この夏、ふらんす堂から一冊の本が出版された。岸本尚毅と宇井十間の共著で、『相互批評の試み』と題されたこの本は、角川学芸出版が刊行している『俳句』2012年1月号から同年12月号までに連載された著者二人による往復書簡形式の連載記事を一冊にまとめたものである。
十間は、この書物に収められた手紙の一通において、寺山修司が監督・脚本を務めた短編映画、『檻囚』(1962年、日本)に登場する黒マントの人物に言及している。
『檻囚』(寺山修司監督・脚本)という一九六〇年代の実験映画をご存知でしょうか。この映画の中には、日時計そのものとなって時計の針の中心に立ち続ける黒マントの人物が登場します。映画の進行とともに、太陽は傾き、日時計の針は進んでいくのですが、それにもかかわらず彼はそこに立ち続けるのです。
(岸本尚毅、宇井十間『相互批評の試み』、ふらんす堂、2018年、114頁)
ここでただちに指摘しておかなければならないが、次に示す六つの点から、この記述は『檻囚』の映像に照らしておよそ適切とは言いがたい。
第一に、これは単なる表現上の書き損じであろうとは思うが、黒マントの人物が立っているのは針の中心ではなく、厳密には、文字盤らしきものの中心である。仮にこれが日時計であるとすれば、この人物については、針に立っていると言うのではなく、針そのものになっている、あるいは、針として立っているというふうに言わねばならない。
第二に、この人物は、映画の進行していくあいだ、決してそこに立ち続けてなどいない。この映画には、この人物が文字盤らしきもののうえに倒れている姿の映るショットとこの人物が文字盤らしきもののうえに倒れこむ姿の映るショットが、それぞれワンショットずつある。頭がVIIの字のわずかにVIII寄りに来るように、まっすぐに倒れこんでいる。倒れている姿のショットは、倒れこむ姿のショットにおいて倒れこんだ姿そのままに見える。ところで、興味深いことに、この映画において先に挿入されるのは倒れ込む姿を捉えたショットではなく、すでに倒れている姿のショットのほうなのだ。このことは、次に述べる点にも関わっている。
第三に、この映画において日時計の針は決して進んでいきなどしていない。その影は、この人物が立っているショットでは、原則として、文字盤らしきもののIXというローマ数字のわずかにX寄りを指し示している。したがって、もしこれを時計として見るならば、ほぼ9時過ぎという時刻を漠然と示していると読める。例外は、廃屋の窓から外を眺める裸の男の姿を映した二つのショットに挟まれているショットで、そのショットでは人物の影がIXのわずかにVIII寄りを指し示しているが、それはおそらく人物の立ち位置が微妙に違っているせいだ。黒マントの人物の影の向きは、映画の進行にもかかわらず、ほとんど変化していないのである。加えて、倒れている姿と倒れこむ姿のショットの挿入される順番を勘案するならば、おそらく、黒マントの人物のショットは、この映画において、出来事の継起をなぞるように配置されているわけではない。だから、この映画において、日時計の針はもはやそれとしては機能していない。いわば、この映画においては時間の蝶番がはずれてしまっているのだ。
第四に、いずれにせよ、この文字盤らしきものを日時計のそれとして見る限りは、それが9時を示している以上、日本を舞台としていると考えられるこの映画において、黒マントの人物のショットはいずれも午前中の場面だと考えるほかはないのであって、太陽が傾くなどという表現はおよそ適切とは言いがたい。なお、舞台が日本であるということの根拠は、映画がこの国で制作されたという事実以上に、現に映像に表れているものに求めることができる。終盤のあるショットで背景に一瞬映りこむ車の駐車された向きや位置は舞台が左側通行の国であることを推測させるものであるし、登場人物のひとりは『日本経済新聞』を広げている。映像と当時の新聞の縮刷版を照らし合わせれば、僕たちは、それが1962年8月31日付の朝刊であることさえ知ることができてしまう。冒頭部に登場するオーギュスト・ロダンの《地獄の門》は、当時から上野の国立西洋美術館が所蔵していたそれであろう。
第五に、黒い衣装に全身を包み込み、顔を帽子で隠した姿でのみ映し出されるこの人物の性別は判然としない。したがって、この人物を彼と呼んでよいのかどうか、映像だけではわからないはずなのである。
