「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第83回 和田桂子編『コレクション・都市モダニズム詩誌 21 俳句・ハイクと詩 Ⅰ』 湊圭史

2013年02月28日 | 日記
 昨年、10月にゆまに書房から出版された和田桂子編『コレクション・都市モダニズム詩誌 21 俳句・ハイクと詩 Ⅰ』を読んでいます。1920~40年代に出版されたモダニズム詩誌を解題などを付して復刻するシリーズの一巻。戦前モダニズムはどのジャンルでも資料の捜索がめんどうなことが多いので、とても役に立つシリーズです。『俳句と詩 Ⅰ』では、『鶴』と『風流陣』の二誌がとりあげられています。

 俳句史で『鶴』といえば、石田波郷が1937年に創刊した有名な俳誌で、それだと「モダニズム」といわれてもピンとこないなあと思いながら手をとったのですが、ひもといてみるとまったく別の俳誌でした。1934年に3輯だけ出版された「詩人のみに依る唯一の俳句誌」。『風流陣』(こちらは1935~39年に35冊刊行)も同様ですが、「モダニズム俳句」誌ではなく、モダニズム詩人たち、例えば、北園克衛、村野四朗、竹中郁らが参加した俳誌なのです。他、室生犀星、丸山薫、田中冬二、白鳥省吾、佐藤惣之助らの名前も見えてます(詩人としての傾向はバラバラですね)。ので、さらに正確には、モダニズム詩人が、ではなく、当時の詩人で俳句に興味があった人たちが作った俳誌ですね。それはそれで面白いかなと思って読み始めました。

 『鶴』(編集兼發行人は高踏派の詩人・吉川則比古)はいろいろな傾向がいっしょくたになった同人誌のおもむき。

來たことも告げず枕元に病む人への手紙がある   牛谷三郎(『鶴』第一輯)
  秋の夜
どこの山の匂ひか噛みしめる鉛筆
   竹中郁(同)
アイスクリームこゝ資生堂のボツクス   角田竹夫(同)
杉菜の霧のこまかい朝のナイトキヤツプ   村野三郎(同)
島ありて 精錬所の 黒煙   藤本浩一(同)
  
日ぐるまのゆらりと籬にとどきけり
   北園克衛(同)
小型マツチ十個也 ホツトコーヒー   岩間純(『鶴』第二輯)
ひねくれて ひねくれてみて まるくなり   大江満雄(同)
  
高僧の山路たどるや春の雨
   北園克衛(同)
栗のいがのまだ青い朝の子供をゆり起す   村野三郎(『鶴』第三輯)
秋の雲たゞ何となく居を移す   北園克衛(同)

 村野三郎は誤植ではなく、四郎のお兄さんです。ほんの三年後に波郷が『鶴』と主宰誌を名づけたところを見ると、俳壇ではたいして注目されていなかったのだろうと思われます。作品のレベルから考えるとしょうがないところですかね。自由律や都市風俗のとり上げ方に時代的なおもしろさを感じる所はありますが、「詩人のみに依る唯一の俳句誌」と大見えを切ったわりには、特に主張もなく(あとがき、編集後記もほとんどなく、作品のみで勝負しようとしている、とも言えますが)、ちょっと残念な感じでしょうか。

 一方、『風流陣』は毎冊、かなりの散文が載せられています。特に、北園克衛はかなり主張の強い評論を展開。第一冊掲載の「純粋俳諧論」から引いてみますと、

個性は思考の活力を限定し獨創性の自由を束縛する。この個性の妨害に抵抗し、個性の模倣的素質を破壊して作品に獨創性を與へるものは俳諧の「方法」である。同時に文學の一つの樣式[ジャンル、とルビ]としての俳諧も亦其處から開始する。此の知的構造の創設を没却して俳諧の進歩は在り得ない。この知的工作を無視した無謀な一群はスカイクラツパアのタイルに興奮し、ネオンサインと流線型の圓タクにポエジイを感じるあまり遂に俳句のフオルムを破り、俳諧のジャンルを粉砕することに依って文學における俳諧のレイゾン・デエトルを完全に失つて了つた。そうした俳句でもなく詩でもない。感覚的な一行が到るところに氾濫した。彼らこそは詩人である可くあまりに無知であり、俳人である可くあまりに賢明であつたのであればいよいサヨナラ! ラツキヨ臭いモダアニスト達よ。
長い傳統の幕を開いて今後の俳諧に科学的解結を與へ、新しい發展のポテンシヤリテイを把えることが重要である。


