参加している俳句誌『むじな』で、去年の暮れから有志を募ってのオンライン作句互助会が始まった。各自が〆切日を設定し、数句から数十句の俳句にタイトルを付けて提出する。その後、参加者同士で批評を行う。コロナ禍ということもあり、対面での句会に行くのを極力避けるようにしていたから、ありがたいことだと思ってすぐに参加した。
ただ、私はこの互助会での批評に納得がいかないときもあった。「〇〇の句が好きです」というごく短い評や、肯定的な評だけがきてそれで終わり。そのようなことが幾度かあったからだ。果たしてそのような評にどれほどの意味があるというのだろうか。
もちろん、肯定的な評をもらうにしても「◇◇の理由で良いと思った」と具体的に言われるのであれば、今後の参考になるのでありがたいと思う。だが、「〇〇の句が好きです」という短評には何一つ意味を感じないし、身内での批評なわけだから、肯定的な評だけが来るとなんだか「慣れあい」のように思えてきて腹立たしく感じるときさえあった。
それならばむしろ「××が悪い/駄目だ」とはっきり言われたほうが今後の参考としては大いに役立つ。個人的には短評であってもだ。否定的な意見のほうが、どうして駄目なのかを考える契機になるし、作品を出す以上はその作品にある程度自信があることのほうが個人的に多いから、自作に対する自分自身の偏った見方が解消されるからだ。
心の底から素晴らしいと思ったとき以外は肯定的な評をしたくないし、されたくもない。同じ俳句誌に参加するメンバーにだからこそ、厳しくありたいし、厳しくされたい。そんなことを考えていた。
それから半年とひと月ほどが経った6月26日の昼、詩人の最果タヒさんが自身のツイッターで「生まれて初めてつくった俳句@東京マッハ」とツイートし、画像で以下の五句を投稿した。
痩せたのは殺されたから蝉が鳴く 最果タヒ
夏が来て性塗り潰し始める死 同
血を流す鸚鵡追いかけ夕立へ 同
ダリアとして生まれ君の部屋で散る 同
土星より遠くの指輪オペラの輪 同
当然のことながら、これらの句を良いと思うか悪いと思うかは個人の自由だろう。
私は三句目が面白いと思った。「血を流す鸚鵡」はあくまでも客観的に鸚鵡のことを捉えている。しかし、「追いかけ」そして「夕立へ」と消えていく。この「追いかけ」る行為によって、主体が鸚鵡と一体になってしまったかのような錯覚を覚える。そうなると、「血を流す」のも鸚鵡だけではなく、主体の姿を写しとったかのように思えてきて、読み返したときに句の奥行きが増してくる。
ただ、とてつもなく良い句に思うかというとそうは思えない。というのも、季語がどうも演出の道具として使われていて、それが演出過剰気味であり、また、強い既視感を覚えてしまうからだ。この句では対象が鸚鵡であるから「追いかけ」る行為にはかなりの速度を感じる。そこに激しく雨の降る夕立を持ってきたわけだから、激しさのレベルの近さが気になってしまう。さらに、この句は上の内容からある種の激情を誘う。だからこそ、雨、しかも夕立を持ってきたのは、どこかの映画やドラマなどで幾度も見てきたものを再度演出として提示されてしまっているようにすら思えてくる。要するに、句に対する季語の斡旋が成功していないように感じてしまうのだ。
一句目も同様に、生死に対する蝉の近さ、普遍性が気になる。フレーズの捻り具合には納得させられる部分もあるのだが、季語のせいかその持ち味が生かし切れていないように感じてしまう。
この五句を目にしたときに私は、「詩」としての良さは出ていても、「俳句」としての良さにはどこか弱いものを感じてしまったのだ。
さて、ざっとこれらの句に目を通し、自分なりの感想を持ったうえで該当のツイート、ツイートに付随する各人の感想を眺めて見たのだが、どうにも称賛のコメントが多い。しかも、それらのコメントが絶賛気味で、先ほどの『むじな』のことでふれたような「〇〇の句が好きです」といった類の短評がずいぶんと目についた。
だからこそ、最果タヒさんの俳句に対する「全く面白くはない。」という髙鸞石さんの引用ツイートは目に留まりやすかった。これだけを見ると、心無いツイートを送ってきたと思う人がいるかもしれない。だが、引用ツイートの八分後に以下のようなツイートも行っている。
「(前略)俳句以外の分野で知名度がある人の書いた俳句は、優れているかどうかより作者の知名度で評価されてしまうものなので、持ち上げるときには俳句の評価の軸が壊れてしまわないように慎重であってほしいものです。(後略)」
さらに、翌日27日の午後には次のようにもツイートしている。
「この際はっきりさせておきたいのですが、私は最果さんには良い俳句を書いていただきたいと思っていますよ。(後略)」
以上を総合的に考えてみると、「全く面白くはない。」は、別に心無いツイートではない。単体で見るとそう思うかもしれないが、あくまでも作品を俳句として見たときにおもしろいとは感じず、だからこそ、無条件で称賛のリプライなどを送っている方々への警鐘としてのツイートのように思える。
だが、案の定のことか、このツイートが引き金となって「炎上」が発生してしまった(※)。
私個人としては先にも述べたように、短評をもらうのであれば、「面白くなかった」といった短評のほうが「面白かった」という短評よりも参考になる。ただ、そう思わない人ももちろんいるし、当事者ではないにしても「はたから見て」不快だと感じる人もいて当然だ。それらも結局は自由に過ぎない。
しかし、称賛以外のものを受け取ったときに何を考えるか、どうしていくべきかは誰もがしっかりと意識しておかねばならないのではないか。今回の件を「はたから見て」いて、その思いを新たにした。
※
下記を参照すればおおまかなものはつかめる。ただし、togetterのサービスの性質上、時系列等には編者のバイアスがかかることが多々あるので、一連のやりとりの概要を掴む程度に参照し、厳密な詳細は過去のツイート等を参照してほしいと思う。
「最果タヒ氏の俳句に関する一連のやりとり」https://togetter.com/li/1736576(最終閲覧2021年6月28日23:13)