「読む」ことを考えなおす二冊紹介、あっさりと
◇
新刊の紹介。
『再読 波多野爽波』(編著 小林千史+柴田千晶+山田露結+榮猿丸+冨田拓也) 邑書林
一冊丸ごと「波多野爽波」である。といって、年表と、それから生前の思い出で構成される「追善本」ではない。
上記編集委員による【波多野爽波を読み込む】とした句鑑賞や【波多野爽波を考える】なる爽波論が、本書の基幹となっていて、同メンバーによって波多野爽波の句も「精選 爽波四百句」として選出されている。
あえて、爽波との直接の知遇を得たメンバーではなく、弟子ではない方々をメイン執筆陣にしたのか、そのことについて、本書の企画(シカケ)人である島田牙城氏は、あとがきでこう述べている。
この本の編著者に、直接爽波の声を聴いた人はいない。いや、その生前に俳句を作り始めていた方も、小林千史さんだけである。そういうこれからの方々に、先入観のないところで爽波を読んで頂いた。もちろん直接爽波を知る人や、爽波と同時代を生きてきた人に書いてもらうという方法もあるけれど、それでは「爽波の読みの決定版」を提供するに留まる。爽波は読み継がれてしかるべき俳人だ。であるならば、新しい読みとともに、新しい爽波像が提示され、それを叩き台にして読者お一人お一人は爽波から新たな刺激を得る本でありたいと願った。(中略)爽波を熱く語る世代を更新できたとしたら幸いである。
この企画者の願いは、おおむねよい方向に実現していることを本書は示しているだろう。
「いかにも爽波」というところを、生前のエピソードなどではなく、作品との関わりにおいて見届けようとする著者たちの姿勢に、波多野爽波についての予備知識を持ち合わせず、その時代についての共感を持ち合わせない読者も、興味深く読み進めることができる。
【爽波二十五句深耕】で取り上げられているのは、つぎの句たち
羽子とりに入つてきしは見知らぬ子
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
波に乗りその儘岸にあがりたる
鴨の陣はつきり雪野山ぼうと
クリスマスツリーに触れて踊りけり
冬空や猫塀づたいどこへもゆける
蛞蝓の玻璃にあるまま灯をともす
金魚玉とり落としなば舗道の花
星流れ道路工事の地に置く灯
枯芦中百鬼夜行のネオンひとつ
夏帽各種の陳列の高さ異なる
どこでも絨緞で疲れるホテル星が流れ
新社員からの生の質問陽を負う背
柏餅の太い葉脈メス煮られ
秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め
掛稲のすぐそこにある湯呑みかな
蓑虫にうすうす目鼻ありにけり
懸崖の菊の間に犬の顔
花満ちて餡がころりと抜け落ちぬ
大金をもちて茅の輪をくぐりけり
冬ざるるリボンかければ贈り物
だから縕袍は嫌よ家ぢゆうをぶらぶら
チューリップ花びら外れかけてをり
この襖開ければ雛壇の裏よ
草いきれゾーリンゲンの刃が大事
これらの句に対して、文章の長さや方法はことなるものの(一定の基準は設けられていないようである)編著者たちが示す読解のアプローチは、それぞれのスタイルがことなるからこそ、本書を手に取る読者がどこかに着地点をみいだすことができる仕様なのだともいえよう。
本来、自分を守るためにある言葉というシールドを一度はずすことで、本当にそこにあるものすべてを自分の中にとりこまねばならない。生身に耐えかねるものであっても、無防備に受け入れるのである。そして、そこに新たな関連付けを自らが行い一句となす。
爽波の「様式に近づくために」、小林千史はこう提案する(「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」)。
句はその作者の人格の投影であると思ふ。
これは『舗道の花』「跋」中の爽波の言葉である。「自己の投影」ではなく「人格の投影」というところがいかにも爽波らしい。あくまで軽くて表層的なのだ。
これが洒脱なポーズなのか、根っからの性分なのか、あるいは信念なのか。
