温とも感じられる。その視点は自分自身にも向けられ、ときとして「文鳥」や「松」「竹夫人」などの人外に憑依し「我」を見つめる。しかもその目にうつる「我」は、どうも必ず弱っている。
(【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】麒麟の目/久留島元 BLOG俳句新空間-)


 作者の意図を離れて「見てしまったもの」に注目しなければならない。作者の支配下にない視線。それは例えば次の一句である。

 天牛の巨大に見えてきて離す

(【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること 田島健一 BLOG俳句新空間-)


 私は、西村の「見る」「覗く」関連の句は、「言うが、言い過ぎない」あるいは「言い過ぎているように見えて、言い過ぎていない」と考える。対象を冷ややかに見て、対象と自身の距離感を重要視している。北斗賞受賞作としては、モチーフとしての「妻」「金魚」が焦点化されていたが、『鴨』では特定のモチーフよりも、「距離感」により重点が置かれている。そういえば、句集の筆頭句も

 見えてゐて京都が遠し絵双六

だった。

 涅槃図を巻くや最後に月を見て
 マンゴーに喜び月に唄ひけり
 蘭鋳の子が水中をよぢ登る


 涅槃図の句は、月は涅槃図の中の月のことだろう。「見て」の後の余韻が涅槃図と現実世界との完全な断絶を惜しむ。マンゴーの句は一人称としてとるよりも、「喜び」に重点を置いて三人称としてとった方が主体の冷ややかさを感じて面白い。なぜならその前の句が、「アロハ来て息子の嫁を眺めをり」であるからだ。両脇に挟まれているのが 。蘭鋳の句は前述の秋の滝の句と異なり、「よぢ登る」が作中主体と蘭鋳との一体化を感じさせない。勝手に登ればいいとすら思っていそうだ。
 「距離感」の演出には一句全体の意味内容の総量を軽くして、言葉に負担を書けない「脱力」の技が効く。副詞やオノマトペも割合多いのではないだろうか。ただし、ユーモアのみに直結する脱力ではない。西村の句は肩の力を抜いて読めて楽しくなるのと同時に、少し寂しい。
 近い時期に出版された上田信治『リボン』も、明るい世界を志向していて「読みやすい」ように見える句集である。しかし、上田が「夜の海フォークの梨を口へかな」の「口へかな」という措辞のミクロなこだわりで勝負するのに対し、西村の『鴨』にはそのような句は一句も見当たらない。普通のようで普通でない、楽しそうで楽しいだけじゃない、一語で語りつくせる現実などないということをじわじわと突きつけられているのである。一句を内角低めのストレートだとすると、同じところにボールが投げ続けられるにしたがって、ストライクゾーンがいい意味で狭くなるように感じられるような不思議さがある。シングルよりアルバムで買いたいアーティストの音楽に近い。

 追記したいこととしては、型への意識として中七の「や」切れが、数えてみたところ338句中36句と目立った。この型は、上五の「や」切れよりも転換点の唐突さがともすればネックになりそうだが、西村の句には窮屈さを感じさせない作りになっているものがある。

 黴赤く青く不滅や本の裏
 落鮎の白き目玉や飯の上
 水浅きところに魚や夕焚火


 落鮎の句は「金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎」があるのでわかりやすい。黴の句は「不滅」がともすれば教訓的で言い過ぎの感はあるが、「本の裏」で種明かしのように景が出現するマジックがある。焚火の句は魚の存在がBGMのように季語の夕焚火を支える。いずれも、「や」が中七に置かれることに違和感はない。