「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 戸惑いと同感 ~『BL俳句誌 庫内灯2』を読む~ 久真八志

2017年07月15日 | 日記
 先日の東京文学フリマで『BL俳句誌 庫内灯2』を買った。発行は昨年だが、これまで入手できなかったものだ。
 多数のBL俳句作品を一気に読む経験はこれが初めてだった。読み終えて、これまで触れてきたBL(ボーイズラブ)描写のある俳句以外の作品と異なる読後感があると気づいた。いくつかのBL俳句を読んだことで戸惑いが生じ、それが読後も続いているようなのだ。この戸惑いの正体は何か考えてみたい。

   *

 ところで、僕の記憶のなかではじめて男性同士の性描写に触れたのは小学校四年生のときである。とある漫画に男性同士の濡れ場があって、ドキドキしたのを覚えている。今の僕は異性愛者の男性だと自認しているし、子供のころも好きになるのは女の子だったけれど、男性同士の恋愛やセックスの描写のある作品群も避けることもなく読んできたし、読んでいる。ただ、進んでそういった描写のある作品を求めているわけではないから、熱心なBLの愛好者とはいえない。BLに対するスタンスというと愛好者か、極端な否定派がクローズアップされがちに思うが、僕は楽しめるものは楽しむぐらいのゆるい肯定派である。このことは、僕がこれから書く、僕の作品の読み方に影響を与えているはずなので、書いておいた次第である。

   *

 俳句の話の前に、漫画、映画、アニメ、小説など、登場人物やその関係性についてのふんだんな情報が提供されるような作品を考えてみよう。
 登場人物の体験を詳細に描写する作品を読みながら、僕はその人の抱くであろう感情を想像する。この想像は僕自身の類似の体験や知識に基づいている、つまり、僕の中にあったものを登場人物の感情とみなしているのである。一方で、プロフィールの項目については、共有するものより異なるものの方が多いのが普通である。だから登場人物は僕とは違う人間、他人であるという前提を疑うことなく読むことができる。
 「共感」と「同感」の違い、という話を聞いたことがある。これらの言葉は似ているようで違うのだという。僕の理解では、共感とは「こういう状況におかれたならば、この人はこのように感じるだろう」と他人の気持ちを想像して理解することで、同感とは「こういう状況におかれたならば、自分ならこのように感じるだろう」と自分の気持ちを想像して理解することだ。僕が作品を読むにあたって、多くの場合には、登場人物を読者である自分とは別の人間だと思いつつその感情を想像するような、共感に近い読み方をしている。そして、登場人物と僕のプロフィールに共通点が多く、描かれるシチュエーションに特に馴染み深さを感じたときなどには、登場人物と自分の感情の区別をあまりできておらず、同感に近い読み方をしている。もっとも同感は、ごく短い箇所に対して、短い時間だけ起きる感覚である。
 作品を読むにあたっての共感と同感の差はそれほど明確ではない。登場人物の気持ちを読者である僕が想像で作り上げている点は同じだからだ。しかし、自覚の有無は別としても、その意識の違いは読み方に大きな違いをもたらす。登場人物に他者として共感しているときは、何事かを感じたり行動したりするその人物造形を鑑賞することができる。しかし登場人物に同感しているときは鑑賞できない。同感しているとき結局その人物は僕自身だからだ。
 なお、共感するか同感するかは読み方の問題であって、その多い少ないが作品自体の評価や、その作品を僕が好むかどうかを左右するものではない。
 さて、こうした読み方のために、異性愛者である僕が(後述する)BL描写のある作品に触れるときには、同性と特別に親密な関係にある登場人物たちの気持ちに共感することはできても同感するのは難しい。だから僕は彼らを他人として捉え、そのうえで鑑賞するのである。

   *

 では、BL描写のある俳句作品はどのような読み方になるか、検討していこう。
 なお「BL描写のある」とは、発表時点で「BL俳句」などというふうに掲載媒体によって分類がなされている作品群を指す、狭い定義とする。BLのラベルがないからといってBL描写がないことにはならないが、以下に取り上げる作品例がいずれも誌名にBLを冠する媒体だったため、話をそこに限定する。
 BLに分類されることにより、主要な登場人物として複数の男性がおり、彼らのあいだに特別な関係性があるという前提で僕は読む。これは僕個人のBLのイメージである。だからBLと銘打った短歌や俳句を読むときはそのような作品を探してしまうし、それに合致する読み方ができる作品によりBLらしさを感じる。このとき一人称の発話主体を見出せる作品は、特別な関係をもつ二人の男性の登場人物のうちの一人の発話を切り取ったものと見なすことができる。
 
