「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評137回 褒め合いたくない 谷村 行海

2021年06月29日 | 日記

 参加している俳句誌『むじな』で、去年の暮れから有志を募ってのオンライン作句互助会が始まった。各自が〆切日を設定し、数句から数十句の俳句にタイトルを付けて提出する。その後、参加者同士で批評を行う。コロナ禍ということもあり、対面での句会に行くのを極力避けるようにしていたから、ありがたいことだと思ってすぐに参加した。
 ただ、私はこの互助会での批評に納得がいかないときもあった。「〇〇の句が好きです」というごく短い評や、肯定的な評だけがきてそれで終わり。そのようなことが幾度かあったからだ。果たしてそのような評にどれほどの意味があるというのだろうか。
 もちろん、肯定的な評をもらうにしても「◇◇の理由で良いと思った」と具体的に言われるのであれば、今後の参考になるのでありがたいと思う。だが、「〇〇の句が好きです」という短評には何一つ意味を感じないし、身内での批評なわけだから、肯定的な評だけが来るとなんだか「慣れあい」のように思えてきて腹立たしく感じるときさえあった。
 それならばむしろ「××が悪い/駄目だ」とはっきり言われたほうが今後の参考としては大いに役立つ。個人的には短評であってもだ。否定的な意見のほうが、どうして駄目なのかを考える契機になるし、作品を出す以上はその作品にある程度自信があることのほうが個人的に多いから、自作に対する自分自身の偏った見方が解消されるからだ。
 心の底から素晴らしいと思ったとき以外は肯定的な評をしたくないし、されたくもない。同じ俳句誌に参加するメンバーにだからこそ、厳しくありたいし、厳しくされたい。そんなことを考えていた。

 それから半年とひと月ほどが経った6月26日の昼、詩人の最果タヒさんが自身のツイッターで「生まれて初めてつくった俳句@東京マッハ」とツイートし、画像で以下の五句を投稿した。

  痩せたのは殺されたから蝉が鳴く  最果タヒ
  夏が来て性塗り潰し始める死    同
  血を流す鸚鵡追いかけ夕立へ    同
  ダリアとして生まれ君の部屋で散る 同
  土星より遠くの指輪オペラの輪   同

 当然のことながら、これらの句を良いと思うか悪いと思うかは個人の自由だろう。
 私は三句目が面白いと思った。「血を流す鸚鵡」はあくまでも客観的に鸚鵡のことを捉えている。しかし、「追いかけ」そして「夕立へ」と消えていく。この「追いかけ」る行為によって、主体が鸚鵡と一体になってしまったかのような錯覚を覚える。そうなると、「血を流す」のも鸚鵡だけではなく、主体の姿を写しとったかのように思えてきて、読み返したときに句の奥行きが増してくる。
 ただ、とてつもなく良い句に思うかというとそうは思えない。というのも、季語がどうも演出の道具として使われていて、それが演出過剰気味であり、また、強い既視感を覚えてしまうからだ。この句では対象が鸚鵡であるから「追いかけ」る行為にはかなりの速度を感じる。そこに激しく雨の降る夕立を持ってきたわけだから、激しさのレベルの近さが気になってしまう。さらに、この句は上の内容からある種の激情を誘う。だからこそ、雨、しかも夕立を持ってきたのは、どこかの映画やドラマなどで幾度も見てきたものを再度演出として提示されてしまっているようにすら思えてくる。要するに、句に対する季語の斡旋が成功していないように感じてしまうのだ。
 一句目も同様に、生死に対する蝉の近さ、普遍性が気になる。フレーズの捻り具合には納得させられる部分もあるのだが、季語のせいかその持ち味が生かし切れていないように感じてしまう。
 この五句を目にしたときに私は、「詩」としての良さは出ていても、「俳句」としての良さにはどこか弱いものを感じてしまったのだ。