そして、第六に、これはそもそも本当に日時計なのだろうか。なるほど、黒マントの人物が立つ文字盤らしきもののローマ数字の配列は、同じく『檻囚』に登場する振り子時計の文字盤のアラビア数字の配列と同様のものである。すなわち、IからXIIまでの数字が、同一円周上に等間隔に配置されているのである。そして、映画の終盤においては、振り子時計の針もまたアラビア数字の9のすこし上を指し示しているのがはっきりと見てとれる。したがって、たしかに両者の類似は意図されたものであると考えられる。だが、この類似こそが問題なのだ。というのも、これでは、午前6時と午後6時とに、太陽によって作り出される黒マントの人物の影は同じ位置に来なければならないことになる。より厳密に言えば、太陽が、たとえ夜には沈むとしても、半日で男の周りの全方位をめぐって元の位置に戻るのでなければならないことになる。だが、太陽が黄道を一周するのにはおよそ一日を要するのであって、天体の自然な運行からすれば、地球上のどの地点においてもそのようなことは起こりえない。だから、これが日時計であるという認識は、それ自体、じつはきわめて疑わしいものなのだ。もっとも、この点については、演出自体がそうした錯覚を引き起こさせることをこそ意図したものであるようにも思える。だが、それゆえにこそ、この点はあらためて指摘しておく価値があるだろう。
いま挙げた六つの点のうち、はじめの一点はすでに記したとおり単なる書き損じにすぎないとしても、残りの五つの映像的な事実にかかわる点は、その重要性にもかかわらず、宇井十間の書簡において、それとして意識されることがない。それゆえ、先に引用した言及に続く「彼は、言わば時間の進行そのものの囚人になっていると解釈できます」という言葉は、一見すると、映画に冠せられたタイトルを意識するその身ぶりによっていかにももっともらしく思われるかもしれないが、結果として、その映像についてはほとんど何事も語りえていない(同前、114頁)。十間は、「檻囚」という見慣れない語が読みのうえで「観衆」という一語に通じており、もしかするとそこに何らかの暗示を読み取ることができるかもしれないということにさえ、気づいていないかのようなのである。
だが、ここで『檻囚』をめぐる宇井十間の記述に長々と言及したのは、なにも、映像的な事実に対する彼の鈍感さをいたずらにあげつらうためではない。そうではなくて、『檻囚』を観なかった宇井十間の言葉のうえで立ち上がることになった黒マントの人物を、あくまでも寺山修司による映画とは無関係の想像的なものとして、さしあたり肯定的に捉えかえしてみたいがためのことなのだ。十間は次のとおり想像をひろげてみせているのである。
しかし、彼とその日時計によって象徴される時間とは、まるで永遠であるかのように反復し続ける円環的時間であって、彼以外の誰もが日常経験する変化する歴史的時間ではありません。たとえば、彼が立っている公園を、ペットの散歩に訪れた老年男性や、デートの待ち合わせに急ぐ女性が通りすぎる様子を想像してみましょう。この二つの時間の対比は、ある種のアイロニーを感じさせます。『檻囚』の日時計は、歴史から疎外された反復的存在を表象しようとしているように思えます。
(同前、114-115頁)
繰り返すが、ここで語られている『檻囚』とは、もはや宇井十間のそれであって、寺山修司のそれとは何の関係もない。だから、寺山修司の『檻囚』において、黒マントの人物が立っている場所が公園であるという証拠はどこにもなく、むしろ、道路標識や歩道の存在や位置や形状からすれば、この人物がいるのは交差点――それもおそらくは丁字路か十字路――の車道のうえであるように見える、などと指摘して、何かを言ったつもりになることはやめにしよう。ここで確認しておきたいのは、円環的時間と歴史的時間を対比する十間が、日時計の時間を前者のそれとして際立たせていることである。その後、彼はこう続ける。
しかし考えてみれば、黒マントにとっても、日時計の時間は、公園を通り過ぎる人々の時間を意識することによってしか成立しません。それは、アイロニーとしてしか体験されえない時間であって、その事実に気づいてしまえば、彼が囚われている時間の檻は、簡単に崩壊してしまいます。黒マントにとって、目の前を行き過ぎる人々の何気ない時間とその歴史性は、それ自体がパンドラの匣に他ならないでしょう。
(同前、115頁。原文では「匣」に「はこ」とルビ)
円環的である日時計の時間は、歴史から疎外された反復的存在にとっても、歴史的時間を意識することによってしか成立しない。だが、当の存在がそれを体験しうるのは、その存在が歴史的時間から疎外されているかぎりのことでしかない。したがって、黒マントの人物は、自らがじつは歴史的時間をすでに意識し、その時間に片足を突っ込んでしまっていることに気づかないようにしながら、日時計の針として、自らは歴史に参加していないかのようにして、時刻を示しつづけなければならない。そうでなければ、もはや黒マントの人物は完全に歴史的時間に属してしまうことになり、円環的時間を体験することはなくなってしまう――十間の考えは、おおむねこうしたものであると読める。