 分かりにくいところもありますが、西洋近代、特にロマン主義以降の「個性」偏重に対して、作品の独創性を求めるのに「俳諧」(俳句ではないのもポイントでしょうか)の「方法」(これとか、「知的構造」などが一体全体なにかワカランのが一番の問題ですが)が役に立つとのことのようです。同時に、俳句文芸のなかのモダニズムに対して、強い拒否感を示しているのも目につきます。あるジャンルの前衛が別ジャンルに対する見解では極端に保守的立場をとる、というのはまあ、お馴染みの風景ではあるですが、その典型といってよいと思います。「文學における俳諧のレイゾン・デエトル」うんぬんのあたり、とても上から目線ですね。

 では、『風流陣』に掲載された句はどのようなものかというと、

  庭前微涼 八月十一日
涼しさや水苔滴れる筧口   室生犀星(『風流陣』第1冊)
木枯や煙突に枝はなかりけり   岡崎清一郎(同)
ひとめぐりしてまた打つや女郎花   北園克衛(同)
別れた夜は桑畑の驛のすいつちよ   村野四郎(『風流陣』第2冊)
柿喰ひつ母亡き娘朗らかに   徳川夢聲(同)
  兄橋本平八、卒然として逝く、哀惜遣る方なし
ゆく秋や南無默堂玄悟居士
   北園克衛(『風流陣』第3冊)
木の實らはみんな哀れに見ゆるなり   丸山薫(同)
硝子戸に冬帽の顔うつしみる   田中冬二(同)
  喪中に付賀客を謝し終日閑散
元日を句ならずうつらうつらかな
   北園克衛(『風流陣』第4冊)
荒れし床に梅一輪の日ごろかな   北園克衛(『風流陣』第5冊)
明ぼのに梅一輪の數寄屋かな
文鎮に梅花一輪散りにけり
  この頃の暑さ耐えかたく悶々とゴザに横たはり太陽をいきどほりて
暑さかな朝顔なども這いまはれ
   北園克衛(『風流陣』第10冊)

 室生犀星の句は文人俳句としてなかなか味がありませす(というのは一般に言われるところですけど)。北園の句は・・・。これに「知的構造」うんぬんを感じるのはムリですね。個性脱却のような方向もないし、単なる日常報告です(しかもほぼ毎冊、1句のみの提出)。そして、『風流陣』第6冊掲載の北園「續ちよいちよい録」(このタイトルがすでになあ・・・)の冒頭に、「知的構造」の説明らしい文がありました。

俳諧は現在より過去へ遡る思考の一體系である。俳句はこの體系の上に展開する文學であると考へる。從つて俳句の正当は常に現實より過去へと展開する處に俳諧の本來の精神があり、かゝる處に俳諧の所謂傳統的姿態がある。
僕は此の観點に立つて風流、あるひは風雅、寂、等々と言ふ情緒に就いて考へる。その時それらの情緒の發生のメカニズムに觸れることが出來るやうに思ふ。


 まあ、伝統を大事にしましょう、というぐらいの内容ですが。他のメンバー、例えば、自由律俳句の『層雲』にしばらく籍をおいていたらしい村野四郎らについてもいちいち検証するヒマはありませんが、とりあえず、『風流陣』でもっとも理論らしいことを述べている北園でこの程度であり、しかもその理論も実作にはまったく活かされていないことを考えると、やはり残念のひとことかと。

 考えてみると、北園が中途半端な実践で俳句(俳諧)ジャンルに手を出しているのは、先行する「新散文詩運動(短詩運動)」に対する反発に起因していて、自身のモダニズム時代を清算し『鯤』のいささかあやしげな東洋趣味へ向かってゆく北園の時代に迎合する傾向と合致しているのでしょう。

 馬     北川冬彦
軍港を内臓している

 春     安西冬衛
てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った


 くらいしか格別とりあげる成果のない短詩運動ですが、『風流陣』の貧弱な句と、

俳諧に於ける形式の問題もまた一つ民族意識の強弱深淺に根ざしてゐるものであつて、この故に句作も亦全人格的行為として在らしめなければならない、
  *

僕達が盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアンを輕侮し否定する所以も亦此處に至つて自ら明白であらうと考へる。(『風流陣』第10冊)

 などといったどこが「明白」かよく分からない論理で対抗されるほどつまらない運動ではないでしょう。今から見ると、北園のいちばんの弱さは「盲目的なる文字のフオルマリズムに沒頭する近代的テクニシアン」に徹し切るだけの強さがなかったことはあきらかで、俳句(俳諧)への関わりには、この弱さが極端に出ています。下の句と前書きに日中戦争時のうかれっぷりはとても無惨です。

