最近SNSで、ZINEと同人誌が違うものかどうか、という議論を読みました。ZINEはアメリカ由来で紙面デザインにも凝ったお洒落なもの、同人誌は漫画やアニメの二次創作を掲載する日本独自の自主製作雑誌、とジャンル分けを主張する人がいました。
しかし、短詩に携わる人で、「同人誌」という語からイメージするものはまた違っていると観測するし、自覚もあります。雑に言えば、結社誌の対義語ですね。主宰がいて表現の主義主張のあるのが結社誌、無いのが同人誌。成り立ちも、1970年代とされる二次創作同人誌よりさらにさかのぼれると思います。
同じような、言葉についてしまった垢というか澱のようなものを邪魔だなと思うときはほかにもあります。でも、地ビールよりクラフトビールのほうが新しくておしゃれで特徴があって美味しい、と思ってしまいますし、いま脚の下にあるフローリングは、板張りの床というときと、もしかしたら工法的な差があるかもしれませんが、意味は違わないよね、とひそかに口をとがらせたりします。こなれれば垢も模様とされてしまう。
角川俳句2025年4月号の特別寄稿「オントロジーとしての俳句 フィリップ・デスコーラの比較人類学論の視点から」(マブソン青眼)を途中まで読んで、ある語の意味の違いに愕然とするあまり読む目が留まってしまったために、これを書き始めました。ナチュラリズムです。
その文章には、ナチュラリズムという言葉は、わたしが短詩創作の基礎となると思っている自然主義≒写生≒実相観入とは、全く違うものらしいということがかかれていました。ここのナチュラリズムはオントロジー用語として再定義があるのですが、それにしても、「ナチュラリズムでは、『人間』と『その他』がハッキリと切り離され、人間のみに魂の存在が認められ、デカルト辺りからNatureとCultureが完全に決別するという」(P.106)という文を読んで、なんか久しぶりに、生まれて初めてだこんなのを見るのはー、という感慨が来ました。NatureはCultureに入らないものを指す。Natureはわたしの思う自然とはちがうものだった。でも、全くの余談ですが、モノに魂が宿る、という「思想がある」ではなくて本当に「魂がある」と信じていたら、怖くて刀剣乱舞で遊べないと思います。
わたしの宗教観は、日本に生まれ育って普通に見聞する仏教と神道と儒教が混ざったものだと思います。宗教にはその土地の環境が色濃く影を落とします。
Facebookに登録したばかりの頃――2006年か7年か、まだネット界隈もユーザーの善意を信じられる長閑な場所だったころですが、宗教を登録する欄があって、少し考えて私はAnimismと書いたのを覚えています。Buddhismとは言い切れないし、Shintoismじゃないし、宗教と言われてほかにピンと来るものが無かったのです。
人間は自然の一部であると思う、今も思っているし、人間が都市を構築したりロケットを飛ばすのは、ツバメが軒下に巣を作ったりアリジゴクが砂に穴を掘るのとたいして違わないと思っているし、なぜ人間とそれ以外を区別する思考が成り立つのか、腹落ちレベルでの理解は、多分一生できません。経営戦略のようなものだと思えばわかります。人間の利益を中心に考えるなら、わかります。世界を見て理解するときにさえ人間の生存と繁栄から意識を離せない、だから栄えるわけだと思いますが、だから東洋人は、わたしは、負けて滅ぼされる運命だとも、思えません。利己を極めるとどうなるのか、今実践している国がありますね。それはともかく。
生き物を食べるのをよしとしないヴィーガンはなぜ植物なら食べられるのでしょうか。これは私だけの特殊な感覚ではなく、歌会で会うほかの歌人が語るのを聞いたこともあります。生き物はほかの生き物を食べて生きるしかない、というのが、この自然の決まりごとで、だからすべての生き物に感謝して生きようというのが私たちの感覚で、これは日本人には普通の感覚だと思うけれど何の宗教に由来するのかはわからなくて、たぶんわたしのおもう自然は、世界とかユニバースという語にちかいのかなあとも考えます。
オントロジーの本を注文しましたがこの原稿の締め切り迄に届かなかったので、文化人類学の話はここで終わりです。異文化の視点を入れることで俳句の理解は新しい広がりを見せる、面白すぎる。面白すぎてなにか根元にある大事なものを見失わないようにしないと、と、やはり警戒心がすこしのこりました。子規の時代に西洋思想が輸入されて西洋の思想用語の訳語がたくさん生まれてわたしたちはそれを使っているわけですが、それ以前には、漢文と一緒に中国の哲学が輸入されて日本人は長い間中国の思想と日本の自然(また自然が出てしまいましたが)を比較して昇華しながら日本文化を生きてきたので、新しい尺度はここにあるものを測りなおすことで新しいものを見せてくれるかもしれないけれど、そのためにあるものをこわしてはいけないとも思います。もうひとつ……名句はどこを切っても、名句です。異文化の尺度は、鑑賞よりも創作において本領を発揮するものだと感じています。