ところで、この宇井十間版の黒マントの人物の風貌には、時評の執筆者とどこか重なり合うところがないだろうか。時評の社会的な使命とは、何よりもまず、今がどういった時であるかを的確に示すことであるだろう。それは、日時計の使命にいくらか似ている。しかも、時評の執筆者は、一般的に言って、まぎれもなく今に属する身でありながら、その今と距離をとるかのようなそぶりで、せめてかたちだけでも今から疎外された立場を演じつつ、その使命を果たさなければならないことになっている。だから、時評の執筆は、一般的に、このアイロニカルな身ぶりを伴わざるをえないのだ。たとえば、俳句時評についていえば、それはさしあたり自らを俳句の現在史から疎外しつつ、俳句の現在史そのものを構成しようとする。だが、現にそれに成功してしまえば、その時評は俳句史にとってのまぎれもない一部として、のちに語り継がれることになるだろう。思えば、ひとびとがいまだに「明治二十九年の俳句界」について語り飽くことを知らないのも、ひとえにそうした理由による。
とはいえ、いまこの手で書き進められているこの時評はきっとそうしたものにはならないはずだ。この時評がそれとして語っているのは、いまのところ、わずか十一分にも満たない古いアングラ映画のことと、その映画の観客のひとりである俳人の言葉から読み取れる想像のことばかりで、まだ俳句についてはほとんど何事も語りえていないのだから。だが、いまはひとまず十間の想像を最後までたどることにしよう。
黒マントの人物は卓抜な映画的寓意として、時間性という主題を考えさせてくれますが、それでは、彼にとって俳句とはどのような存在でしょうか。あるいは、彼以外の町の人々にとって、俳句とはどのような存在かと質問した方がいいかもしれません。これまでのところ、近代俳句は自らの無限の反復性を当然の前提として生き延びてきました。しかし一方で、日時計のように繰り返し時を反復する黒マントを、人々は気にも留めずに通り過ぎていくでしょう。そこには、批評性は成立しません。あるとすれば、一方向の情報の伝達があるばかりです。やがて日時計が撤去されるとしても、公園には同じように人々の行き交う光景が見出されるはずです。私が常々夢想するのは、そのような「俳句」のない世界です。
(同前、115頁)
俳句という語を鍵括弧つきにすることで、十間は何を指し示そうとしているのか。「「俳句」という制度は長い間、未来を志向することを止めてしまっているように思えます。変化のない軽妙な日常を送ること、そしてそれが自然であるかのように思考しそれを言葉にすること、そのような慣習がいつのまにか「俳句」という名前をもつようになったのがこの制度です」という十間の言葉からすれば、それは変化のなさを前提とした何らかの制度のことを特に指し示しているものと読める(同前、64頁)。だが、近代俳句が自らの無限の反復性を当然の前提として生き延びてきたという十間の考えを、当然の前提として受け入れてよいかはきわめて疑わしい。彼は、正岡子規の語った俳句の前途のことも、草間時彦の語った伝統の終末のことも、あえて振り返ろうとはしないのである。子規は記していた、「其窮り盡すの時は固より之を知るべからずといへども概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」と(正岡子規『獺祭書屋俳話』、『子規全集』、第4巻、講談社、1975年、166頁。太字は原文では黒点。下線は原文では白丸)。そして、時彦は記していた、「定型が崩れたときに俳句は消滅する」と(草間時彦「伝統の終末」、草間時彦『伝統の終末――現代俳論集』、永田書房、1973年、16頁)。また、「わたくしの言いたいことは、今日、わたくしが俳句と呼んでいる伝統の詩が明日は存在しないだろうということである。俳句という名は残っても、それは、今日、わたくしが俳句と考えているものとは別のものであろう」と(同前、28頁)。そして、十間はこう記す。「もはや、終わりを想像できないのはたんなる怠惰であるというよりもむしろ、反道徳的であるとさえ言えます」(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、119頁)。無論、これらは俳句史におけるごく徴候的な事例にすぎない。俳句文学館に保管された資料を渉猟すれば、きっと、俳句の終わりについて語る言葉をほかにも無数に見出すことができるだろう。