「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評152回 川越歌澄句集「キリンは森へ」 歌代 美遥

2022年07月15日 | 日記
 川越歌澄さんは、北斗賞第一回受賞者である。俳句界という俳句月刊誌において、若手の為の賞である北斗賞が創設された。その北斗賞の第一回目の受賞者である川越歌澄さんの第一句集「雲の峰」から九年の空白から期待を待たれた待望の第二句集である。
 句集の表紙絵は、川越歌澄さんご本人の作画である。音楽家でもある作者は音感に対する明敏さと画家の色彩に反応する視覚の鋭敏さが、句に生かされている。

虹彩のはじめの色は雪解川   歌澄
寒林や一語を洩らす大天使   歌澄
立春やキリンのこぼす草光る  歌澄

 キリンは森へ、とあるが動物園のキリンはキリンの獣舎へ帰る。
 しかし、何度も何度も動物園のキリンと対峙して、キリンと会話を交わしている作者の心は、キリンを森へ返し森の中のキリンと、交流を交えて作者も森に立っている。森のキリンは木漏れ日色の独特な角状斑の模様が鮮やかに、キリンの眼差しに作者は包まれている。あの長い首をすくっと伸ばし、静止して森の木と化し森の一部となるあの網目模様が森に溶け込む自然界の繊細さである。
 表紙絵のキリンの描き方が、後姿で振り向く瞳の優しい眼差しが、手前の大きく真っ赤な毒茸と、対比して遠くの暈した描き方に、作者の心象が流伝している。もし、キリンを前面に持ってきて写実な姿を真近くに見た場合愛らしさは、少し薄れる事が想定される。首の長さの重さを前駆に偏らせ、胸から脚の付け根までの筋肉の発達の生々しさ、分厚い唇の可動性に富んだぶるぶる蠢く奥から五十センチメートルはある黒い舌が、鞭の様にしなり採食する生々しさ、表紙絵のキリンとは、受身が変わってくる。隆々とした筋力の迫力を作者は芸術的な叙情を求めていない。作者の表現者としての視覚という感覚に依拠せず、具象に意思を持たせて神の使いのことく好意的な作者の心象が句を湧き出していく。

眠り猫眠さうな猫牡丹雪    歌澄

 歴史的にも、猫は人間の暮らしに浸潤しペットとして愛されてきた。商い屋の入り口に、招き猫をよく見る事があり、日本では商売繁盛のお守りとして縁起物の飾りとして普及されている。俗説に猫が顔を洗うと人を招き寄せると言われてきたことも、招き猫の起源を思わせる。作者は動物愛好者で上野動物園を巡り、動物たちの存在感を全身で受け止め、繊細でありながら雄大な感覚を研ぎ澄まし動物と対峙している。

眠り猫眠さうな猫牡丹雪

 猫という生命力の素材、牡丹雪という自然界の素材に作者はどの様に風景を、感受し命あるものに没我していく時間の流れが楽しい。牡丹雪という純白な自然界を背景に猫という生ある事象を象徴してズームしていく、俳人の着眼が清らかである。
 猫には、伝説が多い。
 江戸時代の吉原の遊女がとても猫を溺愛している姿に、遊郭の主人が、遊女が猫の怨霊に取り憑かれていると思い、猫を殺してしまう。嘆き悲しむ遊女に生命の危機が忍び寄ったとき、猫の霊が助けて恩返しをする。という伝説が福をもたらす招き猫が生まれた。
 句にある眠そうな猫の瞳は牡丹雪の何色にも染まらない純な処女性の色を見ている。人間界の複雑さも見えないほど牡丹雪は天からの贈り物の様に降り続く白さは、作者の心と重なっていく。季語の象徴性を写実的な模写に主観を抑え、超越した目前の裏側を観ている。句集の表紙絵に描かれたキリンの臨模を抑えた構図は、作者の心象を読者に看破を薄弱させる効力を成している。猫は作者と共に生き、人間に抱かれて、人間の心にある傲慢や偏狭の眼差しなど、疑いもせず老いていく。
 情感の客観的な牡丹雪の白妙のひかりは人跡未踏の色彩を放ち、作者の真率さを失わない人生を読者は、感受する。
 素朴でありながら生命の躍動の喜びは、動物の本能を感じる作家川越歌澄さんの愛である。

ただ水のように生きていればいいんだ

 須藤葉子九十一歳。
 この師の言葉を、しっかり受け止め俳句を、水の流れのようにと、清々しい川越歌澄さんという、優しさと強さが見えてくる。

俳句時評151回 猫に厳しく 谷村 行海 

2022年07月01日 | 日記
 猫はかわいい。それは多くの人が思うことで私も猫が好きだ。住んでいるアパートがペット禁止のため、たまに猫カフェに行って愛でたり、いつか引っ越しをして保護猫を引き取る日のために名前を想像してみたりする。猫はかわいい生き物だ。
 しかし、俳句に関しては猫はかわいくてはいけないと思う。もちろん、その猫の描写に捻りがあったり独自の視点があったりすれば話は別だが、猫がかわいいことは自明なのだから、それを俳句にされてもと思ってしまうのだ。
 だからこそ句会で猫の句が出る度、これは本当に選にとってよい句なのかを他の句より真剣に考えてしまう。
 そんな猫のことを考えている折、『猫は髭から眠るもの』(堀本裕樹編著、幻冬舎)が六月に出版された。この本には猫俳句大賞の第一回から第三回までの受賞作・入賞作が299句収められている。
 それだけの数の猫の句があるわけだから、猫がかわいいだけではない句も当然多数存在している。今回は猫が単純にかわいいだけにとどまらない句に焦点を絞って紹介していきたい。
 
