昨年、10月にゆまに書房から出版された和田桂子編『コレクション・都市モダニズム詩誌 21 俳句・ハイクと詩 Ⅰ』を読んでいます。1920~40年代に出版されたモダニズム詩誌を解題などを付して復刻するシリーズの一巻。戦前モダニズムはどのジャンルでも資料の捜索がめんどうなことが多いので、とても役に立つシリーズです。『俳句と詩 Ⅰ』では、『鶴』と『風流陣』の二誌がとりあげられています。
俳句史で『鶴』といえば、石田波郷が1937年に創刊した有名な俳誌で、それだと「モダニズム」といわれてもピンとこないなあと思いながら手をとったのですが、ひもといてみるとまったく別の俳誌でした。1934年に3輯だけ出版された「詩人のみに依る唯一の俳句誌」。『風流陣』(こちらは1935~39年に35冊刊行)も同様ですが、「モダニズム俳句」誌ではなく、モダニズム詩人たち、例えば、北園克衛、村野四朗、竹中郁らが参加した俳誌なのです。他、室生犀星、丸山薫、田中冬二、白鳥省吾、佐藤惣之助らの名前も見えてます(詩人としての傾向はバラバラですね)。ので、さらに正確には、モダニズム詩人が、ではなく、当時の詩人で俳句に興味があった人たちが作った俳誌ですね。それはそれで面白いかなと思って読み始めました。
『鶴』(編集兼發行人は高踏派の詩人・吉川則比古)はいろいろな傾向がいっしょくたになった同人誌のおもむき。
來たことも告げず枕元に病む人への手紙がある 牛谷三郎(『鶴』第一輯)
秋の夜
どこの山の匂ひか噛みしめる鉛筆 竹中郁(同)
アイスクリームこゝ資生堂のボツクス 角田竹夫(同)
杉菜の霧のこまかい朝のナイトキヤツプ 村野三郎(同)
島ありて 精錬所の 黒煙 藤本浩一(同)
庭
日ぐるまのゆらりと籬にとどきけり 北園克衛(同)
小型マツチ十個也 ホツトコーヒー 岩間純(『鶴』第二輯)
ひねくれて ひねくれてみて まるくなり 大江満雄(同)
橡
高僧の山路たどるや春の雨 北園克衛(同)
栗のいがのまだ青い朝の子供をゆり起す 村野三郎(『鶴』第三輯)
秋の雲たゞ何となく居を移す 北園克衛(同)
村野三郎は誤植ではなく、四郎のお兄さんです。ほんの三年後に波郷が『鶴』と主宰誌を名づけたところを見ると、俳壇ではたいして注目されていなかったのだろうと思われます。作品のレベルから考えるとしょうがないところですかね。自由律や都市風俗のとり上げ方に時代的なおもしろさを感じる所はありますが、「詩人のみに依る唯一の俳句誌」と大見えを切ったわりには、特に主張もなく(あとがき、編集後記もほとんどなく、作品のみで勝負しようとしている、とも言えますが)、ちょっと残念な感じでしょうか。
一方、『風流陣』は毎冊、かなりの散文が載せられています。特に、北園克衛はかなり主張の強い評論を展開。第一冊掲載の「純粋俳諧論」から引いてみますと、
個性は思考の活力を限定し獨創性の自由を束縛する。この個性の妨害に抵抗し、個性の模倣的素質を破壊して作品に獨創性を與へるものは俳諧の「方法」である。同時に文學の一つの樣式[ジャンル、とルビ]としての俳諧も亦其處から開始する。此の知的構造の創設を没却して俳諧の進歩は在り得ない。この知的工作を無視した無謀な一群はスカイクラツパアのタイルに興奮し、ネオンサインと流線型の圓タクにポエジイを感じるあまり遂に俳句のフオルムを破り、俳諧のジャンルを粉砕することに依って文學における俳諧のレイゾン・デエトルを完全に失つて了つた。そうした俳句でもなく詩でもない。感覚的な一行が到るところに氾濫した。彼らこそは詩人である可くあまりに無知であり、俳人である可くあまりに賢明であつたのであればいよいサヨナラ! ラツキヨ臭いモダアニスト達よ。
長い傳統の幕を開いて今後の俳諧に科学的解結を與へ、新しい發展のポテンシヤリテイを把えることが重要である。