「此時を言はヾ滅亡の兆はおろか也、既に俳諧堕地獄の阿鼻叫喚、前代未聞の曲事たり」、これは尾崎紅葉(尾崎紅葉「革命の句作」、『紅葉全集』、第9巻、岩波書店、1994年、369頁。ただし、ルビは省略した)。「俳句の理想は俳句の滅亡である。物の目的は物そのものゝ絶滅にあるといふことを、此場合に於て、殊に痛切に感ずる」、これは種田山頭火(種田山頭火「夜長ノート」、『山頭火全集』、第9巻、春陽堂書店、1987年、166頁)。「形式としての俳句がうまれたことは個人の意思や体験からではなく、歴史がつくりだしたことだ。だから俳句はまた歴史によって滅びるかもしれない」、これは秋元不死男(秋元不死男『俳句入門』、角川学芸出版、1971年、83頁)。
たしかに、ここに挙げられた例は、いまだその実態を断定するには貧しい数にとどまっている。だが、その数は、近代俳句が、俳句の終わりについて語る言葉によって、むしろ歴史的な存在であることをこそ当然の前提として生き延びてきたという仮説を立てるのに充分な数ではあるだろう。そして、近代俳句が自らの歴史性に無頓着であったとする十間の見解は、それ自体がこれらの言葉に無頓着であるために、やはり疑わしいものだと言わざるをえない。その一方で、十間の言葉が現にそうであるとおり、俳句の終わりについて語る言葉それ自体は、あたかも自らの反復性を当然の前提としておきながら、そのことを意識さえせずに今日まで生き延びてきたかのようでもある。終わりについての言説――これは、期待についての言説や変化についての言説と並んで、時評にみられる常套的な言説である。真に日時計の役割を果たしてきたのは、俳句そのものではなく、むしろ、俳句の終わりについて語ろうとする無数の言葉たちが身に纏うあの黙示録的な語調ではなかっただろうか。となると、これはもはや日時計というよりも、終末時計と呼んだほうがよいのかもしれない。俳句の終わりまであと何分……。だが、俳句は、というよりも、むしろ、一句一句は、俳句の終わりについての予言を知らないからではなく、それらについてよくよく承知しているからこそ、何食わぬ顔でそれらの横を通り過ぎていくだろう。
さて、いよいよパンドラの匣を開くときだ。いや、パンドラの匣などと、仰々しい神話を演じてみせるには及ばない。それは、もとい、それらは、僕たちにとって、おそらくは充分にお馴染みの、あの懐かしい箱たちである。
二十のテレビにスタートダツシユの黒人ばかり 金子兜太
『相互批評の試み』においては一貫して「スタートダッシュ」と表記されているが、『金子兜太集』を確認すると、そこには「スタートダツシユ」と記されている(金子兜太『暗緑地誌』、『金子兜太集』、第一巻、筑摩書房、2002年、184頁)。片仮名が少々暑苦しいほどの質量をもって迫ってくるその感じがまた、どこか懐かしい。そう、僕たちはいま、ナム・ジュン・パイクのヴィデオ・アートを思い起こさせもするこの二十台の箱型テレビを、金子兜太という俳人を懐かしむ時点において、すなわち、往復書簡を書いていたときには十間や尚毅が決して立つことのなかった時点において、眺めなおしている。
ところで、十間はこの句を次のとおり評していた。
テレビに百メートル走の選手が映っている。号砲とともに、いっせいにスタートを切る。店頭に並んでいるテレビ画面のどれもこれもスタートダッシュの黒人選手たちを映しているというのです。日常的なスポーツの光景が、ある種異様なデフォルメをもって表現されています。この句の魅力は、一見して平明な写生的方法で書かれているようでありながら、しかしそれによってある本質的な違和感を表出していることにあります。オリンピックのテレビであればそれを見ている人がいるはずですが、奇妙なことに、この句には人影がまったく見えません。無人の光景であるように見えます。その無人の街角に、この上なく緊迫したスポーツ競技の一場面が、不自然に引き延ばされた時間とともに表現されます。しかもそれが、〈二十のテレビ〉という複製可能な多数性において映像化されています。
(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、7頁)
なるほど、「オリンピック」のような舞台における「この上なく緊迫したスポーツ競技の一場面」を「日常的なスポーツの光景」と称することにはすこしばかり訝しい点があると感じないではないにしても、この段落は、一句についてのとりあえずは完結した評として読むことができるものであり、ひとつの読みの骨格を示すうえでは、ことさらここに付け足さなければならないことなどはないようにさえ感じられる。だが、ここに、十間は段落を変えて次の文言を付け足すのである。