「自己」などという曖昧なものに拘らう暇はない、そんな時間があれば現場へ出向き、自然を相手にひたすら写生を実行する。すると思いがけない「もの」が見えてきたり、意外な「言葉」が立ち現れたりする。それを瞬時にキャッチして句帖に書きとめる。俳句はまさに「授かりもの」である。結果として出来た句に「人格」が投影される、というのが爽波だ。
このように柴田千晶氏は爽波の志向を分析する(「蛞蝓の玻璃にあるまま灯をともす」)。
本書には、資料として波多野爽波による体験的俳句実践法「俳句スポーツ説」「枚方から」が収載されている。こうして基礎資料が用意され、読解のバリエーションも備えられ、ガイドラインとなる作家論もついて、さて、あとは自分なりの「爽波」を探ってみよう、ということなのだろう。
邑書林の「読み継がれる俳人」シリーズの第一弾。これからどのようなラインナップになるのかは不明であるが、シリーズが充実してくることで、再読すべき作家たちの業績が明らかになることもさることながら、俳句における「読むこと」そのもののありようが見えてくる契機にもなるのではないだろうか。
巻頭言として、金子兜太/深見けん二/和田悟朗/宗田安正/黒田杏子/竹中宏/今井聖/小澤實の各氏からのメッセージ。
「爽波 この一句」として多数の作家が参加している。
(2012年12月31日発行 邑書林 \2,200-)
◇
新刊、と言っていいのかどうかわからないけれど。
小林恭二著『この俳句がスゴい!』
角川俳句ライブラリーの一冊として、二〇一二年八月に出版。「俳句研究」に連載されていた「恭二歳時記」(平成十五年一月号〜平成二十三年秋の号)を再編集して一冊にまとめたもの。高浜虚子・種田山頭火・尾崎放哉・久保田万太郎・西東三鬼・加藤楸邨・石田波郷・森澄雄・金子兜太・飯田龍太――ここまでの作家を対象に、作品に即しながら作家の魅力を紹介していくというおもむき。
ちなみに帯の惹句には
凛と立つ
凄い俳句の
オンパレード
巧みな筆致で
深く読み解く
斬新な名句鑑賞書、誕生!
と、ある。
まあ、たしかに「スゴい」俳句といえば、「スゴい」わけだけれど、小林恭二氏がやたらと「スゴ」がってみせるのかというと、どちらかといえば、〈むやみにスゴいというよりも、まず、よく読んでみたらいかが?〉というくつろいだ姿勢が印象的な本である。
最近俳句にたずさわる人の多くが「伝統」とか「正統」とかいうことばを口にします。しかし、伝統や正統がそんなに好きなら、むしろ短歌を詠むべきではないでしょうか。俳句はある意味で鬼っ子です。それこそが俳句の栄光でもあるのです。(「金子兜太」より)
本書での読解は、歴史軸に照らし合わせた句の分析ではなく、作家の傾向を確定していく行為でもない。
俳句の表現史はそれとしてやわらかくふまえた上で、現代のヨミものとしての俳句作品の姿を示している、とでもいう一冊。
「この調子で、渡辺白泉、三橋鷹女、高柳重信、永田耕衣、三橋敏雄をとりあげていただきたい。ああ、それだけではなく、まだまだおねだりしたい作家がいる」。そんなふうに願わずにはいられない語り口なのである。なるほど、俳句を「読む」とはこういうことか、と思いなおすきっかけとなる、そんなまなざしなのである。
(2012年8月25日発行 角川学芸出版 \1600- )
◇
「読む」ということの技術や方法は、「詠む」ということほどには声高に求められてはいないようである。
「詠む」ことの結果を作品ということはなめらかにおこなわれるけれど、「読む」ということそのものが「作品」になるというのは、あまり意識されてもいないようである。
「読む」ことを作品として受け入れるためには、逆説的ではあるが、読解に於いて唯一の正解は存在しない、という姿勢が求められることになるだろう。「決定版」以外のなにものも受け入れない作品などは、後世に読み継がれることもなくなるはずだ。
唯一の正解などは存在しないはずだという姿勢は、総合誌に於ける大衆化の戦略と反対の方向を示し、ネット環境に於ける言論の多様性多層性に拍車をかけることになるだろう。いずれにせよ、そうした環境のありようを貫いて作品への「読み」を提示する試みは、現代においてことさら重要というべきであろうか。
