「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句。2 小峰慎也

2015年06月27日 | 日記
 思わず、前回(2015年4月2日号)の続きを書くことになった。
 どうも、この藤田湘子の『新20週俳句入門』という本は、「当たり」だったらしい、ということがうすうすわかってきた。
 前回、書きわすれたこと。俳号(雅号)を考えていたのだ。小峰十日。別のところで使ったことがある「小峰充実(じゅうじつ)」というペンネームに違う字を当ててみたものである。こういう作り方は趣味ではないのだが、この本にヒントをえて、新鮮な気持ちで考えてみた。これでずっと行くかどうかはともかくとして。

 『新20週俳句入門』をネットの古本で買った。値段が落ちておらず、藤田湘子没後出版された最新版を新刊で買ったほうが安いくらいであったが、『新20週俳句入門』ではじめてしまったものは仕方がない。
 歳時記に関しても、湘子がリストアップして、おすすめと書いているうちの1冊、山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)を注文してみた。

 前回は、4つの型のうち、〔型・その1〕の応用のところまで、試したところで終わっていた。〔型・その1〕とは、

  (上五)季語「や」
  (中七)下五にかかるように
  (下五)名詞止め

 というものであった。その後も、何句か作ってみたが、なかなかつかめない。下五にかかるように書く中七の部分、どうも音が多すぎるというか持てあましてしまうことが多い、とだけいまはいっておこう。

 残りの3つの型を先に挙げる。

  〔型・その2〕
  (例)寄せ書の灯を吹く風や雨蛙 渡辺水巴
  (上五)+(中七)を「や」で切って、(下五)を季語の名詞で止める。

  〔型・その3〕
  (例)金色の佛ぞおはす蕨かな 水原秋桜子
  (上五)+(中七)で切って、(下五)を季語+「かな」で終える。

  〔型・その4〕
  (例)はつあらし佐渡より味噌のとゞきけり 久保田万太郎
  (上五)を季語として一度切り、(中七)+(下五)を「けり」で終える。

 それぞれに、応用型もいくつかあり、4つの型といっても、全体のバリエーションで考えるとけっこうな数になる。

 〔型・その2〕は〔型・その1〕に対して、「や」で切る位置が変わったもの、と同時に、季語が下に来て、それで結ぶようになっている。
 作り方にどう違いが出てくるか。〔型・その1〕よりも少し拘束力が弱いように感じる。というのも、〔型・その1〕では、上五が、季語+「や」、下五が名詞止めと、上下で、がっちり決めなければならないので、型に適合する語を思いつくのに苦しむ。あきらかに、通常用いることばづかいを基準とすれば、「無理」なことばづかいであることがよくわかる。というより、〔型・その1〕は、型の大切さ、有効さを身に染み込ませるという意味合いもあるのだろう。
 〔型・その2〕では、上五から中七までのつながりの部分で、ある程度散文的な意識も許容するゆるさを持っているように思える。しかし、実際には、〔型・その1〕より堅い印象を与えるという。それは結局、上五+中七を「や」で締めて、ゆるさを追い出してしまい、その上、季語の名詞止めで終わるからだろう。

  (自作)

を引用したいところなのだが、ものすごく書けないので、ちょっと待ってほしい。

 ポイントとして書かれているのが、まず、上五+中七で、具体的なイメージが読者に通じるように、ということ。ここでぼんやりしたことを書いたのでは、どうもこの型は活きないらしい。
 それから、これは、〔型・その2〕にかぎらないのだが、「季語が動く」ということに注意を与えている。ようするに、季語の差し替えが可能な状態ということだ。ほかの部分を書いて、あとは、歳時記などから適当な季語を持ってきてくっつけるだけ。よくやってしまうが、結局、適当な季語を持ってきても、それがほかの部分と、うまく組み合わされていなければ、「決まらない」。藤田湘子は、「季語が動く」原因として、「季語が適切でない。」「季語以外のフレーズが十分でない。」の二つをあげている。「フレーズが十分」とは、自分で見た、発見したという、「自分の目」が十分に働いているかということだろう。
 ここまで教えてもらってなぜできないのか。