 さて、ざっとこれらの句に目を通し、自分なりの感想を持ったうえで該当のツイート、ツイートに付随する各人の感想を眺めて見たのだが、どうにも称賛のコメントが多い。しかも、それらのコメントが絶賛気味で、先ほどの『むじな』のことでふれたような「〇〇の句が好きです」といった類の短評がずいぶんと目についた。
 だからこそ、最果タヒさんの俳句に対する「全く面白くはない。」という髙鸞石さんの引用ツイートは目に留まりやすかった。これだけを見ると、心無いツイートを送ってきたと思う人がいるかもしれない。だが、引用ツイートの八分後に以下のようなツイートも行っている。
(前略)俳句以外の分野で知名度がある人の書いた俳句は、優れているかどうかより作者の知名度で評価されてしまうものなので、持ち上げるときには俳句の評価の軸が壊れてしまわないように慎重であってほしいものです。(後略)
 さらに、翌日27日の午後には次のようにもツイートしている。
この際はっきりさせておきたいのですが、私は最果さんには良い俳句を書いていただきたいと思っていますよ。(後略)
 以上を総合的に考えてみると、「全く面白くはない。」は、別に心無いツイートではない。単体で見るとそう思うかもしれないが、あくまでも作品を俳句として見たときにおもしろいとは感じず、だからこそ、無条件で称賛のリプライなどを送っている方々への警鐘としてのツイートのように思える。
 だが、案の定のことか、このツイートが引き金となって「炎上」が発生してしまった(※)。
 私個人としては先にも述べたように、短評をもらうのであれば、「面白くなかった」といった短評のほうが「面白かった」という短評よりも参考になる。ただ、そう思わない人ももちろんいるし、当事者ではないにしても「はたから見て」不快だと感じる人もいて当然だ。それらも結局は自由に過ぎない。
 しかし、称賛以外のものを受け取ったときに何を考えるか、どうしていくべきかは誰もがしっかりと意識しておかねばならないのではないか。今回の件を「はたから見て」いて、その思いを新たにした。

 


下記を参照すればおおまかなものはつかめる。ただし、togetterのサービスの性質上、時系列等には編者のバイアスがかかることが多々あるので、一連のやりとりの概要を掴む程度に参照し、厳密な詳細は過去のツイート等を参照してほしいと思う。
「最果タヒ氏の俳句に関する一連のやりとり」https://togetter.com/li/1736576(最終閲覧2021年6月28日23:13)

 

 


俳句時評136回 多行俳句時評(1) 夢殿に飼う夢は 丑丸 敬史

2021年06月28日 | 日記

(1)

 以前、「俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に」で書かせてもらったように、筆者が属する俳句同人誌「LOTUS」第47号で特集「多行形式の論理と実践〔作品篇〕」が組まれ内外から多くの多行形式の俳句作品が集った。
 さらに、最新号第48号の特集「多行形式の論理と実践〔評論篇Ⅰ〕」には外部から評論が集まった(自分の心算では、この評の掲載前に第48号刊行となるのではと考えていたが、この評の後に発行となることになったため、この評はその広告的位置付けとしたい。そのため、第48号の詳細に関しては述べることを控えなければならない)。特筆すべきは、前回作品を寄せた作家の多くが、返り血を浴びる危険性も顧みず評論を寄稿してくれたことだ。具体的には、林桂、漆拾晶、中里夏彦、豊里友行、笛地静恵、木村リュウジ、三上泉、深代響、外山一機、田沼泰彦の各氏。
 以前の多行形式俳句の俳句時評で書いたが、多行形式俳句が後から分岐して現れたからと言え、その存在理由(レーゾンデートル)を主張し続ける必要はない。たとえ俳壇があくまでも保守的であり、それに無視されようと、それに踏みつけられようと、である。あるジャンルの芸術の存在理由は、何かに対して相対的に語られるべきものではない。
 多行形式俳句作家による多行形式俳句評論は自句自解に陥る。もちろん、上記の書き手はそのことを知ってなお、多行俳句の未来について語りたいと思っている。「たとえ俳壇があくまでも保守的であり、それに無視されようと、それに踏みつけられようと、である。」は頭では分かってもこの状態に耐えきれず、にである。この熱量なくしては、多行形式俳句は書き続けられないのが現状である。その意味で熱量と覚悟をもった書き手がこの形式の俳句に集っているということは紛れもない事実である。それゆえ、積極的にこの形式を選び取ったという自負もあろう。この形式を選んでいない俳句作者にも自問自答を迫る。

(2)