 冒頭で書いた、僕が戸惑いを感じるBL俳句作品とは、この一人称の発話主体を見出せるものに限定される。一人称の発話主体を見出せる作品は、俳句よりも短歌に多いと思われるが、短歌では戸惑いを感じることはない。

 朧夜の義兄あにうなづいてばかりゐる 松本てふこ「札束」(『庫内灯2』40-41頁)
 短夜の運転席の義弟おとうと
 夏痩せの肩をそのまま出している     山階基「流し台の銀」(同46-47頁)

 漫画等の作品は、登場人物やその関係性に関するふんだんな情報が提供される。一方で短詩の場合は、登場人物についての情報がほとんどない。連作ならばいくらか補えるが、それでも語られない部分が圧倒的に多い。よって、僕は書かれているわずかな情報を手掛かりにしつつ、想像を膨らませて、一人の人物を頭の中で作り上げることになる。そこで登場人物の経験のディティールを作り込むために利用されるのは、僕自身の経験である。
 例えば一句目は、朧夜のやわらかい光の下で、うなづいてばかりいる男を見る主体の、その視界を想像する。僕はここで書かれていないはずの義兄の姿形や、うつむいたときの彼の顔に落ちた影の暗さまで想像している。
 二句目は、夏の短い夜で、車道を走りながらやはり完全に暗いとは言えないなかで、運転している男の横顔を見ている視界を想像する。
 三句目は、肩を出している男性の、そのやや無防備な姿を見ている視界を想像する。相手はこちらをほとんど意識していないような気配まで感じる。
 いずれの句でも、僕は詳細な風景を思い浮かべており、それを書き出すとかなりの字数が必要になる。 僕は句を読んでほぼ自動的にこれを想像したが、その中身はおそらく僕がこれまでにどこかで実際に見た光景をつぎはぎして構成したもののはずである。
 加えてこれらの歌では、自分を見ていない相手を、こちらから一方的に見ているという構図が共通している。まるで盗み見るようなその視線は、相手に対しての強い希求や執着を持ちつつも、それを相手に気取られたくはない緊張と逡巡を感じる。単なる主体の視界だけではなく、見ている相手への複雑かつ強い感情までをも感じるのである。 しかしそのような誰かへの特別な感情は、実際のところ、僕がこれまでの経験の集積から得た感覚を主体のものと同一視しているだけである。つまり僕は主体に同感している。BL俳句という分類、また一人称の発話主体という条件が揃ったとき、僕は主体を一人の人物として想像しようとするにあたり、自分と主体を同一視しながらでなくては彼という人物を作り上げられないようなのだ。
 さて、異性愛者の男性である僕にとって、誰かへの特別な感情や、それを持つ感覚は、数少ない特定の女性に対しての経験の集積から得られたものである。しかしこれらの作品がBL俳句という文脈で発表されている以上、男性から男性に対して向けられたものであることは明らかだし、僕もそのつもりで読んでいる。だから僕は、この句に表現されている感情(と僕が感じているもの)を、男性から男性へのものであると読み換えることになる。ここで主体の経験と私の経験を同一視して読んでいるため、女性に対してその感情を抱いた経験を通して持っているはずの僕の感覚が、男性に対するものに置き換わる。そのとき、異性愛者であるはずの僕はにわかに男性に対する恋愛感情を疑似体験する。このことが、僕に若干の戸惑いを生むのである。

   *

 ところで僕は前段の冒頭で、BL短歌についてはBL俳句と異なると書いた。事実、僕はこれまでBL短歌を読んでも戸惑いは感じたことがなかった。だからこそBL俳句をまとめて読んでみてその読後感が違うことを不思議に思ったのだ。
 短歌も、俳句より長いとはいえ情報量は少ない。その点では、BL短歌という分類があり、かつ一人称の発話と見なせる短歌については、俳句と同様である。つまり、主体の経験を僕のものと同一視しながら登場人物を構築するということをしている。ではなぜ戸惑いが生じないのか。

 スカートもニーソもヅラも似合わない お前に生えてるすね毛が好きだ 
松本てふこ「飛ばない教室」(『共有結晶 vol.3』68頁)