多数のテレビに同時に映し出される短距離走の選手の映像は、インターネット上で複雑に交錯する現代都市社会の複製技術の喩であるとも言えるでしょう。あるいは、現代的な虚無感をおぼえさせる句でもあります。
(同前、8頁)
しかし、兜太自身が端的に「昭和39年、東京オリンピックの頃の句です」と述べているとおり、この句が1964年に当時の東京オリンピックを背景として書かれたものであることはよく知られている(金子兜太監修『子どもと楽しむ俳句教室――豊かな感性と国語力を育てる』、誠文堂新光社、2014年、20頁)。1990年代半ばのインターネットの普及にはるかに先立つ1964年に書かれ、1972年に牧羊社から刊行された『暗緑地誌』に収められることになったこの一句が、なぜ、ただちにインターネットの高度な発達と普及を前提とした現代都市社会と結び付けられることになるのだろう。句に語られているのはあくまでもマスメディアとしてのテレビであって、ソーシャルメディアとしてのインターネットではない。たとえば、日本におけるインターネットの実質的な起源とされる研究用のコンピュータネットワーク、JUNETが誕生したのは1984年のことであり、それも国内の学術組織を結んでいたにすぎない。兜太の句の背景には、十間が想定しているだろう今日的なワールド・ワイド・ウェブの通信網など、まだ影もかたちもなかったのである。手紙を読んだ岸本尚毅は驚いたのではないだろうか。返信のなかで、彼は「「喩であるとも言える」ということは、それが唯一の解釈ではなく、考えられる幾つかの解釈の一例とのご趣旨ですね」と確認をとっているが、その身ぶりには、現に、十間の解釈に対するひるみが表れているように感じられる(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、12頁)。だが、それに続けて、尚毅は、与えられた句を今一度読み返し、ついには思わず笑みをこぼしはじめるのだ。
「異様なデフォルメ」「本質的な違和感」「不自然に引き延ばされた時間」「現代的な虚無感」のような感じ方は私も同感です。しかし気持ちを切りかえると、景気が良くて賑やか、笑い出したくなるような句とも思えます。
(同前、12-13頁)
核心を突くのは次の一言である。「結局〈二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり〉という現象が、読み手の前にぬっと突っ立っているだけなのです」(同前、13頁)。
何が起こったのか。思うに、僕たちには宇井十間を笑うことなどできない。岸本尚毅がそうしたように、ただ兜太の句に笑うことができるだけである。おそらく、現象がぬっと突っ立っているだけのこの句は、そうであるがゆえに、2012年において、いわば読み手の時代的な文脈によって捉えかえされたのだ。十間は、松尾芭蕉についての山本健吉の「軽み」の論をとりあげながら、「重要なのは彼の芭蕉解釈の是非そのものよりも、山本にとって芭蕉がそのように見えてしまっている事実です。言い換えると、山本は芭蕉というテキストの中に自分自身と同時代の俳句観を無意識に読みこんでしまっているのです」と述べて、そのことを問題にしてみせる(同前、55-56頁。太字は原文では傍点)。だが、同じことが、十間自身にとってはほとんど避けがたいものであったのだろう何らかの無意識の働きによって、彼の兜太解釈についてもそのまま当てはまるのではないか。そして、まさしくそうした時局的な読みとの対峙によって、一句を笑う岸本尚毅の読みは、いわば反時代的な高らかさをもって響くことになる。だが、その笑いの響きにもまた、十間の指摘した「本質的な違和感」が谺しているのではないだろうか。そんな風に考えるとき、この懐かしい二十台の筐体の姿は、やはりどこか不気味なイメージとして立ち現れているように感じられる。
とはいえ、兜太の一句において不気味なのは、ほんとうにこの二十台のテレビという物体の群れなのだろうか。メディアによって増殖する映像を前に、僕たちは、たとえば、このスタートダッシュの黒人たちと中田秀夫監督によって映像化されたあの『リング』(1998年、日本)の貞子とを重ね合わせながら、あるいは村上春樹の『TVピープル』におけるテレビの無秩序な乱入の印象を補助線として、あくまでもこの二十台の筐体の存在におびえるべきなのだろうか。
