「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評148回 令和の妻俳句鑑賞 三倉 十月

2022年04月30日 | 日記
 妻俳句を読むのが好きである。妻俳句とは言葉そのまま「妻」つまり配偶者を詠んだ句のことだ。この妻は実在、非実在どちらでもいいし、もちろん同性パートナーのことでも構わない。
 俳句歴が二年弱と浅い私でも「妻恋俳句」と呼ばれるジャンルの俳句があり、中村草田男や、森澄雄などの俳人が有名だと言うことは知っている。そうした句も素敵だと思うが、個人的により興味があるのは、現代の俳人が妻を詠んだ句だ。「恋」「愛」「情欲」は、あっても全然いいのだが、表現としては少し抑えて、それ以外も欲しい。もう少しフラットに、妻そのもの、あるいは妻を取り巻くものを詠んでいるものに惹かれる。その為「妻恋俳句」というより、もっとシンプルに「妻俳句」と呼ぶのが相応しいと感じている。

 昨今のSNSには様々な既婚カップルのエピソードが溢れており、素敵なものももちろんあるが、量で言えばネガティブなものがとても多いと感じている。ママ友や、性別問わず既婚の友人、同僚から配偶者の愚痴を聞くこともある。そうした言葉を否定しないし、生きるのに必要なことを吐き出すことは必要だろうとは思うものの、あまりにそうしたものばかりだと、別の角度の話も聞いてみたいと思ってしまうことがある。そう言うとすぐに惚気話?となってしまうが、ちょっと待ってほしい。惚気話は好きだけど、結婚生活は決してその二択ではないはずだ。結婚生活は、常に恋愛初期のような熱い愛で満ちているものではないことは実感を持ってよく知っている。一方で嫌なことばかりではないのも知っている。そうであれば、結婚生活はもたない。つまり惚気と険悪の間に、平凡でおおよそ他者からは不可視な「ふつう」の生活が圧倒的な割合で存在する。そして、平凡な普通の生活の中のちょっとした驚きや、細やかな感動を拾い上げるのが俳句だとしたら、結婚生活においても、そうした瞬間を拾うことは可能だろうと思う。そして私は、そうした取るに足らない瞬間にこそ、生まれ得る妻俳句に惹かれるのである。
 と、いうわけで前置きが長くなったが、幾つかの妻俳句を鑑賞させて頂く。
(タイトルに「令和の」と入れましたが、句が詠まれた時期は平成のものも含まれます)


 まずは、個人的に妻俳句と言ったらの西川火尖さん。ほのかな恋情を感じる妻俳句だ。筆者も会員として所属している結社誌「炎環」より二句。

天の川妻に時計を借りにけり     西川火尖(炎環 2021年11月号)

 妻に時計を借りる、ただそれだけのことに「天の川」と雄大な季語をとりあわせたのが良い。時計を共有することでこの大きな宇宙の中でまったく同じ瞬間を共に出来ていることの驚きや、喜びを感じる。

改めて妻は年上藍浴衣        西川火尖(炎環 2011年11月号)

 「改めて」がとても良い。藍浴衣を着た妻を前にして、少年のような心持ちに一気に戻ってしまう。ほのかな再発見、そして確認。音にならずに漏れただろう微かな吐息に、惚れた側の弱みを感じる。一つ一つの言葉に甘い要素は少ないのだが、この句では「年上」がどうしようもなく甘美に響く。藍浴衣がとても生きている。

 そして、句集『サーチライト』(文学の森)より一句。

椅子引いて妻座らせる聖夜劇     西川火尖

 普段から特別”レディーファースト”な訳ではないのだろう。日常生活のなかでは椅子を引いたりしないからこそ、今宵、特別なこの場面が印象的な一句になる。椅子を引く動作も「座らせる」という言葉も、どこかお芝居がかっていて、それを敢えて楽しんでいる様子が伝わってくる。それが、季語の「聖夜劇」と響き合っている。クリスマスイブ、外はもう暗くて、雪が降っている。石造りの教会は冷えており、足元には古いカーペットが敷かれている。しんとした空間に古い木の椅子を引いた時のぎ、と軋む音が響く。そんな景が浮かぶ。たとえ、実際は、児童館のパイプ椅子だったとしてもだ。


 次は、山口優夢さんの作品をいくつか。「セレクション俳人 プラス 新撰21」(筑紫磐井/対馬康子/高山れおな編/邑書林)より一句。

婚約とは二人で虹を見る約束     山口優夢

 虹はすぐに消えてしまう。空を見上げて「虹だ!」と叫んだ瞬間に、その声が届く範疇にいる人とでないと、一緒に見ることを約束することは難しい。とてもロマンチックなことを言っているように見えて、とても現実的で、だからこそ結婚ってそういうものかもね、と思う。そして、それくらいしか約束できないのも、また事実。