  十月二十七日皇軍上海戦線を拔く、如何に久しくこの日を
  九千萬の同胞を待つたことか。既に我が親友も戦線に在つ
  て劍を振ふ。鶴の如く痩せたる竹々氏すら胃病の床を立つ
  て興奮すアニ偶然ならんや
秋高し戰勝ちて群動く
   北園克衛(『風流陣』第24冊)
秋ばれや旗旗旗の群うごく

今の視点から見ても、この二誌(『鶴』と『風流陣』)から俳句側の人間が学ぶべきものがあった(ある)とは見えません。そのことが分かっただけでも収穫というべきでしょうか。

 和田桂子さんのエッセイ「フランス俳諧詩と都市モダニズム詩」や年譜も、都市モダニズムと俳句の関わりを期待して読む読者にとっては、現在までも都市モダニズム詩と俳句の不幸なすれ違いが響いているようで、的外れな感じです。タイトルにあるように「フランス俳諧詩」についての情報がぎっしりでその点についてはとても勉強になりますが、結局、「フランス俳諧詩」は日本の俳句には何ももたらさなかった、という結論なので、じゃあ、なんでとり上げたんだろうと疑問(海外での俳句の受容の側面でも、フランスの情報ばかりなのでずいぶん片手落ちではないか)。やっぱり、正面から都市モダニズム的要素をもった日本の俳句・俳誌をとり上げるべきだったのではないですかね、シリーズの目的からすると。青木亮人編『コレクション・都市モダニズム詩誌 22 俳句・ハイクと詩 Ⅱ』に期待しよう。「八十島稔が編集を引き継いだ『風流陣』、『鶴』の流れを汲んで創刊された『鷺』において、詩人の俳句は、さらなる深化を見せた。」らしいので。

俳句時評 第82回 福田基の本懐 外山一機

2013年02月13日 | 日記
今年一月に福田基が亡くなった。福田基といえば林田紀音夫の弟子であり、『林田紀音夫全句集』(富士見書房、二〇〇六)の編者として知られている。句集未収録作品を含む約一万句を収録したこの全句集は、多作でありながら生前に『風蝕』(十七音詩の会、一九六一)・『幻燈』(牧羊社、一九七五)の二冊しか句集を持たなかった林田の句業の実像を知るうえで重要なテキストである。福田の「編纂後記」によれば、そもそもこの全句集成立の契機は『青玄』(日野草城主宰)で林田と同輩であった桂信子の意を受けて宇多喜代子が福田にもちかけたことにあったということだが、その際の「貴方が逝ったら、もう林田の全句集も無理かも知れない」という宇多の言葉はあながち大げさなものでもなかったのである。全句集の大半を占める「同人誌・俳句雑誌掲載作品 未発表作品」は年代別・掲載誌別に配列され、そのうち句集収録作品にはそれとわかるよう符号が付されてあるが、林田の句帳をもとに既発表作品と未発表作品とを分類する作業だけでも相当に困難なものであったろう。そして自身が述べたように、実質的にはこれが福田の「俳人最後の仕事」となったのであった。

いったい、弟子の本懐とはいかなるものであろうか。福田は自身も一二冊の句集を持つ俳人であったが、『林田紀音夫全句集』を前にしたとき、もはや僕たちは福田の俳句のみをもって福田を語ることはできないだろう。なぜなら福田がその晩年に辿りついたのは、次のような場所であるからだ。

昭和六十年代以後の未発表作品の約七〇%は有季定型「花鳥諷詠」の作品であったが、出来る限り無季俳句を探し抽出した。(前掲「編纂後記」)

福田の仕事が明らかにしたのは、前衛俳句運動において無季俳句の旗手として知られていた林田紀音夫の未発表作品に有季作品がきわめて多かったということ、またそうした有季作品の発表をつとめて避けていたという林田の実態であった。上掲の福田の言葉は、全句集編纂者としての義務と林田の作家としての意志を傷つけまいとする配慮とのせめぎ合いがどのように落ち着いたのかを物語っている。
もとより『林田紀音夫全句集』は全「句集」ではあっても、「全句」集ではない。

後年、彼の没後蔵書の整理を頼まれ、芦屋市松浜町の自宅を訪ねた折、書斎は整然と整理していたが、古い俳誌は一冊も見つからなかった。キヨ子婦人に聞いてみると、彼は自身の余命を予知した折、古い過去のものをすべて捨てろと命じてあったらしく、『風蝕』以前のものは皆無であり、『金剛』の一冊すらなかった。彼が第一句集『風蝕』を編むに当たって、この下村槐太の許へ辿りつくまでの作品をすべて棄てた、といっているように、過去を詮索するなという意志だと判断して、筆者も彼の戦前の作品を敢えて蒐集しなかった。(福田基「幻想の林田紀音夫-思いつくままに」『林田紀音夫全句集』) 