そうではない、と直感が告げる。なにかもっと不気味なものが、平然と、この句において作動しているのだ。かつて、飯島晴子は「言葉の現れるとき」に「俳句一行のこの棒は、私には眼玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない。眼玉の直径は、一つの世界の直径であり、直径はその世界を決めるものである」と記した(飯島晴子「言葉の現れるとき」、「俳句研究」編集部編『飯島晴子読本』、富士見書房、2001年、253頁)。この「眼玉の直径」に兜太の一句をはめこむつもりでその世界を見ようとすれば、その不気味なものの正体はおのずからわかるはずだ。
長すぎるのである。いや、書き記された句の、言葉のつらなりのことを言っているのではない。一句において、まじまじと意識に捉えなければならない世界の幅が、あまりにも長すぎるのである。というよりもむしろ、広すぎるのである。
たしかに、箱型のテレビを五台ずつ、四段に積みさえすれば、二十台揃うには違いない。小型のものであれば、その二十台のテレビを漫然と視界に収めること自体はたやすいだろう。だが、果たして、その二十台のテレビに映し出される映像のすべてに対して、同時に、はっきりと、焦点を合わせることができるだろうか。ほんとうに、じつは一台だけチョコレートのCMを流していたというようなことがなかったと言いきれるだろうか。つまり、尚毅が言うところの「〈二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり〉という現象」を、ひとは、はたして、主観的に確かなものとして把握することができるだろうか。この場合、テレビの一台一台に映っている映像の把握は、あくまでも、同時に、はっきりとでなければならないはずだ。じっくりと一台一台の映像を眺めまわす時間はない。直観的にスタートダッシュとして把握されるその人体の動きは、加工されたスローモーションではありえず、いわば瞬く間の出来事にほかならないからだ。この眼の異様であることは、子規の《鷄頭の十四五本もありぬべし》という一句における十四五本の鶏頭を捉える眼と比べてみれば、よりよく理解できるだろう。子規の句における鶏頭の数の把握があくまでも主観的な推定にとどまっているのに対して、兜太の句におけるテレビの台数の把握は揺るぎなく、そのそれぞれが映し出しているものもはっきりしている。このとき、不気味なのは二十台のテレビではなく、それらのいずれをも平然と鮮明に映し出しているスクリーンとしての眼にほかならない。
もちろん、僕たちはたしかに二十台のテレビのすべてにスタートダッシュを決める黒人選手の姿が映るという出来事が現実に起こりうることを知っている。こうした出来事がありうることをひとは容易に理解できる。その意味で、この句はよくわかる句である。だが、僕たちは、この出来事を、眼に映る現象としては一度たりとも主観的に感知しえたことはない。だから、僕たちは、この句を通じて、これまで決して見ることができなかったしこれからも見ることなどできないはずのことを、ごく親しい現象、ごく懐かしい現象であるかのようにしてありありと見てしまうのであり、そのような不可能な経験を言葉のうえで実現するがゆえに、一句は、僕たちに向かって不気味なものとして立ち上がることをやめない。
ただし、このことは、決して、一句が僕たちに見せる出来事がただの夢にすぎないということを意味しはしない。寺山修司が映画作家としてのルイス・ブニュエルについて「彼の関心はあくまでも現実の変革であり、ブルジョワ的表層の安定をくつがえし、事物のありのままの姿を剝きだすことだった」としつつ述べているところによれば、「不可視世界を「見る」ことは、夢ではない」(寺山修司「見ることの暴力性――ルイス・ブニュエル」、『寺山修司著作集』、第5巻、クインテッセンス出版、2009年、284頁)。どういうことか。修司はそのあたりのことを「すべての夢は、ブルジョワ的である」、「なぜなら、それはあくまでも個人の内面化の過程の産物であり、独占的なイメージによって支えられているからである」と説明している(同前、284頁)。
修司が言わんとしていることは、要するに、不可視世界を「見る」とは、独占的なイメージによって支えられた個人の内面化の過程の産物を見ることではないということだ。それは、あくまでも事物のありのままの姿を見ることとして追及されなければならない。その意味で、不可視世界を「見る」ことは、夢ではないのである。そして、兜太が二十のテレビの句において見ているのもまた、夢ではなく、そうした現実としての不可視世界であるように感じられる。