  植物を入れる袋や半夏生
  マロニエの葉重なるや蝉生まる
  焼きそばを箸でつかむや夏の風

 「植物を入れる袋」が喚起力いまいちというところだろうか。実際には、よその庭先で栽培されていた、名前のよくわからない植物のまわりに、薄手の透明ビニールが囲ってあったのである。これぐらいの情報で、どうだろう、ほかの書き方が思い浮かばないか。「草囲むビニール袋や」「植物を囲む袋や」など、「囲む」で「袋」とすると、説明がなくてはイメージしづらくなってしまう(前者は字も余っている)。「木を入れる袋なびくや」? 却下ですね。
 2番目のやつは、マロニエがもしかしたらほかの季節の季語なのでは、とびくびくしつつ作ったもの。多分マロニエの木だと思うものの葉がやけに重なりまくっていたということと、夏になる前に、蝉らしきものが鳴いていたので。あとで、歳時記を見たら、「蝉生まる」という季語が出ていた(「マロニエ」、調べたら初夏の季語で季節はいいが、「蝉生まる」と「季重なり」ということになるか)。

 応用編はとりあえず、とばして、〔型・その3〕。

  歯みがきて吐くもの白し日傘かな
  曇り日の座椅子重ねる五月かな
  植物を袋に入れし五月かな

 「かな」の扱いはデリケートだという。「かな」とは別に、強い切字を使ってしまうと、「かな」の効果が消えてしまう。「「かな」という切字は、下五に使ったとき、一句全体をやわらかく包みこむという性質をもっている。」ということだ。ここでも上五+中七と下五の「配合」は起こっているのだが、それは強い衝突ではなく、弱い「ずれ」とか「広げ」、「妙」のような「ぶつかり方」をしているということだろうか。
 上に3つ作ってみたが、どうも下五に持ってきている季語が安易である。「季語が動く」という状態になっている。
 「配合」ということの、もう少し突っ込んだ説明が書いてある。たとえば、「遠山に日の当たりたる枯野かな」(高浜虚子)のように、遠いものと近いものを「配合」し、視点の切り替え、その動きによって、鮮やかな印象を与えるというものである。ほかに「大」と「小」、「明」と「暗」など、やはり対照的なものの「切り替え」が効果的であるようだ。

  歯みがきて吐くもの白し夜鷹かな
  歯みがきて吐くもの白し小暮かな

 「内」と「外」、「白」と「闇」などの対比を考えてみた。だけど、やはりいまいちである。むしろまだ「日傘」のほうがいい気がする。対比自体が「見え透いている」からかもしれない。

  歯みがきて吐くもの白しくらげかな

 比喩になりかかってしまっているだろうか。

 また、応用はとばして、〔型・その4〕に行く。「けり」というわけである。
 「かな」と「けり」はどう違うか。「「かな」は沈黙の切字」、「「けり」は決断の切字」というのが、藤田湘子のことばである。「かな」の場合は、あれもいいたいこれもいいたいというような未練を断念し、「いいたいこと」は省略し、切字に託すというような書き方である。それに対して、「けり」は、「これでいく」ということを決めてかかっている態度のあらわれである。作者の中で、「決まった」ということが起こった、ということかもしれない。

  初嵐古きタイヤの割れにけり
  鰯雲糸を拾って捨てにけり
  夏の雲ゴムをのばして放しけり
  青時雨風呂に全身入れにけり

 「けり」のポイントとして、湘子が挙げているのは、「前半勝負」ということである。「上五」と「中七」のぶつかる「衝撃」をかなりの強さで行なう必要がある。「けり」で行ける内容と思ったら、「上五」「中七」に重いことばを持ってくる、そんなことも書いている。「下五」に使う動詞は、ひねらず、前半の衝撃に素直に響くものとする。そういわれると、そうなってない、と思われてくる。

  蝸牛古きタイヤの割れにけり
  水羊羹古きタイヤの割れにけり

 これじゃ、さっきの「配合」における、切り替えができていない。だとしたら、まだ「初嵐」のほうがいい。なかなか、これだっていうのが見つかりませんね。