分かりにくいところもありますが、西洋近代、特にロマン主義以降の「個性」偏重に対して、作品の独創性を求めるのに「俳諧」(俳句ではないのもポイントでしょうか)の「方法」(これとか、「知的構造」などが一体全体なにかワカランのが一番の問題ですが)が役に立つとのことのようです。同時に、俳句文芸のなかのモダニズムに対して、強い拒否感を示しているのも目につきます。あるジャンルの前衛が別ジャンルに対する見解では極端に保守的立場をとる、というのはまあ、お馴染みの風景ではあるですが、その典型といってよいと思います。「文學における俳諧のレイゾン・デエトル」うんぬんのあたり、とても上から目線ですね。
では、『風流陣』に掲載された句はどのようなものかというと、
庭前微涼 八月十一日
涼しさや水苔滴れる筧口 室生犀星(『風流陣』第1冊)
木枯や煙突に枝はなかりけり 岡崎清一郎(同)
ひとめぐりしてまた打つや女郎花 北園克衛(同)
別れた夜は桑畑の驛のすいつちよ 村野四郎(『風流陣』第2冊)
柿喰ひつ母亡き娘朗らかに 徳川夢聲(同)
兄橋本平八、卒然として逝く、哀惜遣る方なし
ゆく秋や南無默堂玄悟居士 北園克衛(『風流陣』第3冊)
木の實らはみんな哀れに見ゆるなり 丸山薫(同)
硝子戸に冬帽の顔うつしみる 田中冬二(同)
喪中に付賀客を謝し終日閑散
元日を句ならずうつらうつらかな 北園克衛(『風流陣』第4冊)
荒れし床に梅一輪の日ごろかな 北園克衛(『風流陣』第5冊)
明ぼのに梅一輪の數寄屋かな
文鎮に梅花一輪散りにけり
この頃の暑さ耐えかたく悶々とゴザに横たはり太陽をいきどほりて
暑さかな朝顔なども這いまはれ 北園克衛(『風流陣』第10冊)
室生犀星の句は文人俳句としてなかなか味がありませす(というのは一般に言われるところですけど)。北園の句は・・・。これに「知的構造」うんぬんを感じるのはムリですね。個性脱却のような方向もないし、単なる日常報告です(しかもほぼ毎冊、1句のみの提出)。そして、『風流陣』第6冊掲載の北園「續ちよいちよい録」(このタイトルがすでになあ・・・)の冒頭に、「知的構造」の説明らしい文がありました。
俳諧は現在より過去へ遡る思考の一體系である。俳句はこの體系の上に展開する文學であると考へる。從つて俳句の正当は常に現實より過去へと展開する處に俳諧の本來の精神があり、かゝる處に俳諧の所謂傳統的姿態がある。
僕は此の観點に立つて風流、あるひは風雅、寂、等々と言ふ情緒に就いて考へる。その時それらの情緒の發生のメカニズムに觸れることが出來るやうに思ふ。
まあ、伝統を大事にしましょう、というぐらいの内容ですが。他のメンバー、例えば、自由律俳句の『層雲』にしばらく籍をおいていたらしい村野四郎らについてもいちいち検証するヒマはありませんが、とりあえず、『風流陣』でもっとも理論らしいことを述べている北園でこの程度であり、しかもその理論も実作にはまったく活かされていないことを考えると、やはり残念のひとことかと。
考えてみると、北園が中途半端な実践で俳句(俳諧)ジャンルに手を出しているのは、先行する「新散文詩運動(短詩運動)」に対する反発に起因していて、自身のモダニズム時代を清算し『鯤』のいささかあやしげな東洋趣味へ向かってゆく北園の時代に迎合する傾向と合致しているのでしょう。
馬 北川冬彦
軍港を内臓している
春 安西冬衛
てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った
くらいしか格別とりあげる成果のない短詩運動ですが、『風流陣』の貧弱な句と、
俳諧に於ける形式の問題もまた一つ民族意識の強弱深淺に根ざしてゐるものであつて、この故に句作も亦全人格的行為として在らしめなければならない、
*
僕達が盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアンを輕侮し否定する所以も亦此處に至つて自ら明白であらうと考へる。(『風流陣』第10冊)