それゆえ、ひとびとはいつか口々にこう囁くことになるだろう――金子兜太は決して客観写生を終わらせなどしなかった、と。「兜太を語るにあたって私は、兜太が実際にしたことについて語るよりも、兜太がしようとしたこと、いやむしろすべきであったことを問題とするべきではないかと考えます」という立場をとる十間にしても、この点については否定しないはずだ(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、6頁)。現に、十間の思い描くあるべき兜太とは、なによりもまず活動性の兜太であり、その活動性が必然的にもたらすことになるだろう多様性のもとでは、客観写生もまた許されるのでなければならないはずである。兜太について、十間は「兜太を兜太たらしめているのは、安定した世界観や形式、あるいは方法と言ったものを覆そうとする、一つの活動性そのものであると考えられます」と述べている(同前、7頁)。そして、多様性については、次のとおり記している。「多様性とは、文字通りに言ってしまえば、さまざまな表現の可能性が観察され、また受け入れられるということですが、しかしそれ以上に、そこに歴史がある(変化がある)ということを意味します」(同前、103-104頁)。十間が兜太に見出す活動性は、変化としての歴史をもたらすことによって、多様性を創出するのである。
もちろん、先の言及の一方で、十間が「いわゆる客観写生の方法に対して、俳句において、内面性の表現は可能なのだろうか。この質問が、金子兜太の長い長い句業の全体を貫く一つの大きな問いであると考えることができます」と述べることにも理由がないわけではない(同前、11頁)。たとえば、兜太の造型論における次の記述は、兜太に対する十間の見方の根拠のひとつとなりうる。
繰り返していいましょう。写生(描写の手法化)はそれなりに正当性を持った近代の詩法であったが、主観の稀薄化あるいは喪失によって悪しき詩法になる可能性を持っていたと。
この堕落は実際に現われました。
(金子兜太「造型俳句六章」、金子兜太『定型の詩法』、海程社、1970年、128頁)
なるほど、周知のとおり、この一節に続けて兜太が高濱虛子を批判するのは、直接には花鳥諷詠論をめぐってのことである。しかし、その背景には、写生論において、客観が概して主観の否定として考えられかつ推奨されてきたという考えがあることもまた否めない。現に、兜太は、「造型俳句六章」とほぼ同時期の、まさしく虛子の「客観」を主題とした一文において、「花鳥を写生することが、そのまま花鳥諷詠であるということ、つまり、写生の技法を詰めてゆくことが、そのまま花鳥と相亘ることであるということであった」とし、なおかつ、「しかし、写生を客観描写の技法として主観の徒らな介入を認めない虚子にとって、俳句を抒情詩とする規定は、はじめから存在しなかったにちがいない」とも記している(金子兜太「虚子の「客観」」、金子兜太『定型の詩法』、海程社、1970年、312-313頁)。だから、十間のここでの記述にはそれなりの理由と説得力があるといえる。
しかし、また一方で、岸本尚毅が「兜太の即物性が客観写生に通じるとは一見奇妙かもしれませんが、韜晦というキーワードが兜太と客観写生に通底すると私は考えます」と述べることにも、それ相応の理由がある(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、22頁)。もちろん、この記述は、「客観写生とは、即物性に身を隠した韜晦なのではないでしょうか」と問う尚毅の、客観写生についての独自の考えを前提としたものではある(同前、22頁)。だが、「兜太は、俳句が図式化し観念化することに対する警戒心の強い俳人です」と断言する尚毅の、その断言に至るまでの議論は、兜太の具体的な句や発言を踏まえながら展開されたものであり、それとして充分に説得的であるといえる(同前、20頁)。したがって、やはり「造型俳句六章」から今度は次の一節を引用することで、尚毅の議論を補足してみせることもたやすい。
感受性を放棄したとき、ぼくたちは自分への、また自分の存在への窓を失います。窓のない部屋で意識だけを働かせるとき、洞窟のなかの昆虫のように失明し、固定し、いわば観念の怪物となってしまいます。象徴的傾向の人に多い現象ですが、自分のなかのこころの世界に首をつっこむあまり、外への生きた感受を失い、きまりきった――昔から既に出来上っている固定した――観念をくりかえしくり返し表現する結果に終わっています。
(金子兜太「造型俳句六章」、前掲書、178頁)