 ボトル缶まはし飲みしてうつる風邪ばかの数だけばかのひく風邪
山階基「青の空洞」(同22-23頁)


 BL短歌誌『共有結晶』より、同一作者の短歌を引いた。
 一首目は、上句と下句はそれぞれ心に浮かんだ「お前」への思いを述べている。どちらか単体ならば、俳句とほぼ同じように主体と僕の感情を同一視して読むだろう。しかし上句から下句までの流れには主体の心の動きがある。上句で心に浮かんだ思いを吐露しているが、空白が入ることで一度沈黙し自分の今の発言を反芻しているらしき主体が示される。上句で「お前」に対しての評価は「ない」という否定の形で示されたが、下句では一転して肯定の形で、より直接的に述べられる。下句の方が明らかに主体の気持ちの核心である。一連の流れのなかで、「お前」に対するより適切な表現を探して自分の気持ちを見つめ直す主体の心の動きが見えてくる。空白の示す一瞬の間で、自分を見つめ直す主体に同感する僕もまた自分を見つめ直す。このときから、僕は僕であり、主体である彼は他人であると僕は徐々に感じ始める。だから結句の「好きだ」という感情を、僕は自分自身のものであると錯覚しない。
 二首目は、缶を回し飲みする経験を述べる上句までは、自分の実際の経験を呼び起こし、詳細な場面を思い浮かべる。僕にもそのような経験があるからだ。しかし「ばかの数だけ~」以降の下句で、主体は自分自身と相手を含めて「ばか」と呼ぶ。主体が自分自身を距離をおいて見つめる過程で、僕もまた自分と距離をとる。だから下句で主体が感じている、彼ともう一人の誰かとのゆるやかな親しみの感覚を、僕は僕の中にあるものだと捉えない。
 このように短歌の場合、俳句のように自らの思いを主体が述べるに留まらず、主体が自らを客体化してさらに発話を重ねる構造のものがある。俳句よりも十四文字ほど多い短歌では、このような二段階の叙述がしやすいはずだ。数えることはできないが、BL描写のある作品において、俳句と短歌では叙述の仕方が異なるものができやすいのではないだろうか。
 だとすれば、僕がBL短歌に戸惑いをほとんど感じなかったことの説明になる。BL短歌を読むとき、主体が自らを客体化して距離をとるプロセスがあれば、僕もまた僕自身と距離をとることができ、結果、主体との全面的な同化が解かれ、彼が異なる人間であることを感じる。同感から膨らませた想像を、最終的には共感として僕は処理している。だから僕は漫画等と同様に、主体である彼を鑑賞することができるのだ。

   *

 念のため述べておくが、僕に戸惑いを生じさせるからという理由で、BL俳句作品にネガティブな評価を与えるものではない。その戸惑いを通して、僕は(限定的ではあるが)俳句に対して固有の読み方をしているという発見をしたし、BLという分類がなければそれに気付くことはできなかったかもしれない。
 BLの分類なしで出された俳句に恋愛感情が詠まれているとして、男性間のことを詠んでいるのが明らかでないかぎり、僕は自分の経験をよりどころに補完する以上、異性愛として読みがちである。そこに戸惑いはない以上、主体に同感しながら俳句を読んでいることには気づきようがないのである。

俳句時評 第87回 北大路翼『時の瘡蓋』をナナメに読む 浅津大雅

2017年07月02日 | 日記
北大路翼『時の瘡蓋』をナナメに読む
話題を呼んだ『天使の涎』に続く北大路翼の第二句集、『時の瘡蓋』。こちらも色々なところでそ
のタイトルを目にするようになった。句について感想を書くことは当然できるのだが、今回はこの本
をちょっと別の角度から見てみたい。
頁を開くと、俳句が並んでいる。句集だからあたりまえだ。しかし、この本を初めて開いた人が最
初に目を惹かれるのは、おそらく、一連の俳句の合間に置かれた挿入文でる。この「ひとこと」とい
う趣きの挿入文が、実に味があって良い。そんなところはいいから真剣に俳句を読んで取り上げて批
評しろよ、という気持ちはとても良くわかるのだが、面白いのだから仕方がない。多分まじめなこと
は名だたる俳人がやってくれるだろうから、自分はこれを最大限面白がってみようと思う。
まず最初の章題「お年玉」の直後、句集の一番はじめに置かれた挿入文から。
気持ちよければいいぢやん。
ひとつの宣言。気持ちよければいいぢやん。
俳句より前に挿入文が来ているのだから、あとに続く俳句のトーンを決めてしまいそうな箇所であ
る。たぶん、普通の俳人なら避ける。普通じゃない。しかし普通ってなんだ。そんなに大事なものな
のか。気持ちよければいいぢやん。
僕みたいに凝り固まった考えしかできない人は、ぐさりと背中にこの文章を刺されるのである。
そう、気持ちよければいいぢやん、なのである。
俳句を読み飛ばそう。俳句なんて読んでるからいけないんだ。
嘘の嘘は本当ではなく
とりかへしがつかない。