などといったどこが「明白」かよく分からない論理で対抗されるほどつまらない運動ではないでしょう。今から見ると、北園のいちばんの弱さは「盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアン」に徹し切るだけの強さがなかったことはあきらかで、俳句(俳諧)への関わりには、この弱さが極端に出ています。下の句と前書きに日中戦争時のうかれっぷりはとても無惨です。
十月二十七日皇軍上海戦線を拔く、如何に久しくこの日を
九千萬の同胞を待つたことか。既に我が親友も戦線に在つ
て劍を振ふ。鶴の如く痩せたる竹々氏すら胃病の床を立つ
て興奮すアニ偶然ならんや
秋高し戰勝ちて群動く 北園克衛(『風流陣』第24冊)
秋ばれや旗旗旗の群うごく
今の視点から見ても、この二誌(『鶴』と『風流陣』)から俳句側の人間が学ぶべきものがあった(ある)とは見えません。そのことが分かっただけでも収穫というべきでしょうか。
和田桂子さんのエッセイ「フランス俳諧詩と都市モダニズム詩」や年譜も、都市モダニズムと俳句の関わりを期待して読む読者にとっては、現在までも都市モダニズム詩と俳句の不幸なすれ違いが響いているようで、的外れな感じです。タイトルにあるように「フランス俳諧詩」についての情報がぎっしりでその点についてはとても勉強になりますが、結局、「フランス俳諧詩」は日本の俳句には何ももたらさなかった、という結論なので、じゃあ、なんでとり上げたんだろうと疑問(海外での俳句の受容の側面でも、フランスの情報ばかりなのでずいぶん片手落ちではないか)。やっぱり、正面から都市モダニズム的要素をもった日本の俳句・俳誌をとり上げるべきだったのではないですかね、シリーズの目的からすると。青木亮人編『コレクション・都市モダニズム詩誌 22 俳句・ハイクと詩 Ⅱ』に期待しよう。「八十島稔が編集を引き継いだ『風流陣』、『鶴』の流れを汲んで創刊された『鷺』において、詩人の俳句は、さらなる深化を見せた。」らしいので。
俳句史で『鶴』といえば、石田波郷が1937年に創刊した有名な俳誌で、それだと「モダニズム」といわれてもピンとこないなあと思いながら手をとったのですが、ひもといてみるとまったく別の俳誌でした。1934年に3輯だけ出版された「詩人のみに依る唯一の俳句誌」。『風流陣』(こちらは1935~39年に35冊刊行)も同様ですが、「モダニズム俳句」誌ではなく、モダニズム詩人たち、例えば、北園克衛、村野四朗、竹中郁らが参加した俳誌なのです。他、室生犀星、丸山薫、田中冬二、白鳥省吾、佐藤惣之助らの名前も見えてます(詩人としての傾向はバラバラですね)。ので、さらに正確には、モダニズム詩人が、ではなく、当時の詩人で俳句に興味があった人たちが作った俳誌ですね。それはそれで面白いかなと思って読み始めました。
『鶴』(編集兼發行人は高踏派の詩人・吉川則比古)はいろいろな傾向がいっしょくたになった同人誌のおもむき。
來たことも告げず枕元に病む人への手紙がある 牛谷三郎(『鶴』第一輯)
秋の夜
どこの山の匂ひか噛みしめる鉛筆 竹中郁(同)
アイスクリームこゝ資生堂のボツクス 角田竹夫(同)
杉菜の霧のこまかい朝のナイトキヤツプ 村野三郎(同)
島ありて 精錬所の 黒煙 藤本浩一(同)
庭
日ぐるまのゆらりと籬にとどきけり 北園克衛(同)
小型マツチ十個也 ホツトコーヒー 岩間純(『鶴』第二輯)
ひねくれて ひねくれてみて まるくなり 大江満雄(同)
橡
高僧の山路たどるや春の雨 北園克衛(同)
栗のいがのまだ青い朝の子供をゆり起す 村野三郎(『鶴』第三輯)
秋の雲たゞ何となく居を移す 北園克衛(同)