 林は、発句の一行表記が俳諧式目の表記の中では必要であったが、近代(現代)はその表記制約からから解放された上、近代の俳句が活字印刷に伴い、〈詠む〉時代から〈書く〉時代に変化したことにより俳人が表記方法に意識的になったこと、俳句文芸の多様性の重要性、韻律の顕在化、文脈の展開、カリグラム等、多行形式俳句が持つ可能性を指摘する。多行形式俳句に関する諸問題を簡潔に要約している。そこには第一人者としての冷静に分析をする大人の視点がある。
 豊里は、書き手として自らを鼓舞する文章を書いた。同士達に対しても、今回の作品をみても高柳重信を未だ超えられていない現状に対して叱咤激励する。これは自分に対しても向けられたものであろう。事実、重信は大きな桎梏でもある。ただ、以前詩客で書かせてもらったように筆者は、大岡頌司は三行俳句で別の可能性を持つ地平を切り拓いたと信じる。重信という頸木から作者が自らの魂を開放しなければならない。重信の多行形式俳句はあくまでも重信のスタイルであり、そのスタイルを自覚的に継承する高原耕治のような書き手もおり、その場合にはそのモードの中での発展性を論じても良いが、全ての多行形式俳句作者を重信に落とし込んで比べる必要はない。
 また豊里は、多行形式俳句の作家の多くが机上で作句をすることに関して疑義を呈している。そこに本当の生きることへの喜怒哀楽が籠められているのか、と。確かに、意識的に多行形式を選び取っている俳人だからこそ、通常の花鳥諷詠俳句はつくらず、自分の詩的精神世界をそこに構築しようとするし、指摘は間違っていないだろう。しかし、それは非難されるような特性なのだろうか。素直に見たままを描く作品は実直ではあろうが、そこに他者に投影されるような感興が乗るかどうかは別問題であり、精緻な人工物に我々が感銘を受ける例は数多ある。

   夢殿の                        酒卷英一郎
   鈴蟲籠に
   露を飼ふ

例えば第47号の上記の酒卷の作品は、木村リュウジにより、良い意味で言葉の作り込みが賛美とともに解説され、精緻な人工物としての酒卷俳句の美質が語られる。

   凍蝶は深く                      豊里友行
   破鏡の

   谺なり

 豊里自身、第47号掲載の上記作品をどれほど自覚的に書いているのか分からないが、豊里の俳句も十分に頭で作った俳句である。
 沖縄の地霊に突き動かされたような作品も素晴らしいが、この作品が詩的に劣っているとは決して思わない。頭で作っているかどうか、と詩的純化を高めた作品になっているかは別の次元の話である。多行形式俳句作家が机上作家であったとしても、書かれたものは紛れもなく作者が歩いてきた軌跡そのものである。
 三上は、上田玄の俳句に関しての感想として、作者が作品に生きてきた証、足跡を見ようとした。どのような作家であってもその表現に人生が滲み出る。それを意識的に表そうとするかどうかの差であろう。自分の経験が直截的に実装されているように見える作品、特にそれが悲壮な経験に裏打ちされているように見える作品は共感しやすい。ただ、浮世から遊離して書かれた作品であっても、それは多行形式俳句によく認められる性質ではあるが、感動は自分の共感できる経験をベースにして生じるものと、そうではなく新規の自分の経験を超越して生じるものとがある。どちらがより尊いということはないが、多行形式俳句が、断片的、断節的に呟かれるものである場合には、内容が重たさと相俟って後者においては一定の効果がある。

(3)

 筆者もそうだが、外山も一行表記の俳句も多行表記の俳句もかく。その外山だからこその、ある種の羞恥心を持って多行俳句作家は多行俳句を書いているという考察は納得させられる。含羞と言い換えても良い。これは、一行形式俳句を書いている俳人が見ても想像できるのではないか。そのような含羞を持って書いている多行形式俳句の書き手がいることを。外山も言うように、三行であれば、五・七・五、の音律をそのままに、四行であれば、それを屈曲させて分かち書く。どちらにしても、音律とその表記に敏感にならざるをえない。一行表記俳句の書き手は、一行表記を無意識に(ある場合には鈍感に)選びとっており、そこに疑問も含羞も生じない。

(4)
それぞれの多行形式俳句実作者は、その作句理由を、他者に向けての主張ではなく、自分に向けての納得のいく説明責任として開陳している。その他の論者の力作の評論も含め、是非LOTUSの第48号を読んで欲しい。