だから、十間と尚毅のいずれにもそれ相応の理があると言わねばならない。それにもかかわらず、十間が、スウェーデンの作家、トーマス・トランストロンメルの一句の英訳("The sun is low now. / Our shadows are giants. / Soon all will be shadow.")と兜太の二十のテレビの句とを比較しながら、「表現されている主題は違うとしても、どちらもある種の観念性にこそその表現の本質があるという点で類似しています」と述べるとき、やはり、十間と尚毅の認識は兜太の一句をめぐってどこまでもすれ違ってしまっているように感じられる(岸本、宇井『相互批評の試み』、前掲書、72頁)。
ところで、このすれ違いがどこから生じるのかといえば、ひとまず、それは一句が即物的にも観念的にも読むことができるということから来ていると答えざるをえない。そして、なぜ二通りに読むことができるのかといえば、やはり、それは、主観的に経験することが不可能なはずの映像がごく懐かしいものであるかのようにぬっと突っ立っているという、一句のイメージの不気味な立ち姿によると見なさざるをえまい。そうした意味において、兜太のこの一句は、おそらくは作者自身の主体的な意図を超えて、ふいに立ち現れてしまった客観写生の句にほかならないだろう。
それにしても、こうした回帰のありうることを念頭に置くとき、「俳句」という制度を歴史的なものとして語る十間の次の言葉は、いささか事態を単純化しすぎていはしないか。
俳句についてのさまざまな思い込みやそれにともなう制約も、結局は時間とともになくなっていくものにすぎません。もともとそこにあるはずもない「俳句」がわれわれを盲目にし、われわれの思考から自由を奪っているとすれば、そのようなものは忘れてしまえばいいのです。
(同前、103頁)。
思考から自由を奪っている思い込みなど忘れてしまえばいいと主張する十間の言葉は、フロイト的な意味での抑圧されたものの回帰ということについてはまったく無頓着なままに投げ出されているように見える。だが、客観写生が回帰しえたように、彼が「俳句」と呼ぶ制度もまた忘れたころにいよいよ強固なものとして回帰してくるものではないだろうか。実際、十間自身が振り返って「それ故、皮肉なことに、「往復書簡」の執筆過程と連載そのものは、新たな日常性が俳句を再び覆っていく過程を同時進行で体験していくことになりました」と記すその言葉は、制度としての「俳句」と彼が呼ぶものがそのように回帰してくる可能性に図らずも触れていはしないか(同前、118頁)。こうしたことに対する十間の無頓着は、じつのところ、彼が寺山修司の『檻囚』を決して本当の意味で観ようとはしなかったことに起因しているように思われてならないのである。
寺山修司の『檻囚』において、中年の女が抱えながら歩いていたはずの振り子時計は、それが女の手元から姿を消したかと思うと、次に現れたときには宙に舞っていて、その次にはもう地面にばらばらになっている。だが、この映画の進行において、それがいよいよ地面にぶつかってばらばらになるのは、すでにばらばらになっていた直後のことであり、また、それに遅れて、まだ無傷の時計が若い男によって勢いよく空中に放り上げられるのだが、その後、時計はなおも無傷の姿で地面に転がっているのであって、それを件の若い男が――おそらくはこれからそれを放り上げようというつもりで――拾い上げるのである。そして、すでに述べたとおり、この映画に出てくる黒マントの人物は、一瞬倒れている姿が見えたかと思いきや、次には元通りに立っているのであり、そうかと思えば、そのあとでふいに、以前に一瞬倒れていたとおりに倒れ込む。
寺山修司の『檻囚』における事の次第はそうした具合であるから、この映画を観たあとでは、もはや時間のなかでの変化を出来事が素朴に流れ去ることとして把握することなどとてもできないはずなのである。したがって、俳句史もまた、いまやそうした時間のなかで捉えかえされざるをえない。客観写生は回帰する。ただし、それは日時計のように周期的な、法則的な回帰ではなく、不規則にして不条理な、幽霊的な回帰である。「俳句」の制約もまた同様だ。だが、いわば蝶番のはずれた時間のなかにある俳句史を目の前にして、ここでなしうることは、ただ、この俳句史がいまにも金子兜太は決して客観写生を終わらせなどしなかったと語りつつあるように思われると確認することに尽きている。
だが、思えば、金子兜太は決して客観写生を終わらせなどしなかったというその断定的な物言いこそが、僕たちの時間の、ある端的な切断を刻印しているのではないか。そのとおりだ。語りえたのは、結局のところ、残像のことにすぎない。あるいは、幽霊のこと――いやむしろ、そのつどすでに複数である幽霊たちのことにすぎない。
長くなりすぎた。このあたりで、ひとまず言葉を締めくくることにする。