村野三郎は誤植ではなく、四郎のお兄さんです。ほんの三年後に波郷が『鶴』と主宰誌を名づけたところを見ると、俳壇ではたいして注目されていなかったのだろうと思われます。作品のレベルから考えるとしょうがないところですかね。自由律や都市風俗のとり上げ方に時代的なおもしろさを感じる所はありますが、「詩人のみに依る唯一の俳句誌」と大見えを切ったわりには、特に主張もなく(あとがき、編集後記もほとんどなく、作品のみで勝負しようとしている、とも言えますが)、ちょっと残念な感じでしょうか。
一方、『風流陣』は毎冊、かなりの散文が載せられています。特に、北園克衛はかなり主張の強い評論を展開。第一冊掲載の「純粋俳諧論」から引いてみますと、
個性は思考の活力を限定し獨創性の自由を束縛する。この個性の妨害に抵抗し、個性の模倣的素質を破壊して作品に獨創性を與へるものは俳諧の「方法」である。同時に文學の一つの樣式[ジャンル、とルビ]としての俳諧も亦其處から開始する。此の知的構造の創設を没却して俳諧の進歩は在り得ない。この知的工作を無視した無謀な一群はスカイクラツパアのタイルに興奮し、ネオンサインと流線型の圓タクにポエジイを感じるあまり遂に俳句のフオルムを破り、俳諧のジャンルを粉砕することに依って文學における俳諧のレイゾン・デエトルを完全に失つて了つた。そうした俳句でもなく詩でもない。感覚的な一行が到るところに氾濫した。彼らこそは詩人である可くあまりに無知であり、俳人である可くあまりに賢明であつたのであればいよいサヨナラ! ラツキヨ臭いモダアニスト達よ。
長い傳統の幕を開いて今後の俳諧に科学的解結を與へ、新しい發展のポテンシヤリテイを把えることが重要である。
分かりにくいところもありますが、西洋近代、特にロマン主義以降の「個性」偏重に対して、作品の独創性を求めるのに「俳諧」(俳句ではないのもポイントでしょうか)の「方法」(これとか、「知的構造」などが一体全体なにかワカランのが一番の問題ですが)が役に立つとのことのようです。同時に、俳句文芸のなかのモダニズムに対して、強い拒否感を示しているのも目につきます。あるジャンルの前衛が別ジャンルに対する見解では極端に保守的立場をとる、というのはまあ、お馴染みの風景ではあるですが、その典型といってよいと思います。「文學における俳諧のレイゾン・デエトル」うんぬんのあたり、とても上から目線ですね。
では、『風流陣』に掲載された句はどのようなものかというと、
庭前微涼 八月十一日
涼しさや水苔滴れる筧口 室生犀星(『風流陣』第1冊)
木枯や煙突に枝はなかりけり 岡崎清一郎(同)
ひとめぐりしてまた打つや女郎花 北園克衛(同)
別れた夜は桑畑の驛のすいつちよ 村野四郎(『風流陣』第2冊)
柿喰ひつ母亡き娘朗らかに 徳川夢聲(同)
兄橋本平八、卒然として逝く、哀惜遣る方なし
ゆく秋や南無默堂玄悟居士 北園克衛(『風流陣』第3冊)
木の實らはみんな哀れに見ゆるなり 丸山薫(同)
硝子戸に冬帽の顔うつしみる 田中冬二(同)
喪中に付賀客を謝し終日閑散
元日を句ならずうつらうつらかな 北園克衛(『風流陣』第4冊)
荒れし床に梅一輪の日ごろかな 北園克衛(『風流陣』第5冊)
明ぼのに梅一輪の數寄屋かな
文鎮に梅花一輪散りにけり
この頃の暑さ耐えかたく悶々とゴザに横たはり太陽をいきどほりて
暑さかな朝顔なども這いまはれ 北園克衛(『風流陣』第10冊)
室生犀星の句は文人俳句としてなかなか味がありませす(というのは一般に言われるところですけど)。北園の句は・・・。これに「知的構造」うんぬんを感じるのはムリですね。個性脱却のような方向もないし、単なる日常報告です(しかもほぼ毎冊、1句のみの提出)。そして、『風流陣』第6冊掲載の北園「續ちよいちよい録」(このタイトルがすでになあ・・・)の冒頭に、「知的構造」の説明らしい文がありました。