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新刊の紹介。
『再読 波多野爽波』(編著 小林千史+柴田千晶+山田露結+榮猿丸+冨田拓也) 邑書林
一冊丸ごと「波多野爽波」である。といって、年表と、それから生前の思い出で構成される「追善本」ではない。
上記編集委員による【波多野爽波を読み込む】とした句鑑賞や【波多野爽波を考える】なる爽波論が、本書の基幹となっていて、同メンバーによって波多野爽波の句も「精選 爽波四百句」として選出されている。
あえて、爽波との直接の知遇を得たメンバーではなく、弟子ではない方々をメイン執筆陣にしたのか、そのことについて、本書の企画(シカケ)人である島田牙城氏は、あとがきでこう述べている。
この本の編著者に、直接爽波の声を聴いた人はいない。いや、その生前に俳句を作り始めていた方も、小林千史さんだけである。そういうこれからの方々に、先入観のないところで爽波を読んで頂いた。もちろん直接爽波を知る人や、爽波と同時代を生きてきた人に書いてもらうという方法もあるけれど、それでは「爽波の読みの決定版」を提供するに留まる。爽波は読み継がれてしかるべき俳人だ。であるならば、新しい読みとともに、新しい爽波像が提示され、それを叩き台にして読者お一人お一人は爽波から新たな刺激を得る本でありたいと願った。(中略)爽波を熱く語る世代を更新できたとしたら幸いである。
この企画者の願いは、おおむねよい方向に実現していることを本書は示しているだろう。
「いかにも爽波」というところを、生前のエピソードなどではなく、作品との関わりにおいて見届けようとする著者たちの姿勢に、波多野爽波についての予備知識を持ち合わせず、その時代についての共感を持ち合わせない読者も、興味深く読み進めることができる。
【爽波二十五句深耕】で取り上げられているのは、つぎの句たち
羽子とりに入つてきしは見知らぬ子
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
波に乗りその儘岸にあがりたる
鴨の陣はつきり雪野山ぼうと
クリスマスツリーに触れて踊りけり
冬空や猫塀づたいどこへもゆける
蛞蝓の玻璃にあるまま灯をともす
金魚玉とり落としなば舗道の花
星流れ道路工事の地に置く灯
枯芦中百鬼夜行のネオンひとつ
夏帽各種の陳列の高さ異なる
どこでも絨緞で疲れるホテル星が流れ
新社員からの生の質問陽を負う背
柏餅の太い葉脈メス煮られ
秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め
掛稲のすぐそこにある湯呑みかな
蓑虫にうすうす目鼻ありにけり
懸崖の菊の間に犬の顔
花満ちて餡がころりと抜け落ちぬ
大金をもちて茅の輪をくぐりけり
冬ざるるリボンかければ贈り物
だから縕袍は嫌よ家ぢゆうをぶらぶら
チューリップ花びら外れかけてをり
この襖開ければ雛壇の裏よ
草いきれゾーリンゲンの刃が大事
これらの句に対して、文章の長さや方法はことなるものの(一定の基準は設けられていないようである)編著者たちが示す読解のアプローチは、それぞれのスタイルがことなるからこそ、本書を手に取る読者がどこかに着地点をみいだすことができる仕様なのだともいえよう。
本来、自分を守るためにある言葉というシールドを一度はずすことで、本当にそこにあるものすべてを自分の中にとりこまねばならない。生身に耐えかねるものであっても、無防備に受け入れるのである。そして、そこに新たな関連付けを自らが行い一句となす。
爽波の「様式に近づくために」、小林千史はこう提案する(「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」)。
句はその作者の人格の投影であると思ふ。
これは『舗道の花』「跋」中の爽波の言葉である。「自己の投影」ではなく「人格の投影」というところがいかにも爽波らしい。あくまで軽くて表層的なのだ。
これが洒脱なポーズなのか、根っからの性分なのか、あるいは信念なのか。
