(『現代俳句集成 別巻2 〔現代俳論集〕』(河出書房新社、1983)を読む、というのの続き。)
(時間は戻る。明治42年。大須賀乙字「俳句界の新傾向」という文章がある。その前に収録されている虚子の「現今の俳句界」(明治36年)でやり玉に挙げられている河東碧梧桐に代表される俳句の新しい書き方。それを「新傾向俳句」などと呼ぶことになったらしい。さらにそこから、碧梧桐と歩をともにしていた荻原井泉水がさらなる自由を求めて分かれ、「自由律俳句」に向かうという、一度はそうやってみなければ気がすまない「あれ」という感じもするが、まだそうは誰もやっていなかった時点でやる人間の、新しいことをやっている特権的な興奮も見えてくるようだ。
虚子は「現今の俳句界」では、碧梧桐を「新奇な材料、新奇な語法」と一括しているだけでそれを概念として突っ込んで取り出してはいない。ただし、碧梧桐の俳句への反論の代わりにその俳句に具体的に徹底的にけちをつけるという方法を取っている。こういうやり口、ようするに、理念などとは別に具体的な書き方の中に句のよしあしがあるというようなやり口が、その後、どのような新理念が登場しても、虚子を舞いもどらせることにつながっているのだろうか。これを読んだだけでは、碧梧桐の傾向というのはよくわからない。
「新傾向」ってなんだという気持ちでこのあたりを読みかえしてみたのだ。乙字が述べているのは、「隠約法若しくは暗示法」ということである。乙字は写生を「実物実景」を「有の儘に写す」「直叙法若しくは活現法」としている。ただし、それは単に平凡なことを叙したのではだめで、対象の「性格美―個性美」をよくつかみとっているものでなくてはならない。これは、普段ぼくが不思議に思っていることに対する一つの角度からのヒントと思えた。見たものをそのままに書くというが、普通にただいま目の前にあることをそのままに書いてもほぼ面白くならないのはなぜかというような疑問だ。いま見えているもの(思っていることでもいい)をそのままに書くということには、「誰がいつやってもいい」という、書くことの、いまこのときこの場でなければならないという意味を「奪う」要素が含まれている。書くということがゼロに近づき、ほとんど自動的に作品ができることになる。「自動」的に書くことだけに限らないのだが(恣意的に書くことでも)、いつなんどきでも書ける状態で書いても、書くことによって起こる何ごとも起こりようがない。
乙字がいっているのは、それがそれである必然性(「性格美―個性美」)をつかんでいなければだめで、語を入れかえても成り立つようなものは「性格美」をつかんでいないからだということになる。乙字はそうした上で、活現法は、デッサンである、俳句のいろは楷書時代である、これを一線一皺も残さないでやるには、十七字では限界がある、もっと求める人は写生文に行くだろうといっている。そこで、散文に向かわずに俳句を押しすすめるのには省筆が必要になってくる。省筆して暗示に向かうのだ。何かこの文章自体が乙字の書いていることをただ目の前にあることをそのまま説明、それ以前の追い方になっているような気がしてきた。乙字の文章はとても整理されているのに、それを読んでいるぼくは何を混濁しているのか。
では、その「新傾向」の主役たる碧梧桐は何をいっているのか。タイトルが「無中心論」。これまでの俳句は、「感じ」が一つにまとまっていた。俳句が作られることにより、切り取られた景物における感興の焦点がしぼられ、作品になる、そういった傾向があった。しかし、そんなふうに俳句というかたちにしぼられてしまった感興は嘘くさいのではないか、作っているのではないか、そう感じはじめると一気に窮屈になってくる。現実はもっと混沌として一つの中心などにまとまってはいない。中心点にこだわらず、自然の雑然とした状態をあらわす、むしろそちらに「写生」の意義がある。と、いま記憶で書いてみたが、碧梧桐のことばに即していない部分があるかもしれない。これは要するに、「自然主義」が俳句にも波及したと考えていいのだろうか。ぶっちゃけてみる、という主義だ。明治44年。
井泉水はさらにその碧梧桐からも袂をわかつ。この本におさめられているのは「俳句提唱(抄)」だが、評論というより宣言のようなものである。大正2年に書かれたものから5年に書かれたものまである。五七五などという「外からのリヅム」に押し込められるのではなく、「内からのリヅム」で書きたい。「生命」というキーワードが出ている。大正生命主義といわれる潮流の一端かもしれない。自由律俳句の流れができ、次に収録されている中塚一碧楼の文章のタイトルは「俳句ではない」である。)