また「編纂後記」には未収録作品の掲載にあたって福田が「未発表作品の選をするとき、その責任感に昼夜、嘖まれた」ことが語られているが、隠匿した作品があることを正直に告白する福田が編纂したこのテキストを、僕は片手落ちだと思いつつも、信頼に足るものであると思う。そして何より、林田紀音夫の全句に僕たちがアクセスすることを断固として拒否する「全句集」を美しいと思う。おそらく僕たちが『林田紀音夫全句集』によって林田の俳句作品の全貌を知ることはありえない。「林田紀音夫」とはこのようであるべきだという強い意志のもとに編纂されたテキストによって林田の仕事を知るのみである。僕たちに許されているのはせいぜいそこまでであろう。本当ならば福田逝去後の今こそ、林田や福田の意志を骨抜きにした新たな「全句」集編纂の絶好の時機が到来しているのにちがいない。けれどそのようなテキストの編纂者は、俳人最後の仕事として師の句をたったひとりで選別するに至った弟子の恍惚も苦悩も味わうことがないだろう。「貴方が逝ったら、もう林田の全句集も無理かも知れない」という宇多の懸念は決して軽いものではなかったはずなのである。これは林田紀音夫の場合に限ったことではないだろう。きっと僕たちには、ついに出会うことの許されない俳句というものが少なからずあるにちがいない。いやむしろ、そのような俳句は、本当は至るところにあるはずなのだ。だから、ある俳句に出会うということは非常に限定的な出来事なのであって、それを無条件に喜ぶのだとしたら、それは出会いを許されない俳句の存在を忘却した浅はかな愉悦に過ぎないのかもしれない。

ここで「全句集」編纂後の福田の仕事をもう少し追ってみたい。福田は林田に幻の第三句集があったことを指摘したことがあった。

これはぼくしか知らないことであるが、彼の第三句集の草稿を通読したとき、ぼくは即座に、この句集は現代では第二句集の『幻燈』より売れませんよというと、これは鈴木六林男らと同じ湯川書房の「水の梔子」シリーズの予約販売だという。そのことはともかく、「この句集がぼくの無季作家の墓碑銘となるだろう。赤尾兜子や橋石のように変身はうまくないけれど、当第三句集によって、今までの無季にこだわることもなく、思いつくままに句作をしていきたい。」と彼はいっていた。(略)振り返れば、そのころ長女亜紀を伴って、旅をし、また野山を散策した時代であり、もはや戦後ではなく精神的にも金銭的にもゆとりがあった。したがって、当時の作品は有季定型が主体であり、その句帳を悉に調べてみると、まず、有季定型の作品がありそれを、あえて無季俳句らしく自身が添削して「海程」や「花曜」に発表していたのは事実である。だから、同じ内容に近い有季と無季が句帳には並列していたということである。その、どちらがいいのかの判断は、ぼくにはわからない事柄であった。(「林田紀音夫の俤 雑感風に」『俳句界』二〇〇八・六)

福田は同じ文章で、この第三句集の一部が『現代俳句全集』第六巻(立風書房、一九七八)に収録されているとも述べているが、試みに『現代俳句全集』から『幻燈』以後の林田の句をいくつか抜き出してみよう。

雑木林を過ぎる死人の数に入り
近く鎖の音して海が横たわる
てのひらを水過ぎて山暗くなる
燈明のさだかな死後のたなごころ
折鶴のひとつふたつと悲しみ足す
戦死者の沖からの波足濡らす


林田はこうした句によって構成される第三句集をもって自身の「無季作家の墓碑銘」とし、ひそかに新たな船出を試みようとしていたのであった。多くの俳人が時代の移り変わりとともに見事な「変身」を遂げてゆくなかにあって、いつまでも変わることがないと思われていた林田でさえもその例外ではいられなかったのである。その一方で、「まず、有季定型の作品がありそれを、あえて無季俳句らしく自身が添削して「海程」や「花曜」に発表していた」と福田の指摘しているとおり、有季作品の発表が林田にとって容易なものではなかったのも事実であろう。林田は生前福田に「俳句作家・紀音夫として」『風蝕』『幻燈』『現代俳句全集』以外からの句の引用を厳しく禁じたといい、また『海程』での作品発表をとりやめた際、「もう疲れた。作品を自選することは出来ない。そっとしておいてほしい」と話したという(福田基「孤高とあやしさの界隈」『海程』一九九九・二・三月合併号)。

