「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 鴇田智哉と倉田タカシとウルトラセブン-『俳句と超短編 vol.3』を読む- 柳本 々々

2016年07月26日 | 日記
 鴇田智哉さんの俳句とウルトラセブンをめぐって時評を書いたことがある(「【短詩時評 第四話】鴇田智哉とウルトラセブン-狙われた俳句と手続きのひみつ-/柳本々々」 。

 そのときわたしが思ったのは、鴇田さんの俳句というのは、《抽象から具体への手続き》そのものが俳句化されているのではないかということだった。

 地球人と宇宙人が分離されたドライな倫理観をもつウルトラマンとは違い、ウルトラセブンは地球人の倫理と宇宙人の倫理の接続地点に立って、揺れ、悩み、葛藤していた存在だったが、そのように相反する接続そのものを俳句としてたちあげること。そこに鴇田さんの俳句の磁場のようなものがあるのではないかと思ったのだ。

 『俳句と超短編 vol.3』(櫛木千尋 編集、2016年5月)に、「俳句から超短編へ 超短編から俳句へ③」という「俳句を元にした超短編と超短編を元にした俳句を交互にリレー形式で繋いで」ゆく連載企画があるのだが、本号には鴇田智哉さんの俳句を引き継いだ倉田タカシさんの超短編「ゆきかえり」が掲載されている。

 わたしが興味深く思ったのは、鴇田さんの俳句が散文として展開するときにいったい倉田さんがどのような散文となる核(コア)を鴇田さんの句から受け継がれたバトン=モチーフとして引っ張り出すか、ということだ。

   鵜のすでに磨かれて目のひらかれて  鴇田智哉

 鴇田さんがバトンとして提示したこの句から倉田さんが創作した超短編「ゆきかえり」は、「鮎の和菓子工場」を描いたものだった。「和菓子工場」の製造過程を描いた非常に〈シンプル〉な舞台設定の超短編である。しかしこの超短編の〈凄まじさ〉は「和菓子工場」そのものを〈描写〉という手続きによって〈抽象〉化することによって「抽象工場」としての「和菓子工場」に変えたことにある。

 倉田さんが描いた超短編はまさに〈抽象〉から〈具体〉への変化のドラマを「和菓子工場」という非常にシンプルな装置で鮮やかに展開した超短編だったのだ。

 わたし自身があまりに抽象すぎてなんのことを言っているのかわからなくなってしまっているかも知れないので具体的に引用しよう。

  形はみな異なりながら、流れに飛び込む備えだけはある。流れは、濃淡の鋭い勾配を編み込んでうねり、どこも出口で、入り
 口がない。
  どこにもないはずの入り口を、おのれの形に切りひらき、黒い姿が流れに消える。
  いつか、戻るのだという。

(倉田タカシ「ゆきかえり」『俳句と超短編 vol.3』(2016年5月)


 このような非常に抽象的な描写が冒頭から流れるように続いていく。なににもせき止められない流れるようなきもちよさがあるのだが、《何》を描写しているか《まったく》わからない。なぜなら、《ただの一度も》名詞が出てこないからだ。形状や運動は記述されている。しかし、語り手はいちども名詞を把持できていない。ここにあるのは〈純粋な運動〉なのだ。名づけることのできない抽象化された運動。

 ところが驚くべき転換をみせるのが超短編後半の次の記述だ。

  そのあとは非常に具体的で、わたしは草加市の工場で鮎を模ったカステラ生地の和菓子に高度に図案化された鮎の意匠を焼き
 鏝で付与する作業に従事しました。
(前掲)

 
 ここで具体性としての「草加市の工場」「」「カステラ生地の和菓子」という〈名詞の怒濤(どとう)〉によってわたしたち読者ははじめてこの抽象化された風景が和菓子工場における和菓子の製造過程であったことに気づくのだ。

 つまりだ。タイトルの「ゆきかえり」とは、具体から抽象へ、抽象から具体への《手続き》そのものだったのである。それを倉田さんは鴇田さんの句からモチーフとして引っ張り出した。鴇田さんの俳句のなかにある具体から抽象へ、抽象から具体への手続きの風景。

   鵜のすでに磨かれて目のひらかれて  鴇田智哉

 この句にあるような「」「」という具体と「すでに磨かれて」「ひらかれて」という運動による抽象化の混在。ここでは「ひらかれて」という下五によって「」という名詞は回収されず、実際に抽象的な風景へと「ひらかれ」ていく。「」が「すでに磨かれて」いることはわかる。しかしそれが《何》なのか、わたしたちにはわからないのだ。

 そう言えば、わたしが鴇田さんとウルトラセブンをめぐって引用した句も、《ひらく》という運動が重要なタームとして機能していた。

   7は今ひらくか波の糸つらなる  鴇田智哉
(『凧と円柱』ふらんす堂、2014年)


 「」という抽象が「ひらく」ときに「波の糸」と具体化される手続きそのものの風景。ここでも抽象と具体は「ゆきかえり」している。たえず地球人と宇宙人の倫理を「ゆきかえり」していたウルトラセブンのように。

 倉田さんの超短編「ゆきかえり」の最後の言葉は、そのまま鴇田さんの俳句の〈的確〉な寸評にもなっている。その言葉でこの抽象と具体をめぐる文章を終わりにしよう。すなわち、

  からっぽでありながら満ちている。
(倉田タカシ「ゆきかえり」前掲)