「自己」などという曖昧なものに拘らう暇はない、そんな時間があれば現場へ出向き、自然を相手にひたすら写生を実行する。すると思いがけない「もの」が見えてきたり、意外な「言葉」が立ち現れたりする。それを瞬時にキャッチして句帖に書きとめる。俳句はまさに「授かりもの」である。結果として出来た句に「人格」が投影される、というのが爽波だ。
このように柴田千晶氏は爽波の志向を分析する(「蛞蝓の玻璃にあるまま灯をともす」)。
本書には、資料として波多野爽波による体験的俳句実践法「俳句スポーツ説」「枚方から」が収載されている。こうして基礎資料が用意され、読解のバリエーションも備えられ、ガイドラインとなる作家論もついて、さて、あとは自分なりの「爽波」を探ってみよう、ということなのだろう。
邑書林の「読み継がれる俳人」シリーズの第一弾。これからどのようなラインナップになるのかは不明であるが、シリーズが充実してくることで、再読すべき作家たちの業績が明らかになることもさることながら、俳句における「読むこと」そのもののありようが見えてくる契機にもなるのではないだろうか。
巻頭言として、金子兜太/深見けん二/和田悟朗/宗田安正/黒田杏子/竹中宏/今井聖/小澤實の各氏からのメッセージ。
「爽波 この一句」として多数の作家が参加している。
(2012年12月31日発行 邑書林 \2,200-)
◇
新刊、と言っていいのかどうかわからないけれど。
小林恭二著『この俳句がスゴい!』
角川俳句ライブラリーの一冊として、二〇一二年八月に出版。「俳句研究」に連載されていた「恭二歳時記」(平成十五年一月号〜平成二十三年秋の号)を再編集して一冊にまとめたもの。高浜虚子・種田山頭火・尾崎放哉・久保田万太郎・西東三鬼・加藤楸邨・石田波郷・森澄雄・金子兜太・飯田龍太――ここまでの作家を対象に、作品に即しながら作家の魅力を紹介していくというおもむき。
ちなみに帯の惹句には
凛と立つ
凄い俳句の
オンパレード
巧みな筆致で
深く読み解く
斬新な名句鑑賞書、誕生!
と、ある。
まあ、たしかに「スゴい」俳句といえば、「スゴい」わけだけれど、小林恭二氏がやたらと「スゴ」がってみせるのかというと、どちらかといえば、〈むやみにスゴいというよりも、まず、よく読んでみたらいかが?〉というくつろいだ姿勢が印象的な本である。
最近俳句にたずさわる人の多くが「伝統」とか「正統」とかいうことばを口にします。しかし、伝統や正統がそんなに好きなら、むしろ短歌を詠むべきではないでしょうか。俳句はある意味で鬼っ子です。それこそが俳句の栄光でもあるのです。(「金子兜太」より)
本書での読解は、歴史軸に照らし合わせた句の分析ではなく、作家の傾向を確定していく行為でもない。
俳句の表現史はそれとしてやわらかくふまえた上で、現代のヨミものとしての俳句作品の姿を示している、とでもいう一冊。
「この調子で、渡辺白泉、三橋鷹女、高柳重信、永田耕衣、三橋敏雄をとりあげていただきたい。ああ、それだけではなく、まだまだおねだりしたい作家がいる」。そんなふうに願わずにはいられない語り口なのである。なるほど、俳句を「読む」とはこういうことか、と思いなおすきっかけとなる、そんなまなざしなのである。
(2012年8月25日発行 角川学芸出版 \1600- )
◇
「読む」ということの技術や方法は、「詠む」ということほどには声高に求められてはいないようである。
「詠む」ことの結果を作品ということはなめらかにおこなわれるけれど、「読む」ということそのものが「作品」になるというのは、あまり意識されてもいないようである。
「読む」ことを作品として受け入れるためには、逆説的ではあるが、読解に於いて唯一の正解は存在しない、という姿勢が求められることになるだろう。「決定版」以外のなにものも受け入れない作品などは、後世に読み継がれることもなくなるはずだ。
唯一の正解などは存在しないはずだという姿勢は、総合誌に於ける大衆化の戦略と反対の方向を示し、ネット環境に於ける言論の多様性多層性に拍車をかけることになるだろう。いずれにせよ、そうした環境のありようを貫いて作品への「読み」を提示する試みは、現代においてことさら重要というべきであろうか。