俳諧は現在より過去へ遡る思考の一體系である。俳句はこの體系の上に展開する文學であると考へる。從つて俳句の正当は常に現實より過去へと展開する處に俳諧の本來の精神があり、かゝる處に俳諧の所謂傳統的姿態がある。
僕は此の観點に立つて風流、あるひは風雅、寂、等々と言ふ情緒に就いて考へる。その時それらの情緒の發生のメカニズムに觸れることが出來るやうに思ふ。
まあ、伝統を大事にしましょう、というぐらいの内容ですが。他のメンバー、例えば、自由律俳句の『層雲』にしばらく籍をおいていたらしい村野四郎らについてもいちいち検証するヒマはありませんが、とりあえず、『風流陣』でもっとも理論らしいことを述べている北園でこの程度であり、しかもその理論も実作にはまったく活かされていないことを考えると、やはり残念のひとことかと。
考えてみると、北園が中途半端な実践で俳句(俳諧)ジャンルに手を出しているのは、先行する「新散文詩運動(短詩運動)」に対する反発に起因していて、自身のモダニズム時代を清算し『鯤』のいささかあやしげな東洋趣味へ向かってゆく北園の時代に迎合する傾向と合致しているのでしょう。
馬 北川冬彦
軍港を内臓している
春 安西冬衛
てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った
くらいしか格別とりあげる成果のない短詩運動ですが、『風流陣』の貧弱な句と、
俳諧に於ける形式の問題もまた一つ民族意識の強弱深淺に根ざしてゐるものであつて、この故に句作も亦全人格的行為として在らしめなければならない、
*
僕達が盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアンを輕侮し否定する所以も亦此處に至つて自ら明白であらうと考へる。(『風流陣』第10冊)
などといったどこが「明白」かよく分からない論理で対抗されるほどつまらない運動ではないでしょう。今から見ると、北園のいちばんの弱さは「盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアン」に徹し切るだけの強さがなかったことはあきらかで、俳句(俳諧)への関わりには、この弱さが極端に出ています。下の句と前書きに日中戦争時のうかれっぷりはとても無惨です。
十月二十七日皇軍上海戦線を拔く、如何に久しくこの日を
九千萬の同胞を待つたことか。既に我が親友も戦線に在つ
て劍を振ふ。鶴の如く痩せたる竹々氏すら胃病の床を立つ
て興奮すアニ偶然ならんや
秋高し戰勝ちて群動く 北園克衛(『風流陣』第24冊)
秋ばれや旗旗旗の群うごく
今の視点から見ても、この二誌(『鶴』と『風流陣』)から俳句側の人間が学ぶべきものがあった(ある)とは見えません。そのことが分かっただけでも収穫というべきでしょうか。
和田桂子さんのエッセイ「フランス俳諧詩と都市モダニズム詩」や年譜も、都市モダニズムと俳句の関わりを期待して読む読者にとっては、現在までも都市モダニズム詩と俳句の不幸なすれ違いが響いているようで、的外れな感じです。タイトルにあるように「フランス俳諧詩」についての情報がぎっしりでその点についてはとても勉強になりますが、結局、「フランス俳諧詩」は日本の俳句には何ももたらさなかった、という結論なので、じゃあ、なんでとり上げたんだろうと疑問(海外での俳句の受容の側面でも、フランスの情報ばかりなのでずいぶん片手落ちではないか)。やっぱり、正面から都市モダニズム的要素をもった日本の俳句・俳誌をとり上げるべきだったのではないですかね、シリーズの目的からすると。青木亮人編『コレクション・都市モダニズム詩誌 22 俳句・ハイクと詩 Ⅱ』に期待しよう。「八十島稔が編集を引き継いだ『風流陣』、『鶴』の流れを汲んで創刊された『鷺』において、詩人の俳句は、さらなる深化を見せた。」らしいので。