(時間は戻る。明治42年。大須賀乙字「俳句界の新傾向」という文章がある。その前に収録されている虚子の「現今の俳句界」(明治36年)でやり玉に挙げられている河東碧梧桐に代表される俳句の新しい書き方。それを「新傾向俳句」などと呼ぶことになったらしい。さらにそこから、碧梧桐と歩をともにしていた荻原井泉水がさらなる自由を求めて分かれ、「自由律俳句」に向かうという、一度はそうやってみなければ気がすまない「あれ」という感じもするが、まだそうは誰もやっていなかった時点でやる人間の、新しいことをやっている特権的な興奮も見えてくるようだ。
虚子は「現今の俳句界」では、碧梧桐を「新奇な材料、新奇な語法」と一括しているだけでそれを概念として突っ込んで取り出してはいない。ただし、碧梧桐の俳句への反論の代わりにその俳句に具体的に徹底的にけちをつけるという方法を取っている。こういうやり口、ようするに、理念などとは別に具体的な書き方の中に句のよしあしがあるというようなやり口が、その後、どのような新理念が登場しても、虚子を舞いもどらせることにつながっているのだろうか。これを読んだだけでは、碧梧桐の傾向というのはよくわからない。
「新傾向」ってなんだという気持ちでこのあたりを読みかえしてみたのだ。乙字が述べているのは、「隠約法若しくは暗示法」ということである。乙字は写生を「実物実景」を「有の儘に写す」「直叙法若しくは活現法」としている。ただし、それは単に平凡なことを叙したのではだめで、対象の「性格美―個性美」をよくつかみとっているものでなくてはならない。これは、普段ぼくが不思議に思っていることに対する一つの角度からのヒントと思えた。見たものをそのままに書くというが、普通にただいま目の前にあることをそのままに書いてもほぼ面白くならないのはなぜかというような疑問だ。いま見えているもの(思っていることでもいい)をそのままに書くということには、「誰がいつやってもいい」という、書くことの、いまこのときこの場でなければならないという意味を「奪う」要素が含まれている。書くということがゼロに近づき、ほとんど自動的に作品ができることになる。「自動」的に書くことだけに限らないのだが(恣意的に書くことでも)、いつなんどきでも書ける状態で書いても、書くことによって起こる何ごとも起こりようがない。
乙字がいっているのは、それがそれである必然性(「性格美―個性美」)をつかんでいなければだめで、語を入れかえても成り立つようなものは「性格美」をつかんでいないからだということになる。乙字はそうした上で、活現法は、デッサンである、俳句のいろは楷書時代である、これを一線一皺も残さないでやるには、十七字では限界がある、もっと求める人は写生文に行くだろうといっている。そこで、散文に向かわずに俳句を押しすすめるのには省筆が必要になってくる。省筆して暗示に向かうのだ。何かこの文章自体が乙字の書いていることをただ目の前にあることをそのまま説明、それ以前の追い方になっているような気がしてきた。乙字の文章はとても整理されているのに、それを読んでいるぼくは何を混濁しているのか。
では、その「新傾向」の主役たる碧梧桐は何をいっているのか。タイトルが「無中心論」。これまでの俳句は、「感じ」が一つにまとまっていた。俳句が作られることにより、切り取られた景物における感興の焦点がしぼられ、作品になる、そういった傾向があった。しかし、そんなふうに俳句というかたちにしぼられてしまった感興は嘘くさいのではないか、作っているのではないか、そう感じはじめると一気に窮屈になってくる。現実はもっと混沌として一つの中心などにまとまってはいない。中心点にこだわらず、自然の雑然とした状態をあらわす、むしろそちらに「写生」の意義がある。と、いま記憶で書いてみたが、碧梧桐のことばに即していない部分があるかもしれない。これは要するに、「自然主義」が俳句にも波及したと考えていいのだろうか。ぶっちゃけてみる、という主義だ。明治44年。
井泉水はさらにその碧梧桐からも袂をわかつ。この本におさめられているのは「俳句提唱(抄)」だが、評論というより宣言のようなものである。大正2年に書かれたものから5年に書かれたものまである。五七五などという「外からのリヅム」に押し込められるのではなく、「内からのリヅム」で書きたい。「生命」というキーワードが出ている。大正生命主義といわれる潮流の一端かもしれない。自由律俳句の流れができ、次に収録されている中塚一碧楼の文章のタイトルは「俳句ではない」である。)