なぜ空がこんなに青い 死ぬ日にも マブソン青眼『妖精女王マブの洞窟』P.19
くちばしが銃より太き鴉かな 同P.47
※
なぜ戦争があるのか、というのがずっと不思議でした。自分がけがをすると痛いし死ぬのはこわいけど、ある場合において、同じ人を殺すのは平気で何なら喜びさえ感じるらしい。なんでそんな非人間的なことを、人間は辞めないのか。
最近わかってきました。
小説はほとんどファンタジーしか読まないのですが、上橋菜穂子の守り人シリーズや小野不由美の十二国記などでは、戦いがあっても、それぞれの事情と苦悩が、読者にどちらも共感できるように展開されて、私たち読者はそれぞれの立場を理解して苦しみをわかちます。
いっぽう西洋のファンタジーはどうか。J.R.R.トールキンの指輪物語に出てくる闘いの相手は絶対悪であり、悪は滅ぼされると物語が終わります。同じシリーズの続編は、新しい敵が現れて始まる。その絶対悪という存在があまりにも都合よすぎて、嘘っぽくて、ついていけないものを感じました。何か事情があるに違いないと思って『シルマリルリオン』にも挑んだのですが、確かに敵と味方が枝分かれしたポイントはわかった、でもその枝分かれが以後世界の終わりまで続くように見えるのが、やはり、不自然、不自然だと思いました。
最近、読んで、その両方の世界のありようにも共通するものはあるのだと気がついた、気がつかせてくれたのが、阿部智里の八咫烏シリーズです。この物語は、時間の流れが恣意的です。そのおかげで見えてきたものがあります。利害関係と価値観が、発生した後に固定する。そうすると、恒久的な敵と味方に二分されて闘いが展開する。長い長い物語世界の中で、人が死んだり生まれたり協働したり裏切ったりして関係が動くけれど、多くの物語は、語られ始めて語られ終わるまでは、関係が固定されて敵味方で戦争が続く。みんなわかっていたことかもしれませんが、私は最近ようやく腑に落ちました。戦争は、利害関係が固定されてはじまり、破壊されて終わる。八咫烏シリーズは、私達が生活している日本社会の現実をストレートに寓話化する部分が多すぎて私は嫌いなのですが、じっさい、夢ばかり見ている場合ではないところに私達は生きているのだと思います。夢は必要ですが、現実を見る助けも必要ということでしょう。
長々と非俳句な話を続けて申し訳ありません。機会詠、社会詠は、必要だと言われ、その一方で、詩は無力だといわれます。つまり無力だけれど必要と、理解していいのだと思います。戦場で戦士が暗誦して生気を少し取り戻す。戦場で書き留めて国に送れば、一人の戦士の生きた証が残る。いいんですか? それでいいんですか?
角川俳句を買ったのは、オントロジーよりその次の戦場俳句の文章があったからなのですが、そちらの稿が、引用作品に、作者がいつどこでどういう死に方をしたかの短い記述と一緒に載っていて、先へ読み進めることができなくなってしまいました。なんでだろうと自問しますが、作品は作品として読みたいという気持ちを否定されたから、と書くとその通りなのですが足りない気がします。
戦場で創作していた俳人、歌人、詩人にも、作家の矜持はあった。上は戦場の短歌について、小島なおさんの講座で語られたことの受け売りです。戦場の俳句は、作者の運命と一緒に消費していいものではないのではないでしょうか。戦争を見た人の俳句が残っていることには、戦争を経験したということとは違う力が尽くされていることです。機会詠。新しいレトリックを開拓するよりも、機会詠を読み応えのあるものに変えていくほうが難しいと思います。
※
「短期集中連載① 戦後八十年 還って来なかった兵たちの絶唱」(栗林 浩) に引用されていた句から。
野畔の草召し出されて桜哉
原田 栞 少尉 昭和二十年六月二十二日 沖縄周辺洋上 二十六歳
散る桜残る桜も散る桜
奥山道郎 大尉 昭和二十年六月十五日 弟宛の遺書に 二十六歳
龍天に昔若鷲特攻隊 小出秋光
露けしや特攻戦記にわが名前 同
そのほか、同じ号に掲載されていた作品から。
八月六日八時を過ぎし自動ドア 池田澄子「滾る湯」P.20
人間に飽き狐火にまだ飽きず 仙田洋子「残り世」P.38
後宮のあとかたもなし地虫出づ 桐山太志「神獣鏡」P.79
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