実際、林田の没後刊行された『海程』(一九九八・一〇)の林田紀音夫追悼記事が、皆一様に無季俳句作家としての紀音夫を語ることに終始していたのはそうした林田の苦悩を象徴していよう。それにしてもこの種の「添削」について福田が「どちらがいいのかの判断は、ぼくにはわからない」と述べているのは―さしあたり僕らがそれらを引き比べることができない以上福田を信用するしかないけれども―それもまた事実であろうし、とすれば、なんとも痛ましいことであった。

福田はいくつもの林田紀音夫論を遺したが、そのなかに、若い世代を意識して書いたと思われる次のくだりがある。

将来、彼を研究する俳人が現れたとすると、戦後の十年間、あるいは大正区時代は死と隣り合せであったことを知るべきであり、つまり『風蝕』の作品は芸術でもポエジーでもなく、彼のトリビアルなのっぴきならぬ『生死論』であり、『幻燈』の時代は「ペシミズムの芸」であった。『幻燈』以後の作品は彼が社会的に成功し戦争戦後を右手から左手に移し替えた人生の豊かな記録であると読み分けていただければ幸いである。(前掲「林田紀音夫の俤 雑感風に」)

ここで福田が示唆しているのは、たとえば『風蝕』所収の「月になまめき自殺可能のレール走る」「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」といった句について、それが林田個人の表現ではなく、ひろく時代の表現たりえたことを知らずに「芸術的、もしくは、人間の深層美学として捉えている」「若者たちの句評」への懸念であったろう。とはいえ福田は、林田の、とりわけ『幻燈』以後の作品について、彼の個人的な境遇を参照して読めばよいといいたかったのでもないだろう。アイロニーの漂う福田の言葉からは、むしろ林田の作家としての変遷が暗示する俳句形式特有の問題が浮かびあがってくる。すなわち、誰も自分の表現を必要としなくなってしまった場合に、それでも俳句をつくり続けることを可能にするのが俳句形式なのだが、それでもなお俳句をつくり続けるのかという問題だ。このような問題に気づかずに済ませても一向に構わないのだけれど、「林田紀音夫」を知ってしまった以上、僕たちは、この種の問題への気づきがその後の作家に強いる奇妙な身振りに無頓着ではいられないようにも思う。そして林田以後の僕たちには、この奇妙な身振りについて、それをたんに林田の退却戦としてとらえるのではなく、また別の見方もできるようにも思われる。

白菜もキャベツも一個持ち重り

年々、持ち重りするものの増える日々を白菜、キャベツに語らせた句で、「花曜」の平成九年に掲載されている。
もとより病弱で重い物を持つのは無理だったようだが、その切なさを吐露するのに「白菜もキャベツも」と、具体的なモノをもってややユーモラスに表現した句で、こんな林田紀音夫もいいなぁ、と思う。
七十年も生きておれば、時代も世情も、境遇も環境も、肉体も嗜好も変わる。その間、俳句観や作品が一本のまま、という人がいたら、詩人としては失格であろう。いつの頃からか、林田はもうダメだという声が、昨日今日俳句を始めたような連中からも囁かれ出した時、林田さんは黙っていた。芸としてのペシミズムが、負担になってきたのだろう。(宇多喜代子「林田紀音夫の句」『俳句研究』二〇〇六・一一)


ここでの宇多の義憤は、いまや『林田紀音夫全句集』を手にすることのできる僕たちに、重要な示唆を与えていよう。「白菜も」の句を良いという宇多は、何よりも目の前にある俳句表現に対峙し、それによって林田紀音夫の新局面を発見している。幻の第三句集以後の紀音夫とは、あるいはこのような視点から見えてくるものなのかもしれない。そしてこれこそ福田若之の批判する「『べき』論」から自在になった読みの実践であり、こうした読みがもたらした収穫の一つであったようにも思う(福田若之「「べき」との闘い、あるいは「コンビニ」との不貞行為」『週刊俳句』二〇一三・二・一〇)。だから、このような視点や、そこから立ちあがる読みを安易に否定することはできない。けれども、僕は、このような視点からは『林田紀音夫全句集』はついに生まれなかっただろうと思う。もう少し正確にいうならば、もしもそのような視点を肯定してしまうなら、齢七〇を過ぎた福田がさまざまな葛藤を抱きながらも最後の尽忠として師の全句集を編む意味が、誰よりも福田自身に見いだせなかっただろうと思われてならない。おそらく、大量に遺された林田の未発表作品や句集未収録作品にひとり対峙することになった福田は誰よりも幸福であったはずなのだが、また一方で誰よりも不幸であったはずなのである。