 週間俳句(2017-08-20)10句作品「殴らねど」より一句。

妻は思ひ出し怒るみんみん蝉のごと  山口優夢

 喧嘩をしている時にこんな句を詠まれたら、火に油で怒りが再燃するんじゃないかとハラハラするが、こうやって妻の何度も何度も湧き上がり繰り返す怒りをみんみん蝉みたいと俯瞰的に思って冷静であろうとする視線が、作中主体の必死さを感じて良い。そして、こういう喧嘩ができるのは健全だとも思う。

 次は「炎環 2022年2月号」から、渡辺広佐さんの句。

逆立ちのできる妻なり冬銀河     渡辺広佐

 妻の得意げな顔も見えてくるし、作中主体もどこか得意げである。逆立ちができることは日常生活では役に立たないが、そんなことはどうでもいいのだ。逆立ちができることはかっこいいのだから。この細やかな事実を「~なり」と言い切っているところが
おかしく、そこに雄大な冬銀河という季語を取り合わせたのも愛を感じて良い。ここで言う愛は、恋愛を包括する、銀河のように大きな人間愛である。
 こちらは、炎環の500号記念の「私の好きな私の一句」という特集から引いたものだ。つまり、渡辺さんのお気に入りの句なのだろう。そんなところも素敵だ。


 少し不思議な妻俳句も見てみたい。中村安伸さんの句集『虎の夜食』(アヲジ舎)から四句。句集全体が掌編小説のような散文と、そのあとに続く連作俳句で出来ていて、現実と非現実の曖昧な部分が描かれている。その中にたびたび妻俳句が登場するが、これはイマジナリー妻なのか、リアル妻なのはわからない。しかし景がとにかく美しいので鑑賞させて頂く。

風船の難破見下ろす遠き妻      中村安伸

 手を離れて飛んで行ってしまった風船と、それを見ている妻。どうして「見下ろす」なのかと思ったのだけど、これは、主体が風船なのだろうと思った。あるいは、風船にぶら下がっている人物か。絵本の、あるいは絵画の1シーンのよう。妻はどんどんと遠ざかっていくのに、その表情が見えるようだ。不安げなのか、それとも、どこかほっと安堵しているのかは、読む人によって変わりそう。

涼しさや時間旅行をして来し妻    中村安伸

 これも物語の場面のようで不思議で美しい句。歴史展や、美術展から出てきた場面のようにも思える。涼しさや、という季語で妻の横顔が見えてくるようで良い。夏の木漏れ日のような陰影も感じる。

雪しまく妻の読書は遅々として    中村安伸

 外は吹雪いている。本を読んでいる妻はなかなかページを捲らない。おそらく吹雪の激しさとは裏腹に部屋の中では時間の流れがとてもゆっくりで、安心に満ちているのだろう。こんな日には確かにじっくり読書をするか、じっくり好きな人を見つめているのに適している。

実験に妻が必要つばくらめ      中村安伸

 実験という言葉が不思議で面白い。なんの実験なのかはわからないが、おそらく仕事で行う実験ではないのだろう。それよりももっと個人的な興味による実験か、はたまた、作中主体は博士なのかもしれない。どちらにしてもここで書かれている妻は助手なのか、被験者なのか、それともただ作中主体が、ただ、妻に隣にいて欲しいのかはわからないが、妻がいないと成り立たない。そんな実験なのだ。燕が周りを飛んでいる。青空、旋回。きびきびとした清々しさを感じる。

 最後は、少し不思議な世界を描いた田島健一さんの句集『ただならぬぽ』より二句。

妻となる人五月の波に近づきぬ    田島健一

 「妻となる人」という表現がたまらなく良い。まだきっと「」と呼ぶには早い、あるいは、そう呼ぶには照れくさい時期。その絶妙な距離感をそのまま表現するところに、妻となる人へ対する繊細な誠実さを感じる。五月の波に近づく妻となる人もまた、波とその微妙な距離感を保っているように思える。引いては返す波の音、潮の香、それらに包まれていても視線は「妻となる人」しか見ていないのだ。

鏡中のこがらし妻のなかを雪     田島健一

 鏡に窓が移りこんでいて、そこから木枯らしの様子が見える。同時に、妻の中には雪が振っている。この雪は妻の中に積もる冷たい感情の比喩ではなく、静寂の比喩だと読んだ。ふと、思い出したのは茨木のり子の詩「みずうみ」の中にある「人間は誰でも心の底にしいんと静かな湖を持つべきなのだ」というフレーズ。
 老若男女関係なく、人間の心の底に抱える「しいんと静かな湖」。そこに雪が静かに降りていく。外では木枯らしが吹いているけれど、今の妻には関係ないことだ。彼女は彼女の中に降る雪を見つめている。とにかく静かで、隣にいるからこそ感じる、美しい句だと思う。