お互いの猫のためなる歳暮かな 吉野由美
野良猫の名前の決まる芋煮会 朽木律子
春風や猫に「ごめん」はすぐ言へる 水谷あづさ

 これらの3句は猫のことを愛でながらも人間の存在感が浮き彫りになる。
 1句目はまず猫を思っている。その上で、猫のために歳暮を送りあう間柄にいる相手との信頼関係も見せてくれる。猫のための歳暮だからこそ、そこに歳暮のランクといった社会の俗な一面もかき消してくれている。
 2句目はたまたま芋煮会に紛れ込んだ猫だろう。芋煮会の最中ずっと猫がちょっかいを出す光景が浮かぶが、それにつれて人々が次第に猫に名前を付けようと思案する様子へと光景が移り変わる。また、この芋煮会を一回だけのものではなく、毎週のように行うものととらえても、芋煮会の回数と共に高まっていく猫に対する思いの動きが見える。
 3句目は猫以外に「ごめん」と言いたい相手がいるということ。ここでの猫は脇役に過ぎず、本当に思う相手への気持ちが見える。猫に何度か「ごめん」と言う度に相手への謝りたい気持ちも強まっていく。

黒猫のじつと見てゐるマスクかな あみま
冬籠猫が爪研ぐ初版本 武藤隆司

 両句とも猫と人間の関係を考えさせられる。
 1句目のマスクは人が身に着けている状態のマスクととらえた。視線を送り続ける猫のことをかわいいと人は思うのだが、よくよく見ると視線がマスクのほうに向けられていたことに気付く。気まぐれな猫は人間に興味がなかったという悲しさ。
 初版本とはっきりと書くわけだから、2句目の初版本は稀少性のあるものととった。猫にはその本の価値などわからず、爪研ぎの道具として使ってしまう。これは猫がかわいいで許してはならない。ただし、その本に稀少性という価値を認めたのは単純に人間の勝手であり、猫からしたら初版本には爪研ぎとしての価値があったことになる。猫が勝手なのと同様に、人間がものを稀少・稀少でないとわけるのも人間の勝手に過ぎない。

春暑し猫の開きに手術あと 中分明美
小春日の猫にセカンドオピニオン 土屋幸代

 人間の病を詠んだ句は多い(ように思う)。そのなかで、病を人間から猫にすり替えたものだが、そのなかでもひときわ個性が光る。
 1句目は「開き」が良い。よく猫がぐでっとしながら仰向けになる光景を「開き」ととらえたのだろう。猫の身体が開かれることにより、普段は見えない・意識しない手術あとが眼前にしっかりと立ち現れる。見えないものを見えるようにするということで、「猫の開き」というこの造語は効いていると感じた。
 2句目はセカンドオピニオンという言葉だけで猫への愛情の深さが見えてくる。その町の規模にもよるだろうが、通常の病院と異なり、動物病院は数も限られているように思う。そんななかでも、愛猫のために二つ目の病院へと駆け込むこの心地よさ。単語だけで愛情が十分に立ち現れるとともに、医師の話を真剣な面持ちで聞く飼い主の姿も見えてくる。

猫の恋競りの終はりし港町 板柿せっか

 猫がいることで町の寂しさが浮き上がってくる。競りが終了になると当然、人々はこの町を後にする。この町は外部のものにとっては競りにかけられた魚と同様にビジネスの手段でしかない。そんな人間たちとは無関係に存在していく猫の人生。いつかはこの猫たちもこの町をあとにするのかもしれない。

右足で猫たしなめておでん食ふ 丹下京子

 雑然とした生活の雰囲気が漂う。猫がご飯を求めてやってくるのを手ではなくて足で払ってしまうことで、この句のなかの人物像が浮き彫りになってくる。おでんの庶民性とも合わさり、猫よりもこの人の生活をもっと知りたいという気持ちを募らせてくれる句だ。

猫鴉鳩定位置に春の昼 西澤繁子

 最後のこの句はもはや猫を物体としてとらえている。いつも行く公園などでいつも決まった位置にこの三種の生物が物体的に存在している。この三種が揃って初めて春の昼ののどけさを味わうことができるのだ。気まぐれで一種でもいなければ不安を掻き立てられてしまう。自身とは無関係に存在しているにもかかわらず、あたかも自身の所有物ででもあるかのように猫をとらえたのがおもしろい。


 以上、気になった句をいくつか紹介してきたが、気になるのは人間と猫との関係だった。猫をかわいいと思うには、当然そこに人間が存在する。そのため、猫のことを詠んでいながら、そこからその人間の姿のようなものが出てくる句もある。巷間にあふれる猫がかわいい俳句を脱却するためには、猫を介して人間を詠む必要もあるのではないか。多数の猫にふれることでそのようなことを思った。