嘘を吐いた。嘘を誤魔化すために、また嘘を吐く。単純に頭のなかで嘘をひっくり返したら、本当
になるかもしれない。が、そうではなく、実際に口に発せられた嘘――「今日? 会社の人と飲んで
きたんだよ」――を、本当にするために、嘘を重ねたとき。それはもうとりかへしがつかない。
ただどうにも、「取り返しがつかないから嘘はついてはいけません」、なんていう安っぽい警句に
は読めないところが良い。
夜の暗さが水槽を見えない水でいつぱい
にする。

突然、詩情が顔を覗かせるから困る。なんだ、あんたは「気持ちよければいいぢやん」の快楽主義
者ではなかったのか。水槽に貯まるのは、暗さ。もっと踏み込めば、捉えきれない何か鬱々としたも
の。すべてが夜に包まれている。
正論は語りやすいが、語つたところで何
の意味もない。

そうだろうか。北大路翼の言葉のものすごい力に惑わされて、真実を見失っていないだろうか。語
ったら少しくらいは意味が生まれてきそうなものである。そして、単に意味内容ということにとどま
らず、何らかの含意をもって人を動かしてくれそうだ。正論だからといって受け入れられやすいとは
限らないが、無視できない存在でもあるはずだ。
という正論を、簡単に打ち倒す言葉だ。
水着の写真につられて友達申請してしま
ふ平和な休日。

まったく呑気なものだが、男として気持ちはわからなくもない。Facebook は実名だから、あんまり 水着美女にばかり友達申請していると、周りの人からまるわかりだぞ。世間体がだいじなら気をつけ よう。 「平和な休日」はいつだって、いろんな圧力に取り囲まれていて、平和じゃない日へ転じるかもしれ ないのだ。例えば、月曜日とか。平和、守っていきましょう。
続いて、「貧困」の章題の直後に置かれたひとこと。
法律を守るのは幸せな人たちだけだ。
僕はきっと、ここでいう幸せな人たちの側に立っていて、ぬくぬくと暮らしている。そう生まれつ
いたし、そう生きてきた。僕たちはいつだって犯罪をきらうし、犯罪者のことは怖いと思うし、自分
はそうなりたくないと思っている。法律と公権力は僕たち「善良な市民」を守ってくれていて、あり
がたいとさえ思うだろう。
この言葉に、自分の身をふと振り返る。そして、一定度の共感を持って、「幸せ」でない人たちの
ことを思う。アンチモラルは、決して単にアンチモラルなのではない。そこには不幸がある。忘れて
はいけない。「忘れてはいけない」なんていうきれいな言い方で、余計な付け足しをすることしかで
きない自分が、とてつもなく歯がゆい。
最後。といっても、二〇一五年の最後だ。この本は二部構成になっていて、二〇一六年の方はぜひ
ご自分の目でお確かめになられたい。......回し者ではないですよ。
章題「有馬記念」の直後のひとこと。
子供が生まれたら競走馬にしたい。
告白しよう。たぶんこの句集のどの句よりも、この言葉に笑顔にさせられた。
本当にどうしようもない。手の施しようがない。
人間は、北大路翼という人は、こんなところまで行けてしまう。僕には一生かかっても見られない
世界をこの人は見ている。
(ただ、あまり見たいとも思わない。僕は子供が生まれたら、最低でも、人間に育ててしまうだろう。
まかり間違っても競走馬にはしない。)
こんな眼差しが存在していることが、とてつもなく嬉しいのはなぜだろう。こんな眼差しから紡が
れる俳句たちが、つまらないわけがないとさえ感じてしまうが、それは流石に言いすぎか。
『時の瘡蓋』の俳句たちとは、また真剣に向き合うときが来そうだが、今回はこれで筆を置く。