「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 だからどうした 久谷 雉

2018年12月23日 | 日記

川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子


 「」の流れという水平方向の運動と「バナナの皮」の落下という垂直方向の運動が〈かわ〉という音を結節点として強引ともいえる形で取り合わせられて云々……などという講釈を垂れる気を、読む者にまったく起こさせないような凄みのある一句だ。


 初出時から現在までにこの句の評価がいかなる変遷をたどってきたのか、筆者の知るところではないが、感嘆も呆れもなにもない真っ白な場所へ、読む者を引きずっていく力を持っている。


 しかも、この〈白さ〉のおそろしい点は、なにもないにも関わらず、まるで軟化した脳みその認識したものの残骸のように、ぐにゃぐにゃとした歪みの気配を潜めているところだ。


 さて、上田信治の句集『リボン』(邑書林)は全6章からの構成で成っている。そのなかでも、「バナナ」と題された章が一番面白かった。


 だからどうした、と言いたくなるような句がたくさん並んでいる。おそらくこの題には、上に述べた虚子の句も踏まえられているのではないだろうか。


スプーンに小スプーンのまじりをり
いろいろないそぎんちやくのゐる世界
文鳥は温し牡蠣フライは熱し
海鼠には心がないと想像せよ
なんといふ夏の夕べや松阪牛
暑き日の新幹線の速さかな
上のとんぼ下のとんぼと入れかはる


 だからどうした、だからどうしたんだとこれらの句を読みながら、筆者は何度もつぶやいていた。


 「文鳥」と「牡蠣フライ」、「夏の夕べ」と「松阪牛」、「暑き日」と「新幹線」などの取り合わせも、意外性より、だからどうしたという感触のほうが先に立っている。鮮やかさではなく、鈍さのようなもの、時間の動きを緩やかしていくようなものがある。この鈍さにはもちろん、虚子のバナナの句のぐにゃぐにゃとした歪みと同質のものが秘められている。


 また、斎藤茂吉や北原白秋に始まって、塚本邦雄や山中智恵子、穂村弘を経て、永井祐に至る現代短歌を俳句にアレンジした一連も面白い。


 山中の「行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ」というスサノオ神話を踏まえた歌のそばに「タクシーを降りれば雪の田無かな」という実に即物的な句が並べられるギャップも捨てがたいが、永井祐の「冷やし中華はけっきょく一度だけ食べて長い髪して夏をすごした」に添えられた次の一句が印象深い。


冷し中華の写真が二枚電話の中


 だからどうした、と言いたくなるような歌に、だからどうしたと言いたくなるような句をぶつけている。「電話の中」の「写真」というと同じく永井の「わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる」を想起させるが、ゼロにゼロをぶつけてその結果、ゼロであったというような感触は揺るがない。


 「バナナ」の章はこんな一句でしめられている。


放ちて楽し冬の金魚のやうな句は


 「冬の金魚」というフレーズはおそらく、岡本綺堂の半七ものの俳諧師殺しを扱った一編のタイトルにかけられているのだろう。半七ものの「冬の金魚」においては、冬になっても湯の中で生き続ける「変わりもの」の金魚が人間における「変わりもの」の喩として登場する。


 しかし、これらの句は果たして「変わりもの」なのだろうか、いや、「変わりもの」であるゆえにかえって俳句の身上というものを明らかにしているのではなかろうか。そういえば、「バナナ」の和名は〈実芭蕉〉であった。