 ここにあげた以外にも、世界には様々な妻俳句があるのだろうと思う。もっといっぱい読みたいのだが、なかなか探し切れていないというのが正直なところだ。そういうつもりじゃなく句集や俳句雑誌の連作を見ていて、ふっと妻俳句が登場すると、お! と、嬉しい気持ちになる。珍しいからこそ、印象に残る。
 もちろん妻俳句だったら何でもいいわけではない。前時代価値観で何某かの付属品のように描かれる「妻」には(もちろん内容によるけれど)むむむという気持ちになることもあるし、属性で人を見るような「人妻」という言葉も否定はしないが個人的には惹かれない。そして妻俳句に限らないが、謙遜のふりして身内を貶めたり、あるいは揶揄したものには悲しくなるのは言うまでもない。
 令和の妻俳句というのは、そうしたものを意識的に通り越えた先にあるものだと思う。
 一番近い他人(=人間)としての妻を、誠実な距離感で詠んだ俳句。そんな句を読むと、老いてから思い出のアルバムで懐かしむ家族の写真を、今先回りして見せてもらったような、そんな不思議でこそばゆい気持ちになるのだ。
 ちなみに余談であるが私はBLを嗜む人間であり、また俳句のいわゆる”BL読み”が好きだ。そして、おそらく同じような心のときめきを持って妻俳句を読んでいる。つまりは、人間二人の間にある、恋愛を包括するが決して恋愛だけではない、対等だが必ずしも対称的とは言えない、揺らぎを含む関係性というものに惹かれているのだと思う。
 ちなみに夫俳句はダメなのかというと、もちろんそんなことはない。でも妻俳句よりさらに見ない気がする。素敵な句、面白い句があったら教えて頂けると大変嬉しい。

俳句評 Haikuが一番短い 沼谷 香澄

2022年04月22日 | 日記

 十年ほど前に、ウェブで調べ物をしていて、3 words poemというものに行き当たったことがありました。英語による、3語の詩です。これこそ、世界一短い詩形ではないか? とその時は思いましたが、いま検索すると、3語で単独作品とするものは見つからず、1行を3語に制限して、行を連ねていく形の詩が出てくるだけでした。英単語3語の詩で1ジャンルを作るのは、限界があったのだろうと想像しますが、詳細はわかりません。

 俳句はいまのところ世界最短の詩形という地位を保っているようです。他言語に入ると、音節数が5-7-5の3行にする、行の長さが短-長-短の3行にする、などの形で、日本語の俳句の音数律に寄り添い、かつ俳句の持つ圧力(または、詩情)に近い力を短い言語表現に含ませるための工夫がされています。

 私が英語俳句に初めて触れたのはSimply Haikuというウェブマガジンでした。刊行時期は2003年から2009年で、終刊して久しいですが、アーカイブが今も公開されています。終刊号(Winter 2009, vol 7 no 4)には次のような作品がありました。

night trip to the city of ghosts my past  Dietmar Tauchner

season of petals on a bare branch    Jacob Kobina Ayiah Mensah

in
you
released               Terry O'Connor

heavy fog —
unable to see
your lies               Claudette Russell

 このように書式の違うものを並べると、改行の力というものを強く感じます。3番目は、3語ですが、改行によってためを作ることで1語1行が成立しており、これがもし1行書きだったら、youの後ろにカンマを入れないと読めないのではないでしょうか。4番目も3行書きですが、最後に落ち(または、転換)を入れるのにも、3行書きは具合がいいように思います。

 1行書きにすると、改行の力を借りずに、言葉少ない表現の中に詩情を生成させる技術が要るように思いました。1番目の作品は、音節数は少ないものの3句に分けられるようです(night trip/ to the city of/ ghosts my pastなど)。3行書きでもそうですが、場面を3つに分けて積み重ねる、あるいはたどることで情景を作っていく様子が読み取れますが、振り返って日本語の俳句を思うと、句全体をわかつ3という数字は、あまり意識しないことも多いと思います。

 Sinply Haikuは、音数律よりも言葉少なくいうことに重きを置いた作品がおおく、そこが好きだったのですが、これはこの場特有のスタイルというわけでもなく、ウィキペディアのHaiku in Englishの項目を見ると、10から14音節を使って、日本の俳句の「持続時間(duration)」に近づける作家もいる、とのことです。語数や書き方については、ウィキペディアにはもっと過激な例がありましたがそれはぜひ直接ご参照ください。

 最後に、先ほどの引用の2番目をがんばって日本語にしてみます。

ときはいま花びらつけたはだか枝 Jacob Kobina Ayiah Mensah